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第74話 五つの拠点



 目が覚めても、鐘の音は聞こえなかった。


 聖都では朝を告げる鐘が鳴り、灰触の避難所では霊晶灯の微かな作動音に耳を澄ませていた。この家には、そのどちらもない。窓の外で鳥が鳴き、風が庭木の葉を揺らしている。


 わたくしはベッドの中で、しばらくその音を聞いていた。


 眠りが浅かったわけではない。むしろ、昨夜は驚くほど深く眠れた。ただ、目を開けた瞬間、灯具の目盛りを確かめようとしてしまったのだ。灰触を抜けたと分かっていても、身体に染みついた警戒はそう簡単に消えてくれないらしい。


 窓を開けると、湿った森の匂いがした。


 庭の端にある防護術式の境界は、いつもどおり目立たない。石垣の上を小鳥が跳ね、陽の光が芝の先に落ちている。ここへ戻るのは、クロイツハーフェンへ向かった朝以来だ。


 父を失ってからの三年間、この家に資料を持ち帰っては旅に出た。戻ればいつも同じ静けさが迎えてくれたものだけれど、今日は階下から食器の音がする。


 その違いが、不思議と嬉しかった。


 身支度を整えて降りると、カルマが朝食の残りを皿に移しているところだった。シュテルは湯気の立つカップを二つ持って台所から現れ、わたくしに気づいて微笑んだ。


「おはようございます、リゼリア。よく眠れましたか?」


「えぇ。お二人のおかげで、久しぶりに何も心配せず眠れましたわ」


「そいつはよかった。俺なんか目が覚めたら朝だったぞ」


 カルマが首の後ろを揉む。


「ただ、寝すぎたのか肩が痛ぇ。昨日までずっと台車を押してたからな」


「それなら、今日は力仕事を頼まないようにいたしましょう」


「いや、紙の束を運ぶくらいならやる。……その代わり、昼飯を忘れるなよ」


 何か言い返そうとしたところで、シュテルがわたくしの前にパンを置いた。


「先に朝食です。書庫は逃げませんから」


「……えぇ、いただきますわ」


 昨日は二人に休むよう言われたばかりだ。今日まで同じ心配をさせるつもりはない。


 わたくしは席に着いた。


     ◇


 書庫は一階の奥にある。


 階段の陰に設けた扉は、屋敷の外観と同じく飾り気がない。金具を押してから鍵を差し込むと、石壁の内部で認証術式が応えた。


「この家の鍵って、どこまで特別なんだ?」


 カルマが横から覗き込む。


「鍵だけ盗んでも開きませんの。ノワールヴェイン家の認証が必要です」


「だったら鍵穴ごと壊す、ってのも無理か」


「その前に、扉ではない壁と向き合うことになりますわね」


「……ますます厄介な家だ」


「国王を匿うための別荘ですもの」


 シュテルが苦笑する間に、扉が静かに開いた。


 紙と木の匂いがした。


 壁一面の棚には年代別の設計資料と家の記録。背の低い引き出しには、わたくしが各地から集めた手紙、証言、写しが収められている。木製の大きなテーブルの上には、地図を広げるための余白を残してあった。


 どこも出発したときのままだ。保護魔術が湿気や虫を遠ざけ、紙を傷ませない。三年間、この部屋には何度助けられたことだろう。


「……ずいぶん整理してあるな」


 カルマが棚の札を読んで言った。


「見つけた順に積んでいたら、必要なものが探せなくなりますもの。年代、土地、資料の種類で分けています」


「俺だったら三日で散らかす」


「ゼェレさんの手紙が正しかったと証明しないでくださいね」


 シュテルのひと言に、カルマが眉を上げる。


「おい。俺だって仕事の伝票はなくさねえよ」


「では、安心して任せられますね」


「そりゃそうだ」


 そんなやり取りを聞きながら、わたくしは《ローズ・リスト》を開いた。


 まず、クロイツハーフェンと聖都オルディオンで得た資料を呼び出す。こちらが預かった原本と認証写しは別々に管理してある。教会の管理下に置かれた原本については、閲覧と照合に使える写しだけだ。出所を混同しては、どれほど有力な証拠でも扱いを誤る。


 わたくしは赤い魔力で写しを展開し、必要な部分を紙へ複写した。


「これが港の照合記録。こちらが聖都の送出承認台帳ですわ」


 シュテルが二枚を隣り合わせに置いた。


「港では人員と積荷を扱っている。聖都では魔力の抽出と送出。記録するものは違いますが、王国側の照合区分と受領経路が同じです」


「つまり、王国のどこかで両方を管理してるってことだろ」


「えぇ。そこは、もう確かめたことですわ」


 わたくしは頷いた。


 港で起きたことと、聖都の地下で起きたことは、別々の土地に偶然生まれた不正ではない。王国の管理系統が双方に通じている。そう判断するに足る記録を、わたくしたちは自分の手で得た。


「今日は、それを前提に話を進めます」


 地図をテーブルに広げる。


「三年間、わたくしが追ってきた失踪と照らし合わせれば、王国がどこで、どのように人を集めていたのか、もう少し絞れるはずですわ」


     ◇


 地図の上には、小さな印が散っていた。


 赤は失踪、青は公名の照合に異常があった場所、黒は人員や貨物の運送が報告された場所。印の横には日付と資料番号を添えている。数が多い場所ほど怪しい、という単純な地図ではない。何度も訪れた土地では報告を拾いやすく、一度しか行けなかった村では記録そのものが乏しいからだ。


 わたくしは三冊の記録帳を開いた。


 一冊目は四年前の資料。父が処刑される前年に当たる。


 この頃から、奇妙な失踪が少しずつ増え始めた。


 港で仕事を得たはずの者が戻らない。遠方の療養施設へ移された患者の住所が追えない。街道の宿帳には名前があるのに、役所に照会すると該当者がいないと言われる。


 当初は、どこにでも起こり得る事件として扱われていた。わたくしも一件ずつ見れば、すべてが同じ原因だとは思わないだろう。


 けれど、二冊目を並べると変化が見える。


 父の失脚と処刑を境に、同じ種類の報告が各地で急に増えた。なかでも目立つのは、失踪したはずの人間が、役所の記録では最初から存在していないことになっている事例だった。


「家族が探しに行っても、『そんな人は登録されていない』と言われたのですね」


 シュテルが、ある聞き取り記録を指さした。


「えぇ。この人は娘を探して三つの役所を回りました。居住登録がないと言われても、家には娘が書いた手紙が残っていた。手紙の日付も、購入した日用品の控えも合っています」


「……わざわざ記録を消してるのか」


 カルマが眉間に皺を寄せる。


「記録が食い違っているのは、この一件だけではありません。こちらも見てください」


 わたくしは、同じ時期に隣の区画から届いた報告を置いた。失踪した家の住人について、近所の者は知っているのに、役所では空き家だったと処理されている。


 シュテルが書類を見比べた。


「名録の操作と、人の移動が同じ時期に起きています」


「えぇ。しかも、書類上の処理がずいぶん手慣れているのです。担当者が一人で勝手に消したにしては、離れた土地で似た処理が続いている」


 カルマが、印を指でたどった。


「王国の記録を書き換えられる奴が複数いる。……いや、同じ手順を渡された連中が動いてる、か」


「そちらの方が自然ですわ」


 わたくしは頷いた。


 わたくしは、三年前の冬に届いた手紙を一枚取り出した。


 書いたのは、北の集落で仕立て屋を営む女性だ。夫が徴用されてから戻らず、役所へ問い合わせると『該当者なし』と返されたという。女性は夫が最後に着ていた外套の寸法と、仕事を依頼された日の控えまで同封していた。


 その手紙の裏に、わたくしは当時こう書いた。


 〈集落の役人が記録を隠した可能性。責任者を調べること〉。


 今なら、違う問いを立てられる。


「この方が最初に調べたのは、夫を送り出した集落の役所でした。わたくしも、同じ場所を疑っていました」


「けど、記録を消す仕組みが上から来てるなら、役場の奴を問い詰めても最後までは届かねえな」


「えぇ。村の担当者が何を知っていたかは調べる必要があります。でも、同じ処理を別の土地でも見つけた今、命令の出所を追わなければなりません」


 わたくしは手紙を元の封筒に戻した。


 誰もが亡くなった人の名を役所に尋ねられるわけではない。名前が記録から消えたとき、残された人の話を信じてもらうことさえ難しくなる。


 《ローズ・リスト》を得る前、わたくしは各地の役所を疑っていた。人を消している者がその土地にいるのだと考え、一つずつ追った。けれど、港と聖都の記録を手にした今、見るべき場所は変わった。


 個別の役所の奥に、共通の手順を配る系統がある。


「四年前から異常が増え始め、三年前には明らかに規模が広がった。そういう流れが見えますわ」


「じゃあ、ノワールヴェイン家がなくなってから急に思いついた仕事じゃないな」


 カルマが言う。


「えぇ。父が生きていた頃から準備が進んでいます。そして、父が異議を唱えたのも同じ時期です」


「……監査が邪魔になったんでしょうか」


 シュテルの問いは静かだった。


「そう考える根拠は、十分にあります。父の異議と、家が監査権限を失った時期が重なっている。父の処刑を命じた者たちが何を恐れていたのか、調べるべきですわ」


 わたくしはそこで言葉を区切った。


 父が何を発見したのかは、まだ知らない。けれど、監査が失われた後に仕組みが拡大したことを、ただの偶然として扱うつもりはなかった。


 わたくしは《ローズ・リスト》の一項目を開いた。


 西部第四霊脈区画。二百十三名。


 かつてその土地に存在した人々が、公名を剥がされ、どのように処理されたかを示す記録だ。噂でも聞き取りでもない。《無名簿》が正しい監査書に戻ったからこそ、追えるようになった痕跡だった。


「この二百十三名は、ただの失踪として扱うべきではありません。公名を操作された記録が残っています」


 シュテルがゆっくりと頷く。


「聖都で見た、名前が番号に置き換わった人たちと同じですね」


「えぇ。同じ仕組みが、ほかの地域にも及んでいる。その点は、もう疑いようがありませんわ」


 カルマは地図の西側を見た。


「じゃあ、次は誰があいつらを運んだか、だな。人数だけ見てても、連れてった奴は見つからねえ」


「そうですわ。消えた記録を、移送の記録につなげます」


「順番が見えたな」


 カルマが椅子を引き寄せる。


「今度は、消えた連中の共通点だ」


     ◇


 失踪者の記録を職業や身分で分けると、最初に目につくのは貧しい者たちだった。


 日雇いの労働者、住所を転々とする大人、長く身を寄せられる家を持たない者。仕事を求めて別の町へ移れば、元の住まいの者には居場所が分からなくなる。失踪の届け自体が出ない場合も多い。


「……探す人が少ない連中から、狙ってるように見えるな」


 カルマは記録の端を叩いた。


「わたくしも、最初はそう考えていました」


 わたくしは次の束を広げた。


 施設で暮らす子供たち。教会の保護を受けていた信者。療養の名目で遠方へ移された患者。そして、街道から離れた村や集落の住人。


 表向きの理由はさまざまだ。仕事の斡旋、養育先の変更、巡礼、療養。ところが移送先の記載が曖昧だったり、本人と家族に知らせたとする欄が空白だったりする。


「……施設の子供も、教会の信者もいる」


 シュテルが紙を持ち上げた。


「この教区の人たちは、遠方へ奉仕に出たことになっています。でも、受け入れ先が書かれていません」


「聖都で見た書式と同じですわね」


 わたくしは《ローズ・リスト》から送出承認台帳の写しを開いた。


 人が名前でなく番号で扱われるようになった時期。受領欄はあっても、本人の意思を確かめた者の名前が残らなくなった時期。聖都で追ったその変化が、別の町の移送記録にも重なる。


「教会の保護や奉仕という名目は、表向きには不自然に見えません。紹介状ひとつで別の施設へ移せます」


 シュテルは苦い顔をした。


「信頼されているからこそ、人を動かしやすい。……その信頼が悪用されていたのですね」


「えぇ。教会の内部で仕組みを知る者がいるのでしょう。聖都の地下が証明しました」


 わたくしは地図の小さな村を指した。


「こちらは、商人から聞いた話です。半年前には暮らしていた一家が、次に訪れたときにはいなくなっていた。村役場は転居したと説明したそうですが、行き先の記録がない」


「夜中に馬車が来たって証言もあるのか」


「えぇ。ほかにも、似た話があります。村から村へ人を引き抜き、そのまま大きな町へ運んでいると考えれば、報告の散らばり方にも筋が通ります」


「村ごとに設備を置く必要はない。集めて、運べばいいからな」


 カルマが地図の街道に沿って指を滑らせる。


「この道、川沿いに下れば荷馬車が使える。橋がないところだけ、人を乗せ換える必要があるな」


「そんなことまで、地図で分かるんですか?」


 シュテルが聞いた。


「道幅と橋の位置くらいはな。馬車を通せねえ山道に、夜中だけ大勢を歩かせるのは手間がかかりすぎる。人をまとめて運ぶなら、どこかで大きい道へ出してるはずだ」


 彼は二つの集落から伸びる細い道を指し、同じ街道へ合流させた。


「……ここだ。集まるならこの辺り。周囲に倉庫があれば、夜まで待たせることもできる」


 わたくしは、そこへ黒い印を一つ置いた。地図の上だけで決めつけるためではない。次に土地の記録を開いたとき、確かめる場所を忘れないためだ。


「カルマがいてくださって助かりますわ。わたくしは移送先を探すばかりで、実際の運び方まで考えが及びませんでした」


「そりゃ得意分野が違うだけだ。俺には、おまえがこの紙のどこを見てんのか分かんねえときもあるしな」


「そういえば、港じゃ人の移動を荷の処理みてえに扱ってた。聖都では魔力にして送り出してた。……その間に運ぶ仕事があるわけだ」


「はい。すべての人が同じ道を通ったとは思いませんけれど、集める仕組みと運ぶ仕組みは必要ですわ」


 シュテルは別の記録に気づいたらしい。


「リゼリア。この欄の人たちは、貴族ですか?」


「えぇ。王家の政策に反対していた家々の記録です」


 それは失踪者の記録ではなく、家督、財産、官職の変化をまとめたものだった。


 四年前から、王家に異議を唱えていた名家の力が少しずつ弱まっている。


 病を理由に退いた当主。財政難によって領地を手放した家。後継者の所在が分からなくなり、議会に代表を送れなくなった家。どの件も表向きの説明はある。だが、結果として王家に反対する声が減っていた。


「……力のある連中まで消えてるのか?」


 カルマが言った。


「消えた者もいます。ただ、こちらは全員が失踪したわけではありません。財産や地位を失った家も含めています」


「それでも、王家に逆らう家ばかり弱ってるってのは、嫌な並びだな」


 彼は名簿を横へずらし、失踪者の記録と重ねた。


「人を集めるのと、反対する奴の口を塞ぐのが一緒になってるのか」


「その可能性を、わたくしは重く見ています」


 シュテルは二つの書類に視線を落とした。


「行方不明者は《名核》の供給源。反対勢力の衰退は、その運用を止められる人を減らすことにもつながる……」


「えぇ。どちらも、仕組みを広げる側に都合がいい」


 少しの沈黙が生まれた。


 わたくしはかつてのノワールヴェイン家の名が記された行を見た。監査権限を持ち、《白冠》の運用を問うことのできた家。その名前も、今は王国の記録からほとんど消されている。


 父の処刑と家の没落を、ほかの誰かの失踪と同じ紙に並べたくはなかった。それでも、わたくしたちが直面している問題は、そこを避けては見えない。


「……では、次ですわ」


 わたくしは五つの印を地図へ置いた。


     ◇


 港湾都市クロイツハーフェン。


 聖都オルディオン。


 商業街ベネブルグ。


 王都グランヴァルド。


 そして、王都の裏側と呼ばれる地下街ノーライ。


 五つの印をつなぐように、わたくしは指を動かした。


「わたくしが追ってきたのは、この五か所です。今では最初の二つが、王国の共通した管理の下にあったことまで分かっています」


 カルマが港の印を押さえた。


「クロイツハーフェンは、グレゴールが人を働かせてた港だ。王国側へ渡る記録もあった」


「えぇ。そこで起きた事件そのものは止めました。港の運営も組合へ戻しましたけれど、使われていた照合の仕組みは王国に残っているでしょう」


 シュテルは聖都の印を見た。


「オルディオンでは患者から魔力を抽出して送る設備がありました。台帳にも、王国の承認と教会側の受領が残っていました」


「そして、送った魔力の行き先には王国側の受領区分がある。港の記録と接続していたのは、その管理系統ですわ」


 王国が二つの土地をつないでいる。


 そこはもう、推測のために曖昧にする部分ではない。


「別の町で、別の役割を担わせている。なら、残る三つにも役割があると考える方が自然だな」


「えぇ。わたくしが地図に印を残した理由も、まさにそれです」


 わたくしは三つ目、ベネブルグの印を指した。


 商業街ベネブルグ。


 王国内でも商業の盛んな土地で、商品だけでなく人材の斡旋や借金の肩代わりまで金が動く。表立った奴隷市場があるわけではない。けれど、身分証を預けた労働者が戻らない、保護を名目に連れていかれた人々の行き先が分からない、といった話が集まっている。


「商売に紛れ込ませれば、人を動かす理由はいくらでもつくれますわ。仕事、奉公、借金の返済……」


「奴隷を集めてるって噂も、あながち作り話じゃなさそうだな」


 カルマが言う。


「ただ、どこかの地下に奴隷市場があると決めて探し回るより、まず金と運送の流れを追った方が早い。売り手がいて買い手がいれば、誰かが代金を受け取る」


「同感ですわ。ベネブルグには人を集め、取引を整える役割がありそうです」


「そこで子供や信者まで扱われているなら、教会の紹介状が使われた可能性もありますね」


 シュテルが言った。


「聖都で確認した教会側の受領印を持っていきましょう。同じ印が使われていれば、施設を介した移送を追えるはずです」


 わたくしはベネブルグの横へ、必要な証拠を書き添えた。


 金銭の記録。移送の記録。紹介状の発行元。


 次はグランヴァルド。


 王都には役所も市場もあるが、その奥には王族しか入れない区画が存在する。わたくしは、ノワールヴェイン家に代々伝わる《白冠》の設計資料を開いた。


 年代の異なる図面を重ねると、施設の呼び方は変わっていても、王都の中心へ向かう魔力導路の構造は残っていた。各地から送られた魔力を集め、広域の結界へ分配するための設計だ。


「ここですわ」


 わたくしは、図面の中心を指した。


「歴代の設計では、王都に受領と調整のための中枢が置かれています。今の施設が図面どおりかは調べなければなりませんが、《白冠》を動かす制御設備が王家専用区画にあると見ています」


「……王族しか入れないところに、か」


 カルマが呟く。


「だったら、王宮の許可なしじゃ手も出せねえな」


「えぇ。むしろ、そこが重要です。使っている装置が何であれ、運用の最上部に王家の権限が及んでいます」


 シュテルが、聖都の送出記録へ目を向けた。


「聖都から出た魔力が、そこへ届いていると考えるのが筋ですね。国全体の《白冠》を調整するには、王都の中枢が必要ですから」


「はい。わたくしたちは送り出す側を見ました。次は受け取る側を突き止めたいのです」


 王都の印に、わたくしは太い線を引いた。


 最後に残ったのは、ノーライだった。


「……俺が話せるのは、ここだな」


 カルマが地図を自分の方へ寄せた。


 ノーライは王都の地下に広がる街だ。地上の華やかさからは見えない場所に通路や住まいが重なり、霊晶灯の少ない区画では昼夜の区別すらつきにくいという。


 人が運ばれるという噂は、わたくしの記録にも残っていた。


「以前、運送の仕事で入ったことがあるって言ったよな」


「えぇ。荷物を運んだのですよね」


「何度かある。食い物、油、封の付いた木箱。受取人は毎回違った。地上で積んだ荷を運んで、地下の倉庫で渡す。それだけの仕事だと思ってた」


「その倉庫、覚えていますか?」


「入口ならな。通路が何本も分かれてて、同じ場所を通ったつもりでも違う階へ出る。荷を受け取る奴がいなけりゃ、帰れなかったかもしれねえ」


 カルマは紙を一枚取り、簡単な道順を書き始めた。


「荷卸しに使う場所だけは広かった。あそこだけ妙に床が平らで、箱を動かしても車輪が引っ掛からなかったんだ。それなのに、通路へ出ると霊晶灯がほとんどねえ」


「照明のない街に、運送用の広い倉庫ですか」


 シュテルが考え込む。


「荷を受け取った人たちは、灯りを持っていたんですか?」


「小さいのを持ってた。俺には先へ入るなって言ってきたよ。運送料の支払いだけは、やけにきっちりしてたな」


 カルマは記憶を探るように目を細めた。


「ただの貧乏な街なら、あそこまで使いやすい荷卸し場を維持するのも不思議だ。誰かが金を出してるんだろうな」


「支払った相手の名前は?」


「偽名かもしれねえけど、伝票には残ってる。昔の仕事の控えを辿れれば、そこから探せる」


 わたくしはその点を記し、港で見つけた運送事業者の名前と照らし合わせる項目を加えた。


「……一度、人を乗せた馬車も見た。俺が荷卸しをしてたとき、別の入口に着いたんだ。幌の下から何人か降りてきた。子供も混じってたと思う」


「その人たちがどこへ行ったかは?」


 シュテルが尋ねる。


「奥の通路だ。追ったわけじゃねえし、仕事の相手でもなかったから、そのときは気にしなかった」


 カルマのペンが止まる。


「……今になって思えば、もっと見ておきゃよかったな」


「あなたはそこで人が運び込まれたところを見た。今、わたくしたちに必要なのは、その事実ですわ」


 わたくしは彼が描いた地図を受け取った。


「ノーライは、運送の中継地として使われています。少なくとも貨物については、あなた自身が確かめていますもの」


「それに、王都の地下ってのが気になるな。地上の王家専用区画とどこかで繋がってたら、相当便利だぞ」


「そうですわね。魔力を大量に使う設備がなくても、人を隠して運ぶ道として使える。王都へ人を運び込む経路があれば、検問を避けることもできるでしょう」


 シュテルは二つの印の間を指した。


「グランヴァルドの中枢と、ノーライ。地上と地下で役割が分かれているのかもしれませんね」


「それを確かめるには、入口と出口ですわ。カルマが覚えている倉庫から、どの通路へ繋がるか。古い王都の地図と照らし合わせましょう」


 彼は頷き、もう一度ペンを動かした。


「分かった。通路の幅や階段の位置も書いとく。見覚えのある場所は多い」


 わたくしは、五つの印を改めて眺めた。


 人が集められ、管理され、運ばれる。どこかで魔力が取り出され、王都の中枢へ送られていく。港と聖都で見た仕組みは、その一部だった。


 ベネブルグとノーライには人の流れを示す手掛かりがある。グランヴァルドには、代々の設計資料に残された制御の中枢がある。


 五つは孤立した事件の現場ではない。


 王国の内部で、役割を分けて動く組織の輪郭が見え始めていた。


     ◇


 午後、わたくしたちはいったん席を離れた。


 カルマは庭へ出て身体を伸ばし、シュテルはお茶を淹れ直した。わたくしも窓を開け、書庫の空気を入れ替えた。必要な場所を探すことに夢中で、いつの間にか同じ姿勢を続けていたらしい。


 自室へ戻ったとき、机の上に小さな木箱があるのを見つけた。


 父の遺した箱だ。三年間、帰るたび目にしていたのに、仕事の道具を片づけたときのまま触れられずにいた。中身が重要な資料だとは思っていない。それでも、あの人の手に残ったものを開くには、いつも少しだけ勇気が要った。


 今日は、留め金を外した。


 中にあったのは古いペンと、使いかけのインク瓶だけだった。ペンの軸には、父が指を置く場所に小さな傷がある。


 わたくしはそれを持って書庫へ戻り、以前から保管してある承認書の隣に置いた。文字を追うたび、父がこのペンで何を記したのか、考えずにはいられなかった。


 しばらくして戻ったカルマが、テーブルの端に置いた古い文書を見つけた。


「これ、おまえの親父さんの署名か?」


 わたくしは振り向いた。


 《白冠》の運用承認書。


 そこに刻まれたアルベルト・ノワールヴェインの名を、わたくしは三年間、何度も見てきた。


「えぇ。父が署名したものですわ」


「……《名核》の補填を認めてる」


 カルマの声に、シュテルが近づいた。


 わたくしはその書類を隠さなかった。


「父は知っていました。人の《名核》を《白冠》の燃料にしていることも、その人が戻らないことも。王国を守るために必要だと考え、正式に承認していたのです」


「……遺された家族への支給、という欄がありますね」


「はい。補償を受けられるように受領記録を確認し、その条件で運用を黙認していました」


 シュテルは書類から目を離さなかった。


「誰かを守るために、別の誰かが犠牲になる。それを承知で署名していたのですね」


「えぇ。父は、その責任から逃れられません」


 口にすると、胸の奥に鈍い痛みが残った。


 父が優しかったことも、国のために働いていたことも、わたくしにとって嘘ではない。けれど、この署名も同じくらい確かな事実だった。


 だからこそ、四年前に何があったのかを知りたかった。


 わたくしは別の文書を並べた。こちらも父の筆跡だが、書かれた時期が新しい。


 〈公名と本人同意の確認を先に。照合できぬ補填は認めない〉。


 王国から追加の補填が求められた際、父が残した異議の控えだ。


「以前は承認してたのに、今度は拒んだのか」


 カルマが文書を行き来する。


「えぇ。父が変わったのか、王国の運用が変わったのか。おそらく両方でしょう。少なくとも父は、本人の名前と同意を確かめられない補填を認めなくなった」


「聖都で見た、名前が番号に変わっていった記録と重なりますね」


 シュテルが言う。


「そうですわ。補償先を確認できなくなれば、父が承認していた条件も失われる。さらに本人の意思まで分からないとなれば……」


「そりゃ、今までと同じだとは言えねえな」


 カルマは唇を結んだ。


「しかも、反対した途端に監査を外された。少なくとも、そいつらにとっちゃ都合の悪い男だったんだろう」


「えぇ。わたくしはそう見ています」


 わたくしは書類の端を揃えた。


 父が以前の制度を黙認していたからこそ、王国はその署名を盾にできた。『ノワールヴェイン家も認めてきた』と言えば、反対の声を抑えられる。だが、その家が監査の正当性を問うようになれば、今度は邪魔になる。


 それが父の失脚へどう結びついたのか。


 わたくしの集めた記録には、まだ直接の命令書がない。ただ、王国側が段階的に監査を弱め、ノワールヴェイン家の異議を退けていった形跡は残っている。


「……気に入らねえな」


 カルマが低く言った。


「王国を守るためだって、犠牲を認めさせておいて、足りなくなったら勝手に増やす。止めようとした奴まで消すってのか」


「父のことを含め、何を命じたのかは追わなくてはなりません。ただ、今続いている運用は、父が最後に認めようとしなかったものですわ」


 シュテルが承認書を見つめた。


「被害者の家族へ見返りを渡したことが、犠牲を正しいものにするわけではない。それでも、今はその約束さえ守られていない可能性があるんですね」


「はい。そして、家族に知らせることすらなく消された人がいる」


 わたくしは、失踪者の記録を横へ置いた。


 名前も、同意も、補償を受け取る者も記されていない。


 父の署名が残る文書と、それらを同じテーブルに並べるのは、決して気持ちのよいものではなかった。


 けれど、見ないふりをする理由にはならない。


「わたくしは、父の間違いも含めて調べます。でなければ、何を変えるべきか見誤りますもの」


 シュテルは静かに頷いた。


「私も、そのためにここにいます」


     ◇


 窓の外が夕暮れに染まる頃、地図の五つの印の周りは、三人の書き込みで埋まっていた。


 クロイツハーフェンとオルディオンでは、王国の管理系統に結びつく記録をすでに押さえている。港での人の管理と、聖都での魔力抽出。別々の仕事を担っていながら、王国側の照合手続きで結ばれていた。


 問題は、まだ調べていない三つの場所へ、どう踏み込むかだった。


「最初はベネブルグだな」


 カルマが商業街の印を叩いた。


「人を集めてる連中がいるなら、商会か仲介人が金を受け取ってるはずだ。表の帳簿から消してても、運賃や倉庫代まで全部消せるとは思えねえ」


「わたくしの調査記録には、同じ商会の名前が何度も出てきます。クロイツハーフェンの記録とも照合しましょう。人の移送を誰が依頼し、代金をどこが負担していたのか。まずはそこですわ」


 シュテルは施設の移送記録を手元へ寄せた。


「私も教義院へ照会します。施設の子供や信者を移した際の紹介状と、受け入れ先の記録です。大司教から命じられた調査として、正式に求められます」


「お願いしますわ。返事を待つ間に、わたくしたちは現地で調べられますもの」


 わたくしはベネブルグの印を囲み、その下へ三つの言葉を書いた。


 商会。支払い。移送先。


「……で、そこで送り先が分かったら、次はノーライか」


 カルマが今度は地下街へ指を滑らせた。


「えぇ。あなたが荷物を運んだ倉庫も、今なら調べる意味が違いますわ。ベネブルグで得た商会名や運送記録と照らし合わせれば、ただ闇雲に地下街を探すより、確かめるべき通路を絞れます」


「分かった。俺が覚えてる入口と、荷を下ろした場所を描いておく。人を乗せた馬車が入った道もな」


「王都の古い地下図がございます。あとで並べてみましょう」


 カルマの証言で、ノーライへ人と荷が運び込まれていたことは分かっている。その先へ進むには、誰の依頼で運ばれ、どこへ引き渡されたのかを追う必要があった。


 シュテルが、ノーライと王都の印を見比べた。


「地下街を調べれば、王都へ入る別の経路も見つかるかもしれませんね。人が運ばれた先に、王国の施設があるなら……」


「王都側の受領記録とつながりますわ」


 わたくしは頷いた。


「ノーライでは運送の終点と、その先の引き渡し先を追います。そこで王国の誰が受け取っていたか分かれば、いよいよ中枢へ迫れます」


「最後がグランヴァルド、ってわけだな」


「えぇ」


 わたくしは王都の印へ手を置いた。


「王族しか立ち入れない区画に、《白冠》の制御中枢があるはずです。代々の設計資料にも、その位置と役割が記されています。そこで今の運用を確かめ、人の《名核》から得た魔力を送り込むよう命じた者を突き止める。それが最後の調査ですわ」


「いきなり王家に詰め寄ったって、門の前で追い返されるだけだもんな」


「それどころか、証拠を隠す時間を与えてしまいます」


 シュテルの言葉に、カルマが頷いた。


「だったら、外側から押さえる。金を払った奴、運んだ奴、受け取った奴。全部つないでから王都へ行けば、知らぬ存ぜぬじゃ済まねえ」


「その順番で進みましょう」


 わたくしは地図に、三本の短い矢印を書き入れた。


 ベネブルグ。ノーライ。グランヴァルド。


「ベネブルグで人の売買と移送の仕組みを調べ、ノーライで運び込まれた人々の行方を追う。そして最後に王都へ。王国の命令系統と、《白冠》の制御に関わる者たちを明らかにします」


「決まりだな」


「はい。私もその方針で問題ないと思います」


 三人の意見が揃った。


 わたくしは《ローズ・リスト》の余白に、調査順とそれぞれの目的を記した。次にどこへ向かうかだけではない。何を手に入れるまで、その土地で調べるべきなのかも。


「それで、王様はどうする?」


 カルマが王都の印を指した。


「一連の運用を続けられる権限を持つのは、現国王と側近たちです。教会の上層にも協力者がいる。誰が命じ、誰が承認したのか、そこまで辿りますわ」


「王様の名前まで調べるんだな」


「もちろんです。地位によって、責任を問われずに済むわけではありませんもの」


 カルマが部屋の天井を見上げた。


「この家、もともとはその王様を守るために造られたんだろ」


 わたくしは、窓の外に広がる森へ目を向けた。


 王都に危機が迫ったとき、王を密かに避難させるための家。代々のノワールヴェイン家が、王国を守る役目の一つとして維持してきた場所だ。


「……皮肉ですわね。王を匿うための家で、王国が隠してきたことを調べているのですから」


 わたくしの言葉に、シュテルがそっと手元の資料を重ねた。


「でも、王国を守ることと、今の運用を守ることは違います」


「えぇ。そのとおりですわ」


 灰触の霧を渡ったとき、護灯台車の小さな結界がどれほど頼りになったか。わたくしたちは身をもって知っている。《白冠》を止めるだけなら、守られている人々を今度はわたくしたちが危険にさらしてしまう。


 必要なのは、《名核》を奪う仕組みを終わらせること。そのためにも、現在の制御設備と魔力の流れを確かめなくてはならない。


「……さて。行き先も決まったし、今日はここまでにしねえか」


 カルマが椅子から立ち上がった。


「朝から文字ばっかり見てたら、腹が減ってきた」


「保存食なら、まだございますわ」


「また同じやつか?」


「今夜は少し工夫してみましょう。台所をお借りしても?」


 シュテルが立ち上がる。


「えぇ、もちろん。わたくしも手伝いますわ」


「じゃあ俺は火の準備だな。薪、裏の置き場にあったよな?」


「えぇ。薪小屋も保護術式の範囲内ですから、乾いたものが残っておりますわ」


「そりゃ助かる」


 カルマが先に書庫を出て、シュテルもその後に続いた。


 わたくしは最後に、地図へ目を落とした。


 五つの印のうち、二つではすでに王国の関与を確認した。残る三つを、これから順番に調べていく。


 まずベネブルグ。次にノーライ。そして、グランヴァルド。


 父が承認していた時代から、何が変えられたのか。人を集める者たちの先に、誰の命令があるのか。


 答えを求めて、今度はわたくしたちの方から辿っていく。


 わたくしは《ローズ・リスト》を閉じ、二人の待つ居間へ向かった。

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