第73話 帰る場所の灯
目を覚まして、最初に見たのは窓の外の霊晶灯だった。
青白い光が、避難所の石垣を淡く照らしている。まだ朝には早い。昨日の夕方から流れ続けている灰色の霧は、夜が明けてもほとんど薄くなっていなかった。
寝台から起き上がると、肩がこわばっているのが分かった。
昨日の道中、右手に触れた灰触は、魔力をわずかに吸い取っていっただけだった。身体が壊れたわけでも、記憶がおかしくなったわけでもない。休んだ今は魔力も戻っている。
それなのに、夜中に何度も目が覚めた。
灯具の光が消えていないか、目で確かめないと落ち着かなかったのだ。
「……わたくしも、ずいぶん慎重になったものですわね」
小さく呟いて、外套を羽織る。
避難所の戸を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。軒の下ではカルマが護灯台車の車輪を調べている。片膝をつき、昨日締め直した金具へ指を掛けていた。
「おはようございます。車輪の具合は、まだよくありませんの?」
「いや。昨日の分をもう一度見とこうと思ってな」
カルマは金具を揺らし、緩みがないことを確かめる。
「これでよし。霧の中でまた傾かれたら、たまったもんじゃねえ」
「昨日は助かりましたわ」
「礼を言うなら、灯を守ってくれたシュテルにも言ってやれよ」
「もう申し上げました」
「早えな」
彼が笑った。
車輪の向こうには、灰に覆われた道が続いている。昨日の夕方にここへたどり着くまでは、少しずつ前へ進むだけで精いっぱいだった。
けれど、ここから先の道は覚えている。
「今日中に、霧の外へ出られますの?」
背後でシュテルが尋ねた。手には水筒と、温めた保存食の包みがある。
「えぇ。道が塞がれていなければ、昼過ぎには」
「その言い方、少し不安になりますね」
「昨日のことがありますから、軽々しくお約束はできませんわ」
「そりゃそうだ」
カルマは車輪の前に置いていた工具を片づけた。
「着ける場所も戻す場所も決まってる。灯具の目盛りも青。あとは慎重に進むだけだな」
「進む前に朝食です」
シュテルが保存食を差し出す。
「分かってるよ。腹が減ったまま怪物に追われたくはねえからな」
わたくしたちは軒下に腰を下ろした。
食事を済ませ、避難所の通行板に三人分の人数と出発時刻を記した。ここへ入った記録と、今朝出ていく記録が揃う。戻らなかった者を探すときの手掛かりになるのだろう。
そうしたものが必要な場所だと、わたくしたちはもう知っていた。
◇
避難所を離れて間もなく、道幅が狭くなった。
霧の下では石と土の境が見えにくい。泥に見えた場所へ足を置くと、硬い石の角が当たることもある。車輪が割れ目へ落ちないよう、カルマは引き手を押しながら絶えず足元を確かめていた。
わたくしは左側、シュテルは右側を歩く。
それぞれ台車から遠ざからない。霊晶灯を中心に張られた防護の輪こそ、今のわたくしたちにとって確かな安全地帯だからだ。
「少し待ってください」
シュテルが低い声で言った。
わたくしたちは同時に足を止めた。
前方の茂みが、風とは違う動き方をしている。
すぐに六本の脚が見えた。
節の曲がり方がおかしな獣だった。灰に濡れた背が低い枝をくぐり、長い脚を交互に運んでいく。こちらに気づいた様子はない。灯の外を、道の右から左へ横切っていった。
あれに触れられれば、相手の顔をうまく認識できなくなるという。
旅の前に聞いた話がどこまで正確なのか、確かめたいとは思わない。少なくとも、触れられに行く理由はなかった。
「まだ動かさない方がいいですね」
シュテルが耳を澄ませる。
「枝の音が止むまで待ちましょう」
カルマも引き手から手を離さないまま頷いた。
獣が消えた方角で、何度か葉が擦れる音がした。それが完全に聞こえなくなるのを待つ。
ようやくカルマが足元へ目を戻した。
「……行けそうだ。右は石が浮いてる。台車は道の中央を通そう」
「左の車輪は、わたくしが見ますわ」
「頼む」
カルマがゆっくり引き手を押した。
わたくしたちは車輪の通る位置を確かめながら、少しずつ進んだ。大きな石を避けるために左へ寄せ、また中央へ戻す。台車が傾かなければ、灯具も揺れずに済む。
この道では、速さよりもそれが大切だった。
やがて木々の間から、子どもの笑い声が聞こえた。
一度。
少し間を空けて、もう一度。
シュテルの視線が音の方へ動いた。
「……鳥でしょうか」
「多分な。確かめには行かねえぞ」
カルマは声を落とした。
誰も近づこうとは言わない。灰触には人の声を真似る鳥がいる。声だけで助けを求める相手を判断できないことも、昨日までに学んでいた。
声が遠ざかるのを待ち、進行を再開する。
それからしばらくして、霧の向こうに四本の細長い手が現れた。
手の先が地面を探り、遅れて大きな胴がついてくる。頭らしい部分はなく、灰色の身体のあちこちが妙に平たかった。
フォーム・ディヴァウラー。
昨日、カルマが銃で追い払った個体より小さいように見えた。
目は機能していない。こちらの魔力を頼りに近づいてくる生物だ。
「止まれ」
カルマが言った。
台車が静かに止まる。
フォーム・ディヴァウラーは石の上で身をよじり、灯具の方へ一本の手を伸ばした。透明な防護の縁へ触れたところで、その動きが鈍る。
「目盛りは?」
「青のままです」
シュテルが小声で答えた。
「撃ちますか?」
「いや。入ってこられないなら、弾は残す」
カルマの右手は《赤鐘》の柄の近くにある。いつでも抜ける位置だ。けれど、今は銃声を鳴らす必要がない。
怪物は何度か膜の外周を探り、やがて別の方角へ向きを変えた。灰に埋もれた石を乗り越え、霧の奥へ消えていく。
その姿が見えなくなっても、カルマはしばらく動かなかった。
「……行ったか」
「えぇ。戻ってくる気配もありませんわ」
「昨日のやつみたいに撃つ羽目にならずに済んだな」
シュテルが胸元の手を下ろす。
「銃弾を怖がって逃げるのは分かりましたけど、毎回それに頼るわけにもいきませんね」
「そうだな。痛がって引くのは助かるが、向こうから寄ってこなきゃ、それに越したことはねえ」
カルマが引き手を握り直した。
「先へ行こう。灯の外へ出るなよ」
その言葉に、わたくしたち二人は頷いた。
◇
昼を過ぎた頃、木々の色が変わり始めた。
幹の表面に灰の薄い皮膜がなくなり、落ち葉の下から茶色い土が覗く。空も、遠くの方だけ青く透けていた。
風が吹く。
湿った土の匂いがした。
「……普通の森の匂いですね」
シュテルが足を止めた。
「本当ですわね」
「俺はまだよく分かんねえけどな」
カルマはそう言いながら、鼻から大きく息を吸っている。
わたくしも少しだけ笑った。
まだ霧が残っているから、灯は消さない。道を塞ぐ倒木がないかも確かめる。それでも、灰触の濃い区域は明らかに後ろへ遠ざかっていた。
やがて地面に生えた草が、灰色ではなく鮮やかな緑に見えた。
「……そろそろですわ」
「今度は確かか?」
「えぇ。あの岩を覚えていますもの」
道の左手に、縦に裂けた大きな石があった。表面には古い苔が残っている。この辺りまで来れば、灰触の霧が常に覆う場所ではない。
最後の薄い靄を通り抜ける。
カルマが台車を止めた。
「……出た、よな」
「はい。濃い霧はもう後ろです」
わたくしが答えると、彼は長く息を吐いた。
「悪い。ちょっと休ませてくれ」
引き手から手を離し、道端の岩へ腰を下ろす。
シュテルも台車の脇にしゃがみ込み、首を軽く回した。
「私も、肩が固まっています……」
わたくしは二人を見て、ようやく自分の脚も重いことに気づいた。
霧の中では、疲れよりも先に、次の一歩をどこへ置くかを考えていた。立ち止まっても安全だと思えた途端、身体に溜め込んだものが一度に表へ出てきたらしい。
「今日のうちに別荘へ着けますか?」
シュテルが尋ねる。
「夕方には。ですが、休んでからで結構ですわ」
「そう言ってもらえると助かります」
カルマは収納袋から保存食を取り出そうとして、しばらく中を探った。
「……どこ入れたっけ」
わたくしは、たまらず笑ってしまった。
「ゼェレの手紙を思い出しましたわ」
「またそれかよ」
「大事なものはカルマに預けない方がよろしい、でしたね」
「食い物は見つけた。なくしてねえからな」
カルマが包みを掲げる。シュテルは笑いを堪えながら水筒を取り出した。
こんなやり取りをしているうちに、少しずつ息が整っていった。
わたくしたちは簡単に昼食を済ませ、もう一度霊晶灯の目盛りを確かめてから出発した。
◇
霧の外側の番小屋では、番人が三人分の通行札を確かめた。
「途中の避難所に一泊ですね。怪我人は?」
「いません。霧に少し触れましたが、魔力が抜ける感覚があった程度です」
「気分が悪くなったりは?」
「今のところは大丈夫ですわ」
番人は頷き、霊晶灯の主槽と補助槽を点検した。
「切替えの履歴も残っていますね。昨日、車体を少し傷めましたか」
「右前輪を取られてな。固定具は締め直してある」
カルマが修理箇所を見せた。
「なるほど。無事に抜けられて何よりです」
ここで護灯具を返却する。番人は周囲に灰触の濃い霧が流れていないことを確認してから、防護術式を解除し、霊晶灯と霊晶槽を車体の台座から取り外した。
同じ車体を使い続けるので、荷物を積み替える必要はない。
「馬は入口側の監視所へ預けたままなんですよね」
「えぇ。戻るときに引き取れるよう、手続きをしてありますわ」
「ここからは手押しになりますが、大丈夫ですか?」
「荷物は軽くしてある。交代で押せばどうにかなるさ」
カルマが引き手を軽く押し、車輪の具合を確かめた。
ゼェレが残した収納袋には、衣類も寝具も食料も収まっている。わたくしたちが持ち出した書類の原本と複写も、《ローズ・リスト》へ紐づけた。手元に残すのは水筒、簡単な工具、必要なときに取り出すものだけだ。
それでも台車そのものは軽くない。石畳を外れる頃には、三人で交代しながら進めることになった。
番小屋を過ぎると、人の通る道は次第に細くなった。
「……本当にこっちでいいのか?」
「えぇ。ここから先は、古い道ですわ」
「道標がねえぞ」
「見つけやすく造ってはありませんもの」
カルマは一度だけ周囲を見回した。
「まあ、そうだよな。王様を隠す場所なんだし」
わたくしは頷いた。
王都から離れ、人の少ない土地を選び、さらに森の奥へ道を隠す。王都が陥落しても国王を逃がせるよう、ノワールヴェイン家が用意した別荘だ。
父の処刑とともに、王家に尽くしたその役目も途絶えた。
わたくしは三年前、逃亡を始めてからこの家を拠点にしてきた。各地を巡り、戻って資料を整理し、また出発する。最後に戸を閉めたのはクロイツハーフェンへ向かった朝だった。
あの日は、ここへ帰るときに同行者がいるとは考えてもいなかった。
「……リゼリア?」
シュテルに呼ばれ、顔を上げた。
「道はこちらで合っていますか?」
「えぇ。すぐ先に二本の樫の木が見えるはずですわ」
少し進むと、木立の間に大きな幹が二本現れた。枝が道の上で重なっている。
その下をくぐり、緩い坂を下ったところで、わたくしは足を止めた。
「着きましたわ」
◇
木々の間に、二階建ての石造りの家が見えた。
大きな門も、庭を囲う高い柵もない。古い森番の屋敷と言われれば、そう見えるだろう。壁は淡い灰色で、窓枠は深い茶色。入口の周囲にも、ノワールヴェイン家の紋章は刻まれていない。
「……これが、隠し別荘か」
カルマはしばらく建物を眺めた。
「思ったより地味だな」
「目立たないように造りましたもの」
「そりゃそうか」
シュテルは庭の端へ視線を向けた。
「でも、壁が新しいですね。屋根にも傷がありません」
えぇ、そうなのだ。
クロイツハーフェンへ向かった朝に見たままの姿で、この家はわたくしの帰りを待っていた。
玄関の金具にも、階段の石にも、ほとんど汚れがない。敷地には落ち葉があるけれど、建物に触れそうな枝は生え伸びていなかった。
「誰かが掃除に来てたのか?」
「いいえ。ここを知っているのは、ノワールヴェイン家だけですわ」
「じゃあ、あの壁はどうなってんだ?」
「中へ入れば分かります」
わたくしは小さな鍵を取り出した。
鍵の柄に刻まれた印を指でなぞる。父がこの家を任せてくれたときから、わたくしの手元にあるものだ。
錠へ差し込むと、金属の奥で静かな音がした。玄関の縁に沿って淡い光が走り、壁の石目を通って庭の方まで伸びていく。ほどなくその光は薄くなり、最初から何もなかったように消えた。
シュテルが小さく息を吸った。
「……防護魔術ですね」
「はい。敷地の外から人が近づけば、それを知らせる術式もあります。もう一つ、建物を守る保護魔術が常に働いていますの」
「防ぐだけじゃなく、傷まないようにしているんですね」
「えぇ。屋根や柱はもちろん、家具や書類にも保護を掛けてあります」
カルマが目を丸くした。
「そんなの、ずっと動かせるのか?」
「この辺りの小さな霊脈から、必要な魔力だけ引いています。大きな結界ではありませんから、維持に必要な量も抑えられているのですわ」
「……名核は使ってねえんだな」
「もちろんです」
わたくしが答えると、カルマは玄関の壁を見直した。
「父さんが考えた仕組みか?」
「父が設計に関わっています。ただ、《白冠》と同じ規模のものをこれで代用できるわけではありませんわ」
「そっちは分かる。王国全土と家一軒じゃ、比べものにならねえからな」
少し前なら、魔力の使い方についてこうも自然に話すことはなかっただろう。
けれど聖都を通り、灰触を越えた今、三人とも同じ疑問を持っている。
王国の人々を守る《白冠》を、どうすれば犠牲なしで維持できるのか。
その答えを探しに帰ってきた。だが、調べるのは明日からだ。
「まず、中へどうぞ」
扉を開くと、乾いた木と、かすかな花の香りがした。
◇
玄関の床は、磨き上げたばかりのように滑らかだった。
窓から入った夕日が、廊下の奥まで届いている。木の手すりには埃がなく、壁に掛けた小さな絵の額も、変色していなかった。
カルマが靴底を見た。
「……土、ついてるんだけどな」
「構いませんわ。入口で落とせますから」
敷居の近くにある石へ指を触れる。細い光が床に走り、靴の裏についた泥を拾って溝へ運んだ。
「便利すぎるだろ」
「父は、長く住むことを考えていましたから」
シュテルは少ししゃがみ、床の術式を眺める。
「これだけ細かい術式を、家じゅうに?」
「使う場所ごとに分けていますの。どこかが傷んでも、ほかがすぐ止まらないように」
「それなら点検もしやすそうですね」
「そうですわね。ですから、今夜は最低限の確認だけで十分です」
そう答えた自分の口元が、少し緩んだ。
シュテルが「最低限ですか」と念を押しかけたのが分かったからだ。
彼女の言いたいことも、よく分かっている。
灰触を抜けたばかりの身体で、書庫へ入り込むわけにはいかない。
まずは台車を敷地の端へ寄せ、車輪に歯止めを置いた。カルマは入口と裏口、窓の鍵を確かめに行く。シュテルは水場の確認を申し出た。わたくしは玄関の術式を点検し、最後に台所へ向かった。
戸棚には食器が並んでいる。
銀の匙と陶器の皿。底に小さな欠けのある器まで、最後に片づけたときのままだった。
食料棚だけは空だった。
ここへ最後に滞在した際、持っていた食料を使い切り、残りは旅支度に回した。誰かが補充してくれる家ではない。
「食べ物はなさそうですね」
シュテルが棚を開けた。
「えぇ。保存食を持ってきて正解でしたわ」
「台所は問題ありません。水路も流れていますし、湯沸かし器も動きそうです」
「それはよかったです。使う前に水を流して、少し確かめましょう」
そこへカルマが戻ってきた。
「裏口も窓も異常なし。物置もきれいだった。……で、今夜は何を食う?」
「保存食がありますよ。干した野菜と肉、それからパン」
シュテルが自分の収納袋を取り出した。
「スープくらいは作れそうです」
「手伝う。何やりゃいい?」
「じゃあ、鍋をお願いできますか」
カルマは戸棚から鍋を出した。持ち上げてみて、首を傾げる。
「これも新品みてえだな」
「保護魔術のおかげですわ」
「便利なのは分かったけど、ほんとに贅沢な家だな」
彼の言葉に、わたくしはまだ返事をしなかった。
台所の窓から、三人で降ろした荷物が見えた。
昔は、この窓の外に誰かが立っていることもなかった。自分で薪を割り、自分で水を汲み、必要なときだけ外へ出る。それが当たり前だった。
今はカルマが鍋を持ち、シュテルが保存食を並べている。
それが少し、不思議だった。
◇
水は一度流し、新しく汲んだ分を煮沸してから使った。
保護魔術が設備を傷ませないようにしても、水の中に何が混じっているかまで、確かめずに飲んでよい理由にはならない。シュテルが濾過器を点検し、わたくしも魔力の流れを見た。
カルマは台所の窓を開けて換気し、火を起こした。
夕食は、干した野菜と肉を煮たスープ、それからパンになった。調味料も収納袋に残っていたものだけだ。旅先の食事としては、むしろ十分だった。
「……うまいな」
カルマがスープをひと口飲んで言った。
「よかったです。干した肉の塩気が強いかと思いましたけど」
「ちょうどいい。もう一杯あるか?」
「ありますよ。先にリゼリアの分を取ってからでいいですか?」
「もちろん」
シュテルはわたくしの器を確かめ、鍋に残った分をよそった。
「ありがとうございます」
「今日は、あまり食べていなかったでしょう?」
「……気づいていらしたの?」
「霧の中では、みんなそうでしたから」
カルマが頷く。
「飯を食ってる最中も、灯が消えねえか気にしてたもんな」
わたくしは匙を置き、笑ってしまった。
「お二人とも同じでしたわよ」
「そりゃそうだ。あんな場所、誰だって気にする」
そう言って、カルマは椅子の背へ身体を預けた。
食事を終える頃には、窓の外が暗くなっていた。鍋と器を洗い、台所の火を落とす。誰かが食器を片づける間、もう一人は水場を確認する。そんな些細な手分けが、なぜか心地よい。
カルマは居間へ戻ると、ようやく建物をゆっくり眺めた。
壁には余計な金細工がない。窓は大きすぎず、外から中を覗きにくい造りだ。長い卓も、厚い絨毯も、見栄を張るためではなく、ここで暮らす人が困らないように選ばれている。
「……さすが国王を匿うための別荘だな。シンプルだけど、ずいぶん贅沢だ」
「そう見えますの?」
「見た目は地味だろ。なのに水も湯も使えて、家具は傷んでねえ。飯さえ持ち込めば、しばらく外へ出なくても暮らせる。普通の家なら、こうはいかねえよ」
シュテルも窓際の保護術式を見た。
「維持の魔力を抑えているのも、すごいと思います。動いている場所が多いのに、どれも必要な分しか使っていないみたいです」
「そういう考え方をしていたのです、父は」
わたくしは答えた。
「王都から逃げてきた陛下に、豪華な調度品を見せても意味はありません。安全に眠れて、湯が使えて、外へ出ずに暮らせる。その方が大切でしょう?」
「……なるほどな」
カルマが天井を見上げた。
「贅沢って、こういうことか」
「そうかもしれませんわね」
彼は椅子を押して立ち上がる。
「で、その贅沢な風呂はもう使えるのか?」
「えぇ。配管も確認しましたし、湯の準備もできますわ」
「なら、俺から入っていいか。あの霧の中を歩いたまんまの気分なんだよ」
「もちろんです」
シュテルが笑う。
「私たちは食後のお茶を片づけておきますから、どうぞ」
「助かる」
カルマは着替えを持って浴室へ向かった。
◇
浴室には銅管の湯沸かし器があり、大きな浴槽へ湯が引かれるようになっていた。
道具を使う場所にだけ術式が反応する仕組みなので、人がいない間ずっと湯を沸かしているわけではない。わたくしが動作を確認すると、湯はすぐに温まった。
カルマは浴室の中で大きく息を吐き、やがてさっぱりした顔で出てきた。
「……生き返った。こりゃいいな」
「ずいぶん気に入ったみたいですね」
シュテルが声を掛ける。
「灰触を抜けたあとじゃ、なおさらだろ」
「それは分かります」
次にシュテルが入り、最後にわたくしが使った。
ひとりで浴槽に浸かると、身体のあちこちが疲れていたことにようやく気づく。湯に肩を沈め、息を吐いた。
灰触の中では、足元も、怪物の動きも、霊晶灯の目盛りも気にしなければならなかった。夜になっても、誰かが近づく気配を探していた。
今は浴室の戸を閉め、何も見張らずにいてよい。
目を閉じても、外の灯が消える心配をする必要はない。
クロイツハーフェンへ向かう前、この家で何度も湯を使った。傷んだ身体を休め、また書類を開き、次に向かう先を決める。三年間、そんな夜を繰り返していた。
当時は、それを苦しいことだと思わないようにしていたのかもしれない。
今夜は違う。
廊下の向こうに二人がいる。どちらも無事に、ここまでたどり着いた。
それだけで、肩の力が抜けた。
◇
寝室は二階に三つ用意した。
カルマは階段に近い部屋、シュテルはその隣。わたくしは昔から使っている奥の部屋へ戻ることにした。寝具の布には傷みも埃もなく、窓の鍵もきちんと閉まる。
廊下へ出ると、カルマが手すりに寄りかかっていた。
「鍵は一通り見たぞ。外の警戒も問題なし」
「ありがとうございます。ここなら見張りを立てなくても大丈夫ですわ」
「分かってるんだけどな。寝る前に見とかねえと落ち着かねえ」
「……わたくしも同じです」
シュテルが隣の戸を開けて顔を出した。
「私も、さっき窓を確認しました」
三人で顔を見合わせる。
「全員、灰触の後遺症みてえだな」
「身体に異常があるわけではありませんよ」
シュテルが訂正する。
「分かってる。言い方の問題だ」
カルマの返しに、わたくしは声を立てて笑ってしまった。
別荘の廊下に、こんな声が響くのは久しぶりだった。
「それでは、おやすみなさいませ」
「おやすみなさい、リゼリア」
「何かあったら呼べよ。……いや、何もねえか」
「何かあれば呼びますわ」
カルマが部屋へ入り、続いてシュテルの戸も閉じた。
わたくしは自分の部屋へ戻った。
机の上には、小さな木箱がある。
父が残したものだ。ここに戻るたび、いつか整理しようと思いながら、ほかの資料を優先してきた。最後に出発した朝も、箱はこの場所に置いたままだった。
今なら、開けようと思えば開けられる。
その奥の書庫にも、三年間にわたって集めた資料がある。各地で得た証言、王国の施策に関する記録、父が残した《白冠》の設計資料。クロイツハーフェンへ向かってから手に入れた証拠は、《ローズ・リスト》へ原本を紐づけて保管してきた。
それらを並べれば、今まで見えなかったことが分かるかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、わたくしは書庫の方へ足を向けかけた。
「……いけませんわね」
部屋の中で、ひとり呟く。
ここへ着いたばかりだ。灰触を抜けた疲れも残っている。今から資料を広げたところで、落ち着いて読めるとは思えない。
それでも、扉を開けたくなる。
父の名前が刻まれた書類も、わたくしが各地で書き留めたものも、ずっとここで待っていたのだから。
だが、今日は休むと決めた。
シュテルが何度も確かめてくれたことを、わたくし自身が無駄にしてはならない。
机の木箱には触れず、寝台へ向かった。
ふと、階下から小さな音が聞こえた。誰かが水差しを置いたのだろうか。すぐに静かになる。
以前なら、その音を聞くだけで身構えていた。ここで暮らしていた頃、わたくしがいない場所に誰かがいることはなかったからだ。
今は、誰なのか分かる。
カルマか、シュテル。
そのどちらかだ。
わたくしは窓の掛け金を確かめ、灯りを落とした。
建物を守る術式は、いつもどおり静かに働いている。食料は持参したものだけ。それでも湯は使え、暖かい寝床があり、今夜は三人で休める。
国王を匿うために造られたこの家が、今はわたくしたちの居場所になっていた。
明日になれば、書庫を開こう。
父の資料と、わたくしの集めた記録と、《ローズ・リスト》を照らし合わせる。そのために帰ってきたのだ。
けれど今夜だけは、何も調べない。
わたくしは枕へ頬を寄せ、目を閉じた。
外には、灰触の霧のない森が広がっている。
もう灯を見張らなくていいのだと思ったところで、ようやく眠りが訪れた。




