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第73話 帰る場所の灯



 目を覚まして、最初に見たのは窓の外の霊晶灯だった。


 青白い光が、避難所の石垣を淡く照らしている。まだ朝には早い。昨日の夕方から流れ続けている灰色の霧は、夜が明けてもほとんど薄くなっていなかった。


 寝台から起き上がると、肩がこわばっているのが分かった。


 昨日の道中、右手に触れた灰触は、魔力をわずかに吸い取っていっただけだった。身体が壊れたわけでも、記憶がおかしくなったわけでもない。休んだ今は魔力も戻っている。


 それなのに、夜中に何度も目が覚めた。


 灯具の光が消えていないか、目で確かめないと落ち着かなかったのだ。


「……わたくしも、ずいぶん慎重になったものですわね」


 小さく呟いて、外套を羽織る。


 避難所の戸を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。軒の下ではカルマが護灯台車の車輪を調べている。片膝をつき、昨日締め直した金具へ指を掛けていた。


「おはようございます。車輪の具合は、まだよくありませんの?」


「いや。昨日の分をもう一度見とこうと思ってな」


 カルマは金具を揺らし、緩みがないことを確かめる。


「これでよし。霧の中でまた傾かれたら、たまったもんじゃねえ」


「昨日は助かりましたわ」


「礼を言うなら、灯を守ってくれたシュテルにも言ってやれよ」


「もう申し上げました」


「早えな」


 彼が笑った。


 車輪の向こうには、灰に覆われた道が続いている。昨日の夕方にここへたどり着くまでは、少しずつ前へ進むだけで精いっぱいだった。


 けれど、ここから先の道は覚えている。


「今日中に、霧の外へ出られますの?」


 背後でシュテルが尋ねた。手には水筒と、温めた保存食の包みがある。


「えぇ。道が塞がれていなければ、昼過ぎには」


「その言い方、少し不安になりますね」


「昨日のことがありますから、軽々しくお約束はできませんわ」


「そりゃそうだ」


 カルマは車輪の前に置いていた工具を片づけた。


「着ける場所も戻す場所も決まってる。灯具の目盛りも青。あとは慎重に進むだけだな」


「進む前に朝食です」


 シュテルが保存食を差し出す。


「分かってるよ。腹が減ったまま怪物に追われたくはねえからな」


 わたくしたちは軒下に腰を下ろした。


 食事を済ませ、避難所の通行板に三人分の人数と出発時刻を記した。ここへ入った記録と、今朝出ていく記録が揃う。戻らなかった者を探すときの手掛かりになるのだろう。


 そうしたものが必要な場所だと、わたくしたちはもう知っていた。


     ◇


 避難所を離れて間もなく、道幅が狭くなった。


 霧の下では石と土の境が見えにくい。泥に見えた場所へ足を置くと、硬い石の角が当たることもある。車輪が割れ目へ落ちないよう、カルマは引き手を押しながら絶えず足元を確かめていた。


 わたくしは左側、シュテルは右側を歩く。


 それぞれ台車から遠ざからない。霊晶灯を中心に張られた防護の輪こそ、今のわたくしたちにとって確かな安全地帯だからだ。


「少し待ってください」


 シュテルが低い声で言った。


 わたくしたちは同時に足を止めた。


 前方の茂みが、風とは違う動き方をしている。


 すぐに六本の脚が見えた。


 節の曲がり方がおかしな獣だった。灰に濡れた背が低い枝をくぐり、長い脚を交互に運んでいく。こちらに気づいた様子はない。灯の外を、道の右から左へ横切っていった。


 あれに触れられれば、相手の顔をうまく認識できなくなるという。


 旅の前に聞いた話がどこまで正確なのか、確かめたいとは思わない。少なくとも、触れられに行く理由はなかった。


「まだ動かさない方がいいですね」


 シュテルが耳を澄ませる。


「枝の音が止むまで待ちましょう」


 カルマも引き手から手を離さないまま頷いた。


 獣が消えた方角で、何度か葉が擦れる音がした。それが完全に聞こえなくなるのを待つ。


 ようやくカルマが足元へ目を戻した。


「……行けそうだ。右は石が浮いてる。台車は道の中央を通そう」


「左の車輪は、わたくしが見ますわ」


「頼む」


 カルマがゆっくり引き手を押した。


 わたくしたちは車輪の通る位置を確かめながら、少しずつ進んだ。大きな石を避けるために左へ寄せ、また中央へ戻す。台車が傾かなければ、灯具も揺れずに済む。


 この道では、速さよりもそれが大切だった。


 やがて木々の間から、子どもの笑い声が聞こえた。


 一度。


 少し間を空けて、もう一度。


 シュテルの視線が音の方へ動いた。


「……鳥でしょうか」


「多分な。確かめには行かねえぞ」


 カルマは声を落とした。


 誰も近づこうとは言わない。灰触には人の声を真似る鳥がいる。声だけで助けを求める相手を判断できないことも、昨日までに学んでいた。


 声が遠ざかるのを待ち、進行を再開する。


 それからしばらくして、霧の向こうに四本の細長い手が現れた。


 手の先が地面を探り、遅れて大きな胴がついてくる。頭らしい部分はなく、灰色の身体のあちこちが妙に平たかった。


 フォーム・ディヴァウラー。


 昨日、カルマが銃で追い払った個体より小さいように見えた。


 目は機能していない。こちらの魔力を頼りに近づいてくる生物だ。


「止まれ」


 カルマが言った。


 台車が静かに止まる。


 フォーム・ディヴァウラーは石の上で身をよじり、灯具の方へ一本の手を伸ばした。透明な防護の縁へ触れたところで、その動きが鈍る。


「目盛りは?」


「青のままです」


 シュテルが小声で答えた。


「撃ちますか?」


「いや。入ってこられないなら、弾は残す」


 カルマの右手は《赤鐘》の柄の近くにある。いつでも抜ける位置だ。けれど、今は銃声を鳴らす必要がない。


 怪物は何度か膜の外周を探り、やがて別の方角へ向きを変えた。灰に埋もれた石を乗り越え、霧の奥へ消えていく。


 その姿が見えなくなっても、カルマはしばらく動かなかった。


「……行ったか」


「えぇ。戻ってくる気配もありませんわ」


「昨日のやつみたいに撃つ羽目にならずに済んだな」


 シュテルが胸元の手を下ろす。


「銃弾を怖がって逃げるのは分かりましたけど、毎回それに頼るわけにもいきませんね」


「そうだな。痛がって引くのは助かるが、向こうから寄ってこなきゃ、それに越したことはねえ」


 カルマが引き手を握り直した。


「先へ行こう。灯の外へ出るなよ」


 その言葉に、わたくしたち二人は頷いた。


     ◇


 昼を過ぎた頃、木々の色が変わり始めた。


 幹の表面に灰の薄い皮膜がなくなり、落ち葉の下から茶色い土が覗く。空も、遠くの方だけ青く透けていた。


 風が吹く。


 湿った土の匂いがした。


「……普通の森の匂いですね」


 シュテルが足を止めた。


「本当ですわね」


「俺はまだよく分かんねえけどな」


 カルマはそう言いながら、鼻から大きく息を吸っている。


 わたくしも少しだけ笑った。


 まだ霧が残っているから、灯は消さない。道を塞ぐ倒木がないかも確かめる。それでも、灰触の濃い区域は明らかに後ろへ遠ざかっていた。


 やがて地面に生えた草が、灰色ではなく鮮やかな緑に見えた。


「……そろそろですわ」


「今度は確かか?」


「えぇ。あの岩を覚えていますもの」


 道の左手に、縦に裂けた大きな石があった。表面には古い苔が残っている。この辺りまで来れば、灰触の霧が常に覆う場所ではない。


 最後の薄い靄を通り抜ける。


 カルマが台車を止めた。


「……出た、よな」


「はい。濃い霧はもう後ろです」


 わたくしが答えると、彼は長く息を吐いた。


「悪い。ちょっと休ませてくれ」


 引き手から手を離し、道端の岩へ腰を下ろす。


 シュテルも台車の脇にしゃがみ込み、首を軽く回した。


「私も、肩が固まっています……」


 わたくしは二人を見て、ようやく自分の脚も重いことに気づいた。


 霧の中では、疲れよりも先に、次の一歩をどこへ置くかを考えていた。立ち止まっても安全だと思えた途端、身体に溜め込んだものが一度に表へ出てきたらしい。


「今日のうちに別荘へ着けますか?」


 シュテルが尋ねる。


「夕方には。ですが、休んでからで結構ですわ」


「そう言ってもらえると助かります」


 カルマは収納袋から保存食を取り出そうとして、しばらく中を探った。


「……どこ入れたっけ」


 わたくしは、たまらず笑ってしまった。


「ゼェレの手紙を思い出しましたわ」


「またそれかよ」


「大事なものはカルマに預けない方がよろしい、でしたね」


「食い物は見つけた。なくしてねえからな」


 カルマが包みを掲げる。シュテルは笑いを堪えながら水筒を取り出した。


 こんなやり取りをしているうちに、少しずつ息が整っていった。


 わたくしたちは簡単に昼食を済ませ、もう一度霊晶灯の目盛りを確かめてから出発した。


     ◇


 霧の外側の番小屋では、番人が三人分の通行札を確かめた。


「途中の避難所に一泊ですね。怪我人は?」


「いません。霧に少し触れましたが、魔力が抜ける感覚があった程度です」


「気分が悪くなったりは?」


「今のところは大丈夫ですわ」


 番人は頷き、霊晶灯の主槽と補助槽を点検した。


「切替えの履歴も残っていますね。昨日、車体を少し傷めましたか」


「右前輪を取られてな。固定具は締め直してある」


 カルマが修理箇所を見せた。


「なるほど。無事に抜けられて何よりです」


 ここで護灯具を返却する。番人は周囲に灰触の濃い霧が流れていないことを確認してから、防護術式を解除し、霊晶灯と霊晶槽を車体の台座から取り外した。


 同じ車体を使い続けるので、荷物を積み替える必要はない。


「馬は入口側の監視所へ預けたままなんですよね」


「えぇ。戻るときに引き取れるよう、手続きをしてありますわ」


「ここからは手押しになりますが、大丈夫ですか?」


「荷物は軽くしてある。交代で押せばどうにかなるさ」


 カルマが引き手を軽く押し、車輪の具合を確かめた。


 ゼェレが残した収納袋には、衣類も寝具も食料も収まっている。わたくしたちが持ち出した書類の原本と複写も、《ローズ・リスト》へ紐づけた。手元に残すのは水筒、簡単な工具、必要なときに取り出すものだけだ。


 それでも台車そのものは軽くない。石畳を外れる頃には、三人で交代しながら進めることになった。


 番小屋を過ぎると、人の通る道は次第に細くなった。


「……本当にこっちでいいのか?」


「えぇ。ここから先は、古い道ですわ」


「道標がねえぞ」


「見つけやすく造ってはありませんもの」


 カルマは一度だけ周囲を見回した。


「まあ、そうだよな。王様を隠す場所なんだし」


 わたくしは頷いた。


 王都から離れ、人の少ない土地を選び、さらに森の奥へ道を隠す。王都が陥落しても国王を逃がせるよう、ノワールヴェイン家が用意した別荘だ。


 父の処刑とともに、王家に尽くしたその役目も途絶えた。


 わたくしは三年前、逃亡を始めてからこの家を拠点にしてきた。各地を巡り、戻って資料を整理し、また出発する。最後に戸を閉めたのはクロイツハーフェンへ向かった朝だった。


 あの日は、ここへ帰るときに同行者がいるとは考えてもいなかった。


「……リゼリア?」


 シュテルに呼ばれ、顔を上げた。


「道はこちらで合っていますか?」


「えぇ。すぐ先に二本の樫の木が見えるはずですわ」


 少し進むと、木立の間に大きな幹が二本現れた。枝が道の上で重なっている。


 その下をくぐり、緩い坂を下ったところで、わたくしは足を止めた。


「着きましたわ」


     ◇


 木々の間に、二階建ての石造りの家が見えた。


 大きな門も、庭を囲う高い柵もない。古い森番の屋敷と言われれば、そう見えるだろう。壁は淡い灰色で、窓枠は深い茶色。入口の周囲にも、ノワールヴェイン家の紋章は刻まれていない。


「……これが、隠し別荘か」


 カルマはしばらく建物を眺めた。


「思ったより地味だな」


「目立たないように造りましたもの」


「そりゃそうか」


 シュテルは庭の端へ視線を向けた。


「でも、壁が新しいですね。屋根にも傷がありません」


 えぇ、そうなのだ。


 クロイツハーフェンへ向かった朝に見たままの姿で、この家はわたくしの帰りを待っていた。


 玄関の金具にも、階段の石にも、ほとんど汚れがない。敷地には落ち葉があるけれど、建物に触れそうな枝は生え伸びていなかった。


「誰かが掃除に来てたのか?」


「いいえ。ここを知っているのは、ノワールヴェイン家だけですわ」


「じゃあ、あの壁はどうなってんだ?」


「中へ入れば分かります」


 わたくしは小さな鍵を取り出した。


 鍵の柄に刻まれた印を指でなぞる。父がこの家を任せてくれたときから、わたくしの手元にあるものだ。


 錠へ差し込むと、金属の奥で静かな音がした。玄関の縁に沿って淡い光が走り、壁の石目を通って庭の方まで伸びていく。ほどなくその光は薄くなり、最初から何もなかったように消えた。


 シュテルが小さく息を吸った。


「……防護魔術ですね」


「はい。敷地の外から人が近づけば、それを知らせる術式もあります。もう一つ、建物を守る保護魔術が常に働いていますの」


「防ぐだけじゃなく、傷まないようにしているんですね」


「えぇ。屋根や柱はもちろん、家具や書類にも保護を掛けてあります」


 カルマが目を丸くした。


「そんなの、ずっと動かせるのか?」


「この辺りの小さな霊脈から、必要な魔力だけ引いています。大きな結界ではありませんから、維持に必要な量も抑えられているのですわ」


「……名核は使ってねえんだな」


「もちろんです」


 わたくしが答えると、カルマは玄関の壁を見直した。


「父さんが考えた仕組みか?」


「父が設計に関わっています。ただ、《白冠》と同じ規模のものをこれで代用できるわけではありませんわ」


「そっちは分かる。王国全土と家一軒じゃ、比べものにならねえからな」


 少し前なら、魔力の使い方についてこうも自然に話すことはなかっただろう。


 けれど聖都を通り、灰触を越えた今、三人とも同じ疑問を持っている。


 王国の人々を守る《白冠》を、どうすれば犠牲なしで維持できるのか。


 その答えを探しに帰ってきた。だが、調べるのは明日からだ。


「まず、中へどうぞ」


 扉を開くと、乾いた木と、かすかな花の香りがした。


     ◇


 玄関の床は、磨き上げたばかりのように滑らかだった。


 窓から入った夕日が、廊下の奥まで届いている。木の手すりには埃がなく、壁に掛けた小さな絵の額も、変色していなかった。


 カルマが靴底を見た。


「……土、ついてるんだけどな」


「構いませんわ。入口で落とせますから」


 敷居の近くにある石へ指を触れる。細い光が床に走り、靴の裏についた泥を拾って溝へ運んだ。


「便利すぎるだろ」


「父は、長く住むことを考えていましたから」


 シュテルは少ししゃがみ、床の術式を眺める。


「これだけ細かい術式を、家じゅうに?」


「使う場所ごとに分けていますの。どこかが傷んでも、ほかがすぐ止まらないように」


「それなら点検もしやすそうですね」


「そうですわね。ですから、今夜は最低限の確認だけで十分です」


 そう答えた自分の口元が、少し緩んだ。


 シュテルが「最低限ですか」と念を押しかけたのが分かったからだ。


 彼女の言いたいことも、よく分かっている。


 灰触を抜けたばかりの身体で、書庫へ入り込むわけにはいかない。


 まずは台車を敷地の端へ寄せ、車輪に歯止めを置いた。カルマは入口と裏口、窓の鍵を確かめに行く。シュテルは水場の確認を申し出た。わたくしは玄関の術式を点検し、最後に台所へ向かった。


 戸棚には食器が並んでいる。


 銀の匙と陶器の皿。底に小さな欠けのある器まで、最後に片づけたときのままだった。


 食料棚だけは空だった。


 ここへ最後に滞在した際、持っていた食料を使い切り、残りは旅支度に回した。誰かが補充してくれる家ではない。


「食べ物はなさそうですね」


 シュテルが棚を開けた。


「えぇ。保存食を持ってきて正解でしたわ」


「台所は問題ありません。水路も流れていますし、湯沸かし器も動きそうです」


「それはよかったです。使う前に水を流して、少し確かめましょう」


 そこへカルマが戻ってきた。


「裏口も窓も異常なし。物置もきれいだった。……で、今夜は何を食う?」


「保存食がありますよ。干した野菜と肉、それからパン」


 シュテルが自分の収納袋を取り出した。


「スープくらいは作れそうです」


「手伝う。何やりゃいい?」


「じゃあ、鍋をお願いできますか」


 カルマは戸棚から鍋を出した。持ち上げてみて、首を傾げる。


「これも新品みてえだな」


「保護魔術のおかげですわ」


「便利なのは分かったけど、ほんとに贅沢な家だな」


 彼の言葉に、わたくしはまだ返事をしなかった。


 台所の窓から、三人で降ろした荷物が見えた。


 昔は、この窓の外に誰かが立っていることもなかった。自分で薪を割り、自分で水を汲み、必要なときだけ外へ出る。それが当たり前だった。


 今はカルマが鍋を持ち、シュテルが保存食を並べている。


 それが少し、不思議だった。


     ◇


 水は一度流し、新しく汲んだ分を煮沸してから使った。


 保護魔術が設備を傷ませないようにしても、水の中に何が混じっているかまで、確かめずに飲んでよい理由にはならない。シュテルが濾過器を点検し、わたくしも魔力の流れを見た。


 カルマは台所の窓を開けて換気し、火を起こした。


 夕食は、干した野菜と肉を煮たスープ、それからパンになった。調味料も収納袋に残っていたものだけだ。旅先の食事としては、むしろ十分だった。


「……うまいな」


 カルマがスープをひと口飲んで言った。


「よかったです。干した肉の塩気が強いかと思いましたけど」


「ちょうどいい。もう一杯あるか?」


「ありますよ。先にリゼリアの分を取ってからでいいですか?」


「もちろん」


 シュテルはわたくしの器を確かめ、鍋に残った分をよそった。


「ありがとうございます」


「今日は、あまり食べていなかったでしょう?」


「……気づいていらしたの?」


「霧の中では、みんなそうでしたから」


 カルマが頷く。


「飯を食ってる最中も、灯が消えねえか気にしてたもんな」


 わたくしは匙を置き、笑ってしまった。


「お二人とも同じでしたわよ」


「そりゃそうだ。あんな場所、誰だって気にする」


 そう言って、カルマは椅子の背へ身体を預けた。


 食事を終える頃には、窓の外が暗くなっていた。鍋と器を洗い、台所の火を落とす。誰かが食器を片づける間、もう一人は水場を確認する。そんな些細な手分けが、なぜか心地よい。


 カルマは居間へ戻ると、ようやく建物をゆっくり眺めた。


 壁には余計な金細工がない。窓は大きすぎず、外から中を覗きにくい造りだ。長い卓も、厚い絨毯も、見栄を張るためではなく、ここで暮らす人が困らないように選ばれている。


「……さすが国王を匿うための別荘だな。シンプルだけど、ずいぶん贅沢だ」


「そう見えますの?」


「見た目は地味だろ。なのに水も湯も使えて、家具は傷んでねえ。飯さえ持ち込めば、しばらく外へ出なくても暮らせる。普通の家なら、こうはいかねえよ」


 シュテルも窓際の保護術式を見た。


「維持の魔力を抑えているのも、すごいと思います。動いている場所が多いのに、どれも必要な分しか使っていないみたいです」


「そういう考え方をしていたのです、父は」


 わたくしは答えた。


「王都から逃げてきた陛下に、豪華な調度品を見せても意味はありません。安全に眠れて、湯が使えて、外へ出ずに暮らせる。その方が大切でしょう?」


「……なるほどな」


 カルマが天井を見上げた。


「贅沢って、こういうことか」


「そうかもしれませんわね」


 彼は椅子を押して立ち上がる。


「で、その贅沢な風呂はもう使えるのか?」


「えぇ。配管も確認しましたし、湯の準備もできますわ」


「なら、俺から入っていいか。あの霧の中を歩いたまんまの気分なんだよ」


「もちろんです」


 シュテルが笑う。


「私たちは食後のお茶を片づけておきますから、どうぞ」


「助かる」


 カルマは着替えを持って浴室へ向かった。


     ◇


 浴室には銅管の湯沸かし器があり、大きな浴槽へ湯が引かれるようになっていた。


 道具を使う場所にだけ術式が反応する仕組みなので、人がいない間ずっと湯を沸かしているわけではない。わたくしが動作を確認すると、湯はすぐに温まった。


 カルマは浴室の中で大きく息を吐き、やがてさっぱりした顔で出てきた。


「……生き返った。こりゃいいな」


「ずいぶん気に入ったみたいですね」


 シュテルが声を掛ける。


「灰触を抜けたあとじゃ、なおさらだろ」


「それは分かります」


 次にシュテルが入り、最後にわたくしが使った。


 ひとりで浴槽に浸かると、身体のあちこちが疲れていたことにようやく気づく。湯に肩を沈め、息を吐いた。


 灰触の中では、足元も、怪物の動きも、霊晶灯の目盛りも気にしなければならなかった。夜になっても、誰かが近づく気配を探していた。


 今は浴室の戸を閉め、何も見張らずにいてよい。


 目を閉じても、外の灯が消える心配をする必要はない。


 クロイツハーフェンへ向かう前、この家で何度も湯を使った。傷んだ身体を休め、また書類を開き、次に向かう先を決める。三年間、そんな夜を繰り返していた。


 当時は、それを苦しいことだと思わないようにしていたのかもしれない。


 今夜は違う。


 廊下の向こうに二人がいる。どちらも無事に、ここまでたどり着いた。


 それだけで、肩の力が抜けた。


     ◇


 寝室は二階に三つ用意した。


 カルマは階段に近い部屋、シュテルはその隣。わたくしは昔から使っている奥の部屋へ戻ることにした。寝具の布には傷みも埃もなく、窓の鍵もきちんと閉まる。


 廊下へ出ると、カルマが手すりに寄りかかっていた。


「鍵は一通り見たぞ。外の警戒も問題なし」


「ありがとうございます。ここなら見張りを立てなくても大丈夫ですわ」


「分かってるんだけどな。寝る前に見とかねえと落ち着かねえ」


「……わたくしも同じです」


 シュテルが隣の戸を開けて顔を出した。


「私も、さっき窓を確認しました」


 三人で顔を見合わせる。


「全員、灰触の後遺症みてえだな」


「身体に異常があるわけではありませんよ」


 シュテルが訂正する。


「分かってる。言い方の問題だ」


 カルマの返しに、わたくしは声を立てて笑ってしまった。


 別荘の廊下に、こんな声が響くのは久しぶりだった。


「それでは、おやすみなさいませ」


「おやすみなさい、リゼリア」


「何かあったら呼べよ。……いや、何もねえか」


「何かあれば呼びますわ」


 カルマが部屋へ入り、続いてシュテルの戸も閉じた。


 わたくしは自分の部屋へ戻った。


 机の上には、小さな木箱がある。


 父が残したものだ。ここに戻るたび、いつか整理しようと思いながら、ほかの資料を優先してきた。最後に出発した朝も、箱はこの場所に置いたままだった。


 今なら、開けようと思えば開けられる。


 その奥の書庫にも、三年間にわたって集めた資料がある。各地で得た証言、王国の施策に関する記録、父が残した《白冠》の設計資料。クロイツハーフェンへ向かってから手に入れた証拠は、《ローズ・リスト》へ原本を紐づけて保管してきた。


 それらを並べれば、今まで見えなかったことが分かるかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、わたくしは書庫の方へ足を向けかけた。


「……いけませんわね」


 部屋の中で、ひとり呟く。


 ここへ着いたばかりだ。灰触を抜けた疲れも残っている。今から資料を広げたところで、落ち着いて読めるとは思えない。


 それでも、扉を開けたくなる。


 父の名前が刻まれた書類も、わたくしが各地で書き留めたものも、ずっとここで待っていたのだから。


 だが、今日は休むと決めた。


 シュテルが何度も確かめてくれたことを、わたくし自身が無駄にしてはならない。


 机の木箱には触れず、寝台へ向かった。


 ふと、階下から小さな音が聞こえた。誰かが水差しを置いたのだろうか。すぐに静かになる。


 以前なら、その音を聞くだけで身構えていた。ここで暮らしていた頃、わたくしがいない場所に誰かがいることはなかったからだ。


 今は、誰なのか分かる。


 カルマか、シュテル。


 そのどちらかだ。


 わたくしは窓の掛け金を確かめ、灯りを落とした。


 建物を守る術式は、いつもどおり静かに働いている。食料は持参したものだけ。それでも湯は使え、暖かい寝床があり、今夜は三人で休める。


 国王を匿うために造られたこの家が、今はわたくしたちの居場所になっていた。


 明日になれば、書庫を開こう。


 父の資料と、わたくしの集めた記録と、《ローズ・リスト》を照らし合わせる。そのために帰ってきたのだ。


 けれど今夜だけは、何も調べない。


 わたくしは枕へ頬を寄せ、目を閉じた。


 外には、灰触の霧のない森が広がっている。


 もう灯を見張らなくていいのだと思ったところで、ようやく眠りが訪れた。

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