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第72話 灯を離れるな



 馬車の車輪が、乾いた石を踏んだ。


 前を行く馬の耳がぴくりと動く。わたくしは手綱を握るカルマの横から街道を見渡した。左右に続いていた畑はいつしか途切れ、草の短い斜面と、風に曲がった木々が目立つようになっている。


 今朝の宿を出てから、もう三時間ほど街道を進んでいた。


 馬車に乗れば足は楽になる。けれど、このあたりは小石が多く、車体の揺れも強い。それに、荷を積んだ馬にばかり働かせるのも気が引けた。交代で御者を務め、残る二人は歩いて進んでいる。


「次の分かれ道、右だよな?」


 カルマが尋ねた。


「えぇ。左は昔の採石場ですわ。川を越えられません」


「地図には、そっちにも道があるぞ」


「古い道ですもの。今は途中で崩れております」


「本当に詳しいな」


 わたくしは答える代わりに、道の先を見た。


 子供の頃、父と何度か通った道だった。最後に訪れてから三年が経つ。その間に変わった場所もあるだろうから、記憶だけを頼りにはできない。分かれ道の標柱に近づき、残っている刻印を確かめた。


「こちらで間違いありませんわ」


 シュテルがわたくしの隣へ歩み寄った。


「監視所までは、あとどのくらいですか」


「今日のうちには着けるはずです。霧に入るのは明日。監視所で一泊いたしましょう」


「助かる。さすがに暗くなってから、あの霧へ入る気はねぇ」


 カルマが馬の首を撫でた。


 聖都を出る前、霊晶灯を装着できる台座と、手押し用の引き手が付いた小型馬車を選んである。監視所で馬を預け、車体はそのまま護灯台車として使うつもりだった。霧の入口で荷を別の台車へ移す必要はない。


 ただ、その分だけ車輪や固定具には気を配らなければならない。カルマは宿を発つ前にも、車軸の留め金を一つずつ確かめていた。


「それで、さっきの続きなんですが」


 シュテルが懐から手帳を出した。


「聖都の送出記録について、もう一度整理させてください。私、少し気になることがあって」


「何でしょう?」


「地下の寝台で回収した魔力は、補完導路へ送られていました。けれど、送達控えにあるのは照合番号だけでしたよね」


「えぇ。送り先の施設名は記されていませんでしたわ」


「もし王国が一か所で全部受け取っていたなら、ほかの施設からの記録も、最後は同じ番号に集まるんじゃないでしょうか」


 わたくしは足を緩めた。


 単なる思いつきではない。シュテルが見ているのは、個々の寝台ではなく、その先の経路だ。


「あり得ますわ。けれど、どこかで中継している可能性もあります。途中で番号を付け直されれば、今ある記録だけでは分かりません」


「なら、番号が変わる場所を探すのか」


 カルマが手綱を持ったまま言った。


「変える前と後、両方の記録が残ってる場所なら、つながりが見えるだろ」


「そうですね。聖都には送出側の記録がありました。王立名録院には照合の記録があります。あとは、どこへ届けたかを管理する記録が必要です」


「その通りですわ」


 わたくしは二人の顔を見た。


 聖都を離れても調査が止まったわけではない。むしろ、あの地下を見ていない者に説明するより、三人で話している方がずっと早かった。


「港で見つけた《無名簿》にも、名前が番号へ置き換わった記録がありました。西部第四霊脈区画で消えた二百十三名のことも」


「聖都の帳票と同じ扱いだったんですね」


「えぇ。ただし、同じ人たちが聖都へ運ばれたとは限りませんわ。似ているのは人の扱い方です。公名を取り除き、照合番号だけで処理する仕組み」


 シュテルは手帳に短く書き足した。


「公名がなくなれば、後から家族が捜そうとしても、番号と本人を結びつけるのが難しくなる……」


「それもあります。しかも《名核》まで削れば、本人が自分の名を思い出せなくなるおそれがある。聖都のサビーネさんも、あのような状態でしたでしょう」


 馬車の車輪が小さな窪みを越えた。


 カルマは手綱を引き、馬の歩調を落とす。


「魔力を取るだけなら、霊脈からでも取れる。なのに、わざわざ人を使ってるわけだ」


「必要な魔力が足りないというのが、教義院の説明でしたね」


「それだけじゃねぇ気がするんだよな」


「どういうことですの?」


「魔力が欲しいだけなら、名前まで消す必要あるか? 名前を消して都合がいいのは、誰が使われたか知られたくねぇ奴だろ」


 わたくしは唇を結んだ。


 父が異議を申し立てたのも、その部分だった。


「《名核》は、単なる魔力の貯蔵庫ではありません。名前や記憶、その人をその人として保つものと結びついています。そこから魔力を取り出せば、普通の霊晶を使うのとは違う影響が出る。父はその危険を知っていたはずですわ」


「だから三年前に、本人の同意と記録の扱いを見直せって言ったのか」


「えぇ。少なくとも、残っていた異議申立てにはそう書かれていました」


 カルマは前を見たまま、しばらく黙った。


「白冠ってのは、王国全体を守る結界だろ」


「二重の広域結界です。灰触を完全に消すものではありませんけれど、人が暮らせる範囲を守っています」


「じゃあ、本体を置く場所は一つとは限らねぇな」


「わたくしも、そう考えております」


 白冠の設計に携わったノワールヴェイン家の者として、その構造を一部は知っている。だが、父の失脚後にどれほど改変されたかまでは、わたくしにも分からない。


「広い結界を維持するなら、各地の霊脈へ魔力を分配する必要があります。集約する装置が一つあったとしても、そこから先に中継設備があるでしょう。逆に、何か所かで分けて受け取っている可能性も捨てられません」


「なら、まず送出先の候補を絞る。王都か、主要な霊脈の近くか、どっちもか」


 シュテルが指を折る。


「それと、誰が指示したかですね。三年前に異議を止めた王国保全命令と、今回の受領継続通知。教義院の同じ代行印が使われたことは分かりましたけど、命令を出した人物までは分かっていません」


「教会の連中だけを捕まえても終わらない、ってわけか」


「えぇ。設計した人、接続を承認した人、日々動かしている人。別々かもしれませんわ」


 カルマが片方の眉を上げた。


「で、一番上は国王か?」


「そうだとしても、証拠が要ります」


 わたくしは即答した。


 王国に父を奪われた事実は変わらない。けれど、何もかも国王一人が命じたと決めつければ、ほかに責任を負うべき者がいたとき見落としてしまう。


「陛下が知っていたのか。承認したのか。別の者が王国の名を使っていたのか。そこを確かめます」


「白鳥も、そのうちの誰かに雇われたのかもしれませんね」


「あるいは自分の目的で動いていたか。あいつ、説明なんかしてくれそうにねぇしな」


 カルマが苦い顔をした。


 審問会の襲撃で《白鳥》は書類を焼こうとし、王国保全令を掲げた者を連れていた。だが、その命令書が本物なのかも分からない。


 分からないことが多すぎる。


 ただ、今は闇雲に探す必要もなかった。


「別荘へ着いたら、父の残した古い導路図と、この三年間に集めた資料を照らし合わせますわ。現在の設備がいつ増えたのか分かれば、使われている霊脈も絞れます」


「《ローズ・リスト》も、ですね」


「えぇ。記録を突き合わせるには、あれが必要です」


「よし。やることは決まったな」


 カルマは馬の首を撫でた。


「で、その前にまず霧を越える、と」


「そういうことですわ」


 わたくしは山の方へ目を向けた。


 稜線の低いところに、白とも黒ともつかない薄い帯がかかっている。朝から見えていた雲とは違い、風が吹いても形が大きく変わらない。


 灰触の霧だ。


     ◇


 午後も歩き続け、日が傾き始めた頃、石造りの監視所が見えた。


 門の左右に二基の霊晶灯。屋根の上には風向きを見る旗が立ち、厩から馬のいななきが聞こえる。建物の脇には、監視員や旅人が使う休憩所があった。


 カルマが馬車を検査台へ寄せると、当番の男が出てきた。


「霧を越えるのか?」


「えぇ。明日の朝に入りたいと思っています」


「だったら今夜は休んでいけ。日が落ちてから灯を持ち出すのは勧めない」


「そのつもりですわ。休憩所は使えますか」


「ああ。空いてる。厩も使っていい」


 男は馬車の荷台を覗き込み、中央の金具に目を留めた。


「護灯具の台座があるな。明日は灯と霊晶槽を付けられる。ただし、車軸と灯具の固定はこっちで確かめる」


「お願いします」


 カルマが台座を軽く叩いた。


「車体はこのままでいいんだな」


「使える。ここの旧道は幅が狭いから、でかい荷馬車だと通れないが、こいつなら大丈夫だ。馬は霧の手前で預かるよ」


 男は予約票を一枚取り出し、馬の頭数と車体の特徴を書き込んだ。


「今夜は厩の奥へ馬を入れて、荷物は休憩所へ運んでくれ。明日の朝、車体を軽くしてから点検する」


「分かった。じゃ、シュテル。そっちの寝具を頼む」


「はい」


 わたくしたちはまず馬を厩へ連れていき、水と飼葉を用意してもらった。カルマが手綱を預けたあと、ようやく大きく伸びをする。


「やっと座れるな」


「まだ荷卸しがございますわよ」


「……そうだった」


 シュテルが笑った。


 休憩所には長椅子と簡素な寝台があり、小さな暖炉には火が入っていた。窓の外に監視所の灯が見える。霧の入口へ続く柵は閉じられ、当番の騎士がその先を巡回していた。


 いまは、あの柵の外へ出なくていい。


 そう思うと、わたくしも少し肩の力が抜けた。


 荷台に残っている荷物を休憩所へ運び込む。水、工具、衣類、寝具、保存食。霧を越えてからも必要になるものばかりで、いつの間にか箱と鞄が増えていた。


「これ、どっちの荷物だ?」


 カルマが見覚えのない布包みを持ち上げた。


「わたくしのものではありませんわ」


「私も違います」


「じゃあ、誰が積んだんだよ」


 包みは小さく、手に持つと妙に軽かった。縫い目の端に青い糸が一本だけ通されている。


 シュテルが、はっとしたように言った。


「……ゼェレ?」


 三人で顔を見合わせた。


 あの人の工房は、聖都で跡形もなく消えていた。それでも、こんな包みをいつの間に馬車へ入れたのかは見当がつかない。


 紐を解くと、掌に載るほどの布袋が三つと、二枚の紙が入っていた。


 最初の紙には、少し跳ねた文字でこう書かれている。


『三人とも、荷物が多いねぇ。おまけにこれから霧の中を歩くんでしょ? 収納袋を三つ置いてくよ。一人一つね。見た目より入るし、荷台三つ分くらいは平気で入れられるから♪


 使い方は簡単。口を開いて、しまいたいものを入れるだけ。出すときは欲しいものを思い浮かべて、袋に手を入れてみて。生き物は入れちゃ駄目。あと、すぐ使うものをしまって慌てるのはなしね。


 そうそう。大事なものはカルマに預けない方がいいよ。どこかでなくされても困るでしょ?♪ ――ゼェレ』


「……おい。最後の一行、何だよ」


 カルマが紙を取り上げた。


「俺が何をなくしたって?」


「まだ何もなくしてないって書いてありますわよ」


「そこじゃねぇ。なくす前提で言ってんだよ、あいつ!」


 シュテルが口元を押さえる。


「でも、注意しておいた方がいいのは確かですね」


「シュテルまで乗るなよ」


 わたくしも笑いを堪えきれなかった。


 どうやら、失踪したあとまでカルマをからかうつもりらしい。別れの言葉は何もなかったくせに、こういう悪口だけは忘れないのだから、実にあの人らしい。


「まったく……袋は便利そうだけどな」


 カルマが一枚を手に取った。


「荷台三つ分って、本当か?」


「試してみましょう」


 シュテルが自分の寝具を畳み、袋の口へ触れさせた。普通なら到底入らない大きさなのに、布がふわりとたわみ、寝具が中へ収まってしまう。


「……入りました」


「軽くなってるか?」


 彼女が袋を持ち上げる。


「ええ。見た目どおりの重さです」


「取り出す方も確かめておきましょう」


 シュテルが袋に手を入れると、畳んだ寝具が元の形で出てきた。紐の結び目も、折り目も変わらない。


 それを見届けてから、衣類と食料を分けて詰め始めた。わたくしは自分の鞄と保存食の一部を、シュテルは衣類と医療道具の予備を、カルマは道具や寝具を整理する。彼には武器の手入れ用品まで入れたくなるらしかったが、霧の中ですぐ必要になるものは手元に残すよう、わたくしから頼んだ。


「おまえまで俺の物忘れを疑ってないよな?」


「まさか。取り出すのに時間が掛かると困るだけですわ」


「……本当か?」


「もちろんです」


 シュテルがまた笑った。


 袋の口は小さいのに、荷台の上にあった箱や寝具が次々と消えていく。三人で使っても、まだ余裕があった。


「荷台三つ分も入るなら、今ある荷物くらい軽いものですわね」


「三つ合わせてじゃなくて、一つでそれだけって話だろ?」


「そう書いてありますね」


 カルマが袋を眺めた。


「ほんっと、どんな錬金術なんだよ……」


 そのとき、シュテルが二枚目の紙を広げた。


「リゼリア。こちらは、あなた宛てのようです」


 受け取ると、紙の上に〈黒薔薇へ〉と書かれていた。


『ついでに教えておくけど、《ローズ・リスト》は書類を複写するだけじゃないよ。原本を紐づければ、紙そのものを帳簿に預けられる。取り出せば、入れたときのまま戻るはず。最初は自分で書いた紙で試してね。写した内容が本当かどうかまでは、帳簿も保証してくれないから。――ゼェレ』


 わたくしは思わず二度読みした。


「……それも、先に教えてくださればよかったのに」


「最後まで驚かせたいんだろ」


 カルマは、まだ自分の袋を不服そうに見つめている。


「いえ。こんな機能、ゼェレはどうやって見つけたのでしょう」


「聞きに行こうにも、工房ごと消えちまったからな」


 そう言われると、返す言葉がなかった。


 わたくしは休憩所の卓を片づけ、《ローズ・リスト》を開いた。まず自分で書いた道順の覚え書きを一枚取り出す。原本で試す前に、なくしても困らない紙にした。


 頁へ重ね、少しずつ魔力を流す。


 文字が帳簿の表面に浮かび、重ねた白紙へ同じ筆跡が移った。元の紙は、まだ手の中にある。


「写りましたね」


 シュテルが二枚を比べる。


「えぇ。では、こちらも」


 覚え書きの端を頁へ触れさせると、赤い細線が紙の輪郭をなぞった。紙が折れも燃えもせず、帳簿の頁へゆっくり沈んでいく。


「……消えたぞ」


「預けたのですわ。戻せるか、今確かめます」


 頁に残った小さな印へ指を重ねると、さきほどの紙が端から浮き上がった。引き出せば、折れ目も、書いたときについたインクの滲みも、そのままだ。


「これなら原本を持ち歩かなくて済みますね」


「えぇ。預けたまま内容を見たり、複写したりもできるようですわ」


 わたくしは、聖都から持参した照合用の写しを確認した。


 どこで入手したか、作成日がいつか。それを分けて登録し、《ローズ・リスト》に紐づけていく。自分で持っていた原本も同じように預けた。騎士団が封緘して聖都に残した押収原本は、もちろんここにはない。勝手に持ち出せるものではないし、帳簿に複写があるからといって原本の扱いが変わるわけでもない。


 登録を終えると、手元の書類箱はほとんど空になった。


「こいつは助かるな」


 カルマが箱を閉じる。


「書類を出すたび、こっちで箱を抱える必要もない」


「えぇ。別荘でも調べやすくなりますわ」


 夜の食事は、荷卸しを終えてから三人で取った。監視所が用意してくれた温かい汁物に、持参した保存食を足す。火のそばで袋の縫い目を眺めていたシュテルが、ぽつりと言った。


「ゼェレ、私たちがここを通ることまで知っていたんでしょうか」


「馬車の台座を見れば、灰触へ向かうと分かったかもしれませんわ。でも、どうやって荷に入れたのかは……」


「ほんと、何者なんだろうな、あいつ」


 カルマが袋を裏返してみる。


 答えられる者はいなかった。


 わたくしは、しまい直した二枚の手紙を思い出した。最後まで姿を見せず、それでも役に立つものを残していった。あの人のことを理解できた気はしないけれど、少なくとも今日は助けられた。


 夜が深まると、休憩所の窓の外で監視員の足音がした。霧の入口を守る灯が二つ、変わらず点っている。


 あの灯の向こうへ入るのは、明日の朝だ。


     ◇


 翌朝、監視所の男が車体の点検に来た。


 馬は昨夜から厩で休ませてある。貸出係は馬具を外した車体へ手押し用の引き手を起こし、中央の台座に護灯用の霊晶灯を据えた。灯具の下に主槽と補助槽を固定し、配管を確かめてから点灯する。


 青白い光が広がり、台車の縁をかすかな膜が包んだ。


「これで護灯台車になる。馬車の車体はそのままだ。霧から戻ったら灯具を返して、馬を繋げばいい」


「荷物を載せ直さなくていいのは助かるな」


 カルマが引き手を握り、ゆっくり車体を押した。昨夜のうちに収納袋へ荷をまとめてあるので、灯具を載せても扱いやすい。水筒、雨具、車輪の修理道具、予備の霊晶だけは、すぐ使える場所へ固定していた。


「ここから先は灯の届く範囲を離れるな。外は朝霧とは別物だ」


 男が灯具の根元を叩いた。


「灯りが消えたら、どうなる?」


 カルマが尋ねる。


「霧が薄ければ戻れるかもしれん。濃いところじゃ、それを試す余裕もないだろうな」


「脅しじゃねぇんだな」


「脅しで済むなら、もっと楽な仕事をしてるよ」


 男は台車の下に付いた小窓を示した。半円形の目盛りが青く光っている。


「灯りが見えていても、防護は弱ることがある。針が赤線に近づいたら止まれ。霊晶を確かめて、戻れるなら戻る」


「交換するときは?」


「必ず補助槽を先に繋ぐ。外で主槽を抜いて灯を切らしたら、その間に霧が入る」


 カルマは手順を見せてもらい、自分でも一度繰り返した。補助槽へ切り替えてから主槽の留め金を外し、戻して目盛りが落ち着くのを確かめる。シュテルも隣で、手の動きを見ていた。


「何度も確かめるんですね」


「一度間違えりゃ終わりだからね」


 男は淡々と答えた。


 霊晶灯の光そのものが灰触を消すわけではない。蓄えた魔力を照明と防護術式へ分け、灯の周囲だけ、魔力の流れを安定させる。広域の《白冠》に比べれば小さな仕組みだが、外縁の薄い場所を越えるには欠かせない。


 監視員は柵の脇に立てかけてあった細い棒を取り上げた。先端には、小さな霊晶片が紐で結ばれている。


「霧に触れただけで人が崩れる、なんてことはない。まず魔力が抜ける。じわじわとな。だから、気づいたときには手遅れになりやすい」


 男が棒を柵の外へ突き出す。灰色の靄に入った霊晶は、しばらく変わらなかった。ところが、その表面に刻まれた青い目盛りだけが、ゆっくり短くなっていく。


「分かるか。外側は何ともなく見えるだろ」


「中の魔力だけ減ってるのか」


「そういうことだ。人間なら、身体から魔力を引っ張られるように感じる。すぐに記憶をなくすわけじゃないが、長く浴びれば話は別だ。休めるうちに灯の中へ戻れ」


 引き戻された霊晶は、形も色も変わらなかった。けれど目盛りは元へ戻らない。


 わたくしは、その小さな減り方を見つめた。長い年月、灰触にさらされた石や樹木が形を失うことは知っている。しかし、今見せられたのはそれとは違う。何も起きていないように見えるうちから、確実に奪われているものがある。


「霧だけを気にしていればいい、ってわけでもないんですよね」


 シュテルが尋ねると、男は顔を険しくした。


「ああ。森の中には生き物がいる。声で人を呼ぶ鳥、六本脚の獣、それから……フォーム・ディヴァウラーだ」


「フォーム・ディヴァウラー?」


 カルマが聞き返した。


「見りゃ分かる。小さな塊から人の手が何本も生えて、ばたばた走る。目は見えねぇ。魔力を感じて寄ってくるんだ」


「霊晶灯にも?」


「寄ってくることはある。だが、ちゃんとした防護の内側なら安全だ。灯具から離れるな。あいつに頭を覆われたら、振りほどくまでに相当苦労する」


「撃ってもいいのか」


 カルマが腰の《赤鐘》へ目を落とす。


「撃てるなら撃て。やつは痛みに弱い。弾が当たれば逃げることも多い。霧を越える連中が銃を持ちたがるのは、そのためだ。ただし、追い回すなよ。防護の外まで追えば、そっちが危ない」


 わたくしたちは顔を見合わせた。わたくしの魔札も、シュテルの祈祷も、外に魔力を放てば気づかれるかもしれない。敵を倒すことより、見つからずに進む方がよいのだろう。


「ほかの獣も、触られなければ大丈夫ですか」


「六本脚のやつは特に近づくな。触られた相手の顔が分からなくなる、なんて話がある。頭のない人影を見ても、わざわざ倒しに行くなよ。死に際に、嫌なものを吐く」


 カルマが眉をひそめた。


「最後のは何だ、嫌なものって」


「聞かなきゃよかったと思うものさ。俺は見張りをするだけで十分だ」


 男は棒を片づけ、護灯台車の主槽と補助槽をもう一度確かめた。


「途中に避難所がある。日暮れまでにそこへ着け。もし霧が濃くなったら無理せず戻ること。人の声が聞こえても、灯から出て確かめるな」


「分かりました。ありがとうございます」


 わたくしは一礼し、三人で柵の外へ進んだ。


     ◇


 森に入ってまもなく、いつもの鳥の声が聞こえなくなった。


 灰触の霧は、遠くから見ると雨雲の影に似ている。ところが内側へ踏み込むと、二歩先の枝でさえ灰色に紛れ、道の幅が分からなくなる。


 霊晶灯を中心に、薄い光の膜が台車を包んでいた。


「ちょっと待て。右に石がある」


 カルマが車体を止める。シュテルは灯具の目盛りを確認し、わたくしは足元と道の両脇を見渡した。危険がなければ、三人で短い距離を進む。それを繰り返すことにした。


「この先、道が左へ曲がりますわ。古い轍が残っています」


「先まで見えるか?」


「いいえ。ですから、そこまでで一度止まりましょう」


 カルマが頷き、ゆっくり引き手を押した。


 子供の頃、父とこの道を通ったことがある。当時は馬車の窓から霊晶灯の位置を数えさせられた。帰り道を覚えておくためだと言われていたが、こうして歩くと、道そのものの姿まで変わっていることが分かる。


 左手に折れた道標が現れた。かつて町の名が刻まれていたはずの石は、長くさらされてきたのか、文字の溝が半分ほど失われている。


「削られた跡がありませんね」


 シュテルが言った。


「えぇ。こうして時間をかけて、土地にも痕が残るのですわ」


「人に触れたら、いきなりこうなるわけじゃねぇんだよな」


「監視員の方が言ったとおりです。まず魔力が吸われる感覚があるはずですわ。深く侵されるのは、長い時間をかけた場合でしょう」


 カルマはそれを聞いて、少しだけ表情を緩めた。


「なら、万が一触れても、慌てて灯から飛び出すなってことだな」


「えぇ。何より、防護の中へ戻るのが先です」


 道標の上で、小石が跳ねた。


 三人とも動きを止める。


 灰色の向こうに、低い影があった。細長い胴から六本の脚が伸びている。犬とも鹿ともつかない獣は、木の根元を探るように首を動かし、こちらへは近づいてこなかった。


 カルマの指が《赤鐘》の把手に触れる。


「撃ちますか?」


 シュテルが囁いた。


「いいえ。まだこちらを見ておりません」


 わたくしも声を抑えた。


 獣は、しばらくして霧の奥へ消えた。六本の脚が石を踏む音が遠のくまで、わたくしたちは台車を動かさなかった。


「道を塞がれたら、引き返すしかねぇな」


「無理をして触れられるより、よほどましですわ」


 カルマは頷き、車輪の先をもう一度確かめた。


     ◇


 しばらく進むと、右手の木立から人の声が聞こえた。


「……こっちへ。助けて」


 女の声だった。


 シュテルが顔を上げる。わたくしも声のした方を見たが、木の影に人の姿はない。


「今、誰か……」


「待て」


 カルマが引き手から片手を離し、わたくしたちへ動くなと示した。


「監視員が言ってただろ。声を真似る鳥がいるって」


 もう一度、同じ声がした。


「……こっちへ。助けて」


 間の取り方まで同じだった。


 霧の向こうで枝が揺れ、小さな黒い鳥が一羽、逆さに近い姿勢で止まっていた。首が不自然なほど長く見える。


「……こっちへ。助けて」


 今度は鳥の嘴が開くのが見えた。


 シュテルが唇を結ぶ。


「人がいるのかと思いました」


「本当に人がいる可能性も捨てたくありません。でも、声だけで外へ出るのは危険ですわ」


「分かっています。灯からは離れません」


 鳥はこちらを見送るように、しばらく同じ言葉を繰り返した。


 わたくしたちは返事をせず、霧の中を進んだ。


 しばらくして、今度は離れた岩の上に、人が立っているような影が浮かんだ。


 首から上がない。


 腕はだらりと垂れ、足元には霧が薄く溜まっていた。追いかけてくる様子はない。カルマが少しだけ歩幅を変え、相手から距離を取る道を選ぶ。


 わたくしは魔札を出さなかった。


 正体を確かめるためだけに、戦う必要はない。


 あの影が見えなくなるまで、誰も余計なことを言わなかった。


     ◇


 昼を過ぎると、霧が濃くなった。


 霊晶灯の防護目盛りはまだ青い。わたくしたちは立ち止まる回数を増やし、先の地面を見てから一歩ずつ進んだ。灰触の中では、速さよりも確実に歩ける道を選ぶことが大切だった。


 道の左に、古い護灯台車が傾いていた。


 車輪の一つが溝に落ち、中央の灯具は抜かれている。外套が荷台に掛かっていたが、古く朽ちて灰を被っているだけで、すぐに崩れるような様子ではない。


「持ち主は?」


 シュテルが小声で尋ねる。


「分かりませんわ。別の台車に乗せてもらったのかもしれません」


 カルマがその車体を眺めた。


「どっちにしろ、寄らねぇ方がいい。妙に静かだ」


 そのときだった。


 古い荷台の下で、何かが動いた。


 最初は落ちた布が風で跳ねたのかと思った。けれど、そこから出てきたものには布のような柔らかさがない。


 濡れた毬藻のような黒い塊。その周囲から、人間の手に似たものが七本、生えている。手のひらで地面を叩き、指を折り曲げ、蜘蛛のように慌ただしく歩いていた。


「……フォーム・ディヴァウラー」


 わたくしが呟くと、カルマがゆっくり銃を抜いた。


 塊には目がなかった。顔らしい部分も見当たらない。それなのに、わたくしたちの方へ向き直ったのが分かる。手の動きが止まり、身体全体がこちらを探るように揺れたのだ。


「魔力を感じてるんですね」


 シュテルが小声で言った。


「えぇ。わたくしたちも、霊晶灯も」


「撃つか?」


「まだです。防護の中にいれば安全だと教わりましたわ」


 フォーム・ディヴァウラーはじたばたと近づいてきた。


 灯の膜まで残り数歩のところで、指の動きが鈍くなる。一本の手が外側から膜を撫でたが、そこを越えることはできない。


 わたくしたちは台車を動かさなかった。射線を確かめるカルマの横で、シュテルが主槽の目盛りを読んでいる。


「青のままです」


「なら、ゆっくり後退する。追ってきても、外には出るなよ」


 カルマが引き手を少し戻した。


 フォーム・ディヴァウラーは手の向きを変え、膜に沿って移動する。霧の中から、もう一つ、小さな黒い塊が現れた。今度は四本の手で、地面を忙しなく叩いている。


「増えましたね……」


「灯を持ってる以上、見つかることはあるんだろうな」


 だからといって、ここで霊晶灯を消すわけにはいかない。


 カルマは銃口を下げ、二匹の位置を見ながら足を動かした。わたくしたちも台車に寄り添うように進路を変える。二つの影が膜の外側を追ってきたが、少し歩くと、やがて離れた。


「……行ったか」


「まだ分かりません。道の先も確認しましょう」


 わたくしは小さく息を吐いた。


 もし灯具がなければ、あれを振り払うまでにどれほどの魔力を使わされただろう。頭を覆われれば、平衡感覚も身体の位置も分からなくなり、時間をかけて《名核》や自分の姿の感覚まで奪われると聞く。


 少し霧に触れただけでそうなるわけではない。だが、あの手に捕まれば、霧の中で身を守ることすら難しくなる。


 それを考えると、銃を使えるカルマがいることが心強かった。


     ◇


 古い台車を回り込んだところで、地面が小さく沈んだ。


 前の車輪が踏んだ石は動かなかった。けれど、後輪が同じ場所を通った瞬間、石の下の土が崩れ、車体の右側が沈んだ。


「止まれ!」


 カルマが引き手を引く。


 車体は止まったが、荷台の中央に立つ灯具の柱がわずかに傾いた。固定具の下から、乾いた音がした。


「留め金だ。下側が外れかけてる!」


 わたくしは《ブラッドアルカナ》を二枚呼び出し、柱の根元と車体の間へ差し込んだ。魔札で無理に持ち上げず、これ以上傾かないように支える。


 防護の輪が右側だけ少し歪んだ。


「リゼリア、手を引いて!」


 シュテルが叫ぶ。


 札を操るために伸ばしていたわたくしの右手が、膜の薄くなった縁へ触れていた。


 痛みはない。冷たくもない。


 ただ、身体の奥から魔力を細く吸い出される感覚があった。


 小さな魔術を使い続けているときに似ている。けれど、自分の意思で止められない。意識を向けると、手首から肩へ向けて、ゆっくり力が抜けていくように感じられた。


 わたくしは腕を引き、灯の内側へ戻した。


「大丈夫ですわ。霧に少し触れただけです」


「魔力は?」


「少し減りました。意識も記憶も、普段どおりです」


 シュテルが頷く。彼女はすぐに《星盾》を構えたが、前へ飛び出さず、わたくしと灯具の間を守るように立った。


「カルマ、補助槽を開きます!」


「頼む。灯は絶対切らすな」


 シュテルが目盛りを確認し、教わった手順で補助槽へ切り替える。小窓の針が震え、赤線の手前で止まった。


 カルマは片膝をついて工具袋を開いた。外れた留め金を戻し、曲がった固定具へ補強の針金を通していく。


 わたくしは柱の支えを保ちながら、霧の向こうを見た。


 さきほど離れたはずのフォーム・ディヴァウラーが、戻ってきていた。


 七本の手をばたばたと動かし、膜の右側を探る。傾きで防護が薄くなったところを見つけたのか、一本の手がわずかに内側へ入ってきた。


「右にいます!」


 わたくしが声を上げる。


「見えてる!」


 カルマは工具を置き、《赤鐘》を抜いた。灯具を傷つけないよう、銃口を外へ向ける。フォーム・ディヴァウラーの手と、わたくしたちとの間に人影がないことを確認してから、一発。


 銃声が霧の中へ鋭く響いた。


 弾はフォーム・ディヴァウラーの外側の手を捉えた。


 次の瞬間、塊が激しく跳ね上がった。七本の手がばらばらの方向へ伸び、地面を叩く。まるで身体全体で痛がっているようだった。


「……効いた!」


 シュテルが声を上げる。


 フォーム・ディヴァウラーは一度こちらへ向き直ったが、すぐに身を翻した。手を引きずるように走り、霧の中へ消えていく。倒したわけではない。逃げたのだ。


「追わないでくださいね」


 わたくしが言うと、カルマは銃を下げた。


「追わねぇよ。あいつを倒すために来たんじゃない」


 そのまま工具に戻り、固定具を締め直す。


「リゼリア、その角度で押さえててくれ」


「はい」


「シュテル、針は?」


「青へ戻っています。補助槽も十分です」


 カルマが留め金を引っ張り、二度揺らして確かめた。


「よし。これでいい」


 わたくしは二枚の魔札をゆっくり回収した。霊晶灯がまっすぐ立ち、薄い光の輪も元どおりに広がる。


 シュテルはすぐに盾を消さなかった。まわりに別のフォーム・ディヴァウラーがいないことを確認してから、祈祷を解いた。


「手を見せてください」


 彼女がわたくしの右手に目を落とす。


「傷はありませんわ」


「分かっています。でも、念のため」


 手袋を外す。肌に変色もない。指も普段どおり動く。ただ、魔力がわずかに減った感覚だけが残っていた。


「少し休んでから進みましょう」


「そうですね。すぐに取り戻そうと無理に魔術を使うのはやめておきます」


 カルマが銃を収め、車軸をもう一度確かめた。


「怖ぇのは、ちょっと触れたぐらいじゃ何ともなさそうに見えることだな」


「えぇ。だからこそ、灯の外に出る時間を短くしなければなりません」


 わたくしは深く息を吸い、吐いた。


 身体に異常はない。名前も、仲間の顔も、はっきり分かる。短く触れただけなら、魔力以外に変化は感じられなかった。


 それでも、確かに魔力は引かれた。


 この土地を歩く人々は、あの感覚を何度も経験してきたのだろう。そして、魔力が尽きるまで霧の中にいた人がどうなったのか、誰も簡単には確かめられない。


 わたくしたちは、もう一度灯具の目盛りを見てから歩き出した。


 速く進むことより、三人で無事に越えることが大事だった。


     ◇


 日が西へ傾く頃、森の先に二基の霊晶灯が見えた。


 石垣に囲まれた小さな避難所だ。灯の間へ台車を押し込むと、足元の石畳に薄い線が現れた。台車の術式と、建物を囲む防護術式が重なったのだ。


 霧の中で張り詰めていた肩が、ようやく下りる。


 カルマは台車を軒下へ運び、監視所で灯具を付けた時と同じように目盛りを確認した。シュテルは水筒を取り出してわたくしへ差し出す。


「飲んでください」


「ありがとうございます」


「霧に触れた手は、どうですか」


「魔力が少し抜けた感覚はありますけれど、もう落ち着いています」


「今日はもう書類を見ないでくださいね」


「……ばれていましたの?」


「《ローズ・リスト》を出そうとしていました」


 わたくしは苦笑し、鞄の留め金から手を離した。今日は魔術を余分に使わない方がよいだろう。


 避難所の壁には、古い通行者の記録板が残っていた。年月日と人数だけが刻まれ、名前は書かれていない。灰触の霧の中で使う施設らしい簡素さだ。


 カルマが収納袋から保存食を取り出した。温めた水で固いパンを柔らかくし、三人で分けた。


 火のそばで、彼がぽつりと言った。


「あんなのが町の中まで入ってきたら、たまらねぇな」


「えぇ」


「そりゃ、白冠は要る。なくしちまえって話じゃねぇな」


「そうですね」


 シュテルも頷いた。


「ですが、必要だから何をしてもいいわけではありません。地下にいた人たちは、何も知らされていませんでした」


「だから、誰が始めたのかを調べる」


 カルマは指を一本立てた。


「それと、どこで動かしてるか。壊すにしても止めるにしても、場所が分からなきゃ始まらねぇ」


「壊すかどうかも、分かってから決めますわ」


 彼は頷いた。


「そうだったな」


 わたくしは《ローズ・リスト》を膝に置き、地図の原本を取り出して広げた。


 霧の中では、もう少し先まで進まなければ見えなかった地形が、避難所の窓から確かめられる。北西に三本の尾根。西から流れる細い川。町へ戻る道は一本。


「聖都の送出先が王都なら、あの地下設備は全体の一部です。けれど、王都以外にも接続点はあるかもしれません」


「港に、西部の区画に、聖都……」


 シュテルが地図を見た。


「《白冠》を支える設備が各地にあるなら、中央の制御施設があってもおかしくないですね」


「えぇ。ただし、同じ場所にすべて集めているとは限りません。送出先の一部だけ止めても、別の場所に古い指示が残るかもしれない。聖都で見たとおりですわ」


 シュテルは灯具の目盛りをちらりと見た。


 わたくしも、その先を見ていた。


 あの小さな灯具一つでさえ、三人が揃ってようやく守れた。しかも、防護が破れれば怪物まで寄ってくる。王国を覆う二重の結界を、何の準備もなく止められるはずがない。


「首謀者についても、考えておきましょう」


 わたくしは地図の余白に印を付けた。


「設計した人、運用を認めた人、名核の接続を命じた人、知らずに手続きを通した人。この四つを混ぜないことですわ」


「全員が同じ罪、ってわけじゃねぇか」


「はい。現場の職員の中には、止めようとした人もいました」


 シュテルが《ローズ・リスト》に浮かぶサビーネの名前を指で押さえた。


「セヴラン大司教が、王国の照会を続けると言っていました。返事が来れば、教義院側で分かることも増えると思います」


「それを待つ間に、わたくしたちも調べますわ」


 別荘にある三年間の記録。まだ確認していない父の古い資料。港で得た《ローズ・リスト》の照合履歴。


 それらを重ねたとき、どこまで近づけるのか。


「明日は霧が薄いといいな」


 カルマが窓の外を見た。


「その先にあるんだろ、例の別荘」


「もう一つ、尾根を越えます。明日中に着けるかは天候次第ですわ」


「また霧か」


「残念ながら」


 彼は天井を仰ぎ、それから、ふっと笑った。


「ま、明日も慎重に行くか」


「台車の留め金も、確認してください」


「そこまで信用ない?」


「今日の分は十分に信用しております。明日の分は、明日確かめますわ」


「厳しいねぇ」


 シュテルが口元を押さえて笑った。


 避難所の外では、灰色の霧が石垣に沿って流れている。霊晶灯の光に触れるたび、形を変え、また外側へ退いていった。


 あの向こうに、わたくしが三年前に戻った家がある。


 王を匿うために造られた家。


 そして今は、王国が何をしてきたのか調べるために帰る家。


 わたくしは地図を《ローズ・リスト》へ戻し、表紙を閉じた。


 父が昔、何度も訊いた言葉を思い出す。


 ――その灯りをともす魔力は、どこから来る?


 昼間、霧に触れたときの、魔力を引かれる感覚を思い出す。


 今度は、答えを確かめる番だった。

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