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第71話 鐘の外側へ



 朝の鐘が鳴る前から、廊下には人の足音がしていた。


 窓の外はまだ薄暗い。私は外套の留め金を掛け、机に積んだ報告書の枚数を数え直した。聖都で使っていた鞄は、いつの間にか書類ばかり入るようになっていた。最初に持ってきた着替えをどこへ詰めるか、昨夜は少し迷ったほどだ。


 昨日、下層の送出予約は取り消した。そのときの操作記録、立会人の署名、接続者がいなかったことを確認した医師の証言。三つの写しを揃え、教義院の封緘紙でまとめる。


 聖都を離れる前に、私が確認できるのはここまでだ。


「シュテル、起きてるか?」


 戸を叩く音と一緒にカルマの声がした。


「はい。どうぞ」


「……なんだ、もう仕事してんのか」


 彼は焼きたてのパンを二つ持っていた。片方を差し出し、机の紙束を見て顔をしかめる。


「それ全部持ってく気じゃないよな」


「原本は置いていきます。持っていくのは照合用の写しだけです」


「それでも分厚いな」


「あなたの弾薬よりは軽いですよ」


「比べるものがおかしくないか?」


 笑いながら受け取ったパンは、まだ温かかった。カルマは窓辺に寄り、外の様子を確かめている。昨日までなら、誰かが追ってくる気配でもあるのかと身構えたかもしれない。けれど今朝の彼は、道の混み具合を見ているだけらしかった。


「リゼリアは?」


「荷物をまとめています。昨日の夜も遅くまで資料を見ていましたから」


「ちゃんと寝たのかねぇ」


「カルマも、でしょう?」


「俺は寝た。短いけどな」


「それは寝たうちに入りません」


「はいはい。審問官殿の言うとおり」


 彼は扉を閉める前に振り返った。


「で、何時に出る?」


「午前中に引き継ぎを済ませます。それから……ゼェレにも声を掛けたいです」


「そうだったな。あいつ、工房にいるんだろ」


「昨日はそう言っていました」


「昼には戻る。馬車の手配は俺がやっとくよ」


「ありがとうございます」


 彼が出ていくと、廊下がまた静かになった。


 私はパンをひと口食べてから、鞄を閉じた。


     ◇


 中央教義院の文書管理棟には、すでに騎士団の立会人が来ていた。


 記録係のヘレネ・クラウスが、私の前へ新しい受領簿を置く。表紙の革がまだ硬く、綴じ紐も白い。


「昨日の下層点検分まで記載しました。原本はここで保管します」


「封緘は?」


「二人で確認しました。こちらが控えです」


 渡された紙には、日付と封緘番号が並んでいた。第三代行印の使用記録、外部預託控え、アルベルト・ノワールヴェイン公爵の異議申立てに関する資料。それらは別々の箱に収められ、どこへ運ばれたか追えるようになっている。


 数日前には、記録そのものを焼かれかけた。こうして棚へ戻される光景を、私は思った以上に長く見つめていた。


「副室長の件は、何か分かりましたか」


「フェリクス・ノイマンは、引き続き事情を聞かれています。ただ、王国側へ実際に印を渡した相手は、まだ分からないそうです」


「分かりました。確認できたことだけ記載してください」


 ヘレネは頷き、ペン先を紙に置いた。


 彼女の手は、最初に会ったときより落ち着いていた。それでも、窓の外で荷車の車輪が大きな音を立てると、肩がわずかに跳ねた。


「……しばらくは、騎士団の方がここに?」


「はい。代行印の使用停止が解除されるまでは、搬出にも立会人が必要です。何かあれば、私宛てに書面を回してもらえますか」


「聖都の外にいても?」


「返事が遅くなることはあると思います。それでも、届くようにしてあります」


「それなら、安心です」


 ヘレネはそう言って、受領簿を棚の奥へ運んでいった。


 私は騎士団の担当者と、記録庫の鍵を預かる者の名前を確認する。審問会で拘束された教義院関係者の取り調べは継続中だ。白鳥の侵入経路についても、騎士団が別に追っている。


 どちらも、ここで終わったことにはできない。


 受領室を出ると、回廊の先にセヴラン大司教がいた。二人の書記官が大きな書箱を運び、彼に何か確認している。私に気づくと、彼は書記官を先に行かせた。


「出発は今日でしたね」


「はい。引き継ぎは終えました」


「名録院から、リゼリア・ノワールヴェインの監査権審査について返事は来ていません。照会を続けることになります」


「承知しています。本人にも伝えます」


「君の調査も、まだ途中です」


「はい」


 彼は私の鞄に目を落とした。


「何を調べるにしても、手続きを飛ばさないように。先方が王国の機関なら、なおさらです」


「分かっています。無理に入ろうとは思いません」


「……それを聞けて、少し安心しました」


 私は返事に困ってしまった。地下へ入ったときの自分を思い出せば、彼がそう言いたくなるのも無理はない。


「大司教は、王国から返答が来たらどうなさるんですか」


「内容を確認します。不十分なら、もう一度照会します」


「それだけですか?」


「今のところは。教会の印がどう使われたか、こちらで先に確かめなければなりませんから」


 回廊の奥で書記官が彼を呼んだ。


「行きなさい、シュテル。調べたことは、君の名前で報告してもらいます」


「はい。必ず」


 頭を下げて歩き出しかけたとき、また声が掛かった。


「それから、あの二人の件も忘れていません」


 振り返ると、彼は私をまっすぐ見ていた。


 地下で命を落とした兵士たちのことだと、すぐ分かった。


「私も、忘れていません」


「それで結構です」


 セヴランは書記官の方へ向き直った。


 私はその背を見送り、文書管理棟を出た。


     ◇


 北側救護所の庭には、午前の日差しが差していた。


 洗濯物が風に揺れ、薬草を干した棚の近くで、小さな子どもが水桶を覗き込んでいる。地下の寝台が並んでいた場所とは、同じ聖都とは思えないほど明るかった。


 アーデル医師が私を迎えてくれた。


「今日はお別れを言いに来たの?」


「はい。もう一度だけ、皆さんの様子を見たくて」


「ちょうどいいわ。サビーネさんなら庭にいる。エーミルさんは今日はまだ病室だけど、起きてるわよ」


「無理に起こしていませんか」


「もちろん。名前の照合はまだ先にするつもり。今は食べて寝る方が大事だから」


 医師の言葉に頷き、まず庭へ向かった。


 サビーネ・オルトは、木陰の長椅子に座っていた。膝に毛布を掛け、右手で湯呑みを支えている。私の顔を見つけると、立とうとした。


「そのままで大丈夫ですよ」


「……シュテルさん」


「具合はいかがですか」


「昨日よりは、ずっと。少し歩くと疲れますけど」


「無理はしないでくださいね」


 彼女は頷き、湯呑みを見下ろした。


「ここに来てから、夜に何度か目が覚めるんです。鐘が鳴ると、また連れていかれるんじゃないかって」


 私は隣へ腰を下ろした。


「先生には話しましたか」


「はい。夜中でも呼んでいいって言ってくれました」


「それなら、遠慮しなくていいと思います」


「……そうですよね」


 彼女はしばらく黙ってから、ゆっくり顔を上げた。


「あの地下へは、もう戻らなくていいんですよね」


「少なくとも、今あなたを戻そうとしている人はいません。移送の話が出たときも、先生が断ってくれました」


「先生、怒ってました」


「えぇ。私も見ました」


 サビーネが少し笑う。


「怖い先生かと思ったけど、優しい人ですね」


「そうですね」


 少し離れた場所で、誰かが布を絞っていた。庭に水の落ちる音がする。


「家族には……会えるでしょうか」


「騎士団が捜しています。まだお約束はできませんけれど、あなたの名前で問い合わせを出しています」


「名前で」


「はい。サビーネ・オルトさんの名前で」


 彼女は湯呑みを両手で包み直した。


「……ありがとうございます」


 もう一度お辞儀をしようとしたので、私は慌てて手を振った。


「本当に、座っていてください。お茶がこぼれます」


「あ……すみません」


「謝らなくていいですから」


 今度は二人で笑った。


 病室のエーミル・フォークトは、枕を高くして横になっていた。昨日より顔色はよくなっているが、話すとすぐ息が切れる。私は長居をしないつもりで椅子を引いた。


「昨日、お名前を教えてくださって、ありがとうございました」


「……ちゃんと、書いてくれた?」


「はい。エーミル・フォークトさん、と」


「よかった」


 彼は毛布の端を握った。


「俺、変なこと言ってないかな。まだ時々、覚えてないことがあるんだ」


「今は無理に思い出さなくて大丈夫です。名前の確認も、体調が落ち着いてからになります」


「そっか」


 彼の視線が窓へ向いた。


「外の鐘は、聞こえるんだな」


「はい」


「地下にいるときも聞こえた気がする。でも、あっちのは……ずっと近かった」


 私は黙って続きを待った。


「目を閉じると、まだ聞こえるんだ。たまに」


「先生に、そのことは?」


「話した。焦らなくていいって」


「私もそう思います」


 彼は小さく頷いた。


 寝台の傍らには、水差しと、紙の札が置かれていた。昨日までは番号だけだった札に、今日は手書きでエーミルの名前が添えられている。仮の申告であることも、脇に小さく記されていた。


 その慎重な書き方が、今はありがたかった。


 私は彼に別れを告げ、病室を出た。


 廊下でアーデル医師が待っていた。


「これから、どちらへ?」


「聖都の外へ。調べたいことがあるんです」


「そう。だったら、ここのことは気にしすぎないで」


「……はい」


「簡単に忘れろってことじゃないのよ。ここには、ちゃんと私たちがいるから」


 彼女は診察簿を抱え直し、次の病室へ向かった。


 私はしばらくその背中を見送った。


 地下へ降りた日、ここまで来られるとは考えていなかった。まだ元気になったわけではない人たちが、自分の名前で治療を受け、誰かに呼ばれる。それだけのことを守るために、これほど多くの人が動かなければならなかった。


 これから先も、きっとそうだ。


     ◇


 昼過ぎ、宿へ戻ると、リゼリアは旅行鞄の口を閉めていた。


「お疲れさまですわ、シュテル」


「ただいま戻りました。引き継ぎも終わりました」


「サビーネさんたちは?」


「少しずつ良くなっています。エーミルさんとも話せました」


「それはよかった」


 彼女は手を止め、ほっとしたように微笑んだ。


 卓には《ローズ・リスト》と数枚の写しが置かれていた。リゼリアはそれを柔らかい布に包み、鞄の内側へ収める。紙の角が曲がらないよう、最後に薄い板を挟んでいた。


「道中も調べるんですか」


「揺れる馬車の中で広げるのは危ないですわ。着いてからにいたします」


「珍しいですね。昨日までは、どこでも読んでいたのに」


「一度、角を折ってしまいましたの。あれは反省いたしました」


 思わず笑ってしまう。


「そんなこともあるんですね」


「えぇ。大事な記録ほど、扱いに気をつけませんと」


 カルマが外から帰ってきたのは、そのときだった。


「馬車、確保してきたぞ。今晩は郊外の宿まで行ける。そこから先は道を選ぼう」


「ありがとうございます。荷物はほとんど揃いました」


「ほとんど?」


「ゼェレに、まだ挨拶をしていません」


「ああ、そうだ。工房へ寄るんだったな」


 リゼリアが窓を見た。


「何度も助けていただきましたもの。何も言わずに出発するのは気が引けますわ」


「だったら先に行くか。道順は分かる」


「昨日も、測定器の調整をすると言っていましたね」


「じゃあ、差し入れでも買ってくか。あいつ、人のパンを勝手に食いやがったし」


「……お礼の品にするのではありませんの?」


「返してもらう分だよ」


 カルマは笑って帽子をかぶった。


「何か甘いものも買いましょう。ゼェレ、好きそうですし」


「そうですね」


 私は外套を取った。


「行きましょうか」


     ◇


 ゼェレの工房は、聖都の東寄り、職人の家が並ぶ細い路地にあった。


 私たちはそこを何度も訪れている。


 小さな木札のついた戸口。斜めに置かれた薬草の箱。窓から漏れる、青みがかった錬成灯の光。夕暮れ時には、妙な薬品の匂いまで通りへ流れてきた。


 角を曲がったとき、私は足を止めた。


「……あれ?」


 路地の向こうには、低い石壁があるだけだった。


 工房のあった場所が、空いている。


 隣の仕立屋と、向かいの古道具屋はそのままだ。石畳の欠けた箇所も、雨水のたまる窪みも覚えている。それなのに、工房の壁も扉も、窓も見当たらない。


 カルマが先に歩いていった。


「道、間違えたか?」


「いいえ。ここです」


 私は隣の仕立屋の看板を指した。


「この店の向かいだったはずです」


「そうですわね。わたくしも覚えています」


 リゼリアの声が少し低くなった。


 工房があったはずの場所へ近づく。建物の跡を示す石の継ぎ目すらなく、土台が抜かれた穴もない。平らな石畳が、端から端まで続いていた。


 何かを運び出したあとなら、せめて擦った跡くらい残りそうなものだ。


「……おいおい」


 カルマがしゃがみ、石の表面を指でなぞった。


「引っ越すにしたって、家ごと持ってくか?」


「ゼェレなら……できるのでしょうか」


「できそうなのが嫌なんだよなぁ」


 彼は立ち上がり、空いた場所を見渡した。


 近くで戸の開く音がした。仕立屋の女主人が、布を抱えて通りへ出てくる。私は声を掛けた。


「すみません。ここに、錬金術の工房がありませんでしたか。白い髪の小柄な方が使っていたんですけど」


「工房?」


 女主人は目を細め、石壁の方を見た。


「そこ? 荷車が停まる空き場所だと思ってたけどねぇ」


「少なくとも昨日までは、ここにあったんです」


「そうなの? 私はよく分からないわ。ごめんなさいね」


「いえ。ありがとうございました」


 女主人は首を傾げながら店へ戻っていった。


 カルマが小声で言った。


「隣に住んでて知らねえってのも、妙な話だな」


「……えぇ」


 私はもう一度、石壁を見た。


 ゼェレはここで薬品を調合し、銀環の仕組みを調べ、私たちが理解できなかった祈祷術式を別の角度から教えてくれた。何度も扉を叩き、奥から「今開けるよ」と声が返ってきた。


 全部、確かにあったことだ。


「何か書き置きでも、残していませんでしょうか」


 リゼリアが辺りを見回した。


「ないな。どこか別の場所に移ったなら、言ってくれりゃよかったのに」


「急に必要な用事ができたのかもしれません」


 自分で言いながら、そう簡単な話とも思えなかった。


 カルマは空き地の端へしゃがみ直し、指先で石畳を軽く叩いた。薄い埃が舞うだけで、隠された扉らしいものは見当たらない。


「ここまで何も残さねえとはな」


「……本当に、いなくなってしまいましたのね」


 リゼリアは工房のあった場所を見つめていた。驚いているというより、何かを確かめようとしている顔だった。


 彼女は以前から、ゼェレの戦い方を注意深く見ていた。あれほど正確に人の動きを読み、ためらいなく傷を負わせる技術は、錬金魔術師という肩書きだけでは説明できない。私はその不思議さを、少しずつ忘れかけていた。


 でも、今は違う。


「探しますか?」


 私は二人に尋ねた。


「もう少し、近所を回ってみても……」


「追える手掛かりがあればな」


 カルマが首を横に振る。


「本人が見つかりたくないなら、そう簡単に見つからねえだろ。俺らがここの前で騒いでても仕方ない」


「そうですわね」


 リゼリアは空き地から目を離した。


「ただ、わたくしは一度、きちんとお礼を申し上げたかったですわ」


「……私もです」


「俺もだ。あの小さいの、仕事は確かだったからな」


「小さいの、なんて呼んだら怒りますよ」


「いねえんだから、聞こえねえだろ」


「そういう問題ではありません」


 いつものように言い返すと、カルマは肩をすくめた。


 私は工房のあった場所へ向かって、小さく頭を下げた。


「……ゼェレ。ありがとうございました」


 返事はなかった。


 それでも、あの人に助けられたことまで消えるわけではない。


 私たちは何度も彼女と食事をした。怪我人を一緒に運び、危険な場所で背中を預けた。第六保全棟の地下で、私があの兵士に刃を向けられたとき、ゼェレがいなければここに立っていない。


 そう考えると、急に胸の奥が重くなった。


 リゼリアが私の隣に立った。


「行きましょう、シュテル」


「……はい」


「いずれ会うことがあれば、そのときにお礼を申し上げましょう」


「そうですね」


 カルマが先に歩き出し、路地の出口で振り返った。


「次に会ったら、まず引っ越しのやり方を聞いてやる」


「それが最初ですの?」


「どう考えても気になるだろ」


 リゼリアが呆れたように笑った。


 私も笑い、空いた場所をもう一度だけ見てから、二人のあとを追った。


     ◇


 宿の主人は、出発すると聞いて食糧の包みを用意してくれた。


「しばらく戻らないのかい」


「はい。次は王国の方へ向かいます」


「大変だねぇ。気をつけておくれよ」


「お世話になりました」


 主人と妻に挨拶し、部屋の鍵を返す。食堂の机も、階段のきしむ箇所も、もうすっかり覚えてしまっていた。


 カルマが荷物を馬車へ積み込み、私は最後の報告書を鞄の奥にしまった。


 リゼリアは宿の前で、遠くの鐘楼を見ていた。


「名残惜しいですか」


「少しだけ。思ったより長く滞在してしまいましたから」


「私の仕事にも付き合ってもらいました」


「いいえ。わたくしにも、調べたいことがございましたもの」


 彼女は私を見る。


「シュテルは、よろしいのですか。聖都に残ってお調べになることもできるでしょうに」


「ここには、もう調査を引き継げる人たちがいます。王国側で確かめなければいけないこともありますし」


「そうですわね」


「それに……」


「それに?」


 私は少しだけ迷ってから答えた。


「あなたが何を集めてきたのか、見てみたいんです」


 リゼリアは一瞬目を丸くして、それから笑った。


「古い書類ばかりですわよ」


「私も書類には慣れています」


「でしたら、頼りにさせていただきますわ」


 カルマが荷台の向こうから声を掛けた。


「お二人さん、そろそろ出るぞ。日が暮れる前に外の宿へ着きたい」


「はい、今行きます」


 私は馬車へ乗り込み、リゼリアの手を取った。彼女が乗り終えると、カルマが御者台へ移る。


 荷物は三人分だった。


 ゼェレがいたら、きっと研究器具をもう一袋積み込んで、カルマと揉めていただろう。そんなことを考えてしまい、私は思わず荷台の空いた隅を見た。


 馬車が動き出す。


 聖都の門では巡礼者の列を避け、カルマが手配していた外周路を抜けた。私の携行する調査通知は、聖都の外で調査を続けるためのものだ。王国の指名照会やリゼリアの身分に関する問題まで消えたわけではない。道中は身分証を求められる場所を避け、余計な足止めを受けない経路を選ぶことにしている。


 しばらく進むと、白い尖塔が家々の屋根の向こうへ小さくなった。


「シュテル」


 リゼリアが声を掛ける。


「はい」


「道中で一つ、お話ししておきたいことがございます」


「何でしょう」


「これから向かう場所のことです」


 カルマが御者台から顔を半分だけ振り向けた。


「ようやく教えてくれんのか」


「えぇ。街道を外れてからの方がよろしいかと思っておりましたけれど、お二人には知っておいていただかないと」


 リゼリアは鞄の上に手を置き、言葉を選ぶように少し間を空けた。


「そこは、ノワールヴェイン家が国王陛下のために用意した別荘なのです」


「……国王の別荘?」


 カルマが聞き返す。


「いいえ。陛下に何かあったとき、王都からお逃がしして、お守りするための場所です。ノワールヴェイン家が密かに用意しました。場所を知る者も、家の者だけでした」


「そんな場所が、王都の外に?」


「かなり離れていますわ。王都が包囲されたとしても、簡単にはたどり着けないように」


 彼女は鞄から小さな金属製の鍵を取り出した。古びているのに、握りの意匠だけは丁寧に磨かれている。


「三年前、わたくしはそこで暮らしていました。父の残した書類を調べたり、各地へ出たときに集めた記録を持ち帰ったり。今も資料の多くは、そこに置いてあります」


「王様を隠すための家に、王国の証拠を隠してたってわけか」


「……えぇ」


 リゼリアは鍵を掌に戻した。


 私は、その鍵を見つめた。


 彼女がどこで三年間を過ごしてきたのか、詳しく聞いたことはなかった。王国から逃れながら父の名を調べていたことは知っている。けれど、一人で戻る場所があったと聞くと、その長い時間が急に少しだけ身近になった。


「その場所なら、《ローズ・リスト》と記録を比べられるんですね」


「えぇ。古い名録の写しも、王国各地で得た証言もございます。足りないものを確かめてから、王都へ向かうつもりです」


「まずは整理から、か」


 カルマが前を向き直る。


「戦う前に相手のことを知っとくのは賛成だ。俺にも分かるように頼むぜ」


「難しいことばかりではありませんわ。あなたに手伝っていただきたいこともありますし」


「お、そうか。じゃあ力仕事は任せろ」


「まだ何も申し上げておりませんのに」


 彼の笑い声が御者台から聞こえた。


 私は窓の外を見た。


 聖都の白い尖塔は、もう森の稜線の向こうへ隠れかけている。鐘はまだ微かに聞こえるが、馬車の車輪が石を踏む音の方が大きくなっていた。


 この街で、私にできたことは多くなかったのかもしれない。助けられなかった人もいるし、確かめられなかった名前も残っている。それでも、サビーネは庭へ出られるようになった。エーミルは、誰かに自分の名を呼んでもらえるようになった。


 そして、聖都には私がいなくても仕事を続ける人たちがいる。


 膝の上の鞄には、セヴランから預かった調査通知が入っていた。


 今度は私が、聖都の外へ出て調べる番だ。


「寒くないですか、シュテル」


 リゼリアが尋ねた。


「大丈夫です。でも、少し風が入りますね」


「窓を閉めましょうか」


「いえ。このままで」


 私は流れていく木立を見た。


 風には、聖都の香の匂いがもう混じっていなかった。


     ◇


 ――聖都の外れ。


 僕は屋根の上に腰を下ろし、遠ざかっていく馬車を眺めていた。


 あの三人なら、しばらくは退屈しないだろう。特に黒薔薇は、まだ調べたいことが山ほどあるみたいだし。


「……リゼリア、ね」


 名前を口にすると、少し前のことを思い出した。


 思わず笑ってしまう。


 すぐ後ろから、短い声がした。


「ゼェレ……遊びすぎ」


「えー? ちゃんと調べてきたよ。設備も見たし、送出の記録も取ったし」


「ふふ……ゼェレも楽しんだことですし、帰りましょうか」


 別の声が、穏やかに言った。


 僕は足をぶらぶらさせながら、最後にもう一度、街道の方へ目を向ける。


「ふふ……黒薔薇に赤鐘、それから一等星。思ったとおり、いい素材だったな♪」


 白い鐘楼が夕日を受けていた。


「そうだね。今の《白冠》の状況も、王国の内政も分かったことだし……あとは彼らに任せちゃお」


 屋根から降りる。


 僕の足音のあとに、二人分の気配が続いた。


 聖都で、夕方の鐘が鳴り始めた。

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