第70話 止まった鐘のあとで
鐘が鳴る少し前に、教義院から使いが来た。
朝食の席にはまだ私とカルマしかいなかった。焼いた卵を半分ほど食べたところで、宿の主人が戸口から顔を出す。
「シュテルさん、騎士団の方です」
「はい。すぐに行きます」
廊下に立っていたのは、昨日も受領管理室に付き添ってくれた若い騎士だった。胸元に折り目のついた書面を抱え、私を見るなり背筋を伸ばす。
「下層接続区の確認に、同行をお願いできますか」
「何かあったんですか」
「今朝の点検で、停止したはずの送出側に再開予定の表示が出たそうです。まだ動いてはいません。ただ、現場の担当者だけでは判断できないと」
昨日までの調査が頭をよぎった。
王国からの命令だと告げられるまま、教義院の印章が外へ預けられていたこと。誰も発令者の名前を確かめないまま、受領の記録だけが積み重なっていたこと。
書面を受け取り、日付と担当者を確認する。
「医師には連絡が行っていますか」
「これからです」
「先にお願いします。接続された人が残っていないか、私たちだけでは確認できません」
「分かりました」
騎士が走っていく。私は部屋へ戻り、外套を取った。
カルマは卵を口に運ぶ手を止めていた。
「また地下か」
「はい。再開予定が残っているそうです」
「……昨日、印を止めたんじゃなかったのか?」
「印章の使用停止と、設備が動かないことは別ですから」
「なるほどな。飯、包んどくぞ」
「すみません」
「昨日から何度目だよ、それ」
悪びれずに笑うのが、いかにもカルマらしい。
階段の下では、リゼリアが宿の主人と話していた。私たちを見ると、すぐにこちらへ向き直る。
「下層で何かありましたの?」
「送出設備に再開予定が残っているそうです。現場を見てきます」
「わたくしも参りますわ」
「ゼェレは?」
「昨夜は工房に戻りましたけれど……」
そのとき、裏口の方から声がした。
「呼んだ?」
ゼェレが袋を片手に入ってきた。白い髪の内側の青が、朝の光を受けて鮮やかに見える。袋の口から細い測定棒が覗いていた。
「用があるって騎士の人に聞いたよ。さっき道で会ってさ」
「助かります。下層の送出側が、また動くかもしれないんです」
「へぇ。だったら早めに見た方がいいね」
彼女は空いていたパンをひとつ取った。
「これ、もらっていい?」
「俺の朝飯なんだが」
「あとで返すよ」
「パンをどうやって返すんだよ」
ゼェレはもう食べ始めていた。
私は思わず笑いそうになったが、書面を外套の内側へしまい、三人と一緒に宿を出た。
◇
大聖堂の地下へ続く通路は、以前と様子が変わっていた。
中央保全局の腕章をつけた警備兵の姿はなく、守備騎士団の騎士が二人ずつ交代で立っている。壁にあった古い掲示は外され、代わりに立入区画と担当者の名前が書かれた札が掛けられていた。
人を名前で呼ぶ。
たったそれだけのことが、ここでは長い間、曖昧にされてきた。
けれど、今朝の私はその札を見て少し安心した。誰に聞けばよいのか分かるからだ。
下層の入口で、担当医のアーデル先生が待っていた。眠れていないのか目の下が青い。それでも、私を見るなり手帳を開く。
「今朝、寝台を一つずつ確認しました。現在、この区画に患者はいません。昨日までに医療班が搬送した人たちの行き先も、こちらに記録しています」
私は名簿を受け取り、数を追った。サビーネ・オルトと、まだ名前の分かっていない男性も記載されている。二人の行き先は北側救護所だった。
「返還側を使っている別区画は?」
「そちらはまだ医療班が付いています。今日触るのは、この空いた搬送区画だけにしてください」
「分かりました」
ゼェレが横から記録を覗く。
「じゃあ送出側だけ分けられるね。古い弁が固まってなきゃ、だけど」
「そこが心配です」
「見てから決めよ。どうせ、触る前に確認するんでしょ?」
私は頷いた。
通路の奥に進むと、見覚えのある銀の管が壁際を這っていた。以前は寝台の下まで続き、人の腕や首につけられた銀環と結ばれていたものだ。今は接続具が取り外され、寝台も空いている。
その隣に、小さな表示板があった。
〈補完送出 停止中〉。
その下で、薄い赤の文字が一行だけ光っている。
〈次回送出照合 待機〉。
「これです」
担当の技師が言った。若い男性で、名札にはミヒャエル・ロートとある。
「昨夜は表示がありませんでした。朝の巡回で気づいて、操作を止めました。再開時刻の欄は空白です」
「誰かが操作した可能性は?」
「記録を確認しましたが、この室内の操作卓には残っていません。上の中央接続室からも、今朝の指示は出ていないはずです」
「はず、というのは?」
「中央接続室の古い自動照合は、別の時計で動いているんです。以前は鐘が鳴る時刻に合わせて送出予定が入ることもありました。今は使っていないと思っていましたが……」
ミヒャエルは申し訳なさそうに視線を下げた。
私は表示板を見た。いつもの祈祷なら、光の強さや流れる魔力から大まかな変化は分かる。けれど、こうした設備の細かな仕組みは専門外だ。
「ゼェレ、どう見えますか」
「待機表示の理由までは、これじゃ分からないなぁ」
彼女は袋から測定棒を取り出し、表示板の縁へ近づけた。薄い水銀の筋が先端で揺れる。
「でも、ほら。この右側、少しだけ反応してる。下の弁じゃなくて、上から来た信号に引っ張られてるみたい」
リゼリアが銀管の奥を見た。
「上の記録が更新されないまま、こちらへ届いているのでしょうか」
「その可能性はあるね。断言はしないけど」
カルマは通路の先へ歩き、壁に貼られた簡単な配管図を確かめた。
「こっちの細い管が送出。太い方が返還で合ってるか?」
「はい。逆流防止の弁が間にあります」
ミヒャエルが答える。
「なら、太い方は絶対触らねえ。先生もそう言ってたしな」
誰も反対しなかった。
私は立会騎士に、現状の表示を記録するよう頼んだ。赤い文字はまだ消えない。
◇
上の中央接続室へ向かう途中、鐘が一度鳴った。
いつもなら大聖堂の鐘が響く時刻ではない。短く、金属を一つ叩いたような音が地下に落ちてくる。
私の前を歩いていたミヒャエルが立ち止まった。
「今のは……」
次の瞬間、壁の銀管に光が走った。
細い筋がこちらへ向かってくる。床の継ぎ目に埋められた術式も、順番に淡く灯った。
「表示板を見てきます!」
「待ってください!」
私はミヒャエルの腕を掴んだ。
彼が振り返った先で、カルマがすでに通路の反対側を指している。
「先に出口を開けとけ。万が一、あの管が割れたら逃げ道がねえ」
「分かりました!」
騎士が扉の掛け金を外す。もう一人は下層の医療班へ伝令に走った。
ゼェレは銀管へしゃがみ込み、測定棒を近づけた。
「来てるね。送出先の照合だ。でも、まだ弁は開いてない」
「止められますか」
「上の指示が原因なら、下だけ切ってもまた来るよ。まず本当に同じ系統か確かめたい」
彼女は壁の図を指した。
「この枝だけ、空の寝台につながってる。リゼリア、そこに札を置ける?」
「固定ならできますわ。ただ、弁の内側まで見えるわけではありませんけれど」
「それでいい。こっちで動きを測る」
リゼリアが二枚の《ブラッドアルカナ》を出した。赤い札が宙を滑り、指された接合部の左右に一枚ずつ留まる。銀管から小さな軋みが聞こえた。
同じ頃、私の指先にも魔力の揺れが伝わってきた。胸元の審問印が微かに温かい。
空になった寝台の術式が、動こうとしている。
「ゼェレ、どれくらい持ちますか」
「札の方? その前に弁を押さえるよ」
彼女が床へ片手をつけた。石が盛り上がり、銀管を囲むように支えを作る。ただし管そのものには触れない。続いて水銀の細い輪が弁の軸へ回り、動きを監視する。
「回すなよ。強く噛ませると軸が壊れる」
カルマが図面を見ながら言った。
「分かってるって。僕だって好きで配管を壊したいわけじゃないし」
「普段の戦い方見てると少し心配になるんだよ」
「失礼だなぁ」
軽口を交わす二人の手は止まっていなかった。
私たちの後ろで、ミヒャエルが管を見つめている。顔は青いが、逃げずに立っていた。
「ここから先はあなたの作業です」
私が声を掛けると、彼は目を上げた。
「中央接続室の手動停止は、できますね?」
「はい。監督者の立会いがあれば」
「私と騎士が立ち会います。操作をお願いします」
「……分かりました」
私は彼と一緒に階段を上がった。カルマは後ろを警戒し、リゼリアとゼェレは下層に残って弁を見張る。
ここで私ができることは、ただ盾を出して守ることだけではない。目の前の技師が、必要な操作をできるようにすることだ。
◇
中央接続室には、昨夜の保全札がまだ貼られていた。
焼かれかけた帳票を押収した場所。二人の兵士が命を落とし、残った人たちが拘束された場所でもある。
足を踏み入れると、あのときの音が思い出された。石弓の弦、床を滑る盾、カルマの銃声。
今、聞こえているのは機械の低い唸りだけだった。
ミヒャエルが操作卓へ近づく。騎士が停止命令書の番号を読み上げ、私はそれを自分の書面と照合した。
「一致しています。お願いします」
「では、送出予定の照合を止めます。ただし……」
「どうしました」
「全系統を停止すると、返還側の補助制御も止まります。ここは個別の照合入力だけを遮断します」
「それでお願いします」
彼の手が二つの小さな留め金を外し、その下の切替具を動かした。
盤面に並んでいた文字の一部が消える。
しかし、下の赤い線はまだ残っていた。
「止まりません……」
ミヒャエルが額の汗を拭う。
私は書面を見直した。以前、教義院側から受け取った停止指示は、今朝の記録と同じ送出番号を示している。けれど設備側には、古い予定の受領欄が残っていた。
「次に何を確かめればいいですか」
焦って私が操作すれば、もっと悪くなる。
ミヒャエルは盤面を覗き込み、隅の小さな蓋を開けた。
「……あった。予定を受け取ったときの控えです。停止がこちらへ届く前に、次の照合が予約されていました」
「つまり?」
「停止命令は新しい送出を止めています。でも予約済みの分は、別に取り消さなければ残るんです。昔の仕組みなので」
私は思わず天井を見た。
王国側の誰かが、今朝新しく送出を命じたとは限らない。以前に登録された予定が、止められずに生き残っていただけかもしれない。
それでも、あの区画に人が残っていれば、同じことが起きただろう。
「予約の取消しはできますか」
「できます。ただし、これを開くと消えた予定が履歴からも見えなくなることがあります」
「なら先に写してください。操作前後の表示を残しましょう」
「はい」
立会騎士が書写台を運んだ。私は予約番号、受領時刻、対象系統を読み上げ、二人で確認して写す。ミヒャエルも署名した。
ひととおり終えると、彼は再び切替具へ手を伸ばした。
今度は赤い文字が、ゆっくり消えていった。
廊下の向こうから、カルマの声が響く。
「下、止まったぞ!」
私は思わず手すりに掴まった。
大きく息を吐くと、胸の中に溜まっていた緊張が少しだけ抜けた。
「ありがとうございます、ミヒャエルさん」
「……いえ。気づくのが遅くなって、申し訳ありません」
「今朝知らせてくれたのは、あなたでしょう」
彼は困った顔で笑った。
「そんなことで褒められるとは思いませんでした」
「本当に助かりました。次も同じ表示を見たら、必ず知らせてください」
「はい」
私は書面を閉じた。
終わったのは、この区画の送出だけだ。別の場所まで安全だと決まったわけではない。それでも、今日ここで再び動くはずだったものを、一つ止められた。
◇
下層へ戻ると、リゼリアが魔札を回収しているところだった。
ゼェレは銀管に寄りかかり、測定棒の数値を書き留めていた。カルマは扉を閉め、騎士に「もう入っていい」と合図する。
「お疲れさま、シュテル」
「そちらは大丈夫でしたか」
「うん。札が押さえてくれたから、弁の動きはほとんどなかったよ。軸も無事」
「よかったです」
リゼリアが私へ向き直った。
「記録は残せましたの?」
「はい。予約の番号と時刻は写しました。今の停止命令だけでは、古い予約までは取り消されなかったそうです」
「そうでしたの……」
彼女は空の寝台を見た。
「ここに、まだ誰かがいたらと思うと……」
「医師に確認してもらってから触れたので、大丈夫でした」
「ええ。そうですわね」
カルマが壁の札を指した。
「で、あの赤い表示はもう出ねえのか?」
「この予約は消えました。ただ、別の予約が残っていないか、技師の方が確認します」
「なら手伝う。重い棚を動かすなら呼んでくれ」
「棚は動かしませんよ」
「俺の出番、ねえじゃねえか」
ゼェレが笑った。
「あるよ。さっき持ってきてもらった測定器、工房まで運んで」
「それはおまえの荷物だろ」
「手伝うって言ったじゃん」
「言ったのは棚だ!」
つい声を上げて笑ってしまった。
銀管にはもう赤い光が走らない。技師が操作を確認し、騎士が封印の札を掛け直す。
あの場所で初めて聞いた悲鳴は、忘れないと思う。
でも、次にここへ来る医師や騎士が、何を見れば危険を見つけられるかは、今日少しだけはっきりした。
◇
午後、北側救護所で意外な知らせを聞いた。
受付にいた看護師が私の顔を見るなり、立ち上がった。
「シュテルさん、ちょうどよかったです。あの男性、少し目を覚ましました」
「本当ですか」
「まだ長くは話せません。先生が診ていますけど、ご本人が、誰かに名前を伝えたいと」
私は歩く速度を落とした。
名前。
地下で見つけたとき、その男性の寝台には番号しかなかった。記録には王国の照合欄と教義院の受領欄が並んでいたのに、本人の名前は抜け落ちていた。
部屋へ入る前に、担当医へ確認する。
「お話ししても大丈夫ですか」
「一、二分なら。疲れが強いので、質問は最小限にしてください」
「分かりました」
寝台の上で、男性が薄く目を開けていた。まだ若く見える。痩せた手が毛布の上に出ている。
「こんにちは。シュテルといいます。地下からお連れした人の一人です」
男性の唇が少し動いた。
「……ここは?」
「聖都の救護所です。もう地下ではありません」
彼はゆっくり瞬きをした。窓の光が眩しいのか、顔を少し背ける。
私は椅子を引かず、寝台の横に立ったまま待った。
「……名前」
「はい?」
「名前、言っても……」
胸の奥が痛くなった。
「もちろんです。急がなくていいですよ」
「……エーミル」
私は頷く。
「エーミルさん」
「エーミル……フォークト」
そのあと、彼は目を閉じた。息が少し速くなる。担当医が私に小さく首を振ったので、私はそれ以上聞かなかった。
「ありがとうございます。ゆっくり休んでください」
部屋を出ると、看護師が記録板を持って待っていた。
「今の名前、書いてもいいですか」
「ご本人の申告としてお願いします。公名の確認は、回復してからで」
「はい。本人申告、エーミル・フォークト、と」
看護師が丁寧に文字を記す。
それを見てから、私は廊下の長椅子へ腰を下ろした。
すぐ隣に、サビーネが座っていた。いつからいたのか分からなかったが、看護師が支えて連れてきたところらしい。
「聞こえました」
彼女が小さく言う。
「名前、言えたんですね」
「はい。あとは体力が戻るのを待ちます」
「よかった……」
サビーネは膝の上で両手を組んだ。
「私も、あそこにいる間は自分の名前を忘れそうになりました。呼ばれなくなると、本当にそうなるんですね」
私は何と返せばよいか分からなかった。
彼女はすぐに顔を上げ、少し照れたように笑った。
「でも、ここの看護師さんは毎朝ちゃんと呼んでくれます。今日は、庭にも出られました」
「聞きました。無理はしていませんか」
「大丈夫。先生に、五分だけって言われましたから」
「それなら安心です」
窓の外で、洗濯物が風に揺れていた。白い布の向こうを、誰かが水桶を持って歩いている。
何でもない午後の風景だった。
こんな景色を、地下にいた人たちにも見てほしかった。
◇
夕方、私はセヴラン大司教の執務室へ呼ばれた。
大聖堂の上階にある部屋は、先日の審問室よりずっと狭い。壁には古い教義書が並び、窓際の小さな机に封筒が積まれている。
セヴランは私の報告書に目を通していた。
「再開予定が残っていたそうですね」
「はい。停止の指示より前に受け取っていた予約が、そのままになっていました。現場で取消しを確認しています」
「ほかの区画は?」
「同じ予約がないか、技師と騎士団で確認中です。今朝の停止だけで、全施設の安全を保証することはできません」
「……分かりました」
セヴランは書類を閉じ、机の端へ置いた。
「受領管理室の印章については、引き続き使用を止めています。今後、新たな接続を認めるときは、医師の確認と本人の同意記録を求めるよう通達しました」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではありません。これまでの手続きが、十分ではなかったという話ですから」
彼は少し疲れて見えた。
「王国への照会は出しました。ただ、返答が来るかどうかは分かりません。こちらには、教義院名義で受け取ったものが残っている。その責任まで王国に押しつけるつもりはありません」
「はい」
「シュテル。君が調べてきたのは、教義院にとって都合のいい話ではありませんでした」
私は黙って待った。
「それでも、記録を残した判断は正しかったと思います」
セヴランはそう言って、私の報告書へもう一度目を落とした。
「ただし、地下へ無断で入ったことや、死者が出たことについては、別に審理が必要です。一時不問の扱いは変えません。忘れないでください」
「はい。承知しています」
私も、忘れるつもりはなかった。
あの二人は、ここにいない。もう何を話したとしても、彼らに聞いてもらうことはできない。だからせめて、死亡した場所と経緯だけは、記録から消さないようにしたかった。
「それから、調査の続きについてです」
セヴランが別の紙を差し出した。
〈王国保全命令・発令元照会継続〉。
そこには、私の名前が記されていた。
「王国側の資料との照合が必要になった場合、聖都の外で調べることも認めます。教義院の権限でどこへでも立ち入れるという意味ではありません。調査結果を持ち帰り、報告してください」
「……よろしいのですか」
「君に調べろと言ったのは、私です。王国の名前が出た途端にやめさせるわけにはいきません」
私は紙を受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず報告します」
「それと、リゼリア・ノワールヴェインの件は別です。彼女の監査権について、私が判断できるわけではありません。名録院からの返答を待ちなさい」
「はい」
「白鳥の行方も、引き続き騎士団へ照会します。何か分かれば、君にも伝えるようにしておきましょう」
私が頷くと、セヴランはようやく椅子へ深く座り直した。
「今日は休んでください。明日の報告は、書面で結構です」
「……大司教も、お休みになってくださいね」
「善処します」
その返事には、少しだけ苦笑が混じっていた。
◇
宿へ戻ると、リゼリアとカルマが食堂にいた。
カルマは椅子を斜めに引き、夕食の皿を前にしている。リゼリアはその向かいで、薄い紙を何枚も広げていた。
「おかえり。どうだった?」
「聖都の外での調査も認めてもらえました。ただ、どこでも自由に立ち入れるという意味ではありません」
「そこまで期待しちゃいねえよ」
カルマが椅子を戻す。
リゼリアは紙を片づけ、私の隣を空けてくれた。
「でしたら、そろそろお話ししてもよろしいかしら」
「例の資料のことですか」
「えぇ」
彼女は食堂の窓と扉を確かめたあと、少し声を落とした。
「三年前から集めてきたものがございます。父の記録も、わたくしが王国を歩いて集めたものも。全部ではありませんけれど、かなりの量ですわ」
「どこに置いてあるんだ?」
カルマが聞く。
「ここでは詳しい道順は申し上げません。王都からは遠い場所、とだけ」
「分かった。行くときに教えてくれりゃいい」
「ありがとうございます」
私は彼女の顔を見た。
「そこへ行けば、今回の記録と照らし合わせられるんですね」
「えぇ。《ローズ・リスト》も、今ある資料だけでは追いきれないところがございます。昔の記録と並べれば、抜けている部分が見つかるかもしれませんわ」
「それなら、一緒に行かせてください」
口にしてから、私は膝の上で手を握った。
「大司教から命じられた調査も、まだ終わっていません。王国側の記録は私も確かめたいです」
リゼリアはゆっくり頷く。
「もちろんですわ、シュテル」
「俺も行くぞ。今さら別行動ってのも変だろ」
「カルマは、まだ何も聞いておりませんわよ」
「今聞いたじゃねえか。遠くに証拠があるんだろ?」
「ずいぶん大雑把ですこと」
「細かい話は道中で頼む」
私が笑うと、リゼリアもつられて笑った。
少し前まで、彼女は「リズ」と呼ばれていた。今はもう、そう呼ぶ理由がない。けれど、その変化を特別なこととして意識しなくなったのは、きっと彼女が毎日いつもどおりに笑っているからだ。
「ゼェレにも、今日のお礼を伝えなくては」
私が言うと、カルマが顎を上げた。
「あいつなら工房だ。夕方、測定器がどうとか言って戻った」
「また夜遅くまで調べているのでしょうか」
「さあな。明日、報告の写しを渡しに行こうぜ」
「はい」
リゼリアが机の紙を重ねた。
「わたくしも参りますわ。今日は助けていただきましたもの」
そのあとは、夕食が冷めないうちに食べることにした。
◇
夜、部屋へ戻ってから、私は今日の記録をもう一度開いた。
下層接続区の再開予約は取り消した。記録は残した。別の区画の調査は続く。救護所では、サビーネが庭へ出られるようになった。もう一人の男性は、自分の名前を教えてくれた。
エーミル・フォークト。
その文字を書き加えると、長く番号だけだった欄に、ようやく人の名前が並んだ。
まだ回復していない人もいる。家に帰れない人もいる。王国の誰がこの仕組みを動かしたのかも、分からないままだ。
それでも、今日は寝台が空いていた。
窓の外から、聖都の鐘が聞こえてくる。
少し前なら、私はその音を聞くたび、地下で何が起きているのか考えてしまった。今も気になる。でも、今夜は少しだけ違った。
明日の朝も、あの区画が空のままであるように。
それを確かめられる人たちが、もうここにはいる。
私は報告書を閉じ、灯りを落とした。
聖都での仕事は、もう少しで一区切りだ。
次は、リゼリアが長い間守ってきた場所へ向かう。
彼女がそこで何を見つけ、何を隠してきたのか。まだ私は知らない。
けれど、行ってみたいと思った。
今度は、審問官としてだけではなく、彼女の友人としても。




