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第69話 印章を預かった人


 朝の鐘が鳴るより先に目が覚めた。


 窓の隙間から冷えた風が入ってくる。眠った時間は短かったはずなのに、不思議と頭は冴えていた。昨夜、書き上げた報告書が机の上にある。


 〈第三代行印の使用簿、焼却未遂。原本を保全〉。


 最後に書いた一行を、もう一度読んだ。


 焼かれずに残った。それはよかった。でも、これだけでは、誰が印を使ったのか分からない。


 私は顔を洗い、審問印を胸元に留め直した。


 廊下へ出ると、カルマが壁にもたれていた。片手には紙に包まれたパンが二つある。


「早いですね」


「おまえが朝飯抜きそうだからな」


「昨日は食べましたよ」


「夜食は朝飯に入らねえだろ」


 差し出された包みを受け取る。まだ温かい。


「ありがとうございます」


「礼は食ってからでいい。リゼリアは下で騎士と話してる。ゼェレは……あいつ、いつ寝てるんだ?」


「分かりません」


「俺もだ」


 階段を下りると、玄関の長椅子にリゼリアがいた。今はもう、リズと呼ぶ必要はない。そう思うだけで、少し胸の奥が軽くなる。


 彼女は立ち上がり、私の顔を見た。


「おはようございます、シュテル。少しは休めましたの?」


「はい。リゼリアは?」


「わたくしも。それより、昨夜の記録を騎士団が写してくださったそうですわ」


 差し出された紙には、押収した使用簿から抜き出した二件の記載があった。


 三年前の、アルベルト・ノワールヴェイン公爵による異議申立ての停止処理。そして、今回の〈白冠補完導路・受領継続通知〉。


 どちらにも〈代行印第三号〉の表示がある。


「今日は保管簿の照合からですね」


「えぇ。印を預かった人の名前が分かれば、話が早くなりますわ」


「素直に残ってりゃな」


 カルマがパンの包みを開く。


 そう。記録が残っていれば。


     ◇


 中央教義院の受領管理室は、昨日より静かだった。


 南側文書庫の扉には騎士団の封印があり、廊下の角にも二人の騎士が立っている。押収済みの三箱はここに戻されていない。使用簿の原本も、騎士団の保管庫に預けたままだ。


 今朝調べるのは、別の記録だった。


 受領管理室長のイグナーツ・ベルクは、私たちを小さな応接室へ案内した。背の高い初老の男性で、机の端に置かれた鐘を一度だけ鳴らす。


「立会人を呼びます。書庫の鍵は、こちらが管理していますので」


「お願いします」


 私はセヴラン大司教の調査命令書を渡した。イグナーツは印と日付を確かめ、脇へ置く。


「昨夜は大変だったそうですね。職員も怯えています」


「荷車の火は、ほかの箱へ燃え移る前に消せました。怪我人も手当てを受けています」


「それは何よりです」


 彼は一度、私の審問印を見た。


「調べたいのは第三号の貸出記録でしたね」


「はい。それと、返却の記録も」


「返却?」


「借りた人だけ分かっても、次に誰が使ったか分かりませんから」


 イグナーツは小さく頷いた。


「分かりました」


 ほどなく、記録係のヘレネ・クラウスが厚い帳面を二冊持ってきた。昨日、書類の搬出を命じられたという女性だ。両手で帳面を抱え、緊張した顔をしている。


「こちらが現行の貸出簿です。古い分は、別棟に保管しています」


「ありがとうございます。昨日は大変でしたね」


「……はい。でも、今日は仕事に戻るよう言われましたので」


 その言葉に、少し引っ掛かった。


「どなたから?」


「室長からです」


 イグナーツは椅子に座ったまま言う。


「必要な職員です。休ませたままでは業務が止まります」


「事情を聞く間は、ほかの方に代わっていただけますか」


「それほど長くは――」


「昨日の搬出に立ち会った方です。確認したいことがあります」


 廊下にいた騎士がこちらを見る。イグナーツはため息をついた。


「……分かりました。ヘレネ、ここに残りなさい」


 ヘレネの肩が、ほんの少し下がった。


     ◇


 貸出簿には日付、印章番号、借受部署、返却時刻が記されていた。印そのものを押した人ではなく、管理を引き受けた人を記録する帳面だ。


 今回の〈受領継続通知〉が処理された日の欄には、受領管理室の名前がある。借受者欄には、副責任者フェリクス・ノイマンの署名。


 ところが、返却の欄だけ筆跡が違っていた。


「この字を書いた方は?」


 私が尋ねると、ヘレネが首を横に振る。


「分かりません。いつもなら私か、隣の席の職員が確認しますが……その日は朝から別の仕事に回されていて」


「その仕事は?」


「王国側から届いた照合票の整理です。臨時の方が来るので、机を空けるようにと」


 リゼリアが紙の端に指を置いた。


「臨時の方、というのは教義院の職員ですの?」


「王国連絡の方、と聞いています。顔は……見ていますけど、お名前までは」


 イグナーツが口を挟んだ。


「王国との連絡担当者は以前から出入りしています。特別なことではありません」


「では、その日に誰が来たか、記録はありますか」


 私が聞くと、室長は眉を寄せた。


「通行の記録なら受付にあります。ただ、王国の者の公名照会は私の権限では――」


「今は名前ではなく、入退室の時刻で十分です」


 私は貸出簿を示した。


「ここに返却時刻が書いてあります。その時間に誰がいたか、まず確かめたいんです」


「……それなら可能でしょう」


 ゼェレが横から覗き込んだ。


「ねえ、この返却欄。時刻があとから書かれてない?」


「どうしてそう思うんですか」


「この線だけ、ほかより深い。机に置いたまま強く押したみたい。用紙が重なってたのかな」


 彼女は紙に触れず、薄い金属板を取り出した。


「上から光を当てて見ていい? 何も削らないから」


 イグナーツは警戒した顔をしたが、立会騎士が検分方法を確かめたあと、許可した。


 斜めに当てられた光の下で、〈返却済〉の字の周りだけ、紙が少し窪んでいるのが分かった。ゼェレはさらに机の木目を見て、首を傾げる。


「書き足したかどうかは、これだけじゃ言えない。でも、下に何枚か紙があったのは確かだね」


「そこまでで結構です。確認できた状態を記録します」


 私は騎士へ伝えた。


 勝手に結論を出したくはなかった。ヘレネの記憶も、筆跡も、まだ手掛かりでしかない。


 けれど、何かが合わない。


 そのとき、ヘレネが小さな声で言った。


「……あの、ひとつだけ」


「はい」


「あの日、返却の印を押したかと、あとで聞かれました」


「誰にですか」


「副室長に。私は押していませんと答えました。それで……もう聞かれなかったので」


 フェリクスが、返却した人を探していた。


 少なくとも、それは今朝初めて聞く話だった。


     ◇


 受付の通行簿を確認するため、部屋を出た。


 廊下の窓にはまだ朝露が残っている。帳面を抱えるヘレネの歩調に合わせ、私もゆっくり歩いた。背後からカルマが近づいてきて、声を落とす。


「室長、さっきから鍵束を握りっぱなしだな」


「気づいていました?」


「緊張してるのか、ほかに開けられたくねえ扉があるのか。どっちかは知らねえ」


 カルマはすぐに離れた。余計なことを言わず、廊下の先を確かめに行く。


 受付にあったのは、一般の来訪者用の帳面と、教義院・王国間の定期連絡に使う小さな票の束だった。票には入室時刻と所属欄があり、担当者名は別の封筒にまとめられているという。


 該当日の票を探していると、ヘレネが私の袖を引いた。


「シュテル様」


「どうしました」


「昨日の箱のことなんですが……」


 彼女は声を詰まらせた。


「私、知らないうちに何かしてしまったんでしょうか」


「まだ分かりません。あなたが箱を選んだんですか」


「いいえ。番号札のついた箱を運ぶように言われただけです。中身は見ていません」


「では、そのとおり話してください。思い出せないことは、思い出せないで構いません」


「……はい」


 ヘレネが息を吐く。


 私は彼女の手元を見た。爪の脇に、昨日の煤が少し残っていた。


「今日はもう、別の職員と一緒にいてください。何かあれば騎士を呼んで」


「分かりました」


 彼女は頷いたが、次の瞬間、受付の奥を見て固まった。


 薄灰色の外套を着た男が、戸棚から何かを取り出していた。


「あの人……」


 ヘレネの声が震える。


「昨日、廊下にいた人です」


 男がこちらを見た。


 私たちの目が合う。その一瞬で、彼は戸棚を閉め、奥の通用扉へ走った。


「止まってください!」


 私は駆け出した。


     ◇


 通用扉の向こうは、狭い階段だった。


 石段は湿っていて、壁には古い霊晶灯が並んでいる。男の足音が二階下から響いた。私は手すりを掴み、勢いを殺さず降りる。


「シュテル、右だ!」


 下からカルマの声がした。先回りしていたらしい。男が下の踊り場で急に方向を変える。私の視界から一瞬消えた。


 次いで、金属が擦れる音。


 男は上着の内側から短い刃を抜いていた。階段の下にいた見張りの騎士が身構える。


「離れて!」


 私は《星盾》を呼び出した。青白い光が、男と騎士の間に割って入る。


 刃が盾に当たり、甲高い音を立てた。


 男はひるまず、盾の縁を蹴って横の通路へ飛び込む。胸元に細長い紙筒を抱えていた。


 今、無理に強く打ちつければ、紙筒ごと潰すかもしれない。かといって、このまま逃がすわけにもいかない。


 私は盾を低く構え直し、相手の行く手を塞ぐことを優先した。


 男が刃を振り上げるより早く、通路の奥で石床が盛り上がった。


「こっちも塞がってるよ」


 ゼェレが壁際から顔を出す。どうやって回り込んだのか、私には分からなかった。ただ、彼女の指先から伸びた水銀の細い鎖が、男の手首に巻きついていた。


「うわっ!」


 刃が床へ落ちる。


「痛いってば、動かないでよ。折れちゃうでしょ」


 ゼェレは軽い調子で言いながら、男の腕を背中側へ引いた。動きに無駄がない。男が身を捩る前に、もう片方の手も押さえてしまう。


 背後からカルマが駆け寄り、男を壁へ向けた。


「観念しろ。もう行き止まりだ」


 男は抵抗をやめた。肩で息をしている。


「……俺は、頼まれた物を取りに来ただけだ」


「だったら受付で話せばよかったでしょう」


 私が言うと、男は答えなかった。


 遅れて来た騎士が手枷を掛け、刃を回収する。私は《星盾》を消し、膝の力を抜いた。


 男の胸に挟まれていた紙筒は、落ちずに残っていた。


 リゼリアが階段から下りてくる。彼女は紙筒へ視線を向け、私に確認した。


「お怪我は?」


「大丈夫です。ほかの方も」


「よかった」


 リゼリアは小さく息をついた。


 ゼェレが男の手首から鎖をほどくと、赤くなった皮膚が見えた。骨は折れていないようだが、私は騎士に医務室で診てもらうよう頼んだ。


「逃げられたら、これまでの苦労が台無しでしたね」


「紙切れ一本で大騒ぎだな」


 カルマが肩をすくめる。


「……でも、何を持ってたんだ?」


「これから確かめます」


     ◇


 紙筒から出てきたのは、印章の受渡票を綴った細い控えだった。


 昨日焼かれかけた使用簿とは違い、印章を管理室の外へ持ち出す際に作る記録だ。表紙には〈臨時預託控〉と記されている。


 騎士団の立会人が内容を読み上げる。


「〈第三代行印、外部連絡口へ預託〉。日付は……受領継続通知の処理当日です」


「貸した相手は?」


「〈王国保全連絡扱〉。個人名はありません」


 私は目を細めた。


「返却は?」


「〈受領管理室へ返還〉。こちらも名前なしです」


 だから貸出簿には、フェリクスの署名だけが残り、返却者欄は別の筆跡になっていたのかもしれない。


 少なくとも、印章が室内の通常の扱いから外れていたことを示す記録だった。


 ただ、紙にそう書かれているだけでは、実際に王国側へ渡ったと決めつけることはできない。


「この票の作成者は、分かりますか」


「印字された記号があります。管理室の作成番号のようです」


 男は黙り込んでいた。


 私が訊く。


「誰に取りに来るよう言われました?」


「言えない」


「あなたを傷つけるつもりはありません。でも、刃を持って逃げた理由は聞かなければなりません」


「……こっちだって、来たくて来たんじゃない」


「それなら、何があったのか話してください」


 男は唇を噛んだまま、視線を逸らした。


 私はそれ以上急かさず、騎士へ身柄と押収品を引き渡した。彼の身元照会も、正式な手続きが必要だ。


 追いかけている間はただ逃がしたくなかったが、落ち着いてみると気になることが増えてくる。彼はなぜ昨日ではなく今朝、この控えを取りに来たのだろう。


 室長が保管簿を見せることに同意した、その直後だった。


     ◇


 受領管理室へ戻ると、イグナーツは押収品の目録を見て顔色を変えた。


「その控えは、別の管理区分です。なぜ受付に……」


「こちらが伺いたいことです」


 私は机に書面を広げる。原本は騎士が持ち、私の前にはその場で作った写しが置かれた。


「第三号の印が外部連絡口へ預けられています。こういう扱いは、よくあるんですか」


「緊急時にはあります。ただし……」


「ただし?」


「室長の承認が必要です」


「承認しましたか」


「していません」


 イグナーツは即答した。しばらくしてから、言い直す。


「少なくとも、私の記憶にはありません。承認簿を確認させてください」


「お願いします」


 フェリクスも別室から呼ばれた。昨日の搬出を急がせた人物だが、まだ罪が確定したわけではない。立会騎士の前で、彼は控えを見た途端に目を見開いた。


「……これ、残っていたんですか」


「ご存じなんですね」


「……はい」


 イグナーツが強い声で言った。


「フェリクス。どういうことだ」


 フェリクスはすぐに答えなかった。


 私は少し待ってから尋ねた。


「その日は、誰から指示がありました?」


「王国側の連絡担当です。緊急だから、印を外部の照合路へ回してほしいと……」


「担当者の名前は?」


「教えてもらっていません。書面を持っていました。王国保全命令の写しです」


「その書面は今どこに?」


「返すように言われました。手元にはありません」


「なぜ室長に確認しなかったんですか」


 フェリクスはうつむいた。


「室長は不在でした。それに、王国の命令に教義院が逆らえるわけがないと思って……」


「それで印を渡したんですか」


「私は印を直接渡していません。受渡票を作って、連絡口の担当者に預けました。返却されたときは、もう私の手を離れていました」


 彼の答えが本当かどうかは、別に調べる必要がある。それでも、少なくとも一つ分かった。


 教義院が王国の命令として受け取ったものを、王国の誰が出したのか確認せずに処理した可能性がある。


「三年前の異議申立て停止にも、同じ印が使われています」


 私が言うと、フェリクスは困惑した顔をした。


「三年前は、私はまだ副室長ではありません」


「分かっています。だから、あなたが押したとは言っていません」


 リゼリアが隣から言葉を添えた。


「けれど、同じ扱いが以前からあったのかは確かめたいですわ。古い控えも残っておりますの?」


 イグナーツはしばらく帳面を見ていた。


「……あるはずです。三年前の分は別棟ですが」


「今日は、その保管場所を確かめさせてください」


 私が頼むと、彼は疲れたように頷いた。


「騎士団立会いなら、案内します」


 カルマが小さく息を吐いた。


「最初からそうしてくれりゃ早かったんだけどな」


「……申し訳ない」


 室長の返事には、さすがに言い返す元気もなかった。


     ◇


 古い控えは、別棟の地下保管室にあった。


 そこで見つかった三年前の記録は、今回と似ていた。〈代行印第三号、特別照合路へ預託〉。返却先は中央教義院。受領した者の欄は記号だけで、氏名はない。


 アルベルト公爵の異議申立てを止めた処理も、王国側の連絡経路と教義院側の代行印を介していた。


 けれど、同じ仕組みを使ったことと、同じ人間が命じたことは違う。三年前の預託を承認したのが誰かも、まだ判明していない。


 私は古い紙を見つめながら、リゼリアを振り返った。


 彼女は何も言わず、帳面の記号を確かめていた。赤い瞳に、棚の灯りが映っている。


「リゼリア」


「はい?」


「この記録、写しを取ってもらいます。あなたの持っている三年前の資料とも照らせますか」


「もちろんですわ。ただ、聖都の外に置いてあるものもありますから、すぐに全部は無理ですけれど」


「外に?」


「えぇ。少々、遠い場所です」


 そこでカルマが顔を上げた。


「今さら遠慮する距離でもねえだろ。王都まで行くつもりなんだし」


「まあ。そう簡単に言いますのね」


「おまえが難しい顔してる方が嫌なんだよ」


 リゼリアが笑った。


 話の続きを聞きたかったが、今は仕事中だ。私は記録の写しを受け取り、保管室の扉を閉めた。


     ◇


 昼過ぎ、私たちは騎士団の詰所でセヴラン大司教からの返答を受け取った。


 私が提出したのは、使用簿と臨時預託控の照合結果、逃走した男の身柄確保、受領管理室職員の証言をまとめた報告書だった。控えの原本と、三年前の記録の写しも添えてある。


 返答には、受領管理室の第三代行印を当面使用停止とし、すでに発行された関連通知について原本照合を行うことが記されていた。室長と副室長は、記録の保全と事情聴取に協力するよう命じられている。


 そして、最後の頁。


 〈王国側発令機関への照会を、中央教義院名義で行う〉。


「……やっと、教義院から王国へ聞いてくれるんですね」


 私が言うと、立会騎士が頷いた。


「書面はすでに準備に入っています。ただ、返事が来るまで、日数はかかるでしょう」


「分かりました」


 そこに、セヴラン大司教が自分の判断を明記した紙がある。


 彼が王国のしていることをすべて疑っているとは思わない。私の処分を保留した理由だって、まだ事件の調査が必要だからだ。それでも、ここで教義院側の処理を止める決定はした。


 私は封筒を閉じた。


「受領管理室の職員たちは、どうなりますか」


「当面、別の部署が管理を引き継ぎます。保管庫への立入りは記録を残すようにします」


「ヘレネさんには、事情を聞くことがあっても、一人で来るよう求めないでください。昨日からずっと怯えています」


「承知しました」


 騎士が手帳に書き加えた。


 私は深く息を吐いた。


 教会の中で、できることはまだある。白鳥は捕まっていないし、誰が襲撃を命じたのかも分からない。地下で助けた人たちの治療も続いている。


 でも、私が調べるべき相手は、少しずつはっきりしてきた。


     ◇


 午後、北側救護所へ寄った。


 サビーネ・オルトは、窓際の寝台に座っていた。顔色はまだよくないが、前に会ったときよりも目がはっきりしている。


「シュテルさん」


「具合はいかがですか」


「まだ歩くとふらつきます。でも、今日は庭まで行けました」


「よかったですね」


 担当医からは、すぐに移送できる状態ではないが、回復は続いていると聞いた。意識の戻らない男性も、医師が引き続き診ているという。


 サビーネは膝の上の毛布を握り直した。


「あの……私、ここにいていいんですよね」


「はい。少なくとも今、あなたを地下へ戻す命令は出ていません。移送の話が来ても、担当医と一緒に確認します」


「そうですか」


 彼女は窓へ目を向けた。


「外で鐘が鳴っても、もう起きなくていいんですね」


 私は答えに詰まった。


 地下では、鐘が鳴るたびに設備が動いていたのだろう。彼女がどの音を恐れているのか、私には全部は分からない。


「ここでは、休んでいて大丈夫です」


 そう伝えると、サビーネは小さく笑った。


「ありがとうございます」


 廊下へ出ると、リゼリアが待っていた。


「よいお顔になっていましたわね」


「はい。少しずつ、元気になっているようです」


「それなら何よりですわ」


 彼女は窓の向こうの中庭を眺める。


「シュテル。聖都で確認できることは、もうかなり揃ってきたと思いますの」


「ええ。あとは王国側の返答と、逃げた白鳥の行方ですね」


「わたくしには、まだ照らし合わせたい記録がございます」


「三年前に集めた資料ですか」


「三年前から、ですわ。少しずつ集めてきたものが、まだ残っていますの」


「どこにあるんですか」


 リゼリアは一度、周囲を見てから答えた。


「王都から、ずっと離れたところです。詳しい場所は、ここではお話しできませんけれど」


「分かりました」


「ごめんなさい。あなたを疑っているわけではありませんのよ」


「知っています。大切な場所なんですね」


 彼女は少し間を置いて、頷いた。


「えぇ。父が残してくれた場所ですから」


 私はそれ以上聞かなかった。リゼリアが話したくなったときでいい。


 けれど、彼女の顔を見ていると、そこへ向かう日がそう遠くないように思えた。


     ◇


 夕方、詰所へ戻ると、カルマとゼェレが待っていた。


 カルマは椅子の背に外套を掛け、何かの包みを開いている。ゼェレは机に頬杖をつき、昨日の硝子片と新しい測定結果を見比べていた。


「おかえり。患者さんは?」


「少しずつ回復しています」


「そりゃよかった」


 カルマが包みをこちらへ滑らせる。


「で、こっちは差し入れ。今日はちゃんと飯食えよ」


「またパンですか」


「文句があるなら自分で買え」


「文句ではありません。ありがとうございます」


 ゼェレが紙を一枚、私の前に置いた。


「焼却瓶の外側、見つかった材料だけなら聖都の工房でも作れるよ。特定は無理。ただ、昨日の箱に入ってた破片は、ほかの荷物にぶつかって割れたんじゃなさそう。外から力が掛かった跡がないんだ」


「仕掛けがあった可能性が高いんですね」


「うん。騎士団には測定結果を渡した。あとは作った人を探すしかないかな」


「助かりました」


「どういたしまして」


 リゼリアが椅子に座り、書類を一枚ずつ鞄へしまい始めた。


「三年前の記録を、王国側の資料と合わせてみたいですわね」


「だったら、その遠い場所に行くんだろ?」


 カルマはあっさり言った。


「……聞いていらしたの?」


「廊下でちょっとな。隠す気なら声を落とせよ」


「もう。そういうところですわよ」


 彼は笑った。


「で、シュテルはどうする。まだ仕事が残ってるんだろ」


「はい。私が命じられた調査は、まだ終わっていません。明日、もう一度受領管理室で確認して、それから大司教に報告します」


「そっちは俺も付き合う。終わったら考えりゃいいさ」


 ゼェレは背伸びをして立ち上がった。


「僕は工房に戻るね。今日の数字、もう少し整理しとく」


「無理をしないでくださいね」


「シュテルにだけは言われたくないなぁ」


 そう言って、ゼェレは笑った。


 扉が閉まると、室内が少し静かになった。


 私は預かった報告書を鞄へ入れ、椅子に腰を下ろす。


 今日も、すべてが明らかになったわけではない。けれど、教義院が王国からの命令をどう受け取ってきたのか、その一部は確かめられた。印章を使った人の名前が分からなくても、印を外へ出す仕組みは残っていた。


 これを放置すれば、また同じことが起きる。だから明日、必要な手続きをもう一度確かめる。


 窓の外で、聖都の鐘が鳴り始めた。


 もうすぐ、ここでの仕事にも一区切りがつくだろう。

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