第67話 星盾を裁く審問会
教義院からの呼出状が届いたのは、朝食の皿を下げたばかりの頃だった。
〈聖盾審問官シュテル・シュトラールに対する中央審問会。本日、正午〉。
昨夜まで机を占領していた資料の上に、今度はその一枚が置かれた。昨日、わたくしはリゼリア・ノワールヴェインとして本人照合を受けたばかりだ。ようやく父の残した記録に近づけると思った矢先に、シュテルの審問である。
「今日ですの?」
「正午だってさ。急に呼ぶもんだな」
カルマが椅子の背に掛けた外套を取る。
「準備する暇を与えたくないんでしょうね」
シュテルは落ち着いていた。けれど、呼出状を持つ指に少し力が入っている。
「地下施設に入ったのは私の判断です。聞かれたことには答えます」
「死者のことも、ですわね」
「はい」
答えに迷いはなかった。
中央接続室で死んだ二人の兵士。わたくしを狙った石弓をカルマが止め、シュテルの喉を狙った刃をゼェレが止めた。相手の命を奪うことで、わたくしたちは助かった。
シュテルはその経緯を記録から外さなかった。自分の手で傷を確かめ、二人の名前が分かれば追記するよう騎士団に頼んでいた。
「わたくしも証言いたします。地下で見たことは、二人で話した方がよろしいでしょう」
「ありがとうございます。ですが、私を庇うために話を変えないでくださいね」
「そんなことをしたら、あなたに叱られてしまいますわ」
シュテルが少し笑った。
「俺も行くぜ。あの二人を撃ったのは誰か、聞かれるだろうしな」
「一人は僕だけどね」
卓の端で器具を拭いていたゼェレが、顔を上げずに口を挟む。
軽い声だった。わたくしが視線を向けると、彼女は布を畳み、何でもないことのように続けた。
「聞かれたら答えるよ。見てたことも、やったことも」
嘘をつく気配はない。それだけに、少しばかり胸の奥が落ち着かなかった。
ゼェレはわたくしたちを救ってくれた。今も、危うい設備を調べるために力を貸している。そのことを疑ってはいない。
ただ、彼女があの夜に見せた手際のよさを思い出すと、どうしても考えてしまうのだ。錬金魔術師は、どこであれほど人間との戦いを覚えたのだろう、と。
その疑問は胸にしまい、わたくしはもう一通の書類を開いた。
名録院から届いた、旧監査台帳の封緘管理記録を閲覧できるという通知だった。
「審問まで、少し時間がありますわ」
「名録院か?」
「ええ。先に確認しておきたいことがございます」
「まったく、昼まで休ませてくれねえな」
ぼやくカルマの手は、もう扉の取っ手に掛かっていた。
◇
名録院の保存庫は、地上より幾分ひんやりしていた。
担当官のイルマ・レントが、わたくしたちと守備騎士二人を迎え入れる。案内された机には、古い紙の匂いが染みついた簿冊が一冊置かれていた。
「閲覧できるのは封緘の管理記録だけです。台帳の本文は開けられません」
「承知しています。よろしくお願いいたしますわ」
イルマが慎重に頁をめくる。
「最初の封緘は、七十六年前ですね。《白冠》の補完導路と接続名録に関する資料が対象になっています」
「七十六年……それからずっと?」
シュテルが尋ねる。
「更新されています。期限の切れる前に、教義院から継続の申請が出ていますね。こちらが受理印です」
頁を追うたび、紙の色も、印の形も変わった。それでも、同じ記録が閉じられ続けている。
ゼェレはわたくしの肩越しにのぞき込んでいたが、途中で小さく鼻を鳴らした。
「ずいぶん几帳面だね。保管用の金具まで何度も交換してる」
「それを見ただけで分かるのですか?」
「色が違うだろ? 古い部分だけ擦れ方も違う。……まあ、紙を読むのは君たちに任せるよ」
イルマがさらに頁を繰る。三年前の記録に差しかかったところで、手が止まった。
「こちらです。更新に対する異議申立てが一件あります」
名を見た瞬間、息を吸い損ねた。
〈アルベルト・ノワールヴェイン〉。
「……父です」
呟いた自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
イルマはわたくしを見て、一度頷いた。
「申立ての要旨を読みますか」
「お願いいたします」
「接続者の公名を省略する運用と、本人同意に代わる承認手続きについて、見直しを求めています。ただし、審査は途中で停止されています」
「理由は?」
「王国保全命令。番号はこちらに。発令者の名前までは記されていません」
わたくしは机の端を握った。
地下に並んでいた寝台。サビーネが自分の名前を口にすることさえ恐れた理由。あの空白の同意欄。
三年前の父は、既にその仕組みに異議を唱えていた。
処刑された父を、ここにある一枚だけで正しかったと言い切るつもりはない。けれど、少なくとも父は知っていた。そして、黙っていなかった。
「教義院には、何と伝えられていますの?」
「停止処理の受領証があります。ご覧になりますか」
差し出された認証写しの下に、名前が残っていた。
〈セヴラン・グランツ〉。
「セヴラン大司教が、受け取った……」
「はい。ですが、受領したことと停止を命じたことは別です。ここから分かるのは、そこまでですね」
「ええ。分かっていますわ」
それでも、聞きたいことはできた。
「これを今日の審問に持っていけますか」
イルマは立会騎士を見た。
「確認した部分の写しなら作れます。原本はこちらに残します」
「それで十分です。ありがとうございます」
守備騎士が受領目録を用意し、イルマが印を押す。わたくしたちはその場で写しを封筒へ収めてもらった。
時計を見れば、正午まではもう長くなかった。
封じられた台帳を今すぐ開くことはできない。だから、まずは閉じた経緯を、受け取った本人に確かめよう。
◇
審問棟の石造りの廊下を歩く間、シュテルはほとんど口を開かなかった。
扉の前で立ち止まると、彼女は一度だけ胸元の審問印に触れる。
「緊張していますの?」
「……少し」
「そうでしょうね」
「でも、逃げたくはありません」
「でしたら、わたくしもお付き合いしますわ」
そう答えると、シュテルの肩から少しだけ力が抜けた。
審問室は円形で、正面の高壇にセヴランの席がある。両側には審問官が二人。背後の壁には白い盾が飾られ、さらに上には記録係用の細い回廊が巡っていた。
証人席は左手、出入口は背後。右手には記録係が使う側扉がある。守備騎士が入口と高壇の脇に立ち、名録院のイルマは封筒を抱えて記録官の近くへ座った。
携行武器の預かりを求められ、カルマは《赤鐘》と《ミゼリコルド》を入口脇の保管箱へ入れた。ゼェレの器具も申告される。ただし錬金術や祈祷そのものまで奪えるわけではない。室内には攻撃術式を検知する監視印があり、非常時を除いて術式の行使は禁止されていた。
「銃がないと落ち着きませんの?」
「仕事道具を預けると、どうもな」
カルマは空になった腰を軽く叩いた。
「審問の間くらい我慢なさいませ」
「はいはい」
そのやり取りを最後に、室内は静かになった。
セヴラン・グランツが入室する。昨日と同じ穏やかな表情だが、今日の法衣は儀礼用の白と金だった。
「シュテル・シュトラール。前へ」
「はい」
シュテルが証人席から離れ、高壇の前に立った。
「地下施設に、許可なく入ったことは認めますか」
「認めます」
「警備員と交戦したことも?」
「はい」
「結果として、二人が亡くなっています」
「……はい。私たちが入らなければ、あの場で死ななかった人たちです」
その言葉に、胸が詰まった。
言い訳をしないのはシュテルらしい。ただ、わたくしたちが死なずに済んだのも、あの二人が命を落としたからだ。その重さを彼女一人に背負わせることはできない。
「死亡に至った攻防については、わたくしとカルマ、ゼェレからも証言いたします」
席から声を掛けると、セヴランがこちらを見た。
「順番に聞きます。まずはシュテルの話を」
「失礼いたしました」
シュテルは一度息を整えた。
「地下には、魔力を抜かれて動けなくなっている人たちがいました。設備を止めれば危険な状態で、医師を呼ぶ必要もありました。ですが、保全局の人たちは記録を燃やそうとして、私たちに武器を向けました」
「だから、許可を待てなかった?」
「はい。あの人たちをそのままにして帰ることはできませんでした」
右側の審問官が紙をめくった。
「保全局は教義院の施設だ。中で何が行われているか、現場の責任者に確認すべきだったのではありませんか」
「確認しました。ですが、帰れと言われただけです。患者を見せてもらうこともできませんでした」
「それだけで強行した?」
「その前に、記録を焼かれるところを見ています。射撃も受けました」
審問官は唇を結び、次の頁へ視線を落とす。
「教会への信頼はないのか、と聞かれれば……」
シュテルは自分から言葉を続けた。
「あります。だから、教会の名で何が行われていたのか、確かめたいんです。祈祷を扱う審問官として、私にも責任があります」
「祈祷は神聖なものです。装置の仕組みと一緒に語るべきではない」
「私は、祈祷も魔術の一つだと考えています」
小さく椅子のきしむ音がした。
「祈る気持ちを否定しているわけではありません。でも、魔力をどう使っているかを知らなければ、今回のような設備を見抜けません。私は、人が苦しんでいるのに、それを神聖なものだからと見過ごしたくはありません」
シュテルの声はよく通った。誰かに教わった決まり文句ではなく、あの地下で見てきたものを説明する声だった。
セヴランはしばらく彼女を見つめてから、頷いた。
「分かりました。次に証人の話を聞きましょう」
◇
わたくしは、地下で見た帳票の矛盾について証言した。
〈本人同意確認済〉と書かれながら、本人の署名がない記録。救出したサビーネが自分の名前を告げることを恐れていたこと。帰還した後も、設備に繋がれていた人々の治療が続いていること。
「署名がないだけで、同意がなかったとは限りませんね」
セヴランが確認する。
「そのとおりです。ですから、誰が確認したのかを調べたいのです」
「その記録が残っていなければ?」
「残っていない理由を聞きますわ。本人の意思を確かめないまま、同意したことにはできませんもの」
カルマは、自分が銃を撃った場所と理由を簡潔に話した。ゼェレも、シュテルへ刃を向けた兵士を止めたことを隠さず答える。
審問官が傷の位置を尋ねたとき、ゼェレはあまりに正確に説明したので、書記官の筆が一瞬止まった。
「そこまで覚えているのですか?」
「見てたからね。必要なら、現場の図にも描けるよ」
それ以上、彼女は余計なことを言わなかった。
イルマが立ち上がり、名録院の認証写しを提出する。
七十六年前に始まった旧監査台帳の封緘。その継続記録。そして三年前、父アルベルトが接続者の公名省略と代替承認に異議を出し、王国保全命令によって審査が止まっていた事実。
セヴランは書類を受け取り、受領欄に目を留めた。
「……私の名前ですね」
「ええ。三年前、この異議について報告を受けていますの?」
「受領しました。ただ、停止の命令を出したのは私ではありません」
「承知しています。では、王国が止めた理由はお聞きになりました?」
セヴランは返事を急がなかった。
「当時の回答を調べさせましょう。記録がなければ、そう報告させます」
隣の審問官が顔をしかめる。
「閣下、王国保全命令について教義院がそこまで調べる必要がありますか。国防上の判断です」
「命令を受け取ったのは教義院です。何を受け取り、誰が処理したかくらいは分かるはずでしょう」
「しかし王国との関係が――」
「王国へ抗議するとは言っていません。まず記録を見たいのです」
穏やかな口調のまま、セヴランは言い切った。
父の申立てを受け取っていながら、その後の扱いを見直さなかった人。それが、今わたくしたちの前に座っている大司教だ。
彼を信用するには早い。けれど、王国の言い分をそのまま飲み込むつもりもないらしい。
「記録官。王国保全命令の発令元と、教義院側の受領経路について照会を準備してください。原本の保全も求めます」
記録官が筆を走らせる。
セヴランが改めてシュテルへ向き直った、そのときだった。
頭上で、硬いものが割れる音がした。
◇
上の回廊から、白い羽根が落ちてきた。
誰かが息を呑むより早く、石弓の弦が鳴る。
「伏せて!」
シュテルが腕を振る。《星盾》が高壇の前に広がり、セヴランの胸を狙った矢を弾き返した。
石の壁に矢じりが当たり、乾いた音を立てる。
見上げると、回廊の北側に石弓兵が二人。反対側の柱の陰には、白い仮面の人物が立っていた。
見間違えようがない。
「……白鳥」
《黒宴》で目にした、あの仮面だ。
「久しぶりだな、黒薔薇」
術具を通したくぐもった声が降ってきた。
わたくしが答える前に、室内右手の側扉が乱暴に開いた。胸当てを法衣の下に隠した男が三人。先頭は剣、二人目も剣、最後尾は小型石弓を構えている。
守備騎士が踏み出す。入口を守っていたもう一人の騎士は、壁際の警鐘を叩いた。廊下の向こうから、増援の足音が近づいてくる。
「武器を捨てろ!」
「王国保全令だ! ノワールヴェインと証拠を引き渡せ!」
剣を持つ男が、封蝋付きの文書を一瞬だけ掲げた。
「命令書を見せなさい」
セヴランの声だった。
「閣下、邪魔をなさらない方がいい」
「誰の署名ですか」
男は答えず、証拠の封筒を抱えるイルマへ駆け出した。
話し合いに来たのではない。
わたくしは《ブラッドアルカナ》を一枚、イルマの前へ滑らせた。赤い札が彼女と男の間に立ち、振り下ろされた刃を受ける。響いた金属音に重なって、上から二本目の矢が飛んできた。
「シュテル、上を!」
「はい! 皆さん、壇の後ろへ!」
彼女が盾の角度を変え、セヴランと記録官を光の陰へ押し込む。
攻撃を検知した監視印が赤く点滅し、非常時の制限解除を告げた。防衛術式が自由に使えるようになる。だが、今さらだ。襲撃者はとうに構えている。
カルマがわたくしの肩越しに出入口を見た。
「銃、取ってくる。ここは任せた!」
「ええ、気をつけて!」
彼は入口の守備騎士へ走る。保管箱は廊下側、わたくしたちの背後だ。男たちが侵入した側扉とは離れている。
ゼェレは石卓の脚を蹴った。
「リゼリア、下は僕も見るよ!」
「お願いします!」
彼女が床に手を当てると、石が短い壁になって盛り上がった。証拠の封筒を守るイルマの前に、わたくしの札とは別の遮蔽ができる。
先頭の男が壁を回ろうとした。ゼェレの指先から銀色の細い鎖が飛び、剣を持つ腕を柱へ引き寄せる。
「ぐあっ!」
男が悲鳴を上げる。
ゼェレはそちらを見たまま、もう片方の手が腰へ伸びるのを見逃さなかった。水銀の針が腕を貫き、隠していた小型の刃が床に落ちる。
「まだ何か持ってる?」
その問いに男が答えるはずもない。ゼェレは素早く懐を探り、足元の床石をせり上げて膝も固定した。
動きを止めるまでが、あまりにも早い。
わたくしが驚いている間にも、上段の矢が盾に当たる。
「リゼリア! 右の射手が、こちらへ回っています!」
シュテルが指した先で、石弓兵の一人が回廊を移動していた。盾の側面から記録官を狙うつもりだろう。
わたくしは二枚目の札をその足元へ送り、《チェーン》を伸ばす。弓兵は手すりにつかまって身を引き、撃つ姿勢を崩した。
その隙に下段の二人目が剣を振るう。
わたくしは三枚目の札で刃を逸らし、床へ滑らせた札から血糸を巻きつけた。腕を引き、剣を落とさせる。相手が膝をついたところで、拘束を緩めずに済ませた。
第59話の記憶が、手首に残っている。
傷つけたくないからと手を緩め、カルマに命を奪わせた。あの時の判断を、もう繰り返したくなかった。
だから、痛がる声が聞こえても力を抜かない。シュテルもまた、《星盾》の陰から飛び出そうとした敵を光の縁で打ち倒し、騎士が剣を奪うまで見届けていた。
上で何かが割れる音がする。
白鳥が小さなガラス球を投げ下ろした。
中で白い火が揺れている。落ちる先は、イルマが庇う証拠の封筒だった。
「焼かれる!」
わたくしは四枚目の札を離し、先にイルマを守っていた一枚目と《キャスリング》で位置を入れ替えた。新たに現れた札が球の落下線へ入り、斜めに弾き飛ばす。
ガラス球は無人の壁際で砕けた。白い炎が石壁を舐め、古い油のような嫌な匂いが広がる。
証拠は無事だ。
けれど白鳥は続けて、もう一つ投げようとしていた。
「もう一個ある!」
ゼェレが叫ぶ。同時に床から伸びた石の薄板が、封筒の上に張り出した。
「守って! 熱で封蝋が割れる!」
ゼェレの言葉を聞き、イルマは封筒を胸に抱えたまま低く身を伏せた。
白い火が石板の上で弾ける。砂と粉塵が落ちてきて、喉に貼りついた。
そのとき、高壇の右にいた審問官が席を離れた。証拠箱の錠へ、何か小さな鍵を差し込もうとしている。
「そこの方、何をなさっていますの!」
「これは保全のためだ!」
男が答えた瞬間、入口から駆け込んだ騎士がその腕を取った。鍵が石の床を跳ねる。わたくしはそれを横目に見たが、追及する余裕はなかった。
ゼェレの額に汗が浮かぶ。石板を維持したまま、拘束した男の腕も離していない。
右手の側扉から入った最後の男が、石弓を上げた。
狙いはイルマだ。
わたくしは五枚目の札を飛ばしかけたが、斜め後ろから声がした。
「そいつは俺がやる!」
カルマが戻っていた。
《赤鐘》の銃口が閃き、男の手元で火花が散る。石弓が弾かれて床に滑る。相手が身をかがめた瞬間、カルマは横から踏み込み、銃を持たない手で襟を掴んで倒した。
「騎士さん、こいつ押さえてくれ!」
「任せろ!」
入口側の騎士が取り押さえ、カルマはすぐに上を見た。
二発目の銃声。
石弓兵の足元の石が砕け、相手が手すりから離れた。その一瞬で、上段へ続く階段を駆け上がっていた別の騎士が距離を詰める。
残る一人は、まだ白鳥の隣にいる。
「いい加減、降りてきたらどうですの!」
わたくしが声を張ると、白い仮面がゆっくりこちらを向いた。
「名乗ったばかりのところ、悪いな」
「わたくしの名前が、それほど邪魔ですの?」
「さあな」
それきりだった。
白鳥は身を引き、隣の射手に何かを合図した。射手が最後の矢を放つ。狙いはわたくしではなく、シュテルの《星盾》を支える足元の床だった。
石が弾け、シュテルが一歩よろめく。
「シュテル!」
「大丈夫です!」
盾は消えない。その間にわたくしは五枚目の札を二方向へ散らす《フォーク》を放った。分かれた赤い軌跡の片方が射手の足元を塞ぎ、もう片方が白鳥の進む手すりへ伸びる。
射手は退路を失い、階段から駆けつけた騎士に捕まった。
白鳥だけが手すりを踏み越えた。
細い金属線が上の窓枠へ走る。わたくしの札は白い袖を掠めたものの、身体を捉えられない。窓の向こうに吊り下がる影が、外壁に沿って滑り降りる。
「逃げるぞ!」
カルマが窓へ駆け寄ろうとした。
だが、その足をわたくしは声で止めた。
「待って! まず証拠ですわ!」
通路にはまだ拘束された兵士たちがいて、焼却具の火も完全には消えていない。白鳥を追って封筒を残せば、ここで守ったものが無駄になる。
カルマは悔しそうに舌打ちしたが、銃口を下ろした。
「……分かった。おい、窓の外、見張れるか!」
騎士が駆け、外側の警戒へ向かう。
もう一度、誰かの足音が激しく響くかと思った。
しかし聞こえてきたのは、負傷した男の呻き声だけだった。
◇
審問室の床には、割れたガラスと白い粉が散っていた。
わたくしはその場で五枚の札を維持し、騎士が襲撃者三人を確実に拘束したのを見届けてから回収した。上段の二人も、生きたまま連れ下ろされる。
白鳥だけが逃げた。
ゼェレは石板を床へ戻し、支えていた腕を軽く振る。
「ふう。あれ、もう一個投げられてたら危なかったね」
「助かりましたわ。封筒まで守ってくださって」
「せっかく取った記録だもの。ここで燃やされちゃ困るよ」
いつもどおりの軽い調子だったが、袖は煤で汚れていた。わたくしは彼女の手に傷がないことを確かめ、ようやく息をつく。
カルマも左の袖を指でつまんだ。布が薄く裂けている。
「また服がやられた。縫うの面倒だな」
「腕は?」
「かすっただけ。後で見せる」
「今です」
振り返ると、シュテルがすぐ後ろにいた。彼女はカルマを椅子へ座らせ、袖を上げて傷の具合を確かめる。
「……本当に浅いですね。でも消毒はします」
「へいへい」
その横で、先ほどゼェレに腕を刺された男が呻いた。石壁に拘束されたままだったが、出血が止まっていない。
シュテルは包帯を取り出す。
「騎士の方、こちらの拘束を確認していただけますか。手当てをします」
セヴランが近くから声を掛けた。
「あの男にも?」
「出血が多いので。話を聞くにも、まず治療しないと」
「……そうですね。手伝える者を呼びます」
シュテルは騎士が男の腕を押さえるのを待って、傷口に祈祷を施した。無理に手を自由にはしない。傷を負わせた相手だからと放っておくこともしない。
彼女がようやく身につけた、その両立の仕方だった。
イルマは焦げた封筒を持ち直し、記録官と一緒に中身を確認している。幸い、認証写しは読める。端の封蝋は一部欠けたものの、破損した場所を騎士団の目の前で書き残せば、少なくとも後から隠して直したと疑われることはない。
セヴランは記録官のところへ歩み寄った。
「封印し直す前に、元の状態を写してください。壊れた箇所も、そのままで」
「はい」
次に、証拠の封筒へ手を伸ばしていた審問官が連れて来られる。襲撃が始まった直後、彼は持参した鍵で箱を開けようとしていたのだ。騎士に止められ、鍵を没収されている。
「なぜ鍵を持っていたのですか」
セヴランは低い声で尋ねた。
「保管担当から預かったものです。王国からの命令が来た以上、資料を移す必要があると……」
「どこへ?」
「それは……」
「分かりました。預けた者の名前を記録してください。あとで確認します」
怒鳴りはしなかった。けれど、その審問官はますます顔を青くした。
白鳥と通じていたのか。それとも、自分だけは正しい手続きだと思い込んでいたのか。どちらにせよ、今ここで結論を出すことはできない。
セヴランは上段の壊れた手すりと、焦げた石卓を順に見た。
「……ここまで来るとは思いませんでした」
独り言のような声だった。
わたくしは答えなかった。彼が王国にどう向き合うかは、これからの行動で分かる。
やがて騎士団による負傷者の搬送が始まり、室内の警戒が整ったところで、セヴランはシュテルを呼び戻した。
「シュテル。まだ動けますか」
「はい」
「審問の結論を伝えます」
記録官が新しい紙を置く。シュテルは傷ついた外套を整え、高壇へ向き直った。
「地下施設への無断侵入と武力行使について、ひとまず処分は問いません」
「……よろしいのですか」
「赦免ではありません。今日の襲撃を見た以上、先に君だけを裁くわけにはいかない。何が起きていたのか、調べる必要があります」
セヴランは記録官へ、今の判断をそのまま残すよう告げた。
「亡くなった警備兵のことも、調査が済むまでは結論を出しません。君にも、その点は覚えておいてほしい」
「はい。忘れません」
シュテルの返事は短い。
「それから、シュテル・シュトラール」
「はい」
「君に調査を命じます」
室内にいた者たちが顔を上げた。
「王国保全命令がどこから出たのか。教義院では誰が受け取り、どの権限で処理したのか。今日、襲撃者が持っていた命令書が本物かどうか。記録と証言で確かめてください」
「私が、ですか」
「現場を見てきたのは君です。責任を問われる立場でもある。だからこそ、自分に都合のいい報告では困りますよ」
「もちろんです」
セヴランは頷いた。
「今まで留保していた単独強制調査権は、この件に必要な範囲で使えるようにします。ただし、強制立入には守備騎士団を同行させること。名録院への照会はこちらから正式に出します。調査結果は、君自身が審問会に報告してください」
シュテルはしばらく黙った。
あの地下では、許可を待たずに動いたことを責められた。今は同じ教会から、調べてこいと命じられている。立場が変わったからといって、死んだ二人が戻るわけではない。それでも、これから何をすべきかは明確になった。
シュテルは卓に置いていた審問印を取ると、胸元に戻した。
「承りました。必ず報告します」
セヴランはその姿を見てから、わたくしへ視線を移した。
「リゼリア・ノワールヴェイン。君の監査権の申立てについても、まだ審査は終わっていません」
「承知しております」
「今日は君の身柄について判断する場でもありません。ですが、後日、必要な説明を求めることになるでしょう」
「そのときは、お答えいたしますわ。こちらからお尋ねしたいこともございますし」
セヴランは、わずかに眉を動かした。
「そうでしょうね」
それだけだった。
彼がわたくしたちの味方になったわけではない。けれど、少なくとも教会が受け取った王国の命令について、彼はもう知らぬ顔ではいられないはずだ。
◇
審問棟を出ると、午後の光がやけに眩しかった。
カルマは階段の途中で肩を回し、軽く息を吐いた。
「結局、昼飯食い損ねたな」
「今、それですの?」
「腹が減るもんは仕方ねえだろ。それに、シュテルはちゃんと戻ってきた」
シュテルが笑う。
「ご心配をお掛けしました」
「心配させたつもりがあるなら、次は呼び出す側にしてくれ」
「今回の調査が終わったら、そうなれるかもしれませんね」
「頼むぜ」
ゼェレは並んで歩きながら、煤のついた袖を眺めていた。
「僕も帰って着替えたいなぁ。あの火、匂いが取れないんだよ」
「工房へ戻りますの?」
「うん。測定器も調整したいし。必要なら呼んでよ。しばらくは付き合うからさ」
「助かります。まだ調べたい記録が山ほどありますから」
シュテルが答えると、ゼェレは満足そうに頷いた。
わたくしは三人の横顔を順に見た。
命じられたのはシュテルだけだ。わたくしが教義院に仕える理由も、カルマが王国の命令に従う理由もない。ゼェレに至っては、何を考えてここまで手伝ってくれるのか、いまだに分からないところがある。
それでも、今は四人で進む。
「シュテル。まず、王国側の照合記録からですわね」
「はい。今日の襲撃命令書も、騎士団の保全記録と照らし合わせます」
「なら俺は、捕まえた連中がどこから入ったか聞いてくる。白鳥の逃げ道も調べたい」
「僕は焼却具の破片を見たいな。材質が分かれば、作った場所も絞れるかもしれない」
「……皆さん、もう次の仕事の話ですか」
シュテルが目を丸くする。
「あなたが調べろと命じられたのですもの。お手伝いするに決まっていますわ」
カルマも肩をすくめた。
「ま、放っといたらまた一人で突っ込むだろうしな」
「そんなに無茶ばかりしていません」
「地下に入ったばかりの頃の自分に言ってみなさいな」
「……それは、反論しづらいです」
思わず笑ってしまった。
けれど、イルマが守り抜いた認証写しのことが、頭から離れなかった。
父の異議を止めた命令と、今日の審問会へ持ち込まれた命令。そのどちらにも、調べるべき名前が残っているはずだ。
聖都でできることを、最後までやり遂げよう。
あの厚い壁の向こうにあった記録は、今日も焼かれずに残った。
わたくしは三人と並んで階段を下りた。




