第66話 黒薔薇の公名
朝、鏡の前に立って、わたくしは襟元の黒薔薇を留め直した。
宿の窓を開けると、聖都の石畳には夜の雨がまだ残っていた。荷車が水を跳ね、向かいの店先で老人が濡れた看板を拭いている。鐘が鳴るまでには少し時間がある。
黒い衣装も、胸元の赤い宝石も、いつもと変わらない。
変えるのは名前だけだ。
机には王立名録院から届いた申請書がある。昨夜、騎士団を通じて取り寄せたものだった。
〈登録公名による本人確認申請〉。
その下に、小さく注意書きが続く。申請された公名の存否、権利の制限、継承資格については、本人確認とは別に審査する。犯罪捜査に係る照会がある場合、管轄機関へ通知することがある。
わたくしの名前が王国の帳簿に載れば、追手を招くことにもなる。
そのことを知らずに、ここまで来たわけではない。
扉が二度、軽く叩かれた。
「リズ、起きてるか?」
「ええ。どうぞ」
カルマは扉を開けるなり、机の紙に目を落とした。
「……本当に出すんだな」
「ええ」
「止める気はねえけど、確認だけはさせろ。名前を照合した瞬間、王国に居場所が伝わる可能性がある」
「承知していますわ」
「指名手配を見てる兵士がいれば、その場で押さえようとするかもしれねえ。それでも?」
わたくしは申請書を持ち上げた。紙の端は、昨夜何度も触ったため少し柔らかくなっている。
「地下で見つけた帳票には、人の名前を消すための手順が残されていました。でも、その記録を確かめる資格があるかどうかを問われれば、今のわたくしはリズ・ヴァーレンとしか答えられません」
カルマは黙って聞いていた。
「名前を守るための制度に、偽りの名前を示して権限を求める。それでは、わたくし自身が監査の意味を損なってしまいますわ」
「分かった」
答えは短かった。
「じゃあ今日の仕事は、扉を開けることと、開けた先でおまえを連れて帰ることだな」
「随分と頼もしいこと」
「王国の兵隊と撃ち合いたいわけじゃねえぞ。先に言っとく」
「それは、わたくしも同じですわ」
彼は肩をすくめた。軽い調子だったが、腰の《赤鐘》には手を触れない。公的な照合室へ武器を持ち込む以上、最初に疑われる行動をしないと決めているのだろう。
階下では、シュテルが申請に添える書類を並べていた。
昨日の教義院審議の議事録、名録院の中継記録の保全証明、守備騎士団の照会状。それぞれに日付と受領印がついている。
「おはようございます、リズさん」
いつもの呼びかけに、わたくしは一瞬だけ足を止めた。
シュテルが顔を上げる。
「……あの。今日は何とお呼びすれば?」
「今は、いつもどおりで結構ですわ」
「分かりました」
彼女は書類の角を揃えた。
「私の審問印は、今回の照会を強制するためには使えません。ですが、地下施設で見たことについて証言するのは制限されていません。騎士団の方にも、その点は確認しました」
「ありがとう、シュテル」
「それと……もし、名乗ったことで拘束を求められても、私は事実を話します。あなたが何をしてきたのか、私が見た範囲で」
彼女の指は、書類を押さえたまま動かなかった。
処刑を免れた反逆者を庇う、と見なされるかもしれない。それを承知しているのだろう。
「無理に証言を引き受けなくても――」
「私が決めました」
シュテルは静かに言った。
わたくしは小さく息を吐き、頷いた。
そこへ、皿を片手にゼェレがやってきた。朝から蜂蜜菓子を二つも持っている。
「ねえ、申請書に書く番号だけどさ。教義院の送達番号と、名録院の中継番号を両方添えておいて。片方だけだと、向こうは別件扱いにできちゃうから」
「もう書き添えてありますわ」
「さすが。じゃあ、あとは記録をちゃんと同じ机に並べてもらうだけだね」
彼女は菓子を頬張り、窓の外へ目を向けた。
「今日は機械が壊れないといいなぁ」
「あなたがそう言うと、嫌な予感がしますわね」
「僕が壊したわけじゃないでしょ?」
口元に粉をつけたまま、ゼェレは不満そうに眉を寄せた。
その様子に、シュテルがようやく少し笑う。
わたくしたちは四人で宿を出た。
◇
王立名録院の聖都照合分室には、昨日より多くの人がいた。
大きな窓口に並ぶのは、土地の相続を申請する家族や、婚姻名の変更を届ける者たち。その奥の廊下には守備騎士団の二人が立ち、さらに先で教義院の白い外套が揺れている。
わたくしたちの申請は、通常の窓口で済むものではなかった。
待合室の端で、担当官イルマ・レントが迎えてくれた。
「本日は公開の本人確認ではありません。騎士団立会いの正式照合です。関係者以外には立ち入らせません」
「公開されない、ということですの?」
「室内の記録は保存されます。必要な手続きを経れば、関係機関へ伝達されます。街頭で名乗るのとは異なりますが、秘密にはできません」
わたくしは頷いた。
その違いは大切だった。誰もがわたくしの名前を知る必要はない。しかし、いま問おうとしている制度の前で、名前を曖昧にすることもできない。
「教義院側は?」
「監査対象となる〈受領継続通知〉の発行元として、閲覧の立会いを認めました。照合作業を指揮する権限はありません」
イルマの視線が廊下の向こうへ向く。
白い外套の間から現れたのは、セヴラン・グランツ大司教だった。
「おはよう、リズ・ヴァーレン」
「おはようございます、大司教」
「昨日、橋の上で言っていた『必要な場』とは、ここだったか」
「ええ。お招きした甲斐がございましたわ」
「何を証明するつもりかは知らないが、王国の名録に関わる手続きだ。私にできるのは立ち会い、教義院に関係する部分を確認することだけだよ」
「それで十分です」
セヴランはシュテルを見た。
「君も同席するのか」
「はい。騎士団の依頼で、地下施設の証人として」
「審問官としての強制権限は使わない、と」
「そのとおりです」
シュテルは、胸元の審問印に触れなかった。
大司教はそれ以上問い詰めず、イルマに先を譲った。
案内された照合室は、昨日の中継筒の部屋より小さい。中央に一台の石卓があり、背面の壁には古い家名や監査職の紋章が刻まれていた。
石卓の上には、三つのくぼみがある。一つは申請書を置く平面。二つ目は公名証を載せる銀の受け皿。最後の一つには、手を置くための黒い石板が嵌められている。
「ここから先は、照合担当者の説明をよくお聞きください」
イルマが椅子を引いた。
「本人確認には、公名を告げる意思、照合に使う生体魔力、参照可能な既存の登録履歴が必要です。結果として、法的な権限が認められるとは限りません」
「承知していますわ」
「また、申請者が王国の捜査対象である場合、その事実も別途記録されます。申請したという理由だけで拘束の可否を決めるものではありません」
カルマがわずかに位置を変えた。わたくしの真横ではなく、扉と卓の双方が見える場所へ移る。
緊張しているのだろう。わたくしも同じだった。
「では、申請する登録公名をお知らせください」
イルマが筆を取る。
わたくしは、まだ空白のままの署名欄を見つめた。
リズ・ヴァーレン。
港へ入るために作った名だった。宿を借り、商人と交渉し、幾度となく呼ばれた。危険な夜には、あの名がわたくしを守ってくれた。
だから、あの名前を嫌ったことはない。
むしろ、よく働いてくれたと思っている。
しかし、父が守ろうとした名録に触れるなら、ここから先は別の名を示さなければならない。
「その前に、一つだけ確認させてくださいませ」
わたくしはイルマへ向き直った。
「今日ここで本名を照合した場合、以前の偽名についても、あなた方の記録に残りますか」
「既存の別公名が同一人物に結びつく場合は、関連を記録します。削除することはできません」
「結構ですわ」
隠していた名前を明かすために、別の名前を誰かに押しつける必要はない。
わたくしは右手の手袋を外した。
「申請者は――」
喉が、少しだけ乾いた。
三年前の広場を思い出す。人々の罵声、父の背中、白く光る処刑台。名を呼ばれるたび、家族の罪とされたものが、わたくしの身体に降り積もっていった。
あの日、わたくしは死んだことになった。
それでも生きて、ここへ来た。
「リゼリア・ノワールヴェイン」
声は、思ったよりはっきり響いた。
「アルベルト・ノワールヴェインの娘にして、ノワールヴェイン家の最後の生存者。王国が殺し損ねた黒薔薇ですわ」
筆の先が、紙に触れる音まで聞こえた。
イルマの指が一瞬止まる。後方で誰かが衣擦れの音を立てた。
シュテルは何も言わない。カルマも、まだ口を開かなかった。
セヴランだけが、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか。あの家の娘だったのか」
驚きがどれほど本物か、わたくしには分からない。
「記録には、三年前に処刑されたとある」
「その記録が、何を根拠に作られたのか。わたくしも知りたいところですわ」
セヴランはわたくしの顔から目を逸らさない。
「では、君が地下に踏み込んだ目的も、私怨からではないと証明する必要があるね」
「私怨がないとは申しません」
わたくしは答えた。
「父のことを調べたい。それは事実です。ですが、あの寝台で名前も呼ばれずにいた方々を見たのも、同じく事実ですわ。わたくしの動機と、押収された帳票の真偽は、別々にお調べくださいませ」
イルマが筆を動かす。
わたくしの発言は、照合の記録へ残されていく。
「本人確認を進めます」
彼女の声は、わずかに強張っていた。
◇
黒い石板に右手を置いた。
冷たい。石の内部を細い魔力の線が走り、指先から掌へと淡い光が広がる。
イルマが銀の受け皿へ照合用の薄い名札を置く。
「お申し出の公名を参照します。生体魔力を流してください。必要以上に強くしないでください」
わたくしは呼吸を整え、ほんの少しだけ魔力を流した。
石板の光が揺れた。
壁の紋章のうち、一つだけが赤く灯る。
『登録公名照合中』
『対象公名――リゼリア・ノワールヴェイン』
その文字を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
誰に名乗ったわけでもなく、帳簿に自分の名前が現れただけなのに。
『死亡登録あり』
『王国保全命令による記録制限あり』
続いて、石板に薄い亀裂のような光が走った。
イルマの顔が曇る。
「過去の死亡登録と、現在の生体照合が衝突しています。通常の身分証明書を発行できません」
「では、申請は却下ですか?」
シュテルが尋ねる。
「いいえ。こうした衝突を無かったことにしてはいけません。本人が生存していることの確認と、過去の死亡記録の訂正は、別の手続きです」
イルマは隣の職員に封印紙を求めた。
背後で立会騎士が書類をめくる音がした。
「ノワールヴェインの公名には、王国からの指名照会も残っています。ただし死亡登録のままなので、現行の拘束命令が有効かは確認を要します。本日の照合結果は、所定の手続きで管轄へ報告します」
カルマがこちらを見た。
「構いませんわ」
自分で名乗った以上、都合の悪い記録だけを隠してほしいとは言えない。だからといって、理由もなく連行されるつもりもなかった。
「照合結果の保全を先に行います。原本の履歴はそのまま残します」
わたくしは、石板の光を見下ろした。
死んだことになった自分と、いまここにいる自分。二つを同じ帳簿の上に並べられるとは、妙な気分だった。
「追加の根拠はお持ちですか」
「ございますわ」
わたくしは左手を胸元に当てた。
薄い赤色の魔札が一枚、指の間に現れる。
警備の騎士がわずかに身構えた。
「攻撃には使いません。監査書に残る照合痕を示すためです」
先に用途を伝え、イルマの許可を待つ。
「術式の発動は、職員の確認できる範囲に限ります。記録へ干渉しないことを条件に認めます」
わたくしは頷いた。
魔札に触れたのは、かつて《無名簿》と呼ばれた監査書から取り戻した《ローズ・リスト》の照合痕だった。
人の名前を勝手に開くことはしない。ここで示すのは、ノワールヴェイン家に結びつく監査術式の識別部分だけだ。
魔札の内側に、赤い細線が浮かび上がった。
壁の紋章が再び灯る。今度は白い光が重なった。
『旧監査設計系統――ノワールヴェイン』
『根源照合痕、一致』
『継承権限――現行状態を別途審査』
イルマが、深く息を吸い込んだ。
「……本人照合の根拠としては受理できます。けれど、正規の監査権を現在行使できるかについては、別の話です」
「分かっていますわ」
わたくしは魔札を消し、石板から手を離した。
手のひらには、細い光の余韻が残っていた。
父の名が使われたものを、父の娘として見ることができる。
それだけで、すべての記録が開くわけではない。
けれど、誰がどの権限を使って扉を閉じたのか、正式に問う場所には立てる。
「申請者の身分について、発言してもよろしいかな」
セヴランが口を開いた。
イルマは頷く。
「立会人としての意見は記録します。ただし本人確認の結果は、名録院が判断します」
「承知している」
大司教はわたくしへ向き直った。
「君が本当にノワールヴェイン家の娘なら、王国が発した処刑命令に関する問題が生じる。さらに、この一連の調査を君が主導していたことも、違う意味を持つだろう。地下で二名の警備兵が命を落とした件も、別に審査される」
「ええ」
「シュテルが、その名を知ったうえで協力していたこともね」
シュテルが顔を上げた。
「私は、自分の行動について説明できます」
「君の誠実さを疑っているわけではない。審問官の立場で、王国の追及対象者と行動を共にした。その判断を問う必要はある」
「必要であれば、正式な場でお答えします」
彼女は言い切った。
セヴランの眼差しが一瞬だけ鋭くなる。
わたくしは、その前へ進もうとはしなかった。シュテルが自分で選んだ言葉を、わたくしが遮る理由はない。
「大司教」
代わりに、わたくしは告げた。
「その審議には、地下の患者の証言と、押収された記録も添えてくださいませ。誰と行動したかだけでは、彼女が何を守ろうとしたかは判断できません」
「それも、正式な手続きで求めることになる」
「ええ。ですから、いまお願いしておりますの」
セヴランは沈黙し、やがて小さく頷いた。
反論しなかったからといって、認めたわけではない。わたくしも、その程度のことは承知していた。
◇
本人照合が終わったあと、申請書には新しい紙が一枚添えられた。
〈生存申告受理・死亡登録との衝突を保全〉。
さらに、正規監査権継承に関する申立ては〈審査受付〉と記された。許可ではない。
「これで、今日からすべての台帳を開けるわけではないんですね」
シュテルが確かめる。
「はい」
イルマは明瞭に答えた。
「ですが、申立人が誰であるかは確認されました。今後の照会を、身元不明を理由に門前払いすることはできません。権限を認めるか、拒むか、追加の資料を求めるか。その判断に責任者の名が必要になります」
その言葉に、わたくしは思わず顔を上げた。
責任者の名。
いま、最も欲しかったものだった。
「では、昨日の〈権限代行照合〉について、審査の対象に加えていただけますか」
イルマが文書を受け取り、送達番号を確認する。
「その手続きは可能です。ただし、閲覧できる内容には制限があります。名録の権利当事者でない人物の氏名を、申請人へそのまま開示することはできません」
「もちろんですわ。必要な範囲を超える名前は求めません」
イルマは別の用紙を取り出した。
「では、まず申請された照合番号に対応する、権限発行元の分類記録を確認します。個人名を含まない範囲です」
職員が、石卓の隣にある小型の記録筒へ符号を入力した。
歯車が三度、乾いた音を立てる。
紙帯が一枚、押し出された。
イルマはそれを手元で読み、表情を引き締めた。
「……これは」
「何かございましたか?」
「教義院の代行承認に対応する照合経路について、発行元の分類が残っています」
彼女は紙帯を立会騎士へ渡した。
わたくしも、許された位置から文字を追う。
〈権限分類 王立名録院・公名保全系統〉。
〈照合用途 白冠補完導路・接続名録〉。
〈発行手順 代行経路〉。
そこまで読んで、わたくしは息を止めた。
地下で見た帳票と、同じ言葉が並んでいた。
「王立名録院から命令が出された、ということですか」
シュテルが尋ねた。
「いいえ」
イルマはすぐに首を振った。
「名録院の権限分類を使った照合があった、という記録です。誰が申請し、適法に認められたかは、ここからは分かりません。王国が患者の接続を許可した証拠にもなりません」
その線引きは、正しかった。
だからこそ、わたくしは次の行を確かめる。
〈登録参照先 旧公名監査台帳〉。
「……旧監査台帳」
思わず、声が漏れた。
父の時代に使われていた書式だろうか。それとも、もっと古いものなのか。
まだ判断はできない。
だが、王国側の照合経路が、人々の公名を守るための監査系統と接続していることだけは、確かになった。
「その台帳は、閲覧できますの?」
「現行の閲覧区分を確認しなければなりません」
イルマが答えた。
「それと、この『旧』という表記だけで、ノワールヴェイン家の台帳だと決めつけないでください。かつて同様の監査を担っていた部署は複数あります」
「ええ。分かっておりますわ」
わたくしは軽く頷いた。
何もかもが父に繋がっていると思えば、見えるものまで見失う。
イルマは紙帯を正式な封印袋へ入れた。騎士団の立会印が押される。
セヴランは、その一連の手順を黙って眺めていた。
「大司教にも、ご確認いただけますか」
わたくしが呼びかけると、彼は顔を上げた。
「教義院が受領継続通知を登録したことと、この分類記録が一致すること。今日はそこまでが確認できた、と議事録に残したいのです」
「一致する、という言葉は慎重に使うべきだね。番号の対応は確認できても、通知の適法性を認めたことにはならない」
「おっしゃるとおりです。では、番号が対応している事実だけを残してくださいませ」
セヴランは、イルマを見た。
「そう記すなら、異論はない」
わたくしは静かに息を吐いた。
彼が認めたのは、ほんの数行の事実だ。
けれど、それは明日になって言い換えられてよいものではない。
イルマが記録欄を書き終えると、大司教は席を立った。
「リゼリア・ノワールヴェイン」
その呼びかけに、室内の空気がまた少し変わった。
「君がその名で歩くと決めたなら、王国も教会も、それに応じた判断をすることになる」
「はい」
「私は君の父を知らないわけではない。だが、彼の名を持ち出せば、すべてが許されると思わないことだ」
「そんなつもりはございませんわ」
わたくしは、正面から大司教を見た。
「父の名を利用している者がいるのなら、その事実も明らかにしたいのです。誰であろうと」
セヴランの眉が、わずかに動いた。
彼は返事をせず、ゆっくりと礼をした。
扉が閉じるまで、誰も口を開かなかった。
◇
昼を過ぎ、名録院を出たころには雨雲が切れていた。
守備騎士団の詰所へは、立会騎士が先に戻っている。押収記録と、今日の照合結果をそれぞれ別の封印袋で保管するためだ。
わたくしたちは運河沿いを歩いた。荷を積んだ小舟が橋をくぐり、川面に白い鐘楼が揺れる。
「……よかったんですか」
シュテルが、不意に口を開いた。
「何がですの?」
「お名前を、正式に出したことです。私は嬉しかったです。でも、あの記録が王国へ渡れば、危険も増えます」
「ええ。増えるでしょうね」
「それでも、ですか」
わたくしは橋の欄干に手を置いた。
湿った石の冷たさが、手袋越しに伝わってくる。
「怖くないわけではありませんわ。でも、わたくしが守りたかったのは、ノワールヴェインという名前だけではありませんもの。サビーネさんが自分の名を口にできることも、あの地下で眠っていた男性が、いつか誰かに名前を呼ばれることも」
シュテルは黙って聞いていた。
「自分の名前を隠してきた理由はあります。けれど、隠し続けることを、誰かの名前を守れない理由にしたくはありません」
「……はい」
彼女は目を伏せ、小さく笑った。
その横からカルマが口を挟む。
「しかしまあ、やっと普通に呼べるな」
「……何のことですの?」
「おまえの名前だよ。そろそろリズって呼ぶのも板についてきたが、本名を知ってる俺らからしたら、いつ口が滑るか分かったもんじゃねえ」
「随分と器用に使い分けていらしたではありませんか」
「そりゃ俺だって気ぃ遣うことくらいあるさ」
「まあ、そうでしたの?」
「おい。今のは驚くところじゃねえだろ」
シュテルが堪えきれずに笑う。
わたくしも、つられて笑ってしまった。
最後にこの二人と声を上げて笑ったのは、いつだっただろう。
「……ありがとうございます、カルマ」
「ん?」
「これまで、黙っていてくださって」
彼は少しだけ目を細めた。
「約束した覚えはねえけどな。おまえが自分で言うまで、俺が勝手に剥がす名前じゃねえと思っただけだ」
そして、いつもの調子で続ける。
「ま、これからは遠慮なく呼ぶぜ。リゼリア」
胸の奥が温かくなった。
「ええ。そうしてくださいませ」
「私も、よろしいですか」
シュテルが少し身を乗り出す。
「もちろんですわ」
「……リゼリア」
彼女は確かめるように、ゆっくりと口にした。
わたくしは、その声を聞いて頷いた。
ゼェレは少し後ろを歩きながら、露店で買った焼き菓子の包みを開いていた。
「ねえ、名前の話が終わったならさ。今日の書類、帰ったら一緒に整理しようよ。せっかく新しい記録が手に入ったんだし」
「本当に研究熱心ですわね」
「いやぁ、あれだけ大きな仕組みを使って、誰がどこに印を押したか分からないなんて、僕には気持ち悪いんだよ」
「それは、わたくしも同感です」
「じゃ、決まり。あ、お茶菓子も頼んでいい?」
カルマが呆れたように笑う。
「おまえ、朝から食ってばっかりだな」
「頭を使うとお腹が空くんだって」
四人で橋を渡った。
笑い声が止むと、いつもの聖都の音が戻ってきた。舟の櫂、呼び込みの声、遠くの鐘。
名前を明かしたからといって、世界の景色が急に変わるわけではない。
変わったのは、その景色の中を歩くわたくしの立場だった。
◇
午後、騎士団の詰所で封印された照合結果を見直した。
今日確認できたことは、決して多くない。
中央教義院の〈受領継続通知〉に対応する照合経路には、王立名録院の公名保全系統が使われていた。だが、王国が個々の患者への接続を承認した証拠ではなく、代行権の行使者も、正式な任命元もまだ分からない。
わたくしの本人確認は受理された。死者としての登録との衝突も保全された。しかし、監査権の継承は審査中のままだ。
誰かの都合で、その違いを曖昧にしてはならない。
シュテルは騎士団へ証言を提出し、カルマは立会記録の受領印を確かめている。ゼェレは例の中継筒を思い出しながら、導路と照合方式の図を描いていた。
わたくしは、名前を記した申請書の控えを手に取る。
〈リゼリア・ノワールヴェイン〉。
文字はただの墨で、魔力を帯びているわけでもない。
それでも、その名を記した人間が、今ここにいる。
扉を叩く音がした。
立会騎士が、一通の書面を差し出す。
「王立名録院からの追加通知です。中央の本院へ、本日の本人照合と監査権申立てを送達したそうです」
わたくしは書面を受け取った。
そこには、本院での審査開始まで証拠の保全を継続する旨と、照合対象の旧監査台帳について、原本の所在確認を行う旨が記されていた。
しかし最後に、もう一行だけあった。
〈旧監査台帳のうち、白冠補完導路に係る記録は、中央教義院による封緘指定を受けている可能性がある〉。
「……教義院の封緘?」
カルマが顔を上げた。
「王国の台帳なのに、か?」
「可能性がある、とだけ書かれていますわ。誰が、どの権限で指定したのかはまだ不明です」
ゼェレが図を描く手を止めた。
「なら、次は封緘した時の記録だね。閉じた人がいるなら、閉じるための手続きもあったはずだよ」
「ええ」
わたくしは紙を丁寧に机へ置いた。
名前を明かしたことで、わたくし自身も追及されるだろう。
それは覚悟している。
だが同じ帳簿には、人々の名前を番号へ置き換えていった者たちの手も、残っているはずだった。
「参りましょう。まずは、誰がその台帳を閉じたのか」
シュテルが頷き、カルマが椅子から立ち上がる。
ゼェレも菓子の包みを畳んで、机の端へ置いた。
窓の外で、鐘が鳴る。
今度は、わたくし自身の名で、その記録を開く番だった。




