第65話 印を押した手
翌朝、宿の食堂へ降りると、カルマが朝食の皿を前にして、何やら難しい顔をしていた。
パンには手をつけず、代わりに細長い封筒を指先で裏返している。向かいに座るシュテルの前にも同じ紋章の封筒があった。
「おはようございます。何か届きましたの?」
「教義院からだとよ。こっちは騎士団経由の写し」
カルマが封筒を差し出す。
封蝋に押されているのは、中央教義院の環状印。その下に、シュテルの職務資格に関する審議の日付が記されていた。
処分の決定ではない。審議が終わるまでの間、聖盾審問官の権限を用いた新たな強制閲覧と、押収物の独断による移管を控えるよう求める通知だった。
「控えるように、ですか」
「まだ停止命令じゃないんです」
シュテルが頷いた。目の下に、薄い疲れがある。
「でも、私が審問印を示しただけで、職員の方が閲覧を認めてしまうかもしれません。あとでその方の責任にされるのは避けたいので」
「なら今日は、印に頼らない方法を考えましょう」
「……はい」
彼女は返事をしたものの、手元の茶は冷めかけていた。
わたくしは椅子を引き、隣に腰を下ろす。
「昨夜、王立名録院から仮回答がありましたわ。登録公名による本人確認が必要、と」
「偽名じゃ駄目なのか?」
カルマが何気なく尋ねた。
「本人確認の意味によります。単に現在の身元を照合するなら、リズ・ヴァーレンでも通るでしょう。けれど、ある人の公名に関する履歴を請求するなら、その人との関係を示さなければなりません」
「なるほどな。名前があるだけで、他人の過去を見放題ってわけにはいかねえか」
「ええ。それ自体は、守られるべき仕組みですもの」
わたくしが言うと、カルマはそれ以上聞かなかった。
事情を知っている彼は、ときどきこうして踏み込まない。
隣の卓ではゼェレが、パンに蜂蜜をかけすぎていた。こちらの話を聞いていたらしく、顔も上げずに口を開く。
「まずは照合路の使われ方だけ調べればいいんじゃない? 個人の名録を開かなくても、どこからどこへ返事が戻ったかくらいなら、機械の記録に残るでしょ」
「昨日の原簿にあった返送経路ですね」
「そうそう。人の名前を追う前に、紙の足跡を追うの」
蜂蜜が皿の縁から垂れそうになり、シュテルがそっと受け皿を差し出した。
「ゼェレ、そちらを使ってください」
「ありがと。あ、これ美味しいね」
あまりにも自然なやり取りに、わたくしは少し笑った。
地下で見せた、ためらいのない戦いぶりを忘れたわけではない。それでも今、彼女は確かに、わたくしたちのために考えてくれている。
◇
王立名録院の聖都照合分室は、大聖堂から運河を二本隔てた場所にあった。
聖都には王国の施設も多い。徴税や土地の権利、公名の変更といった仕事まで、教会だけで済ませられるわけではないからだ。
分室の外壁は淡い灰色で、入口の上には王冠と開いた帳簿を組み合わせた紋章が刻まれている。教義院の建物に比べれば地味だったが、出入りする人の数はこちらの方が多かった。
窓口には相続の相談に来た親子がいて、別の席では老夫婦が婚姻後の公名を照合している。整理札を受け取る人々の靴には、朝の泥がついていた。
王国が人の名前を管理する。それは、地下で見たあの帳票だけの仕事ではない。
人々が普通に暮らすためにも、この窓口は必要なのだ。
「思ったより普通の役所だな」
カルマが周囲を見渡す。
「普通だからこそ、簡単には扱えませんわ」
守備騎士団から派遣された立会騎士が、窓口へ書類を渡した。
照会するのは、中央教義院の〈受領継続通知〉に対応した受領確認の経路。患者の名前や接続記録の全文ではなく、送受信に用いられた設備と、その処理時刻である。
奥から現れた担当官は、灰色の髪をきっちりまとめた女性だった。名札には〈イルマ・レント〉とある。
「騎士団の照会状は拝見しました。設備記録だけの確認ですね」
「はい。個人情報を含む資料の閲覧は、今回は求めません」
シュテルが答えると、イルマは彼女の審問印へ一瞬目を向けた。
「中央教義院から、あなたの職務資格に関する連絡も届いています」
「承知しています。今日は騎士団の正式な照会に同行しているだけです。私の権限で閲覧を命じるつもりはありません」
イルマは立会騎士へ向き直った。
「では、照会主体は騎士団とし、記録の提供範囲を限定します。見つからなかった場合も、その旨を証明します」
「お願いします」
シュテルが頭を下げた。
わたくしは横で、そのやり取りを聞いていた。
権限が弱くなったからといって、彼女が人々を助ける力まで失ったわけではない。今日のシュテルは、印を使わずに必要な扉を開こうとしている。
◇
照合室の奥には、細長い金属製の筒が幾列も並んでいた。
天井近くを走る細い導管の中で淡い光が明滅し、筒の下部から紙帯がゆっくり送り出されている。役所らしい静けさの中に、歯車が噛み合う乾いた音が混じった。
「この分室で処理するのは、本人の公名そのものではありません」
イルマが説明する。
「どの照合窓口から依頼があり、どの経路へ結果を返したか。その経路記録を中継しています。氏名や権利の詳しい内容は、別の保管区画で扱います」
ゼェレは筒の並ぶ壁を見上げ、目を細めた。
「なるほど。配管じゃなくて、記録の切り替えを軸でやってるんだ。ずっと回してたら熱くならない?」
「内側に放熱槽があります」
「へえ、見たいな」
「見学は受け付けておりません」
「そっかぁ」
いかにも残念そうな声に、カルマが小さく笑った。
イルマは、記録筒の一つを指した。
「問題の照合路は、この第三中継筒を通っていました。紙帯の時刻は、教義院の帳簿に記されたものと突き合わせる必要があります」
該当日の紙帯を読み出すため、職員が細い鍵を回す。
音を立てて筒が止まり、下端から古い帯が出てきた。紙は薄く、日付と照合番号が一定の間隔で刻まれている。
わたくしは立会騎士の肩越しに、その列を追った。
教義院で見た送達番号と、一致するものがある。
「これですわ」
イルマは番号を確かめた。
「確かに一致します。教義院から下層運用室へ送られた通知に対し、返送された受領確認がこの筒を通過しています」
「ここから王国側が通知を出した可能性は?」
カルマが尋ねた。
「この記録だけでは言えません。受け取った返答を運ぶ設備として利用されただけかもしれませんから」
イルマの返答は明快だった。
わたくしは頷いた。昨日から何度も確かめている境目である。
「ほかに分かることはございますか」
「返送先の管理窓口と、処理を受け付けた権限種別です。ただし、担当者個人の識別情報は開示対象外となります」
職員が紙帯の次の欄を指す。
〈返送先 中央教義院・受領管理室〉。
〈受理方式 権限代行照合〉。
「……ここでも代行ですのね」
「教義院側が代行承認で発した通知なら、照合路でもその方式を引き継ぐ場合があります」
イルマが答えた。
同じ言葉が二つの帳簿に並んだからといって、同じ人が操作したとは限らない。
わたくしは続く文字を確かめようと身を寄せた。
そのとき、部屋の奥から短い鐘が鳴った。
職員の一人が顔を上げる。
「訂正依頼が入っています」
イルマが振り返った。
「どの記録ですか」
「第三中継筒の、該当日分です。送達経路に重複の疑いがあるとして、再照合を求められています」
職員が見せた用紙には、今日の日付と、緊急再照合を示す赤い縁取りがあった。
わたくしは紙帯を見た。
つい先ほどまで、誰も急いでいなかった。それなのに、わたくしたちが該当箇所を確認している最中に、その記録を訂正する申請が入った。
「これが受理されると、どうなりますの?」
「古い中継記録は訂正前の保全帯へ移されます。ただし、窓口で通常閲覧できる帯は差し替わります。記録そのものを削除する手続きではありません」
イルマは用紙の発信元を確かめた。
「……中央教義院の受領管理室です」
カルマが顎を引く。
「こっちが調べてるのを知って、慌てて直しに来たようにも見えるな」
「そう思いたくなりますわね」
わたくしは答えた。
「ですが、間違いに気づいて正式に訂正を求めることもあります。まず、訂正前の記録を保存しなければ」
立会騎士が一歩前へ出る。
「騎士団はこの中継記録について保全を要請している。訂正前の写しを作成できるか」
「通常なら可能です」
イルマの顔が曇った。
「ただし、再照合依頼が受理される前に、正式な原本照合と写しの封印を済ませる必要があります。これが届いた以上、こちらで処理を恣意的に止めることもできません」
「時間は?」
「次の時刻更新までです。四半刻ほど」
立会騎士はすぐに別の職員を呼び、保全申請の書式を求めた。
わたくしも筆を取る。
あの地下では、台座の動きを止めるために魔札を使った。今ここで守らなければならないのは、紙の上の数行である。
しかし、手順を誤れば、正しい記録まで使えなくしてしまう。
◇
イルマの説明によれば、訂正前の中継帯を証拠として残すには、紙帯と刻印筒の照合が必要だった。
紙だけを切り取っても、あとから作ったものではないと証明できない。筒に残る刻印の配置と、紙帯の凹凸が一致することを、立会人が確かめて封印するのだという。
「それなら、刻印筒を見られれば済む話じゃない?」
ゼェレが尋ねた。
「第三筒は、記録を取り出す際に固定具を外す必要があります」
イルマは壁際の小さな計器を見た。
「ですが、先ほどから固定具が戻り切っていません。無理に回せば、古い紙帯を傷める恐れがあります」
職員が操作棒を押すと、金属の奥で鈍い音がした。紙帯が僅かに引っ張られ、端に皺が寄る。
「待って」
ゼェレの声が、普段より低くなった。
彼女は筒へ近づかず、職員の操作棒を見つめる。
「その力のかけ方だと、奥の歯が噛む。もう一度押したら紙が裂けるよ」
「では、どうすれば」
「別の角度から固定具だけ戻せばいいんだけど……勝手に触ったら困るよね」
イルマは一瞬ためらった。
ゼェレが道具鞄から取り出したのは、細い銀色の板と、小さな硝子の管だった。
「筒の外側に当てるだけ。中の記録にも、封印にも触らない。力がどこにかかってるか、音と振れ方で分かるから」
「その器具は?」
「ただの測定具。錬金術で少し感度を上げてるけど」
わたくしはイルマへ向き直った。
「正式な許可が必要でしたら、お待ちします。記録を守るために、こちらの技術を提供できればと思いますの」
イルマは立会騎士と短く相談した。
「外部器具を使うこと、記録筒に手を触れさせないこと、その二点を記した上で、職員の監督下で認めます」
「分かった。じゃ、動かさないでね」
ゼェレは銀板を筒の外壁へ軽く当て、管の中を満たした小さな水銀滴を見つめた。
水銀が揺れる。
「……ああ、ここか。上の留め金じゃなくて、下の軸が傾いてる」
彼女は職員へ指示を出した。
「その操作棒、一度だけ手前へ戻して。それから右の小さいねじを半回転。急がなくていい」
職員が従うと、筒の内側でかちりと音がした。
紙帯の皺が緩む。
「よし。もう大丈夫。これなら抜けるよ」
ゼェレは器具を鞄へ戻し、あっさりと場所を譲った。
「助かりました」
イルマが言う。
「どういたしまして。古いものは、壊すより直す方が面白いからね」
彼女の機嫌はすっかりよくなっている。
カルマがわたくしへ顔を寄せた。
「この手の場面であいつがいてくれると、助かるな」
「ええ。本当に」
思わず、素直に頷いていた。
筒から取り出された帯を、イルマと立会騎士が照合する。二人が確認を終えるまで、わたくしたちは離れた位置で待った。
やがて、記録紙の上に封蝋が落とされる。
王立名録院の印。
立会騎士の署名。
訂正前の記録が、正式な証拠として残った。
その直後、時刻更新を知らせる鐘が鳴った。
職員が再照合依頼を受理し、訂正候補を記した新しい帯を機械へ通す。わたくしたちの手元には、いま封印されたばかりの写しがあった。
「変更の申請内容は、〈権限代行照合〉を〈標準受領照合〉へ訂正、ですね。理由は〈系統転記の重複〉とあります」
イルマが声に出して読み上げた。
「それで正しいのか?」
立会騎士の問いに、彼女は首を横に振る。
「まだ分かりません。訂正は仮受付です。申請元の根拠資料と、こちらに残った刻印を照合してから確定します」
わたくしは封印された写しへ視線を落とした。
少なくとも、誰かが〈代行〉という記載を別の言葉に置き換えようとしている。その事実だけは、今ここで確認できた。
危ういところだった。
しかし、安心してよいのは、まだ一つの記録を守れたということだけだった。
◇
「再照合の申請者は、分かりますか」
わたくしが尋ねると、イルマは用紙を確かめた。
「所属は中央教義院の受領管理室。発信欄には部署の認証印があります。個人名は、こちらにはありません」
「また部署名だけか」
カルマが低く言った。
それでも、何も残らないわけではない。イルマは、申請を受け付けた職員の名と受理時刻を記録に添えた。
やがて、立会騎士のもとへ教義院から別の使者が来た。
使者が渡したのは、シュテルの審問官資格に関する追加の通達だった。
翌朝から、彼女の単独の強制調査権限を暫定的に留保する。既に開始された事件の審議とは切り離し、必要な照会は守備騎士団を通すこと。通達には発効の日時と、審議担当部署の名が明記されていた。
シュテルは紙を受け取り、最後まで読んだ。
「……承知しました」
「いいのか?」
カルマが聞いた。
「不服を申し立てることはできます。もちろん、そうします」
彼女は静かに答えた。
「ですが、今ここで無効だと言い張っても、記録を守ってくださった方々が困ります。今日確認したことを持ち帰る方が先です」
その指は、通達の角を少し強く握っていた。
平気なはずはない。
わたくしは彼女の隣へ立った。
「シュテル。あなたが地下で見たものまで、留保されるわけではありませんわ」
「ええ。分かっています」
彼女が顔を上げる。
「私が聞いた声も、助けた人たちの名前も、なかったことにはできません」
わたくしは彼女に微笑んだ。
「そのとおりです」
◇
分室を出ると、運河には午後の光が差していた。
橋の向こうで、白い法衣が一つ、こちらへ歩いてくる。
セヴラン・グランツ大司教だった。
彼は立会騎士を認めると足を止め、続いてシュテルの手にある通達へ目を向けた。
「通知は届いたようだな」
「はい」
「権限を制限されるのは、不名誉なことだと思うか」
シュテルは、すぐには答えなかった。
「……不本意です。ただ、調査を受けること自体が不名誉だとは思いません」
「ならば、結果が出るまで待ちなさい。君の祖母の立場を、必要以上に難しくすることもない」
セヴランの声は穏やかだった。
誰かに聞かせて叱責するつもりはないらしい。だが、その言葉の一つひとつが、シュテルの歩みを止めようとしている。
「祖母を巻き込みたくはありません」
「それなら――」
「ですが、地下で救出された方々を、そのために待たせることもできません」
シュテルは言い切った。
「これからは騎士団の照会に協力します。私の権限を使わずにできることも、まだあります」
セヴランは、しばらく彼女を見ていた。
「君は立派な審問官になろうとしている。だが、立派であることと、組織を守ることは必ずしも同じではない」
「……はい」
「覚えておきなさい」
それだけ告げて立ち去ろうとした彼に、わたくしは声をかけた。
「大司教。少々、お時間をいただけますか」
「何だね、リズ・ヴァーレン」
「教義院から名録院への再照合依頼が、本日届いたそうです。こちらが記録を確かめている最中でした」
セヴランの表情は変わらなかった。
「誤った記録なら訂正しなければなるまい」
「もちろんです。ですから、訂正前の写しも保全いたしました。もし正当な訂正でしたら、変更の理由も明らかになるでしょう」
「……それは結構なことだ」
彼はゆっくりと頷いた。
「だが、君は何を求めている? 文書の時刻か、職員の名前か。それとも、誰かを裁くことか」
「どなたが、何を知ったうえで、人々を地下へ繋いでおく判断をしたのか。それを知りたいのです」
わたくしは目を逸らさなかった。
「命令を出した方だけが責任を負うとは限りません。止める機会があった方も、制度を作った方も、お話を伺う必要があるでしょう」
「では、君自身も問われる覚悟があるのか」
予想していた問いだった。
「他人の名を求める者が、自分の名を隠したままでいてよいのかね」
運河を渡る風が、外套の裾を揺らした。
シュテルが、わたくしの方を見る。
カルマは動かなかった。ただ、わたくしの返事を待っている。
「……ええ」
わたくしは息を整えた。
「おっしゃることは、よく分かりますわ」
今なら、この場で名乗ることもできる。
だが、この橋の上で秘密を明かしたところで、王国の帳簿が開くわけではない。誰の前で、何を証明するために名乗るのか。その選択まで、人に委ねるつもりはなかった。
「ですから、わたくしの名前についても、必要な場で正式にお答えするつもりです」
「……必要な場、か」
「はい。そのときは、どうか大司教にも立ち会っていただきたいですわ」
セヴランは何も言わず、わたくしを見た。
やがて小さく会釈すると、橋の向こうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、わたくしは自分の手を握り直した。
もう、偽名の陰に隠れているだけでは済まない。
◇
夕刻、騎士団の詰所で保全写しの目録を作っていると、名録院から追加の説明が届けられた。
騎士団から出された正式照会への回答だった。
中継路の利用履歴までは、先ほどの証明で確認できる。
しかし、その先にある〈権限代行照合〉の識別符号が、誰の名録に結びつくかを調べるには、別の監査手続きが必要だという。
申請できるのは、王国の指定した監査官、該当する名録の権利当事者、または正規の監査権を継承した者。
そのいずれであるかを、登録公名と権限記録で確認する。
わたくしは書類を読みながら、しばらく動けなかった。
昨日の仮回答にあった〈登録公名による本人確認〉の意味が、ようやくはっきりした。
リズ・ヴァーレンは、通行や取引のために作り上げた名前だ。そこには、ノワールヴェイン家がかつて担った公名監査の権限は載っていない。
父の名が、胸の奥で重く響く。
アルベルト・ノワールヴェイン。
公名を奪わせないための仕組みを作った人。
そして、その名ごと処刑台へ送られた人。
「リズさん?」
シュテルが、机の向こうから声をかけた。
「大丈夫ですか」
「ええ。確認できましたわ」
書類を折らず、彼女へ差し出す。
「ここから先は、わたくしにしか請求できない記録があるかもしれません」
シュテルは内容に目を通し、静かに頷いた。
「……無理に、今決めなくても」
「ありがとう。でも、決めることを先延ばしにしても、名前は戻ってきませんわ」
カルマが椅子の背にもたれた。
「ついに、その話か」
「ええ。まだ手続きの確認が必要ですけれど」
「おまえが名乗る時は、おまえが決めりゃいい。俺たちは合わせるさ」
何でもないことのように言う。
けれど、その一言に、わたくしは助けられていた。
「……頼りにしていますわ」
「今さらだろ」
彼は笑い、机の上の証明書を指した。
「で、こっちはどうなる。代行した奴の名は、まだ分からねえんだろ」
「ええ。ただ、経路が残っています。教義院の代行承認簿と、名録院の権限記録。両方を確かめれば、少なくとも誰に何を尋ねるべきかは分かるはずです」
ゼェレが窓辺から顔を出した。
「じゃあ次は、名前の鍵を持ってる人が必要なんだね」
「そうなりますわ」
「ふうん。今日は筒の鍵が直ったのに、今度は別の鍵かぁ」
不満そうに言いながらも、彼女は新しい紙を引き寄せた。
「監査の時に、設備側で照合しなきゃいけない欄をまとめとくよ。名前が分かってから『どの記録が必要だっけ』ってなるの、面倒でしょ?」
「ありがとうございます、ゼェレ」
「いいって。せっかくここまで調べたんだし」
彼女はさらさらと線を引き、二つの照合路を図にしていく。
カルマが立会騎士に押収物の受領票を確かめ、シュテルは翌朝の不服申立書を書き始めた。
それぞれに仕事がある。
わたくしも、もう一度書類を開いた。
名乗ることは、恐ろしくないと言えば嘘になる。
名前を捨てたのではない。生き延びるために、長い間隠していた。
その名前で呼ばれた最後の日を、今でも覚えている。
けれど、名を隠すための術式を自ら作ったのも、わたくしだった。
ならば、いつその術式を解くかを決めるのも、わたくしでありたい。
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。
机に置かれた証明書には、名録院の印と、二人の署名が並んでいる。
今日もまた、誰が命じたのかまでは分からなかった。
それでも、訂正される前の記録を残せた。
わたくしが次に開くべき扉も、見えてきた。
そこでは、もう「リズ・ヴァーレン」とだけ名乗るわけにはいかないのだろう。




