第64話 先に届いた命令
中央教義院の鐘が六つ鳴ったとき、わたくしは北側救護所の廊下にいた。
夜明けから降り始めた雨は、窓の硝子を薄く曇らせている。向かいの病室では、医師がサビーネ・オルトの脈を確かめていた。昨日より顔色はよくなっているものの、寝台から起き上がれるほどではないらしい。
「搬送の話は、もう来ていませんか」
医師に尋ねると、彼は首を横に振った。
「今朝は何も。ただ、中央施療院から診療記録の照会がありました。必要な範囲で回答してあります」
「患者さんの移送に同意した、という意味ではありませんね」
「もちろんです。私の判断も、本人の希望も変わっていません」
その言葉に、ようやく胸の奥の緊張が少しほどけた。
隣の病室にいる若い男性は、依然として意識が戻らない。彼の公名も、まだ分かっていなかった。地下の札に残されていた番号だけで身元を決めつけることはできず、医師と騎士団が別途、照会を続けている。
廊下の端から足音が近づいた。
「リズさん」
シュテルが、折り畳まれた紙を胸元に抱えて歩いてくる。
「昨日の審議の議事録です。守備騎士団の立会人にも写しが届きました」
受け取った紙の端には、中央教義院の印と書記官の署名があった。
わたくしたちが確かめたかった三点――送達番号が登録されていること。文書の種別が〈受領継続通知〉であること。発令者を審議室では確認できなかったこと。
いずれも、曖昧に言い換えられることなく記されている。
「ありがたいですわ。昨日の会話が、わたくしたちだけの記憶ではなくなりました」
「ええ。ただ……」
シュテルは最後の頁を指した。
次回の審議まで、聖盾審問官としての権限行使の範囲について再検討する。そう記されていた。まだ停止の決定ではない。けれど、誰が何を調べられるかを狭める準備は、すでに始まっているようだった。
「不安ですか」
「不安がないと言ったら、嘘になります」
彼女は素直に答えた。
「ですが、調べることをやめてしまったら、審問官である意味がありません」
手元の紙を見つめる横顔は、昨日より少し疲れている。
わたくしはそれ以上尋ねず、議事録を写し入れにしまった。
「では、資格を取り上げられる前に使ってしまいましょう、とは申しませんわ。正式に認められている手続きを、認められているうちに進めます」
シュテルが小さく笑った。
「ええ。その方が後で説明しやすいです」
◇
送達原簿は、大聖堂の裏手にある文書管理棟に保管されていた。
天井の高い建物で、窓は細く、扉には幾つも封印が施されている。湿気を嫌う書物のためだろう、入口をくぐると乾燥させた薬草と古紙の匂いがした。
カルマは入口の警備兵を見て、声を低くする。
「昨日の審議室より、こっちの方が守りが堅そうだな」
「銃を抜く場所ではありませんわよ」
「分かってるって。今日は目と耳の仕事だろ」
「その二つは、いつも働かせてくださいまし」
「注文が細けえなぁ」
その後ろで、ゼェレが鞄を軽く揺すった。中から硝子瓶同士の乾いた音がする。
「ここ、結構いい保存設備を使ってるね。紙の湿り方が揃ってる。昨日の地下より、よっぽど大事にされてるよ」
彼女の視線は棚と通気孔の間を行き来していた。
感心しているのか、皮肉なのか。どちらともつかない声だったが、入口の職員は少し困った顔をした。
受付には、灰色の法衣を着た女性が座っていた。年の頃は四十ほどだろうか。胸の名札には、エルナ・フリッツとある。
「閲覧の申し出は受けています」
エルナはシュテルの審問印を確かめ、昨日の議事録に目を通した。
「ただし、お見せできるのは送達管理に関する欄だけです。通知本文と、関係のない個人記録は閲覧対象に含まれません。原簿そのものの持ち出しもできません」
「承知しています。記録の照合に立会人をお願いできますか」
「当室の職員一名と、守備騎士団からの立会人一名を付けます。閲覧した項目については、双方の署名で証明書を発行できます」
わたくしは思わず彼女を見た。
昨日、何度問いかけても出てこなかった手続きが、ここでは当然のように用意されている。
「ずいぶん整っておりますのね」
「記録の取り違えを防ぐためです」
エルナは表情を変えずに答えた。
「誰かが閲覧して、後日『その記載はなかった』と言い争うのでは、原簿を残す意味がありませんから」
父が聞けば、きっと気に入る答えだった。
わたくしは少しだけ視線を落とす。
「そのとおりですわ」
◇
閲覧室には大きな卓が一つと、固定された書見台が三つ。壁際には水の入っていない砂時計が並び、奥の窓から朝の白い光が差していた。
やがて、封印された厚い帳簿が二冊運ばれてくる。
一冊は〈送達登録原簿〉。もう一冊は〈発送・受領対照簿〉。
帳簿の革表紙は擦り切れていたが、留め金には新しい蝋印が押されている。
「最初に申し上げておきます」
エルナが卓についた。
「登録原簿は、教義院がその文書を管理対象として受け付けた時刻を記します。発送・受領対照簿には、実際に文書を送り、受領確認が戻った時刻を記します。両者が完全に同じになるとは限りません」
「先に教えていただけて助かりますわ」
わたくしは頷いた。
数字が違うだけで不正と決めつければ、こちらの方が記録を読めていないことになる。
書記官が昨日確認した送達番号を伝えると、エルナは登録原簿の中ほどを開いた。
指示された欄には、確かに〈受領継続通知〉とある。
送達先は、中央接続区の下層運用室。
起票部署の欄には〈受領管理室〉、決裁方式には〈代行承認〉と記されていた。発令者の氏名は書かれていない。
「代行承認というのは、決裁した人間の名前を省ける制度ですの?」
「いいえ。臨時に権限を代行した者がいる場合、その任命元と代行者を別の承認簿へ記す仕組みです。ここには承認方式だけが載ります」
「では、その承認簿との照合が必要ですね」
「必要であれば、別途申請してください」
エルナの返事は事務的だった。けれど、拒絶ではない。
わたくしは持参した紙に、閲覧を認められた項目だけを書き写した。
受付時刻は、前々日の午後二刻を少し過ぎた頃。
地下で押収した停止申請の控えに記された時刻よりも、後だった。
この順序なら、停止申請を受けて、継続を指示したとも解釈できる。
問題は次の帳簿にあった。
「……あれ?」
書見台の脇で、ゼェレが首を傾げた。
彼女は帳簿に触れず、頁の上方へ顔を寄せている。
「これ、ちょっと変じゃない?」
エルナが顔を上げた。
「何か」
「この欄の印。登録原簿のとは違う形だね。刻印機が別なのかな」
「発送簿は、搬送路側の時計で押しています。登録原簿とは管理部署が異なります」
「なるほど。じゃあ、時刻がずれてても不思議じゃないんだ」
ゼェレはすぐに納得したように頷いた。そこで余計な結論を口にしないところが、彼女らしい。
わたくしは対照簿の頁を追った。
〈受領継続通知〉の発送記録は、登録原簿に載る時刻より三十分余り早い。
さらに、下層運用室が受け取ったことを示す返答の時刻は、登録よりも前に記されていた。
「発送したあと、まとめて登録する運用なのかもしれませんね」
シュテルが言う。
「ええ。その可能性はありますわ」
わたくしは上下の欄も確かめた。同じ日の前後の送達記録が続いている。発送記録は押印の時刻順に並び、抜けた番号は見当たらない。
「登録より先に発送した場合は、どう処理する決まりですか」
エルナが規程集を開く。
「緊急送達であれば、先行発送を認める場合があります。そのときは発送簿に先行理由を記載し、あとから承認記録を添付します」
「この通知には、その記載が?」
エルナは該当欄を指で示した。
そこは空白だった。
わたくしの手の中で、筆が止まる。
空白が見つかったからといって、誰かが故意に隠したとは限らない。だが、ここを空白のままにしておく手続きではないことを、今しがた教わった。
「この頁の上二件と下二件は、どうでしょう」
カルマが言った。
「同じ時計を使ってるなら、そっちの発送と登録も少しずれるだろ。ここだけ変なら、時計のせいじゃなさそうだ」
「よくお気づきになりましたね」
エルナが短く感心した。
他の四件には、数分の前後はあるものの、どれも登録後に発送されている。こちらは登録原簿の記載が先だった。
シュテルが該当箇所を見比べる。
「少なくとも、通常の順序とは違っていますね」
「ただし、時計の精度までは、この二冊だけで証明できません」
エルナが慎重に付け加えた。
「承認簿や搬送路の当番記録も必要でしょう」
「ありがとうございます。それも含めて、記録してください」
シュテルは急いで結論を求めなかった。
以前なら、わたくしはここで彼女の慎重さにもどかしさを感じたかもしれない。けれど今は、その慎重さに助けられている。
紙の上に残る時刻を一つずつ確かめる。誰かを追及するのは、そのあとでいい。
そのとき、ゼェレが唐突に手を挙げた。
「ねえ、最後に一つだけ。見ていい範囲の話なんだけど」
エルナが疲れた顔で振り向く。
「何でしょう」
「発送・受領対照簿の、受領確認を戻した経路。紙そのものは読まなくていいから、どこの設備を通ったかだけ教えてほしいな。地下の導路と同じ管理区画だったら、今も動いてるかもしれないし」
「……その欄なら、今の閲覧対象に含まれます」
エルナは規程を確かめ、帳簿の端にある小さな欄を示した。
そこには〈王立名録院・照合路経由〉と記されていた。
わたくしの指先が冷えた。
「王立名録院?」
自分の声が、思ったより低く響いた。
「この通知は教義院から下層へ送られたものではないのですか」
「教義院の発令管理に登録された通知であることは確かです。ただ、受領確認の返送には王立名録院の照合路が使われています。なぜそうしたかは、ここでは分かりません」
王国が関わった証拠だ、と言い切るのは簡単だった。
けれど、名録院の照合路が使われたことと、名録院が命令を承認したことは同じではない。
わたくしはその違いを、自分の中で確かめ直す。
「この経路の記載も、証明書へ追記していただけますか」
「確認された項目は、証明書に記載できます」
エルナは書き留めた。
ゼェレは隣で、何でもないことのように髪の先を指へ巻きつけている。
「気づかなかったら、帰り道が分からないでしょ。文書にも帰り道があるんだから」
カルマが眉を上げた。
「おまえ、ほんと設備のことになると目の付けどころが違うな」
「帰ってきた返事の行き先も分からないのに、誰が送ったか探すのは大変じゃない?」
「それはまあ、そうだ」
彼女は軽く笑って、道具鞄の紐を結び直した。
◇
午前の終わり頃、閲覧室の扉が二度叩かれた。
入ってきたのは文書管理棟の上席職員だった。エルナへ封筒を渡し、わたくしたちを一度見回す。
「中央教義院から、該当記録の保全範囲を再確認するよう通達がありました」
エルナは封筒を開き、声を落として読み始めた。
その間にカルマが、わたくしの横へ半歩寄った。
「嫌なタイミングだな」
「ええ」
わたくしは帳簿から手を離したまま頷いた。
上席職員が続ける。
「審問官の資格について審議中である以上、シュトラール審問官による追加閲覧は、一時的に留保するよう求められています」
シュテルが静かに立ち上がった。
「私の職務資格は、まだ停止されていないはずです」
「正式な停止通知ではありません。だからこそ、管理上の判断を求めるという内容です」
「では、閲覧を終えるなら、その判断をした方と時刻を記録してください。こちらの照会と、途中まで確認した項目も残していただきたいです」
穏やかな声だった。
上席職員は一瞬返答に詰まったが、やがてエルナを見た。
「……すでに証明書は発行したのか」
「まだです。ただし、立会人二名のもとで閲覧した事実はあります」
「確認済みの内容は保存しておけ。以後の扱いは審議結果に従う」
それだけ告げると、上席職員は退出した。
扉が閉まったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に動いたのはエルナだった。
彼女は新しい用紙を取り、羽根筆に墨を含ませた。
「本日、どの時点で閲覧を留保したのか。そこまで含めて証明書を作ります」
「ありがとうございます」
シュテルが深く頭を下げた。
「礼を言われるようなことではありません。私どもの仕事です」
それでも、エルナの筆先は僅かに震えていた。
わたくしは何も言わず、彼女が書き終えるのを待った。
名前を残すという行為には、時に、それだけの負担が伴う。
しかし、誰も名前を残さなくなった場所で何が起きるかを、わたくしたちは地下で見てきた。
証明書には、送達番号、登録時刻、発送と受領の時刻、先行発送の理由欄が空白だったこと、王立名録院の照合路を経由した受領確認、そして追加閲覧が留保された経緯が記された。
エルナと立会騎士が署名を終える。
わたくしはその写しを受け取り、ようやく息をついた。
「これで、少なくとも今日見た事実は残りますわ」
「ええ」
シュテルが応じた。
◇
廊下へ出ると、雨は止んでいた。
文書管理棟の石段には、昼の鐘を待つ職員たちが行き交っている。先ほどまでの閲覧室の静けさが嘘のように、人の声と靴音が重なっていた。
わたくしたちが階段を下りかけたところで、反対側の回廊から白い法衣の男が現れた。
セヴラン・グランツ。
昨日の審議室と同じ、飾り気の少ない法衣。付き従う書記官が一人だけいる。
「シュテル」
セヴランは足を止めた。
「記録を確かめに来たそうだな」
「はい。昨日の審議で確認された通知について、送達の経緯を調べていました」
「送達簿は、行政上の動きを示すためのものだ。そこに不備があったからといって、現場の行為すべてが違法になるわけではない」
「そのとおりです」
シュテルは即座に頷いた。
「ですから、私たちは不備を見つけただけで結論にはしていません。承認した人と、命令の内容を確かめたいのです」
セヴランの視線が、彼女の胸の審問印へ落ちた。
「君は、審問の権限と個人の追及を混同しつつある。君自身が調査対象になっていることも忘れるな」
「忘れていません。地下で死んだ兵士のことも、私の判断についても、調査を受けます」
シュテルの声は震えていなかった。
「それでも、救出された方々が望まない場所へ移されないことと、あの設備の運用を確認することは、別に必要な仕事です」
セヴランはわずかに目を細めた。
「君の祖母なら、もう少し慎重に事を運んだだろう」
「祖母がどう判断するかは、祖母にお尋ねください。私は、私が見たことをお伝えします」
返答のあとに、短い沈黙が生まれた。
わたくしはシュテルの横顔を見た。彼女が祖母のことを大切に思っているのを、わたくしも知っている。それでも今の言葉は、感情に任せた反発には聞こえなかった。
「失礼、セヴラン大司教」
わたくしは一歩前へ出た。
「わたくしからも一つ、お伺いしてよろしいでしょうか」
「リズ・ヴァーレン。君もいたのか」
「ええ。昨日の件で確認したいことがございます」
「答えられる範囲であれば」
「〈受領継続通知〉には、先に発送してから登録された形跡がございました。教義院の規程では、緊急送達の場合にそのような扱いが認められると伺っております」
「そうだ。緊急時に手続きを一から終えていては、間に合わないこともある」
「でしたら、その緊急性を判断した方を確認するのが、次の手順になりますわね」
セヴランはすぐには答えなかった。
わたくしは続ける。
「わたくしどもは、医療上の停止を拒んだ方が誰なのかを知りたいのです。継続が必要だったと判断したのなら、その理由も。正当な判断だったのであれば、記録を辿ることは、その方を守ることにもなるはずですわ」
「君は記録を信じすぎている」
意外な返事だった。
「紙に名があっても、その人物がすべてを見て決めたとは限らない。逆に、名がなくとも責任が消えるわけではない」
「おっしゃるとおりです」
わたくしは認めた。
「だから、名を見つけたところで追及を終えるつもりもございません」
セヴランの指先が法衣の袖を撫でた。
「……君たちが踏み込もうとしている場所では、記録を読む力より、記録をどう扱うかの方が問われるだろう」
「でしたら、どうかご助言くださいまし。記録を扱うべき人間が、どこにいるのかを」
彼は答えず、書記官へ目配せした。
「中央教義院として、正式な照会には正式な回答を行う。だが、それまでは憶測で職員を責めることのないように」
「承知しております」
シュテルが頭を下げた。
「私たちも、事実でないことを記録に残すつもりはありません」
セヴランは一礼し、回廊を歩いていった。
足音が遠ざかってから、カルマが低く口笛を吹く。
「怖えな。怒鳴られた方が、まだ分かりやすい」
「昨日も似たことをおっしゃっていましたわね」
「昨日より一段面倒になってるからな」
ゼェレは階段の手すりに腰を預け、セヴランが去った方向を眺めていた。
「でも、あの人、先行発送があったことは否定しなかったね」
「規程上の可能性を説明しただけですわ。本人が知っていたとまでは断定できません」
「うん。だから次は、承認簿だね」
言い方は軽い。けれど、示す先は正確だった。
◇
午後には守備騎士団の詰所へ戻り、閲覧証明書を預けた。
騎士団の責任者は、送達の時刻が前後していることを読み、何度か頁をめくった。
「先行発送か。そういう手続きは、確かにある。だが、理由欄が空白なら、承認簿を確認しなければならないな」
「一緒に調べていただけますか」
シュテルが尋ねた。
「こちらでも照会を出す。押収資料の原本は、引き続き保全する。今朝の閲覧を留保した記録も添えておこう」
「ありがとうございます」
「礼なら、結果が出てからにしてくれ。まだ誰に何を問えるか分からん」
騎士の言葉に、わたくしは頷いた。
急いで断罪すれば、必要な相手を取り逃がすかもしれない。
詰所を出る頃、空は夕方の色に変わり始めていた。
カルマが肩を鳴らす。
「で、次は王立名録院か?」
「そうなるでしょうね。ただし、名録院の照合路を通った理由を先に確かめる必要があります」
「王国が命令したって決まったわけじゃない、か」
「ええ。そこを間違えては、わたくしたちが調べてきた意味がありませんもの」
シュテルは少し遅れて、建物の出口へ出てきた。
「祖母に、先ほどの審議について手紙を出しました。私の資格についてどうなるか、隠さず伝えておきたくて」
「何とお書きになったのです?」
「私が見た人々のことと、私が選んだことです。あと……自分でお話しに伺うまで、噂より先に読んでほしい、と」
わたくしは、その顔をしばらく見つめた。
「きっと、真っ先に読んでくださいますわ」
「そうだと、嬉しいです」
ゼェレがあくびを噛み殺した。
「今日は紙ばっかりだったね。せっかく腕の立つ二人がいるのに、錬金術の出番が少ないなぁ」
「おまえが針を飛ばす事態にならなくて助かったよ」
カルマが返す。
「それはそうだね。針は刺すより、測る方が手入れが楽だし」
ゼェレは鞄の中で小瓶を鳴らした。
彼女は、わたくしたちが記録を調べている間も、余計な問いを挟まず協力してくれた。本人に何を考えているか尋ねれば、きっと研究の役に立つからと答えるのだろう。
それがすべてとは思えない。
けれど、今日のところは彼女の観察が、わたくしたちの見落とした経路を一つ示してくれた。
「ゼェレ。今日は助かりましたわ」
「え? ああ、あの欄? 別に難しいことじゃないよ」
「難しくないことほど、見落とすものです」
「ふうん。じゃあ、お礼に今度、保存庫の通気装置を見せてもらおうかな」
「それは教義院へ正式にお願いなさってください」
「だよねぇ」
彼女は悪戯っぽく笑った。
今はこの人が隣にいる。頼りになる味方として、確かに。
◇
夜、騎士団から一通の控えが届けられた。
わたくしたちの照会を受け、守備騎士団が中央教義院へ提出した、承認簿の保全要請である。宛先は〈受領管理室〉、照会事項は〈代行承認の任命元と権限行使者〉。
その末尾には、もう一通、別の機関への照会が記されていた。
〈王立名録院・照合路管理部〉。
返送経路の照合履歴を保全し、誰が接続確認を受け付けたかを問うためのものだ。
紙を閉じかけたとき、裏面の小さな追記に気づいた。
名録院側からの仮回答。対象の照合路は、現在も王国の名録管理体系に接続されている。ただし、使用履歴の開示には、登録公名による本人確認を要する。
わたくしはその一文を、もう一度読み直した。
登録公名による本人確認。
わたくしが現在使っている名は、リズ・ヴァーレン。
検問を通り、宿に泊まり、王国の照合を欺くために組み上げた公名である。その名でここまで辿り着けたのは事実だ。だが、父が設計した監査の記録へ踏み込もうとする今、これ以上同じ名が通るとは限らない。
指先に、薄い血晶の冷たさを思い出す。
机の向こうで、カルマが銃を磨く手を止めた。
「何かあったか?」
「いいえ。次に必要なものが、少しはっきりしただけですわ」
「ならいい。無理すんなよ、リズ」
その呼び名が、今夜は不思議と耳に残った。
わたくしは書面を慎重に折り畳み、胸元へ納めた。
名を隠したまま、誰の名が奪われたのかを問い続ける。
その矛盾を、いつまで抱えていられるのだろう。
窓の外では、雨上がりの聖都に鐘の音が流れていた。
次に開くべき帳簿は、教会のものではない。
王国の名を冠した、記録の扉だった。




