第63話 署名のない命令
大聖堂から地上へ戻ったとき、鐘はすでに夕刻を告げ終えていた。
石段の上には、担架を載せた車が二台停まっている。先に運び出されたサビーネ・オルトさんは毛布に包まれ、シュテルさんの問いかけに小さく返事をしていた。隣の車の若い男性は、まだ目を覚ましていない。
「こちらの方は、中央施療院ではなく北側の救護所へ運びます」
医師が告げると、シュテルさんは手元の搬送記録を見直した。
「ご本人の状態を確認できる医師が、引き続き診てくださるのですね」
「ええ。今夜は私も残ります。容体が変われば守備騎士団へ連絡します」
「お願いします」
シュテルさんはサビーネさんへ歩み寄り、担架の脇へ身をかがめた。
「もう一度、お名前をお聞きしてもよろしいですか。搬送先の記録に残しておきたいんです」
「……サビーネ。サビーネ・オルトです」
「はい。ありがとうございます」
彼女が丁寧に書き留めるのを見て、わたくしは胸元に挟んだ写しへ手を添えた。
地下では、番号を間違えないための仕組みが何重にも用意されていた。それなのに、その番号の先にいる人間の名前は、簡単に省かれていた。
今も、同じことが起きかけている。
「その記録はこちらで引き取ります」
後ろから声がした。
振り返ると、白い外套の男が二人、門の向こうから歩いてくるところだった。一人は封筒を抱え、もう一人は革張りの書類箱を持っている。二人とも教会の職員章を胸に留めていた。
「中央教義院文書保全室です。地下接続区で押収された帳票と、搬送者に関する資料の引き渡しを求めます」
封筒を抱えた男は、守備騎士団の責任者へ書面を差し出した。
責任者は受け取ると、すぐには返事をしなかった。封印を確かめ、文面を最後まで読んでから顔を上げる。
「現場は我々が封鎖したばかりだ。押収物の目録も、まだ完成していない」
「教会内部の資料です。保管責任はこちらにあります」
「教会の建物で見つかったからといって、それだけで渡せるわけではない」
男の眉が僅かに動いた。
「中央教義院の正式な要請ですが」
「要請を受けたことは記録する。ただし、ここで引き渡すとは言っていない」
騎士の返答に、もう一人が書類箱の持ち手を握り直した。
わたくしは書面の端に目を向けた。差出部署の印はある。だが、人名が見当たらない。
「失礼。引き渡しの責任者は、どなたでしょう?」
男がこちらを見た。
「あなたは?」
「今回の調査に同行しております、リズ・ヴァーレンと申します。押収経緯の記録をお手伝いしましたので、受領者を確かめたいのです」
「文書保全室として受け取ります」
「でしたら、どなたがお受け取りになるのか、お名前を残していただけますか。地下で見つかった資料には、患者さんの個人情報も含まれておりますから」
男は返事をせず、手にした封筒を見下ろした。
「担当者の名前なら、引き渡しが決まったあとで記載します」
隣でカルマが小さく息を吐いた。
「先に箱だけ持ってきたわけか」
「カルマ」
「分かってる。邪魔はしねえよ」
そう言いながらも、彼は書類箱の留め金をちらりと見た。わたくしにも、その箱が持ち帰るためのものだということは分かる。
騎士団の責任者が書面を折り畳む。
「押収品は我々が封印する。教義院から担当者を出すなら、立会人として名前を記録する。原本の移管はその後に協議だ」
「それでは困ります」
「こちらも困る。資料を焼こうとしていた者を現場で拘束しているんだ。同じ施設を管理する部署に、確認もなく原本を渡せるか」
男は唇を結び、もう一度だけ頭を下げた。
「……上席に報告します」
二人が門の外へ戻るまで、誰も動かなかった。
やがて騎士がわたくしたちへ振り返る。
「助かった。いま原本を渡せば、後で何があっても追えなくなる」
「まだ渡してはいませんもの。安心するのは早いですわ」
「違いない」
騎士は苦笑し、部下へ目録の作成を指示した。
ゼェレは少し離れた石段で、測定板の針を拭いていた。こちらの騒ぎにはほとんど口を挟まなかったが、教義院の二人が去ると鞄を閉じた。
「さっきの人たち、原本のことしか聞かなかったね。接続がどうなったかは気にならないのかな」
「……そうですわね」
「まあ、知ってる人が来たわけじゃなさそうだし。私は道具の手入れがしたいなぁ。ここ、金属の粉が多すぎるよ」
そう言って、彼女は袖口についた灰色の粉を払った。
人間の命について、彼女がどこまで思いを巡らせているのか。わたくしには相変わらず分からない。
けれど、地下でサビーネさんの呼吸が乱れたとき、誰よりも早く弁を戻したのも彼女だった。
◇
夜の救護所は、大聖堂から少し離れた場所にあった。
守備騎士団が出入りを管理する臨時の建物で、廊下には薬草の匂いが漂っている。わたくしたちは患者を休ませたあと、隣の小部屋で騎士団への説明を終えた。
中央接続室で亡くなった二人の兵についても、戦闘の順序と殺害に至った経緯を記録した。
カルマは自分が撃った時点の位置を、床に置いた紙へ描いていた。発射した銃と弾について尋ねられても、曖昧にせず答えた。
ゼェレも、もう一人を刺したことを認めた。
「そっちの人は私が止めたよ。胸を狙った。あのときは、シュテルが刺されるところだったから」
説明の口調があまりに平坦で、騎士の筆が一瞬止まった。
「……記録します。詳細な確認は、後日お願いするかもしれません」
「いいよ。いる間ならね」
彼女はそう答え、また鞄の留め具をいじり始めた。
シュテルさんは、黙ってそのやり取りを聞いていた。指の関節が白くなるほど、膝の上で両手を握っている。
わたくしはその手へ声をかけようとして、やめた。
彼女が何を考えているか、わたくしが代わりに決めることはできない。
聴取が終わってから、医師に許可を得てサビーネさんの寝台を訪ねた。
彼女は水を少し飲めるようになっていた。細い腕には包帯が巻かれているが、枕元に置かれた名札には、今度こそ公名が記されている。
「また来てくださったのね」
「夜分に申し訳ございません。何か足りないものはありませんか?」
「大丈夫。……あの、私、また連れていかれるの?」
シュテルさんが寝台の横へ椅子を寄せた。
「そうならないよう、守備騎士団にも事情を伝えています。お医者様も、今夜はここで休むようにと」
「教会の人が来たら、逆らえないと思っていたわ」
震える声だった。
地下で彼女が口にした、名前を言ってはいけないという言葉がよみがえる。
「どこで治療を受けたいか、サビーネさんご自身の希望を聞かせていただけますか」
わたくしが尋ねると、彼女はゆっくり目を上げた。
「ここにいたい。少なくとも、あの地下へは戻りたくない」
「分かりました」
わたくしは書き留め、本人に読み聞かせた。署名を無理に求めず、確認に立ち会ったシュテルさんと医師の名前だけを添えた。
彼女が眠りに落ちるまで、シュテルさんは椅子を離れなかった。
◇
翌朝、中央教義院から再び通知が届いた。
地下施設への侵入、設備の一部停止、警備員の死傷。これらについて、シュテルさんに説明を求めるという。
場所は中央教義院の審議室。呼び出しは午前中だった。
「ずいぶん早いな」
カルマが封筒の差出時刻を見た。
「地下の話を聞くのが早いのは結構だけど、患者の話を聞くより先に俺たちの罪を数え始めるのか」
「死者が出ていますから、調べること自体は当然です」
シュテルさんは通知を畳んだ。
「ただ、こちらから提出した照会への返答も、いただかなければなりません」
「お一人で行かれるつもりですの?」
「いいえ。今度は、皆さんも証人として同行してください。入口までで構いません。必要なときに、私だけの説明ではないことを示したいんです」
「それなら任せろ。昨日のことは、俺も見てた」
カルマが立ち上がる。
ゼェレは窓際で細い硝子管を振っていた。中の灰色の液が落ち着くのを見て、顔をしかめる。
「うーん。混ざらないなぁ……。あ、行くんだ? 私は別に証人席へ座る趣味はないけど、あの導路の説明ならできるよ」
「お願いできますか」
「その代わり、変な質問を延々とされるのは勘弁ね」
「それは約束できませんわ」
「……言うと思った」
ゼェレは硝子管をしまい、上着の裾を払った。
わたくしも立ち上がる。
リズ・ヴァーレンという偽名で教義院へ入れば、話せることには限界がある。それでも、この場に残る術式の痕跡と、父が守ろうとした監査の仕組みについて、確かめたいことがあった。
教義院へ戻るのは、シュテルさんだけの仕事ではない。
◇
審議室は、以前の応接室より奥にあった。
長い卓の向こうには三人の聖職者が座り、横には書記官が一人。壁に掲げられた銀の紋章は、色硝子から差す光を受けて白く輝いていた。
中央の席にいる男性を見たとき、シュテルさんの歩みがわずかに遅くなった。
「……セヴラン大司教」
「久しいな、シュテル・シュトラール」
男は挨拶を返し、席を示した。
セヴラン・グランツ。
中央教義院の高位聖職者だと、わたくしも事前に聞いていた。白い法衣には目立つ装飾が少なく、手元には数冊の薄い帳簿が揃えられている。声は穏やかだった。
「君の正式照会は確認している。巡礼者の受入記録について、疑義があるというものだな。その件は調整室で回答を準備している」
「はい。ただ、調査の途中で接続施設を発見しました。そこでは本人の同意が確認できないまま、魔力の回収が続けられていました」
「その報告も受けた」
「では、医療上の停止申請が退けられたこともご存じでしょうか」
シュテルさんが差し出した写しを、書記官が受け取った。
セヴランは紙を手元へ寄せたが、すぐには読まなかった。
「施設が承認を受けていたかどうかと、現場の運用が適切だったかどうかは、分けて考えなければならない」
「ええ。それは私も同じ考えです」
シュテルさんは答えた。
「だからこそ、誰が停止申請を退け、誰が送出の継続を指示したのかを知りたいのです」
セヴランの指が紙の端を押さえた。
「下層運用主任が拘束されたと聞いている。彼の判断については調査させよう」
「主任は、自分の判断より中央教義院の受領継続指示を優先したと記録していました」
「その記載が、実際の命令を意味するとは限らない」
「では、その指示が存在したかどうか、教義院の送達記録を確認させてください」
書記官の筆が止まった。
セヴランは視線を上げ、シュテルさんを見る。
「君は、教義院を疑っているのか」
「施設を管理する側が、患者の命を守るための停止を認めなかった理由を確かめたいのです」
シュテルさんは顔を逸らさなかった。
少し前までなら、ここで彼女が謝ってしまうのではないかと、わたくしは考えていたかもしれない。
けれど今、その口から余計な謝罪は出なかった。
「私たちが地下へ入ったことについても、必要なら説明します。抵抗した兵が二人亡くなった件からも、逃げるつもりはありません」
「それは聞こう。だが、君が審問官であるからといって、教会の管理区域へ無制限に立ち入れるわけではない」
「承知しています」
「聖盾審問官の職務を続けられるかどうかも、今後の審議事項になる」
シュテルさんの指先が、膝の上で動いた。
それだけだった。
「分かりました。ただ、その審議をする間も、救出した方々の治療は続けていただきたいです」
「医療については施療院の判断を尊重する」
男の答えは、よく整っていた。
しかし、施療院がどこなのかは言わない。
「一つ、よろしいでしょうか」
わたくしは口を開いた。
セヴランがこちらを見る。
「リズ・ヴァーレンと申します。下層の押収帳票を確認した者の一人です」
「聞いている。続けなさい」
「〈中央教義院・受領継続の指示を優先〉という文言が、実際の命令を意味しない可能性は理解しております。でしたら、教義院の記録にその命令が存在しないことを確かめれば、少なくとも疑いの一部は解消いたしますわ」
「君たちは、教会の内部文書を無条件に閲覧できる立場ではない」
「ええ。ですから、書記官の立会いで該当する送達番号の有無だけでも照合していただけませんか。患者さんのお名前まで、こちらに見せていただく必要はありません」
沈黙が落ちた。
セヴランは卓上の帳簿へ視線を移す。
「……その番号は?」
わたくしは、写しに残された番号を読み上げた。
数字自体に意味があるわけではない。重要なのは、あの番号がどの帳票とつながっているか、そして誰の手で発行されたかだ。
書記官が別の帳簿を取り、頁をめくり始めた。
少しして、指が止まる。
「該当番号は……登録があります」
室内の空気が変わった気がした。
わたくしは息を詰めず、次の言葉を待つ。
「送達先は、下層接続区。文書の種別は〈受領継続通知〉です。ただし、発令者欄については、ここからは確認できません」
「存在はしていたのですね」
シュテルさんが言った。
「通知の登録があることと、その文面が現場の主任の主張どおりだったことは別だ」
セヴランの声は変わらない。
「ええ。ですから、その違いも記録してください」
彼女が書記官へ向き直る。
「送達番号が存在すること。文書の種別が受領継続通知であること。そして、発令者はこの場では確認できないこと。その三点です」
書記官は一瞬、セヴランを見た。
大司教は何も言わず、指先で卓を軽く叩いた。
「……記録しなさい」
羽根筆が再び動き始めた。
その小さな音を聞きながら、わたくしはようやく肩の力を抜いた。
父は《白冠》そのものを憎んでいたわけではない。あの結界が、王国で暮らす人々を守ってきたことを誰より理解していた。それでも、維持するために人間の名前や意思を奪う運用を認めなかった。
その父を裁いた王国の照合記録が、教会の地下から出てきた。
いま目の前にいるのは、その仕組みを動かしてきた組織の一人だ。けれど、彼が過去のすべてを知っていると決めつけるわけにもいかない。わたくしが求めるべきなのは、怒りを受け止めてくれる相手ではなく、記録に残された行為の責任者だった。
証拠は一つ増えた。だが、まだ人の顔は見えていない。
◇
審議はそこから長くなった。
中央接続室での死者、下層の警備兵、止めた導路、解放した患者。順に尋ねられ、シュテルさんとカルマが答えた。ゼェレは術式の構造を説明したが、何度か質問が重なると、紙に描いた断面図を卓へ置いた。
「ここが返還、こっちが回収。切り離したのは下の枝だけ。絵の通りだよ。同じことをもう一度言っても、線の数は増えないからね」
カルマが咳払いで笑いを隠す。
書記官は困った顔をしながらも、図を写し始めた。
調査の結論は持ち越しとなった。シュテルさんの職務についても、処分はその場では決まらなかった。
ただし、教義院は地下施設の原本を引き取りたいという要請を取り下げなかった。
「原本は守備騎士団が封印しております」
シュテルさんが答える。
「引き渡しについては、押収経緯と受領者のお名前を記録したうえで協議してください」
「君の要望は分かった」
「よろしくお願いいたします」
彼女は頭を下げた。従うためではなく、話を終えるための礼だった。
わたくしたちが退出しようとすると、セヴランが声をかけた。
「シュテル。君の祖母には、私からも話をすることになるだろう」
彼女の足が一瞬止まる。
「……承知しました」
「君が背負うのは、君一人の立場だけではない」
「分かっています。ですが、私が地下で見たことも、私自身が責任を持ってお伝えします」
セヴランはそれ以上引き留めなかった。
回廊へ出たとき、カルマが短く息を吐いた。
「生きた心地がしねえな。銃を向けられる方が、まだ分かりやすい」
「今日は撃たれずに済みましたわ」
「そういう問題じゃねえんだよ」
ゼェレは廊下の窓から中庭を見下ろした。
「さっきの番号、ちゃんと残ってたね。消すなら、現場の人が隠してた紙も、向こうの台帳も両方消さないといけない。面倒な仕組みだなぁ」
「本来は、勝手に消せないようにするための仕組みですもの」
わたくしが答える。
「うん。だから便利なんでしょ、今は」
その返事に、わたくしは少し驚いた。
ゼェレは特にこちらを見ず、窓を離れた。
◇
教義院を出て間もなく、守備騎士団の伝令が駆け寄ってきた。
「シュトラール審問官! 北側救護所から連絡です」
シュテルさんの顔が強張る。
「患者さんに何か?」
「容体ではありません。中央施療院の搬送車が来て、サビーネ・オルトさんともう一名を移すと言っています。教会からの指示だと」
カルマが顔を上げた。
「もう来たのかよ」
わたくしは足を速める。
「シュテルさん。参りましょう」
彼女は返事をする前に走り出していた。
◇
北側救護所の前には、白い幌の馬車が停まっていた。
車輪の傍らで、二人の職員が医師と話している。職員の一人は書類を掲げ、もう一人は担架を準備していた。
「中央施療院へ移すのが正式な指示です。こちらで診療を続ける理由はありません」
「理由ならあります。二人とも、まだ急な搬送に耐えられるか判断できません」
医師は落ち着いた声で答えていたが、立つ位置は入口を塞ぐようだった。
「命令書には医療判断を委ねるとあります。ならば、今は動かさないでください」
「施療院で診る方が設備も整っている」
「移す前に担当医同士で状態を確認しましょう」
そのやり取りを聞きながら、わたくしたちは近づいた。
「少々お待ちください」
シュテルさんが前へ出る。
「私はシュテル・シュトラールです。こちらの患者さんについて、保護の経緯を記録しております。移送先と、搬送を決めた責任者を教えていただけますか」
職員の顔が強張った。
「中央施療院の受入調整室です」
「その部屋に行けば、誰が移送を指示したか分かるのですか?」
「……そこまでは」
返事が小さくなる。
わたくしは医師へ向き直った。
「サビーネさんは、昨夜ここで治療を受けたいと話してくださいました。その希望は記録に残しております。ご本人がお話しできる状態でしたら、改めてご意思を確認していただけますか」
「ええ。いまなら短く話せるでしょう」
医師が病室へ入り、しばらくして戻ってきた。
「ここに残りたいとのことです。容体についても、今のところ搬送は勧めません」
「……本人がそう言ったのですか」
職員が尋ねる。
「はい。私が直接聞きました」
医師の返事は明確だった。
シュテルさんが職員へ頭を下げる。
「受入調整室へ、そのままお伝えください。必要なら、私も説明に伺います」
「しかし……」
「強制的に運ぶ権限をお持ちでしたら、その根拠を示してください。患者さんは今、別の医師の診察を受けている方です」
職員は手元の書類を見下ろした。
そこには患者の番号と、搬送予定時刻だけが書かれていた。公名の欄は空白だった。
わたくしはその紙から目を離せなかった。
地下から連れ出したあとでさえ、この人たちはまだ番号で扱われようとしている。
カルマが書類へ視線を落とした。
「頼まれたから運ぶってのは分かるよ。でも、誰を運ぶか確認しなくて平気なのか?」
職員は答えられなかった。
「……いったん戻って確認します」
やがて一人がそう言い、馬車の方へ引き返した。
搬送車が去るまで、シュテルさんは入口を離れなかった。
ゼェレは道具鞄を肩へ掛け直し、動き出した馬車を見送る。
「今度は誰も刺さずに済んだね」
「それを喜んでよろしいのでしょうか」
わたくしが言うと、彼女は首を傾げた。
「少なくとも、ここに寝てる人にはその方がいいでしょ」
そう答え、救護所の壁に背を預けた。
シュテルさんは一度だけ目を閉じ、深く息を吐いた。
その背中を見ながら、わたくしは教義院で聞いた言葉を思い返していた。
送達番号は存在する。受領継続通知も、実際に登録されている。
けれど、誰が発令したかは分からない。
救護所へ来た搬送車も同じだった。
番号と行き先は正確に記され、運ぶ相手の名前と、決めた人間の名前が抜け落ちている。
これほど揃った空白が、偶然とは思えなかった。
「リズ」
カルマが小声で呼ぶ。
「この先、どうする?」
「まずは今日の議事録の写しを確保しますわ。それから、中央教義院の送達原簿。受領継続通知が登録されている以上、発令元へ辿る記録がどこかに残っているはずです」
「教義院の連中が素直に見せるとは思えねえけどな」
「そうでしょうね」
わたくしは笑わなかった。
「ですが、存在すると自分たちの口で認めた記録です。なかったことにはさせませんわ」
遠くで鐘が鳴る。
昨日まで、鐘の下で何が起きているのかを知る者は、ほとんどいなかった。
今は、守備騎士団も、医師も、書記官も、少なくとも一部を知っている。彼らが全員同じ判断をするとは限らない。それでも、知った者の数だけ、簡単には消せない記録が増えた。
シュテルさんが戻ってきた。
「お待たせしました。サビーネさんは、少し眠れそうです」
「それは何よりですわ」
「……次は、どこへ?」
わたくしは教義院の方角を見た。
白い尖塔の上には、朝から変わらず金色の光が落ちている。
「書類の続きを、確かめに参りましょう」
今度は、名前のある人間へ辿り着くために。




