第62話 命を盾にする者
扉の隙間から漏れた白い光が、石床の銀線を照らしていた。
向こうにいる男は、わたくしたちが何を見つけたのかを知っている。少なくとも、接続された人々の命を盾にすれば足を止められると判断できる程度には。
「シュテルさん。お二人をお願いいたします」
わたくしが告げると、彼女はサビーネさんの手を握ったまま頷いた。
「はい。こちらは任せてください。リズさんも、どうかお気をつけて」
「ゼェレ。送出弁は、わたくしが固定しています。これを離しても問題ない状態にできますか?」
「ちょっと待ってね」
ゼェレは台座の脇へしゃがみ、銀の管の根元を指で叩いた。返ってきた音を聞いて、鞄から細長い金属片を取り出す。
「こっちの留め具を押さえておけば、弁は開かないはず。……よし、リズ。札の力を少しだけ緩めてみて」
わたくしは《ブラッドアルカナ》の張りを弱めた。
金具が微かに軋んだが、それ以上は動かない。銀線に走る光も変わらなかった。
「もう少し」
指先から伝わる抵抗が消える。
ゼェレが金具を固定し、今度は台座の脇に突き出た細い指針を見た。三度、脈を打つように揺れた針が、同じ位置へ戻る。
「大丈夫。こっちは私が見るから、行ってきなよ」
「助かりますわ」
「ただし、奥の操作卓は壊さないで。そこから返還側まで切られたら、この人たちを外すのが難しくなる」
「分かっています」
「あと、できれば管理者を生かしておいて。聞きたいこと、山ほどあるし」
ゼェレは測定板へ視線を戻した。まるで、こちらがどこへ向かうかなど分かり切っているような態度だった。
その平然とした様子に、わたくしの胸には相変わらず小さな棘が残る。
けれど今は、彼女に頼るしかない。
「行こうぜ、リズ」
カルマが《赤鐘》を握り直した。
わたくしは魔札を三枚、肩の周りへ浮かべる。
中央接続室では、相手を傷つけまいと拘束を緩めた。その結果、カルマに人を殺させることになった。
今も、敵を無闇に傷つけたいとは思わない。
ただ、相手が武器を手放す前に、こちらから手を緩めることはしない。
「ええ。参りましょう」
◇
扉を押すと、細長い管理回廊が現れた。
左手には壁を貫く銀の管。右手は腰ほどの高さの石壁で区切られ、その向こうに寝台室の一部が見える。奥には二段高くなった操作台があり、白い制服の男が立っていた。
その前には、革鎧の警備兵が二人。どちらも抜き身の剣を持っている。
男はわたくしたちの顔を確かめると、わずかに眉を寄せた。
「聖盾審問官はどうした」
「患者さんのそばにおりますわ。こちらの責任者は、あなたですか?」
「中央保全局、下層運用主任のオットー・ザイデルだ。王国承認の接続設備を不法に妨害した件については、すでに上へ報告してある」
「でしたら、わたくしたちの申し立てもお伝えください。本人の同意を確認できないまま、魔力の回収が続けられていました」
「それは事務上の問題だ。医療と設備の運用に、部外者が口を挟むな」
わたくしは右手の壁越しに寝台室を見た。
サビーネさんの胸元で、細い光がゆっくり明滅している。シュテルさんはその脇を離れず、ゼェレは台座の下で何かを確かめていた。
「事務上の問題、ですか。あの方は、自分の名前を口にしてはいけないと言われたそうです。検査が終われば帰れると聞かされて、今もここから出られずにいる」
「接続者の証言には混乱がある。治療中の者の言葉を鵜呑みにするな」
「なら、責任者として本人に説明をなさっては?」
男の顎が僅かに上がった。
「今、優先すべきは設備の保全だ」
先ほどから、彼は人の安全について一度も尋ねてこない。
言葉を重ねてもよい。けれど、その間に何をされるか分からなかった。
「回収の停止を求めます。返還側の維持に必要な操作は、こちらの専門家と相談してください。それから運用記録の提出を」
「断る」
男は即答した。
「王国の承認を受けていると言いましたね。その承認書はどこにありますの?」
「部外秘だ」
「あなたが本当に承認を受けているのなら、存在を確認することまで拒む理由はありませんわ」
「口の減らない女だ」
男が警備兵へ目配せした。
左の兵が、剣の柄にかけていた指を締める。
カルマが一歩、わたくしの前へ出た。
「おいおい。話してる最中にそれはねえだろ」
「武器を捨てろ。全員、拘束する」
「それ、先にあんたらがやってくれると助かるんだけどな」
返事は剣だった。
左の兵が石床を蹴り、カルマの胸元へ刃を突き出した。
銃声が一発、狭い回廊を叩いた。
カルマが撃ち抜いたのは、兵の胸ではなく、握っていた剣の鍔だった。火花が散り、刃が横へ弾かれる。
それでも兵は止まらない。短剣を抜こうとした右腕へ、わたくしの魔札が巻きついた。
糸を締める。
男の肘が不自然な角度まで引かれ、短い悲鳴が上がった。
「それ以上動けば、腕を折ります」
わたくしは告げた。
男は歯を食いしばったまま、短剣を落とした。
以前なら、その瞬間に緩めていたかもしれない。
今回は、床へ膝をつかせ、もう一方の手も押さえるまで拘束を解かなかった。
「右!」
カルマの声が飛ぶ。
二人目の警備兵は、腰の小型石弓を抜いていた。狙いはわたくしたちではない。
右側の低い石壁。その向こうの寝台室だった。
「ふざけるな!」
カルマがワイヤーを放った。鋼線が石弓の弓身へ絡み、手元を強く引く。
矢は天井へ逸れ、銀管の留め金に当たって砕けた。
男が引き倒されるのに合わせ、カルマが一歩踏み込む。銃把を手首へ叩きつけ、石弓を奪った。
「患者を撃つ気かよ!」
「命令だ! 接続者を奪わせるな!」
その返答で、わたくしの背筋が冷えた。
あの人たちは、設備を守るためなら寝台の上の命まで傷つける。
カルマが男を石壁へ押しつけている間に、わたくしは残る魔札でその足首を縛った。
「動くな。次は武器だけじゃ済まさねえぞ」
カルマの声に、男はようやく抵抗をやめた。
まだ終わっていない。
操作台の男が背を向け、覆いのかかった小さな盤へ手を伸ばしていた。
◇
「触らないでください!」
わたくしは魔札を一枚、操作台の縁へ滑らせた。
オットーは手を引かない。
「君たちには分からない。この設備を止めれば、何が失われると思う?」
「ここにいる方々の命を危険にさらすことだけは、分かっております」
「なら退け。補完送出を止めた穴を、ここで埋めなければならない」
男が覆いを外す。
銀のレバーが三本、円を描くように並んでいた。その一本には、細い赤線が刻まれている。
わたくしは番号しか読めなかった。どれが回収で、どれが返還なのか、見ただけでは判別できない。
だから、闇雲に札を突っ込むわけにはいかない。
「ゼェレ! 奥の管理者が、三本の切替レバーに手をかけています!」
壁の向こうで金具が鳴った。
「赤い線がある方は触らせないで!」
返事は短かった。
「返還が切れる。こっちの患者が保たないよ!」
その声とほとんど同時に、オットーが赤線のレバーを倒した。
サビーネさんの胸元の光が、細くなる。
「……っ!」
寝台室から、息を詰める音が聞こえた。
シュテルさんが叫ぶ。
「呼吸が弱くなっています!」
オットーは、こちらを見た。
「退け。さもなくば、もう一本も倒す」
その顔には、自分が何をしたのか理解している者の落ち着きがあった。
わたくしは怒鳴り返しかけた。
だが、操作台の上から彼を叩き落とせば、残るレバーへ身体が触れるかもしれない。
腕を拘束しても、指が一本動けば終わる。
どう止める。
カルマが回廊の右側へ移動した。銃を構える角度が変わる。
わたくしは彼の横顔を見た。
中央接続室で聞いた《ミゼリコルド》の銃声が、耳の奥に残っている。
あのときは、わたくしの判断が遅れた。
今度は遅らせない。
「カルマ。彼の手元、見えます?」
「右手だけだ。左は盤の陰に入ってる」
「わたくしがこちらへ向けさせます。武器を使うなら、そのあとで」
「分かった」
わたくしは魔札をレバーではなく、男の足元へ滑らせた。
床から薄い血色の糸が立ち上がり、右足首へ巻きつく。
オットーが眉を寄せる。
「小細工を――」
「動かないで」
糸を引いた。
男の身体が操作台から半歩、こちらへ傾く。倒れまいとして右手が盤の縁を掴んだ。
そこへ、カルマがワイヤーを打ち込んだ。
細い鋼線が右手首へ絡み、盤から離す。
同時にわたくしは二枚目を反対側へ回し、左腕を操作台の外へ引き出した。
オットーが叫び、抵抗する。
両腕に力が入った。骨が軋むほど引かれているのが分かった。
それでも緩めない。
「カルマ、盤から離して!」
「おう!」
ワイヤーが張り、男の肩がぐっと前へ引かれる。
わたくしは足の糸を解かず、背中が操作台へ戻らない位置に固定した。
男は石床に膝をついた。
ようやく、両手がレバーから遠ざかった。
「……殺さないのか」
オットーが息を切らして言った。
わたくしは彼の手首を見た。血が滲んでいる。
「そうする必要があれば、わたくしが選びます。でも今、あなたは拘束できました」
彼は唇を歪めた。
「甘いな。王国を相手に、そんなやり方がいつまで通じる」
「その答えを、あなたに決めていただくつもりはありませんわ」
カルマが男の腰から鍵束と細い短剣を抜き、床へ離した。
「口は達者だな。こっちは人が苦しんでんだ。少し静かにしてろ」
オットーはなおも何か言いかけたが、カルマが拘束具を締めると、ようやく黙った。
わたくしはすぐ寝台室へ目を向けた。
「シュテルさん! そちらは!」
「ゼェレさんが返還側を繋ぎ直しています! こちらは、まだ離れられません!」
「管理者は拘束しました。操作はこれ以上させません!」
返事の代わりに、石床を擦る音が続いた。
敵を止めることはできた。
けれど、あの二人が救われなければ、何の意味もない。
◇
わたくしが管理回廊へ残ったのは、逃げ道を押さえるためでもあった。
オットーと警備兵二人は武装解除し、壁際に座らせた。カルマは扉と捕虜を交互に見張り、わたくしは操作盤へ近づく。
赤線のレバーは倒れたままだ。
元に戻したい衝動を抑える。操作の意味が分からないまま触れば、また同じ危険を作る。
右手の低い石壁の向こうからは、ゼェレの声が聞こえてきた。
「シュテル、今から返す量を少しずつ変える。呼吸が乱れたらすぐ言って」
「はい。……サビーネさん、聞こえますか。もう勝手に動かされることはありません。私の声を聞いていてください」
女性の弱々しい返事が続く。
ゼェレは台座の下に半身を入れたまま、石材を変形させて管の継ぎ目を支えていた。床から細く伸びた石の支柱が、二つの寝台の間を通り、壁の銀管へ達している。
「……あぁ、やっぱりこっちまで圧が来てるんだ。よく平気でこんな配線にしたなぁ」
その声には、戦闘中に聞いたような冷たさがなかった。純粋に、下手な仕事へ腹を立てているようだった。
水銀の細い糸が、外された留め具を拾い上げる。ゼェレはそれを道具皿へ落とし、代わりに短い銀の継ぎ管をはめた。
「余ってる返還分を緩衝槽に逃がして、それを少しずつ戻す。急に全部切るよりはましだよ。……うん、シュテル、今はどう?」
「呼吸が整ってきています。顔色も、先ほどよりは」
「じゃあ、もう少し絞る。無理だったら戻すから、目を離さないで」
わたくしから見えたのは、二人の横顔と、時折明滅する銀環だけだった。
だから、何が成功して何が失敗したのかを、勝手に判断することはできない。
シュテルさんの肩は動き続けていた。祈祷を保ちながら、サビーネさんの呼吸に合わせて声を掛けている。
ゼェレもまた、何度も管の位置を調整し、金具の温度を手の甲で確かめていた。
あの二人なら助けられる。
そう思うのと、安心するのとは違った。
「リズ」
カルマに呼ばれた。
彼は操作卓の脇に置かれた書類箱を指さした。
「こいつ、さっきからあれを見てる。燃やすつもりだったんじゃねえか?」
オットーは顔を背けた。
箱の蓋には、封蝋を溶かすための小さな加熱具が備えられていた。内側には燃えやすい薄紙が詰められ、底に点火用の導線が走っている。
わたくしは蓋へ伸ばしかけた手を止めた。
「罠があるかもしれませんわ」
「だろうな。俺が見たところ、そこの細い金具が引き金だ」
カルマは長い針金を取り出し、箱を開く代わりに外側の留め具を固定した。
念のため、わたくしも魔札で箱全体を石台へ押さえる。
「よし。少なくとも、開けた途端に火が回ることはねえはずだ。中身は騎士団が来てからでもいい」
ところが、箱の横に置かれた書類だけは、隠す間もなかったのだろう。
そこには寝台の番号と、回収時刻が並んでいた。
〈医療上の停止申請〉の欄には、朱い線が引かれている。
その右に、運用主任の署名。
オットー・ザイデル。
さらに、その下。
〈中央教義院・受領継続の指示を優先〉。
わたくしは紙を持つ指に力を入れた。
この人物が、少なくとも自分の管理する区画で、停止申請を退ける判断をしていたことは分かる。
だが、中央教義院の指示が本当に存在したのか、その署名は誰のものか。王国の承認も含め、別の記録と照合する必要がある。
「こんな紙まで残していたのですね」
わたくしが問いかけると、オットーは口元を引きつらせた。
「残すに決まっている。記録がなければ、私が責任を押しつけられる」
その答えが、かえって恐ろしく感じられた。
患者の名前は消せるのに、自分を守るための署名は残す。
「では、その記録は大切に保管いたしますわ」
「貴様――」
オットーが身じろぎした瞬間、カルマが軽く肩を押さえた。
「動くなって。もう一度言わせる気か?」
それ以上、男は動かなかった。
◇
長い時間が過ぎたように感じた。
実際には、管理卓の針が一目盛り進んだだけだったのかもしれない。
寝台室から、シュテルさんの声が届く。
「リズさん。こちらへ来ていただけますか」
わたくしはカルマを見た。
「こっちは俺が見てる。行ってこい」
捕虜の位置を確かめ、管理回廊と寝台室の境まで戻った。
サビーネさんの胸元から、銀環が外されていた。
ただし、突然すべての管がなくなったわけではない。台座の下ではゼェレが緩衝槽と導路の接続を保ち、切り離した部分から魔力が逆流しないよう固定している。
シュテルさんは女性の呼吸を確かめながら、祈祷を終えるところだった。
「接続を外せたのですか?」
「はい。いきなり切らずに、少しずつ流れを減らしました。今はご自身の呼吸と魔力の巡りだけで、状態を保てています。ただ、地上で医師の診察が必要です」
「……よかった」
思わず声が漏れた。
サビーネさんが薄く目を開ける。
「……もう、ここにいなくていいの?」
シュテルさんがその手を包んだ。
「はい。上で休める場所を用意します」
彼女が頷くのを見てから、わたくしは隣の寝台へ目を向けた。
若い男性はまだ意識を取り戻していない。
ゼェレは汗の滲んだ前髪を手の甲で払い、わたくしを見る。
「もう一人は、あっちほど簡単じゃないね。眠ってる間に回収を深くしてたみたい。すぐに外すと戻る分が足りない」
「どうすれば?」
「緩衝槽を使う。こっちが落ち着いてからなら、返還の流れを一時的に借りられる。さっきの人をもう繋ぎ直す必要はないよ」
彼女は金具を確かめ、顔をしかめた。
「ただ、この槽、容量が小さいなぁ。設計した奴、余裕って言葉知らないのかな」
カルマの見張りがある間に、わたくしも空いた管の保持を手伝った。魔札で曲がりかけた細管を支える程度なら、ゼェレの邪魔にはならない。
作業が進むたび、シュテルさんが男性の呼吸を数え、ゼェレが弁をほんの少し動かす。
何度かやり直した。
男性の胸元の光が一度弱まり、シュテルさんの声が鋭くなる。
「戻してください。脈が速くなっています」
「分かった」
ゼェレは迷わず弁を戻した。
その反応の速さに、わたくしは胸を撫で下ろす。
相手が兵士なら一瞬で命を奪う判断ができる。その同じ手で、今は目覚めもしない人の呼吸が安定するまで、細かな調整を繰り返している。
不気味さが消えたわけではない。
それでも彼女の腕が、この人たちを救っていることは否定できなかった。
次に弁を絞ったとき、男性の胸の光はもう強くならなかった。
シュテルさんがゆっくり頷く。
「大丈夫です。今の状態を保てています」
ゼェレは銀環の留め金を外した。
わたくしが支えた管が台座から離れ、冷えた金属の音を立てて皿へ落ちた。
「……はい。これで身体に繋がってるものはなくなった」
ゼェレは椅子に腰を下ろし、しばらく黙って測定板の針を眺めた。
「やっと終わった。……いや、ここから先は医者の仕事だね」
シュテルさんは男性の呼吸を確認してから、ようやく背筋を伸ばした。
「ありがとうございます、ゼェレさん」
「お礼は、この人たちが無事に目を覚ましてからでいいよ。それより、運ぶなら寝台ごとじゃなくて担架がいい。床の溝、まだ勝手に動くかもしれないし」
「ええ。わたくしもそう思います」
彼女たちはすでに、次の仕事へ目を向けていた。
◇
地上へ連絡を出すため、カルマが北側の搬送路へ戻った。
わたくしは管理回廊で警備兵と運用主任の拘束を再確認し、操作台に残った帳票の位置を写し取る。シュテルさんはサビーネさんのそばにいて、ゼェレが寝台室の床に簡易の搬送路を作った。
しばらくして、守備騎士団と医師が到着した。
サビーネさんは名を呼ばれて返事をし、意識のない男性は医師の立会いで担架へ移された。二人の搬送先は、シュテルさんがその場で書面に残した。
オットーは自分が王国の認可を受けていたと繰り返したが、騎士団の責任者はまず武器と操作盤を確認し、運用記録を封印した。
わたくしは署名入りの停止申請と、承認欄が空白の帳票を並べて示す。
「こちらは原本を保全してください。わたくしも、写しと照合番号を記録しております」
「分かりました。ただし、中央教義院からも資料の引渡しを求められるでしょう」
「そのときは、誰が何を持ち出したかも記録していただきたいのです」
騎士は頷いた。
壁際では、ゼェレが使った金具を黙々と拭っていた。銀色の細い糸が手元で丸まり、道具鞄へ収まる。
「今日はずいぶん働かせちゃったねぇ」
カルマが声をかけた。
「ほんと。あとで道具の手入れが大変だよ」
「俺のもだ。火薬の匂いが取れねえ」
「それは自分でどうにかして」
ゼェレは軽く肩をすくめた。
わたくしはその横顔を見た。
彼女が何者なのかは、まだ分からない。
けれど、わたくしが知らないことは、彼女についてだけではなかった。
教会は長く、人々を救うための祈りを教えてきた。その地下で、人々が名前を奪われ、魔力を引き出されていた。
そして王国は、そこに必要な照合を与えていたのかもしれない。
ただし、〈かもしれない〉のまま怒りを向ければ、また誰かの名前を取り違える。
必要なのは、目の前の帳票に残っている署名と、そこへ至った命令の経路を確かめることだ。
わたくしは押収書類の写しを閉じ、カルマへ声をかけた。
「地上へ戻りましょう。次は、この運用を承認した者に会う必要があります」
「ようやく、話を聞かせる番だな」
「ええ。今度はこちらが質問をいたしますわ」
カルマが笑った。
シュテルさんは搬送されるサビーネさんに付き添い、ゼェレは最後にもう一度、停止した導路を振り返った。
その表情は読めなかった。
わたくしも廊下を振り返る。
銀の線はまだ壁の奥へ続いている。今回止めたのは、この下層区画の一部だけだ。
その先に何が残っているのか。




