第60話 切ってはいけない線
壁の奥で鳴った鐘のような音が、いつまでも耳に残っていた。
中央接続室では、二人の兵が白い布に覆われている。つい先ほどまで剣を握り、わたくしたちを殺そうとしていた人間だった。
それでも、あの布の下にいるのは人間だ。
わたくしがためらったために、カルマは撃った。シュテルさんがためらったために、ゼェレは刺した。その順序を、都合よく入れ替えて考えることはできない。
「リズさん。こちら、押収品の目録です」
シュテルさんが差し出した紙には、焼け残った台帳の冊数と、現場にあった武器の数が記されていた。
最後の行だけ、まだ空いている。
「亡くなったお二人の、お名前は……」
「まだ分かりませんわ。鎧には部隊の標章しかありませんでした」
「そうですか」
彼女は紙を引き寄せ、空欄に小さく書き加えた。
〈死亡者二名。氏名確認中〉。
わたくしはその文字を見つめた。誰がいつ命を失ったのか。それさえ記録しなければ、わたくしたちはここで書類を燃やそうとした者たちと、どこが違うのだろう。
そう考える自分が、立派な人間になったようで嫌だった。
「シュテルさん。手を」
「え?」
「インクがついておりますわ」
彼女の指先に黒い線が伸びていた。先ほどから何度も書き直したのだろう。
シュテルさんはそれを見て、かすかに笑った。
「後で洗います。今は、忘れないうちに書いておきたくて」
わたくしも頷いた。
そのとき、通路から複数の足音が近づいてきた。
「こっちだ。足元の銀線には触るなよ」
カルマの声だった。
◇
守備騎士団の騎士が三人と、医療鞄を提げた救護員が入ってきた。先頭の騎士は広間を見渡し、覆われた遺体の前で足を止める。
「……死亡者が出ているのか」
「二名です。残る四名は生きています。負傷した方への応急処置は済ませました」
シュテルさんが答える。
騎士は視線を操作卓へ移した。卓に残った焦げ跡と、拘束された保全局職員を見て、眉を寄せる。
「中央保全局の施設で、ここまでとはな。何が起きた?」
「侵入者を射殺するよう命じていたんだよ。現物もあるぜ」
カルマが床に並べた石弓と祈祷具を示した。
職員が顔を上げた。
「勝手に入ってきたのはそいつらだ! 保全局の記録を奪おうと――」
「その記録を燃やしていた理由も、調べていただきたいです」
シュテルさんは相手の言葉を遮らず、言い終わるのを待ってから続けた。
「私たちは患者の救出と、本人の同意なく魔力を回収していた疑いについて調査しています。こちらには、焼却途中だった帳票と、本人同意欄のない個人票があります」
先頭の騎士は返事の代わりに、焼けた火鉢と台帳を見比べた。
「承知した。現場は我々で保全する。ただし、聖堂の施設全体を捜索する権限がこちらにあるかは、今すぐ判断できない」
「それで構いませんわ。今、お願いしたいのは、人と記録を守ることです」
わたくしは押収目録を渡した。
「受領者のお名前と時刻を、こちらにも残させていただけます?」
「もちろんだ」
騎士は自分の名を記し、封をした台帳を部下に預けた。別の騎士が四人の拘束を引き継ぎ、救護員は倒れた盾兵の呼吸を確かめる。
死者の布も、丁寧に掛け直された。
カルマはその様子を見届けてから、わたくしの隣へ来た。
「奥、まだ行くんだろ?」
「ええ」
「分かった。けど、さっきみたいなことになったら遠慮なく引っ張るぞ」
「引っ張られる前に動けるよう、努力いたしますわ」
「それなら頼もしい」
彼は笑ったが、視線は一度だけ白い布へ戻った。
わたくしも目を逸らさなかった。
シュテルさんが騎士団に残る設備の危険を説明している間、ゼェレは円柱の裏側にしゃがみ込んでいた。指先で石の表面を撫で、青い瞳を細めている。
「……あ、こっちの目盛り、まだ動くんだ」
「何か見つけましたの?」
「うん。ちょっと嫌な繋がり方してるね。早く来て」
ゼェレは立ち上がり、円柱の向こうにある隔壁を指した。
その足元から、白い光が脈を打つように漏れていた。
◇
隔壁は半分ほど下りたまま止まっていた。
向こう側の床には同じ銀の導路が続き、端に細い溝が刻まれている。先ほどの職員が封鎖を命じた際に動いたものだろう。
「開けられるか?」
カルマが降りた鉄板の下を覗く。
「上げるだけならね。でも、ここの留め具を壊すと内側の導路まで割れるよ」
ゼェレは近くの石壁に掌を当てた。
壁の表面がゆっくりと波打ち、石の一部が隔壁の隙間へ滑り込む。持ち上がった石が鉄板の重量を受け止めると、彼女は反対側へ細い溝を作った。
「そこの留め金。見える?」
「十分」
カルマが片膝をつき、工具を差し込んだ。金具が一度、二度と小さく鳴り、隔壁の片側が緩む。
「リズ、そっちを押さえてくれ」
「承知しましたわ」
魔札を二枚、鉄板の縁へ添える。持ち上げるのではなく、急に落ちないよう張りを保った。
シュテルさんが《星盾》を小さく具現化する。光を板状にして鉄板の下へ差し込むと、カルマが最後の金具を外した。
軋む音が広間に響き、隔壁がわずかに上がる。
四人が通れる隙間を確保したところで、ゼェレが石の支えを厚くした。
「これ以上は上げなくていいよ。上の重り、変に噛んでる」
「分かった。戻り道だけ塞がれなきゃ十分だ」
カルマが先に屈んで通り、反対側の安全を確かめる。
わたくしたちも後へ続いた。
奥の部屋には、巨大な機械が待ち受けていた。
正面には銀の管が何本も束ねられた円環。床から伸びた導路がその下へ入り込み、反対側からは太い一本の導路がさらに地下へ続いている。
壁に並ぶ小さな窓の奥で、白い光が行ったり来たりしていた。
床の中央には、磨り減った古い文字がある。
〈受入〉。
その隣には〈返還〉。
さらに奥の、明らかに新しい金属板には〈補完送出〉と刻まれていた。
「返す経路もあるんですか」
シュテルさんが窓を見つめる。
「あるね。少なくとも元の造りには」
ゼェレは道具鞄から細い金属棒を取り出し、窓の周囲に当てた。光は棒に触れず、その奥を流れている。
「元々は、入ってきた魔力の一部を戻す設計だったみたい。……あ、でも今は違う。こっちの送出が大きすぎる」
彼女は棒を引いた。
「この場で全部止めるのはやめた方がいいよ」
「どうしてですの?」
「返す分まで一緒に切ることになるから。寝台の人たちが、まだこの流れに繋がってる可能性がある」
シュテルさんが円環の隣へ近づいた。
「私たちは、あの方たちから魔力を奪う装置を止めに来たんです。でも、止めることで苦しめるのなら……」
「まず、どの線が何をしているのか確かめましょう」
わたくしが言うと、彼女は頷いた。
少し前のわたくしなら、〈補完送出〉と記された新しい導路を見ただけで、魔札を叩きつけていたかもしれない。
今はそれが怖い。
救いたい相手に、自分の手で何をするか分からないからだ。
「この部屋に、人はいませんわね?」
「見える範囲にはいない。奥の配管の裏も確認する」
カルマが円環を回り込む。
足音が金属の床へ変わったときだった。
壁の窓が一斉に明るくなった。
◇
短い警報音が鳴った。
円環の上にある指針が跳ね上がり、白い光が〈受入〉から〈補完送出〉へ勢いよく流れ始める。
「何だ、今の!」
「向こうで出力を上げたんだ!」
ゼェレの声が鋭くなった。
床の銀線が熱を持ち、靴底を通して振動が伝わる。遠く、通路のどこかから金属を叩く音がした。
そして、人の声。
呻き声だった。
わたくしは思わず扉の方を見た。
「……寝台の方からですか?」
「分からない。でも、このままだと回収量が上がり続ける」
ゼェレは円環の脇へ走り、金属棒を二つの窓の間へ当てた。
「返還側は残ってる。補完送出だけが増えてるね。ああ、もう、こういう接続にするから調整が効かなくなるんだよ……!」
「止められるのか?」
カルマが聞く。
「ここで一本切れば、流れは止まる。でも急に止めると、残った魔力が寝台側へ戻るかもしれない」
彼女は隣の石壁を見た。
「……逃がす場所が要るな」
わたくしは円環を見上げた。
送出側の窓が明るくなるたび、受入側の窓が暗くなる。そこに繋がれている誰かの身体から、力が奪われているのだろう。
「シュテルさん、遠くの声が聞こえた方角を覚えていらっしゃいます?」
「左の通路です。先ほど来た方ではありません」
「カルマ、そちらに人がいないか確かめてください。ゼェレ、わたくしにもできることを」
「その前に、これを見て」
彼女は床の目盛りを指した。
中央にある短い銀の線だけが、何度も明滅している。
「新しい方の導路が、古い返還の線を横切ってる。あの交差部分を切り離せれば、余計な回収を止められる。だけど一気には無理。流れを少しずつ逃がさないとね」
「でしたら、逃がす先を作りましょう」
わたくしは魔札を四枚呼び出した。
「どの位置がよろしいですの?」
ゼェレがわたくしを見る。
「……へぇ。ちゃんと聞くんだ」
「分からないことを勝手に決めて、また誰かを危険に晒すつもりはありませんわ」
彼女は一度瞬きし、すぐに床を指差した。
「じゃあ、その二本を動かさないで。私が石の方を加工する」
魔札を導路の両脇へ滑らせ、力を加えずに固定する。ゼェレは床に手を触れ、銀線の外側に沿って細長い石の溝を作り始めた。
石が形を変えるたび、彼女のこめかみに汗が滲む。
初めて見た。
この地下に入ってから、ゼェレがあれほど明確に力を使っている様子を。
「ここの魔力、持っていかれるなぁ……。ま、石なら何とかなるけど」
「無理をなさらないで」
「無理だと思ったら言うよ。今はそこ、離さないで」
わたくしは魔札の位置を保った。
シュテルさんが、銀線から漏れる光を《星盾》で受け止める。祈祷を強めようとした瞬間、盾の縁が薄くなった。
「……この部屋では、魔力を多く使うほど吸い込まれますね」
「小さく保って。盾を広げると向こうの餌になる」
ゼェレが答える。
シュテルさんは頷き、必要な部分だけを覆った。
石の溝が円環の下へつながる。
「リズ、今だよ! 右の札だけ、ほんの少し引いて!」
ゼェレの声が、銀の震動に負けず響いた。
驚いている余裕はなかった。
右の魔札を指一本ほど動かす。
白い光が新しい溝へ流れ、溝の底で散った。石肌が熱を帯び、小さな亀裂が走る。
「……っ!」
「戻して。今度は左、半分だけ」
言われたとおりに動かす。
円環の指針が少し下がった。
しかし、次の瞬間、奥の送出側から別の光が押し寄せる。
「まだ足りないか」
ゼェレが舌打ちした。
「カルマ! そっちに手動の遮断具がない?」
「ある! ただ、錆びててびくともしねえ!」
壁の向こうから返事が来た。
「壊していいのか?」
「根元は駄目。取っ手だけ外して、下の軸を回して!」
「了解!」
金属を叩く音が続く。
やがて、重い何かが一段回る音がした。
送出側の光が、わずかに弱まる。
「もう一段!」
「分かってる!」
二度目の金属音。
円環の指針がゆっくりと下がり、白い光が落ち着き始めた。
「……止めた?」
シュテルさんが尋ねる。
「補完送出への流れはね。でも全部じゃない」
ゼェレは手を離し、指先に残った石の粉を払った。
「古い返還側は生きてる。今の状態なら、少なくともここから余分に吸い上げることはできないはず」
遠くの呻き声は聞こえなくなっていた。
ただ、聞こえなくなったからといって、無事とは限らない。
「カルマ!」
「こっちは大丈夫だ。隣の通路にも人はいない。声がしたのは、もっと先の方だと思う」
彼が円環の陰から戻ってきた。手には錆びた取っ手を持っている。
「……また買い替えだな、こりゃ」
「請求先なら、山ほど心当たりがありますわ」
「そりゃ助かる」
笑ったのは一瞬だけだった。
シュテルさんが返還側の窓へ手を近づけ、光の流れを見守っている。先ほどより弱いが、途切れてはいない。
「これなら、今この区画に繋がれている方々への影響は少ないのでしょうか」
「回収量は落とせた。身体の状態までは、ここじゃ分からないよ」
「……はい。確認しに行きます」
その返事に迷いはなかった。
◇
四人で円環の周囲を調べ直した。
カルマはさきほどの手動装置を仮固定し、ゼェレは石の溝を塞がず残して、余分な魔力が逃げる場所を確保した。
わたくしは操作卓に残された記録板を取り外す。
新しい金属板の裏に、もう一枚、古い木製の札が隠れていた。
〈監査照合完了〉。
その下には、擦れた印章の跡。
……見覚えのある形だった。
わたくしは指先を止めた。
父の執務室で、何度も見た監査印の輪郭に似ている。けれど、同じものと断定するには、欠けている部分が多すぎた。
「リズさん?」
シュテルさんが近づいてきた。
「どうされました?」
「この印を、ご覧くださいまし。監査が終わったことを示す札なのですが、誰の監査なのかが分かりませんの」
「王国側のものでしょうか」
「おそらく。ただ、それを確かめるには……」
わたくしは胸元へ指を添えた。
黒薔薇の印を持つ《ローズ・リスト》が、淡い光を伴って現れる。
名を奪われた人々の履歴と、それを操作した者の権限を照らし合わせるための監査書。
父が守ろうとしていたものの一部が、今はわたくしの手元にある。
札を帳簿の上へ置き、《ローズ・リスト》の頁を開く。
記録板の照合番号を追う。しかし、その番号だけでは、公名に対する監査の履歴へ辿り着けない。台帳の患者欄に名前がなく、対応する個人票もこの部屋にはないからだ。
わたくしは頁を閉じかけ、もう一度、古い札を見た。
〈監査照合完了〉。
何を、誰の名前で照合したというのだろう。
「……確認できませんわね」
「何が?」
カルマが肩越しに覗いた。
「この札に書かれた監査ですわ。照合番号だけでは、監査を受けた人の公名が分かりません。わたくしの監査書でも、そのままでは辿れないのです」
「つまり、監査済みって書いてあるのに、誰を監査したのか分からねえのか」
「ええ。別の場所に対応表が残っているのかもしれません。けれど、その表を示さずに『完了』とだけ記されても、正しく確認された証拠にはなりませんわ」
答えながら、指が冷たくなっていく。
王国は人々の名前を守る仕組みを持っていた。
教会も、本人の同意を確認する欄を用意していた。
どちらにも、守るための手続きがあった。
そのはずなのに、誰が、誰について確認したかを残さないまま、いくつもの人間が次の施設へ送られている。
父は、このような運用を止めようとしたのだろうか。
わたくしの知らない時代に、同じ疑問を抱いた者もいたのだろうか。
古い台帳が語るのは、誰かの悪意だけではない。確認を省き、異議を黙らせ、そのまま続けられるように作り替えられた手順だった。
それが長く続くほど、関わる人間は自分が何に加担しているかさえ知らなくなる。
「ねえ、こっちも見て」
ゼェレが横から声を掛けた。
「さっきの振動、ここの下から来てる」
彼女が示したのは、円環の下にある古い刻印だった。
金属板の陰に隠れ、正面からは見えない。
〈名核接続区・下層搬送口〉。
わたくしはその文字を読み、息を止めた。
「……名核?」
シュテルさんも口にした。
わたくしには、聞き覚えのある言葉だった。けれど、帳簿の上で見るのと、今も魔力が流れる設備に刻まれているのとでは、意味が違う。
「この先が送出先ですの?」
「少なくとも、この部屋の先に繋がってる。途中で分岐してるかもしれないけどね」
ゼェレは円環の下へしゃがみ、耳を澄ませた。
「……変だな。向こうに何か動いてる。ずっと同じ間隔で」
カルマが通路の奥へ目を向けた。
「機械か?」
「さあ。機械だけなら、こんなふうには……」
そこでゼェレは言葉を切った。
わたくしたちも聞こえた。
低い鐘の響きに重なる、かすかな呼吸のような音。
一度。
間を置いて、もう一度。
シュテルさんが、迷わず通路へ向き直った。
「誰かいるかもしれません。行きましょう」
彼女の目は赤くなっていた。それでも、足は止まらない。
わたくしは《ローズ・リスト》を閉じ、記録板を写し取ってから元の位置へ封印した。誰がいつこの設備を調べたのか、後から辿れるように。
そして魔札を二枚、手元へ呼び戻す。
中央接続室で失われた二人の命は、戻らない。
だからといって、ここで動くのをやめれば、あの二人が死んだ理由さえ、誰かの都合のいい書類に書き換えられてしまう。
それだけは許せなかった。
「参りましょう」
わたくしは三人に告げた。
カルマが先に奥の様子を確かめ、ゼェレが扉脇の銀線へ目をやる。シュテルさんは、わたくしの隣へ並んだ。
その向こうで、鐘の音がひとつ、大きく響いた。




