第58話 扉の向こうで呼ぶ声
「お願いです、開けて……!」
声は、回廊の突き当たりにある鉄扉の内側から聞こえた。
駆け寄ろうとしたわたくしの肩を、カルマが軽く引く。振り返ると、曲がり角の向こうから硬い靴音が重なって近づいていた。鎧の金具が触れ合う音もする。
「リズ、扉を頼む。こっちは俺が見ておく」
「ええ。シュテルさん、中の方へ声を」
「分かりました」
シュテルさんは扉の前で膝をついた。
「聞こえますか? 今から開けますので、扉から離れてください!」
「は、はい。でも早く……書類を渡さないと、ここごと――」
その先は聞き取れなかった。
扉には外側から鉄棒が渡されている。鍵を掛けるだけなら、それで十分なはずだった。けれど枠の石には祈祷の刻印が走り、その一部が床の銀線と繋がっている。
こんな場所でも、人を閉じ込めるために術式を使っている。
「線を切ればいい、という造りではなさそうですわね」
わたくしが言うと、ゼェレが脇から覗き込んだ。腰の道具鞄を片手で押さえ、刻印を一度なぞる。
「扉をこじ開けると、向こうの枠にも力が掛かる。ちょっと嫌な仕掛けだね」
「外せますの?」
「石の方はね。光ってる線を動かさないでくれる?」
二枚の《ブラッドアルカナ》を扉の左右に展開し、赤い糸で刻印の周囲を固定する。ゼェレが枠に手を当てると、石の一部が静かに痩せ、鉄棒を支える金具の根元が露わになった。
そのとき、背後で弦が鳴った。
「伏せろ!」
カルマの声とほぼ同時に、シュテルさんの《星盾》が回廊へ広がった。乾いた衝撃。弾かれた石弓の矢が壁へ突き立つ。
続く二本目は低かった。盾の下を狙った矢が床を打ち、青白い光を散らす。
足元の銀線が強く輝いた。
「……っ!」
身体の芯から魔力を引かれる感覚。扉を押さえる魔札が一瞬震え、掌に細い痛みが走る。
「この床、導路に繋がってる!」
ゼェレが短く告げた。
角の向こうから四人が姿を現した。盾と剣を持つ二人。その後ろに石弓兵、さらに細長い祈祷具を構えた男がいる。胸元の印は中央保全局のものだ。通常の巡回警備ではない。
「そこを動くな!」
先頭の男が怒鳴った。
「押収した書類を床へ置け。保管室の女も引き渡せ!」
「中には人がいるのでしょう? なぜ閉じ込めたのですか」
シュテルさんの問いに、男は答えなかった。後列へ顎を振る。
「回収が無理なら、室内の資料ごと処理しろ。外に出すな」
石弓兵が再び弦を引く。
扉の中で、何かの落ちる音がした。
「お待ちなさい。あの方まで巻き込むおつもりですの?」
「見られた時点で同じだ」
その返答を最後まで聞く前に、祈祷具の先端が赤く光り始めた。
交渉をするために来たわけではない。記録も人も、ここで消すつもりなのだ。
「シュテルさん、扉を! カルマ!」
「分かってる!」
カルマの《赤鐘》が火を噴いた。石弓の留め具が弾け、射手が反射的に身を引く。しかし前衛の二人は盾を並べ、こちらへ踏み込んできた。
わたくしは三枚目と四枚目の魔札を放つ。赤い糸が剣の腕と盾の縁へ絡み、突進を止める――はずだった。
鎧の継ぎ目から白い光が漏れる。糸に触れた瞬間、魔力が吸われた。
「補完導路を防具へ引いている……?」
わたくしが力を込め直す間に、一人が盾を押しつけ、もう一人がその陰から回り込む。
「リズ、右だ!」
カルマが剣の鍔を撃った。金属音が跳ねる。兵の手は一瞬開いたが、落とす前に握り直された。別の刃がカルマの胸元へ伸び、彼は石壁に肩を擦りつけて避ける。
わたくしは五枚目の札でその腕を捉えた。
まだ止まらない。兵は身体ごと引き、魔力を流した鎧で糸を焼こうとする。扉の刻印を固定した二枚を外せば、閉じ込められた人が危ない。こちらへ向けられる札の数は限られていた。
後列では祈祷具の男が構えを変えている。先端の光が、わたくしたちではなく扉へ向いた。
「扉ごと焼け!」
シュテルさんの盾が大きく傾く。前衛を押し返すことも、扉を守ることも、一度にはできない。
わたくしは兵の腕を折るつもりで魔札を引いた。
だが、それで足りるか。骨が折れても剣を持ち替えれば、また前へ出てくる。止めるための力を強めれば、どこまで傷つけることになるのか。
躊躇する余裕がないことだけは、分かっていた。
「そこ、動かないで」
ゼェレの声が耳元でした。
それまで扉の枠へ添えていた手を離し、《メルキュール》を持ち上げている。
「枠の方はもう外せるから。リズ、線だけ押さえてて」
「ええ、ですが――」
「大丈夫。あっちは私がやる」
声に気負いはなかった。
鎌の刃がほどけ、銀色の細い流れとなって床を走る。
盾を構えた兵が振り向いた。ゼェレはその顔を見ていない。盾が次にどこへ動くか、剣を持つ腕がどこまで伸びるか。それだけを確かめるように、視線が上下していた。
水銀の鎖が盾の外側へ回る。
鎖が締まり、兵の姿勢がずれた。
その瞬間、細く伸びた銀色の先端が腕へ走った。
「ぎゃあっ!」
悲鳴とともに剣が落ちた。兵は腕を抱えて膝をつく。傷口から赤いものが袖へ滲んだ。
普通なら、そこで一拍は動きを止めるだろう。
ゼェレは止まらなかった。
倒れた兵の声が回廊へ響く間に、別の鎖が二人目の脚を捉えていた。盾の陰から逃げようとした足に、銀の針が閃く。
鈍い衝撃音。男が床へ崩れ、石壁に肩をぶつけた。
「ぐ、あああっ……!」
先ほどより高い悲鳴が上がる。
ゼェレは首を僅かに傾けた。
声のした方を見るかと思った。けれど彼女が見ていたのは、倒れた男の背後にある銀線だった。そこを踏むと何が起こるか確認し、次の一歩を選んでいる。
わたくしの背筋を、別の冷たさが伝った。
錬金魔術師が戦えること自体は、不思議ではない。けれど、今のは術の巧拙だけで説明できるものではなかった。
わたくしの魔札は、相手の位置と糸の張り方を読み違えれば簡単に外される。彼女は水銀を動かす前から、男がどの足へ体重を移し、どう崩れるか分かっていたように見えた。
初めて人を相手に試した技とは、到底思えない。
「な、何なんだ、お前は……!」
祈祷具の男が叫ぶ。
ゼェレは返事をしなかった。
男が照準を変えたところへ銀の細線が伸びた。祈祷具が放った光は狙いを失い、天井の石を砕いた。
破片が降る。
「シュテルさん!」
「はい!」
星の光がわたくしたちを覆い、石片を受け止める。カルマはその陰から石弓兵へ回り込み、《赤鐘》のワイヤーで石弓を絡め取った。
ゼェレは袖口に一度目を落とした。男の腕から離れた水銀の針が空中で細く揺れ、再び彼女の手元へ戻っていく。
「そこ、もう踏まない方がいいよ」
誰に言ったのか分からなかった。
石弓兵が後ずさる。踏みかけた床の銀線が白く瞬き、その周りの石がせり上がった。靴が石に挟まれ、男の身体が動かなくなる。
「待て、待てっ! 俺は――」
「武器はもう落としてるね」
ゼェレはちらりと確かめ、すぐに扉へ視線を戻した。
前衛の二人と祈祷具の男は立ち上がれない。最後の射手は床に足を取られ、カルマに腕を押さえられている。
戦いが終わったと理解するまで、わたくしには少し時間が掛かった。
それほど短い間に、ゼェレは三人の武装した男を、逃走も反撃もできない状態へ追い込んでいた。
倒れた兵の一人が呻く。
ゼェレはその音に何も言わず、測定板を取り出して床の銀線へかざした。
まるで、配管の軋む音と人間の苦痛の声が、彼女にとって同じように聞こえているかのようだった。
◇
「……まず、中の方を出しましょう」
シュテルさんの声で、わたくしは我に返った。
「ええ。ゼェレ、枠は?」
「もう大丈夫。鉄棒を外せば開くよ」
わたくしは固定した二枚の魔札を慎重に戻した。刻印の光が枠へ伝わらないことを確かめ、シュテルさんが《ステラ・エッジ》で残る術式の接続を切る。
カルマが金具を持ち上げた。ゼェレが下の石を僅かに動かすと、鉄棒は重い音を立てて外れた。
「今、開けます。もう大丈夫ですよ」
シュテルさんが扉の隙間から声を掛ける。
中にいたのは、事務服を着た若い女性だった。煤のついた頬、抱え込むように持った書類袋。肩が小刻みに震えている。
女性は開いた扉の向こうを見て、凍りついた。
「……あの人たちは」
「生きておりますわ。ただ、怪我をしています」
わたくしが答えると、彼女は書類袋をいっそう強く抱いた。
シュテルさんはもう負傷した兵たちの方へ向かっていた。
「リズさん、こちらの方をお願いします。怪我人を診ます」
「承知しました」
床には血が落ちていた。助け起こした女性を椅子へ案内する間も、兵の呻きは途切れない。
ゼェレが一人の傍へ屈み、傷をひと目確かめた。
「まだ動かないで。シュテル、ここから先にお願い。腕を動かそうとするから」
「分かりました。……ゼェレさん、傷の位置まで見ていたんですか?」
「うん。さっき自分で刺したし」
当たり前のことを尋ねられたような声だった。
シュテルさんは一瞬だけ言葉を失い、それから祈祷を組み始めた。止血と痛みの処置を優先している。治療の光が揺れると、ゼェレは邪魔にならない位置まで下がった。
わたくしは魔札で兵たちを拘束し直し、カルマと一緒に武器を離れた場所へ集めた。痛むところを無理に動かさず、術式の導路にも触れさせない。シュテルさんが処置している間は、それだけで手一杯だった。
ゼェレは負傷した男たちのそばを通り、落ちた祈祷具を覗き込んでいた。
「これ、壊れてない。変な接続だと思ったけど、まだ動くんだ……」
独り言のあと、小さく眉を寄せる。
「ゼェレ」
呼ぶと、青い瞳がこちらを向いた。
「……先ほどの攻撃は、あまりにも的確でしたわ。錬金術でそこまでなさる方は、そう多くないでしょう」
「そう? 私、錬金魔術師だって言っただけで、戦えないとは言ってないよ」
「それはそうですけれど」
「今の相手、放っておいたら扉を焼いてたでしょ。だったら、早く止めた方がいい」
答えは筋が通っている。
それでも、訊きたいことへの答えにはなっていなかった。
彼女は、どうしてあれほど慣れているのか。
足を止めることも、痛みで武器を持てなくすることも、迷わず行っていた。傷がどの程度のものになるかを、少なくとも彼女は見越していたのだろう。
あの悲鳴を聞いても、目の動きひとつ変わらなかった。
もしわたくしが敵として向かい合えば、何枚の魔札であの銀の流れを止められるだろう。
わたくしの視線に気づいたのか、ゼェレはふっと笑った。
「なあに? まだ何か聞きたい?」
「……いいえ。助けていただいたことには、感謝しておりますわ」
「ならよかった」
ゼェレは祈祷具を指さした。
「それ、調べてもいい? 勝手には動かさないけど」
「カルマ。封じてから保管していただけます?」
「あいよ。ゼェレ、触るのはもうちょっと待ってくれ」
「はーい」
彼女は素直に引いた。
その気安い返事と、つい先ほどの戦いが、わたくしの中でうまく結びつかなかった。
◇
「お名前をお伺いしても?」
わたくしが尋ねると、事務服の女性はしばらく躊躇してから口を開いた。
「ノーラ・ヘスです。中央保全局の、記録係をしていました」
「していました、ですの?」
「……もう、戻れませんから」
彼女は書類袋を膝へ下ろす。
「搬送された方の名前が、帳簿から消えていたんです。最初は転記の間違いだと思っていました。でも、番号だけが残されていて、誰がどこへ運ばれたのか、辿れなくなっていた」
「ご自身で調べられたのですね」
「……最初からじゃありません。何も言えずにいました。私が間違っているのかもしれないと思って」
彼女の指が、袋の口を握りしめた。
「今朝、原本を燃やすよう言われたんです。名前の書かれた個人票だけを、先に処分しろと。だから、少しだけ抜き取って……」
「隠されたのですか」
「はい。見つかって、ここへ閉じ込められました。書類を渡せと言われましたけど、渡したらもう何も残らないと思って」
わたくしは彼女を急かさず、袋から取り出された帳票を受け取った。
寝台番号と回収魔力量だけを記した一覧表。その番号に対応する、患者一人ひとりの個人票。二つの記録には同じ移送番号がある。
ところが、個人票の本人同意欄は空白のままだった。
別の処理票には、〈移送完了・本人同意確認済〉とある。
「確認した方の署名がありませんわね」
「はい。確認する前に、この処理票が回ってきました。済んだものとして扱え、と」
「誰の指示ですの?」
「中央保全局の管理室からです。私は書類を受け取っただけで、それより上の人が誰なのかまでは……」
そこで彼女は言葉を切った。
回廊から兵の呻く声が聞こえたのだ。ノーラさんは肩をすくめ、扉の方へ目を向ける。
「……あの人たち、殺されてしまうんでしょうか」
「いいえ。治療を受けています。身柄は守備騎士団へ引き渡しますわ」
彼女は長く息を吐いた。
わたくしは帳票へ視線を戻す。
王国の照合番号。中央教義院への写しの送付欄。中央保全局の処理印。
異なる組織の手続きが、一人の人間を番号へ置き換え、その番号から魔力を取り出す設備へ繋がっている。
父アルベルトが公名の監査を守ろうとしていた理由を、思い出さずにはいられなかった。
誰が、誰を、何の権限で動かしたのか。
その記録を残せなければ、人間は帳簿の上でいくらでも消されてしまう。
父は王国で裁かれた。けれど、今ここにあるのは教会の書類だ。どちらが最初に命じ、どちらが承知していたのかは、まだ明らかではない。
だからこそ、都合のいい相手にだけ責任を押しつけられる前に、確かな記録が必要だった。
「ノーラさん。書類と、あなたのお話を騎士団へ預けてもよろしいですか」
「……はい。私も、誰がこれを決めたのか知りたいんです」
書類袋を手放すとき、彼女の指が一度だけ止まった。
わたくしは袋を受け取る前に、小さく頷いた。
◇
間もなく、地上から来た守備騎士団の応援と連絡通路で合流できた。
ノーラさんの身柄と証言、押収した原本を引き継ぐ。負傷した兵の位置を伝え、医師を向かわせてもらった。書類はその場で目録を作り、受領した騎士の名と時刻を控えた。
シュテルさんは応援の騎士に事情を説明してから、負傷した兵たちのところへ戻っていった。治療の状態を確かめ、搬送の手配が済んだのを見届けるためだ。
わたくしは付き添った。拘束していた魔札を外すのは、騎士団が兵の武器と身柄を引き継いだあとにした。
負傷した兵はまだ苦痛に顔を歪めていた。
ゼェレは近くで測定板を覗き込んでいる。
「さっきより、奥の流れが強いね。こっちを止めた分、向こうへ回してるのかな……いや、まだ分かんないか」
彼女の小さな独り言に、兵の呻きが重なった。
ゼェレの指は止まらない。
わたくしはそれを見つめた。
「リズ」
耳元でカルマが囁いた。周囲に聞こえぬほど声を落としている。
「何ですの?」
「考え事なら後にしな。目が怖いぜ」
「……失礼しましたわ」
「別に怒ってるわけじゃねえよ。俺も見てた」
彼はそれだけ言い、《赤鐘》を納めた。
何を見ていたのか、訊く必要はなかった。
シュテルさんが戻ってくる。
「処置は終わりました。搬送は騎士団が引き受けてくださいます」
「ありがとうございます。少し休まれますか?」
「大丈夫です。……奥の設備は、まだ動いているんですよね」
彼女の問いに、ゼェレが測定板を持ち上げた。
「うん。ここより奥が本線みたい。私たちが止めた枝は動いてないけど、向こうの量は増えてる」
「では、参りましょう」
シュテルさんは審問官章を握り直した。その手に力が入るのを、わたくしは見ていた。
再び奥へ進むと、床の銀線が一本ずつ太くなっていく。途中から、いくつもの線が石壁の内側へ吸い込まれ、その先で一つにまとまっていた。
「こんだけ集めて、どこへ流してるんだか」
カルマが靴先で線の向きを示した。
「流れの向きは合ってるよ。あとは終点を見るだけ」
ゼェレは測定板に目を落としたまま答えた。
わたくしは先ほどの戦いを思い返す。
彼女は錬金術師としての手際で、あの兵たちを止めた。けれど、それだけでは説明できない。水銀の使い方より先に、人間がどこで動きを失うかを知っていた。
何度、人を相手に戦えば、あれほど落ち着いていられるのだろう。
味方でいる今でさえ、この問いに答えはない。
通路の先に、これまでより大きな銀の扉が現れた。
扉の上には教会の紋章。その下へ後から打ちつけた金属板に、文字が刻まれている。
〈白冠補完導路・中央接続室〉。
シュテルさんが立ち止まり、扉の刻印を確かめる。カルマは左右の壁と退路へ目を配り、ゼェレは測定板の粒が一斉に扉の奥へ寄るのを眺めた。
「……ここだね」
ゼェレが呟いた。
わたくしは一枚の魔札を指の間へ呼び戻した。
父を処刑した王国と、その計画に関わっていたかもしれない教会。
どちらの責任も、今ここで決めつけはしない。
ただ、同じ番号が双方の記録にある以上、確かめなければならないことがある。
扉の向こうから、鐘のような低い音が響いた。




