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第56話 鐘の下の寝台



 石段の下から、鈍い鐘の音が聞こえていた。


 大聖堂の鐘なら、幾度となく耳にしている。時を告げ、祈りを促し、ときには葬送の列を導く音だ。けれど、これは違う。胸の奥へ指を差し入れられるような、ひどく居心地の悪い響きだった。


「ビアンカさんが聞いたのは、こういう音だったのでしょうか」


 シュテルさんが足を止めた。握っている審問官章の鎖が、指の間でわずかに軋む。


「似てるな。上よりも近い気がする」


 先を歩くカルマが声を落とした。


 わたくしも壁へ目を向けた。石の継ぎ目に沿って銀の細線が延びている。装飾にしては目立たず、修繕用にしては丁寧に埋め込まれていた。


「これ、踏まないでね」


 ゼェレが最後尾から追いつき、銀線の手前で屈む。道具鞄から透明な薄板を取り出すと、中に封じられた粒が一方向へ寄った。


「こっちへ流してる。あの銀環と同じ系統だと思うけど、流れる量が違うねぇ」


「ここから、さらに奥へ?」


「そう。だから途中で切っちゃ駄目。どこへ繋がってるか見るまではね」


 言いながら、彼女は板をしまった。わたくしたちに説明しようとするより、確かめたいことが次々に浮かんでいるような顔だった。


 白銀の髪に差した青が、階段の暗がりで揺れる。


 北側の保守口では、あれだけの数の水銀の鎖と針を操っておきながら、ゼェレの呼吸ひとつ乱れていなかった。今も、ただ退屈な作業を始めたように見える。


 ひとりで警備隊を制圧したことより、その後で何事もなかったかのように道具を片づけたことの方が、わたくしには気になっていた。


「左へ行くぞ」


 カルマが分岐の前で膝を折る。正面には灯り、左には荷車の轍が残る細い通路がある。


「新しい靴跡がこっちへ入ってる。見張りがいるかもしれねえけど、正面を歩くよりはましだ」


「では、そちらから参りましょう」


 わたくしは足音を抑えて続いた。


     ◇


 通路の奥には、白い封印を押した木箱が積まれていた。


 ひとつには〈第六保全棟〉の管理印。もうひとつには、長方形の用紙が貼り付けられている。紙の端にあるのは、教会の紋章ではなかった。


 王国の公用物資に使われる認証欄だ。


 見慣れた書式に、思わず足が止まった。


「リズ?」


 カルマが振り返る。わたくしは指先だけで、その紙を示した。


「王国の物資票ですわ。書式だけなら、特別なものではありませんけれど」


 そこに記された品目は、単なる保守用の金具と導管だった。王国から教会への納入品があること自体、不思議ではない。


 問題は、その下にあった。


 同じ票に、教会側の受領確認と、王国側の照合欄が並んでいる。納入済みを示す印ではなく、使用した数量を後から記入する形式だ。


「運んだだけじゃない、ってことか?」


「まだ分かりません。ただ、どちらも運用後の数字を見るための欄ですわね」


 物資の話をしているはずなのに、第六保全棟で見た搬送便番号が頭をよぎった。


 人を運ぶ帳簿と、祈祷資材を運ぶ帳簿。


 最初は別々だったものが、聖都へ入ってから何度も同じ番号で結びついている。


 父が裁かれた日、法廷で口にされた《白冠計画》という言葉を思い出した。


 父は白冠を設計した。王国を守るための大結界として。けれど、運用を拡大する王国と対立し、その末に処刑された。


 教会が白冠の維持にどこまで関与しているか。そこはまだ、わたくし自身の目で確かめていなかった。


「奥、誰かいるぞ」


 カルマの声で意識を戻す。


 通路の突き当たりに小さな格子窓があった。彼は身体を低くして覗き、すぐにこちらへ場所を譲った。


 白い寝台が二つ。


 女性は半身を起こし、もうひとりの男性は目を閉じたままだった。どちらの腕にも銀環が嵌められ、細い管が壁を通じて床下へ延びている。


 わたくしは、木箱の物資票から目を離した。


 数字の意味を考えている場合ではなかった。


 室内には白衣の男性と、中央保全局の腕章をつけた男がいる。


「今夜でここは閉鎖だ。奥の記録は処分しろ」


「接続中の患者さんがいます。移送先の手配もまだ――」


「だから急げと言っている。残すなと指示が来ているんだ」


「このまま輪を外せば、危険です」


「なら寝台ごと運べ。それができないなら後回しだ」


 女性が息を詰め、かすれた声で訴えた。


「お願いします……苦しくて……」


「静かにしていろ。手順を乱すな」


 男は彼女を見もしなかった。


 シュテルさんの手が、格子の前で止まっている。顔を伏せたまま一度息を吸い、静かにカルマを見た。


「患者さんを助けたいです。でも、輪を無理に外したら……」


「そこは俺も同じ考えだ。先に中を押さえよう」


「導路は私が見るよ」


 ゼェレは短く答え、壁の線を指で辿った。口調は軽いままだが、さっきまでの退屈そうな様子は消えている。


 わたくしはシュテルさんへ頷いた。


「帳簿と人は、別々に守らねばなりませんわね。わたくしは記録を」


「お願いします」


 シュテルさんは審問官章を衣の外へ出した。


     ◇


 小部屋の扉は、細い通路を曲がった先にあった。


 カルマが足音を数え、三本の指を立てる。すぐに扉が開き、桶を持った職員が出てきた。


「失礼します。聖盾審問官シュテル・シュトラールです」


 シュテルさんは相手が驚いて桶を落としかける前に、身分章を示した。


「中の方々の救護と、記録の確認が必要です。責任者へお取り次ぎください」


「し、審問官様……?」


 職員が背後を振り返る。


 その声を聞いた腕章の男が姿を現し、わたくしたちを見た途端、目を細めた。


「保守口の警備はどうした」


「こちらの方々は――」


「分かっている。外へ出ろ」


 男は職員を押し退け、わたくしたちへ向き直った。


「ここへの立ち入りは認められていない。今すぐ帰れ」


「患者さんがいらっしゃいます。まず診察を――」


「必要な処置は済んでいる!」


 男が言葉を切り、奥へ怒鳴った。


「記録庫を閉めろ! 巡礼者の受入票から先に焼け!」


 わたくしは袖の下で魔力を集めた。


 巡礼者、と彼は言った。


 ここがただの祈祷設備の修繕室なら、なぜ巡礼者の受入票を焼かなければならないのか。


「シュテルさん」


「はい。もう待てません」


 男が剣に手を掛ける。それより早くカルマがわたくしたちの前へ半歩出た。


「悪いけど、奥の人だけは置いて帰れねえな」


「邪魔をするな!」


 男は扉を蹴り閉めた。内側から閂の落ちる音が響き、続いて、記録庫の炉を開けるよう命じる声がした。


「どいて」


 ゼェレが前へ出る。黒い袖から覗く手を石枠へ当てると、扉の脇の石がひと呼吸だけ波打った。


 石が柔らかくなったのではない。そう見えるほど滑らかに、受け金具の下だけが持ち上がったのだ。


 金具が傾き、閂が外れる。


 誰かが力を込めた気配すらなかった。


「……なるほど。こういう開け方もあるのですわね」


 思わず漏らすと、ゼェレは振り返りもせず扉を押した。


「壊すより早いでしょ」


 確かにそうだった。


 けれど、あまりにも容易すぎる。


     ◇


 部屋に踏み込むと、左奥から熱風が吹きつけてきた。


 炉がある。


 記録を抱えた職員が、その火口へ向かっていた。


 右には二つの寝台。シュテルさんは迷わず右へ走り、カルマが通路の中央に残る。


 わたくしは左へ魔札を二枚放った。


「《チェーン》」


 一枚が紙束を抱えた手首に絡み、もう一枚が炉の扉を押さえる。職員は手を引こうとして転び、紙が床へ散った。


「拾わなくて結構ですわ。まず、火から離れてくださる?」


 その奥で、石弓の弦が引き絞られる音がした。


 射手の指が動く寸前、カルマの《赤鐘》が火を噴く。石弓の留め金が砕け、射手の腕が跳ね上がった。外れた矢は斜めに飛んで天井の継ぎ目へ突き刺さる。


「左は任せた! 寝台の方を頼む!」


「承知しましたわ!」


 シュテルさんが小さく祈祷を唱えかけ、すぐに手を下ろすのが見えた。


 この部屋では魔力を引く術式が動いている。大きな《星盾》を作れば、患者の身体にどう影響するか分からない。


 彼女は盾を出さず、寝台へ駆け寄った。


 剣を抜いた警備兵が、その進路へ出る。


 わたくしが三枚目を展開しようとしたとき、兵士の足元が盛り上がった。


 石畳が靴の形に沿って立ち上がり、踵から足首を包み込む。


「なっ、何だ!」


 兵士は剣を振るおうとした。ゼェレが細い杖の先で隣の壁をこつりと叩く。


 壁が凹み、その分だけ石の塊が押し出され、兵士の肘と胴の間へ入り込んだ。振り下ろすはずだった剣が石に当たり、刃先が床を擦る。


「そこ、動かない方がいいよ」


 剣を取り落とした兵士が、まだ自由な手でそれを拾おうとする。


 ゼェレの持つ鎌の刃先から、銀色の糸がひと筋伸びた。糸は剣の柄に巻きついて引き上げ、彼女の手元へ戻ると、何事もなかったように刃へ溶け込んだ。


 ゼェレは相手を見ていなかった。


 すでに寝台の銀環へ目を向け、壁の導路を調べ始めている。


 わたくしの魔札なら、敵を拘束するには射線を確保し、拘束を維持しなければならない。彼女は石床を動かしただけで、相手が踏み出す余地そのものを消してしまった。


 壁も、床も、彼女の側についているように見える。


 しかも、今の錬金術は構造柱を避け、警備兵の足と腕だけを封じていた。大きな音も、余分な破壊もない。


 怖いほど正確だった。


「リズ、そっちの炉だ!」


 カルマの声で、わたくしは我に返る。


 別の職員が床の書類を掻き集め、炉の横にある小さな投入口へ押し込もうとしている。


「《フォーク》」


 赤い札が左右へ分かれ、一方は職員の手を弾き、もう一方は投入口の留め金に絡んだ。勢いよく閉じた鉄蓋が音を立てる。


 紙束はわたくしの足元へ滑ってきた。


「残念でしたわね」


 職員が背を向けて逃げようとする。カルマがその前へ回り、銃を見せる。


「もう燃やすなよ。こっちは読む方が忙しいんだ」


 その間に腕章の男が奥の通路へ走った。


 追おうとしたカルマへ、わたくしは首を振った。


「カルマ、記録の方を。逃げ道はわたくしが塞ぎますわ」


 壁際へ魔札を回し、通路の入口を横切るように赤い魔力の線を張る。男はそれに気づいて足を止めたが、すでに後ろからカルマが近づいていた。


「悪いな。話を聞きたいんだ」


 男は短剣を抜きかけ、銃口を向けられて手を止める。


「……審問官の同行者がこんな真似をして、ただで済むと思うか」


「それは後で考えるよ。まず、あんたが燃やそうとしたものからだな」


 カルマが短剣を取り上げる。


     ◇


「リズさん、こちらをお願いします!」


 シュテルさんの声がした。


 寝台へ向かうと、女性は浅く息を繰り返し、隣の男性は目を開けないままだった。


 ゼェレが壁の管を指で辿っている。


「二人分をまとめて送ってる。……あ、戻りもあるんだ。なるほどねぇ」


「外せますか」


 シュテルさんが聞く。声は落ち着いていたが、銀環の留め具へ伸ばしかけた手を、膝の上で握り直していた。


「外せるよ。順番があるだけ。そっちの弁を閉めてくれる?」


 ゼェレは二本の管のうち細い方を指した。


「先に戻りを止めて、それから回収側を閉じる。主管には触らないで。ほかの部屋へ繋がってるから」


「分かりました」


 シュテルさんが弁の前に立つ。


 わたくしは女性のそばへ座り、手首に嵌められた輪を見た。あのニッケルを含む合金らしい継ぎ足しが、ここにもある。けれど、人の魔力を吸い上げているのは金属の性質ではない。内部に隠された祈祷術式だと、ゼェレが突き止めていた。


「今から流れを止めます。苦しくなったら、すぐ教えてくださいませ」


 女性の指が、わたくしの袖を掴んだ。


「……はい」


 最初の弁が閉じる。


 微かな鐘の音が一段低くなった。


「次、そっち」


 もうひとつの弁をシュテルさんが回す。


 銀環の光が揺れ、消えた。


「息は?」


 ゼェレの問いに、女性は胸を押さえながら頷いた。


「……さっきより、楽です」


 隣の男性は反応しないが、呼吸はある。


「二人とも流れが止まった。留め具を外すよ」


 ゼェレは細い工具を差し込み、輪をひとつずつ外していった。無駄な動きがない。指先の速さは、さきほど床石を変形させたときと変わらなかった。


 わたくしは男の胸の上下を確かめた。シュテルさんが首筋に指を添え、呼吸を数える。


「意識はありませんが、脈はあります。早く施療院へ」


 女性が小さく咳き込んだ。


「……私たち、どうなるんですか」


 シュテルさんは寝台のそばへ膝をついた。


「ここからお連れします。お名前を教えていただけますか」


「フリーダ……フリーダ・ベックです」


「フリーダさんですね。ありがとうございます」


 シュテルさんはその名を一度だけ確かめ、持っていた紙へ書き留めた。


 女性は、少し驚いた顔をした。


「名前……書いてくれるんですか」


「もちろんです」


 シュテルさんの返事は短かった。


 そのあとで、女性はここではずっと番号で呼ばれていたのだと話した。


 わたくしは腕輪を置いた台を見た。器具番号は刻まれている。寝台の札にも番号がある。


 名前だけが、どこにもない。


 父が守ろうとしたものを思い出す。


 公名は、書類を飾る文字ではない。誰の同意で何が行われたかを確かめるための、最後の手掛かりだ。


 人を番号だけで扱えば、どこへ送ったのか、誰が承認したのかを追うのは難しくなる。


 それを、あの人たちはよく分かっているのではないか。


     ◇


 カルマが炉の火を落とし、腕章の男を連れて戻ってきた。男の手首は縄で結ばれ、短剣も取り上げられている。


「こっちは片づいた。ほかの二人も隣の資材室にまとめてある。奥の通路も押さえたぞ」


「助かりましたわ。こちらも二人の銀環を外せました」


 彼は寝台を一瞥して、すぐに出口を確かめた。


「運搬台車があった。ここまで持ってくる。ひとりは寝たまま運べるようにしよう」


 カルマが去ると、わたくしは炉から遠ざけた書類を集め始めた。


 焼け残った受入票。


 第六保全棟からの搬送便番号。


 そして、薄い帳簿が一冊。


 表紙には〈地下祈祷回廊・補助送出記録〉とあった。


 頁を開く。


 器具番号、受入時刻、送出量、搬送便番号。そこにも患者の名前は書かれていない。


 送出先の欄を見たとき、指が止まった。


 〈白冠・補完導路〉。


 法廷で聞いたあの言葉が、今度は実際の運用記録として、わたくしの前にあった。


 父の作った結界へ、人から集めた魔力が流れている。


 もちろん、帳簿に記された導路のどこまでが実際に動いているか、まだ確かめていない。それでも、第六保全棟からここまで導路を追い、現に銀環が人の魔力を奪っているところを見た。


 ただの記入間違いで済むはずがない。


 さらに頁をめくると、別紙が挟まっていた。


 王国の物資票と同じ照合欄。そこには送出量を記す枠があり、隣に中央教義院側の受領欄が並んでいた。双方に確認印が押されている。


 思いがけず、笑いそうになった。


 父の裁判では、白冠計画の運用拡大に異を唱えたことさえ罪にされた。わたくしたちから家名を奪い、父の言葉を封じた王国。


 その王国が、教会の奥深くで集めた魔力を、数字として照合している。


 もちろん、確認印が正規のものか、まだ裏を取らなければならない。それでも、人を番号で扱う帳簿と、王国と教会の二つの照合欄が、同じ部屋から出てきた。


 教会は知らなかった。王国だけが勝手にやった。


 そんな言い訳を、互いにどこまで続けられるのかしら。


「ねえ、何か見つけた?」


 ゼェレの声がすぐ横で聞こえた。


 わたくしは反射的に帳簿を閉じかけ、手を止めた。


 いつの間に近づいたのだろう。彼女は書類よりも、わたくしの指先を見ていた。


「それ、読ませてもらってもいい?」


「ええ。面白いというには、少々悪趣味ですけれど」


 ゼェレの青い瞳が、表紙へ移る。


「へえ。送出記録か。……あの祈祷術式を人に使って、ここで量を揃えてるんだね」


 ほんの一瞥で、彼女は帳票の役割を読み取ったらしい。


「何かご存じなの?」


「この帳簿の書き方は見れば分かるよ。でも、最後に何へ使ってるかは、まだ知らない」


 そう言って、彼女は回廊の奥へ顔を向ける。


「そっちは見たいなぁ」


 わたくしはその横顔を見た。


 ゼェレの言うことに、今のところ嘘は見つからない。


 けれど、彼女は《灰触銀》という未知の材質を知っていた。壁や床を自在に組み替え、《メルキュール》で警備隊を一息に制圧した。今も魔力を吸い上げる設備が動いているというのに、少しも疲れを見せない。


 そして今、王国と教会の記録が結びついた帳簿を前にしても、驚いた様子がない。


 何を知っているのか。


 何を隠しているのか。


 わたくしは、まだ判断できない。


 たしかなのは、ゼェレが敵に回った場合、今のわたくしたちがどう止めるか、容易には答えを出せないことだった。


「リズさん」


 シュテルさんが近づいてきた。わたくしは帳簿を抱え直す。


「先に患者さんたちを外へ運びましょう。奥へ続く導路は、まだ動いているようです」


「ええ。こちらの書類も持ち出しますわ」


 シュテルさんは帳簿の表紙を見て、一瞬だけ唇を引き結んだ。


「……白冠、ですね」


「そうですわ」


 彼女はわたくしの顔を見たが、何も尋ねなかった。


 審問官章の鎖を握り直し、眠っている男性の寝台へ戻る。それから、運び出す順番をカルマと相談し始めた。


 わたくしも帳簿を包み直した。今は、彼女に何かを説明するより、地上へ運ぶべき人がいる。


     ◇


 運搬台車へ男性を移す際、ゼェレは床石を滑らかな斜面に変えた。


 重い寝台の脚が引っかからない。柱や壁に傷ひとつつけず、人が通れる道だけを作ってしまう。


「左の荷運び口から地上へ出られる。医者を呼ぶなら、表の聖堂よりそっちが早い」


 カルマが台車を押しながら口笛を吹きかけ、やめた。


「便利すぎるだろ、それ。土木屋が泣くぞ」


「無茶な図面を持ってくる土木屋には、使ってほしくないけどねぇ」


「そりゃ同感だ」


 ゼェレは小さく笑い、何でもなかったように手を離した。


 わたくしは台車の後ろで、今の変形を目に焼きつける。


 《ブラッドアルカナ》なら、石を引きずり、押し倒し、動きを封じることはできる。けれど、石そのものの形を変え、隙間なく患者の搬送に合わせるには、別の術式と準備が要る。


 あの小さな身体のどこに、これほどの技量が収まっているのかしら。


 問いかけようとしたとき、ゼェレがこちらを見た。


「……何?」


「いいえ。お見事だと思いまして」


「そう? じゃ、褒め言葉だけもらっとく」


 気の抜けた返事だった。


 こちらの警戒など、見透かされているのか、それとも本当に気づいていないのか。


 どちらでも構わない。今は、同じ側で動いてくれている。


 それがどれほど心強く、同時に危ういことなのかは、忘れないようにしなければ。


 回廊の奥では、低い鐘の音が鳴り続けていた。


 白冠へ続く導路。その先に何があるのかを、まだわたくしたちは見ていない。


 手元の帳簿を抱き直す。


 王国は父を裁いた。


 教会は、ここで人々から魔力を集めている。


 その二つを結んでいるのが、ただの偶然であってほしいなどとは、もう思わなかった。


 わたくしたちが辿り着いたのは、ようやくその入口なのだ。

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