第51話 銀環の継ぎ目
昼食を終えて店を出ると、カルマさんが私の顔を覗き込んできた。
「まだ考えてるだろ、あの輪のこと」
「……顔に出ていますか?」
「さっきパンをスープに落としたときからな」
「それは、たまたまです」
「二回とも?」
言い返そうとして、やめた。
リゼリアが小さく笑っている。彼女が食事中にあの事故の話を持ち出さなかったのは、私に少し休ませようとしてくれたからだと思う。にもかかわらず、私の頭の中では、銀の輪に残っていた琥珀色の光が、何度も同じところを巡っていた。
「ビアンカさんが気になります。施療院へ寄ってもいいでしょうか」
「もちろんですわ。検査についてご本人にお聞きするのも、身体が落ち着いてからにいたしましょう」
「じゃあ俺は、さっきの技師が何を止めたのか聞いてみたいな。あの遮断器、壊れてたのは確かだけど、鎖を外して弁を戻したあとも、しばらく何か光ってたろ」
「わたくしも見ましたわ」
リゼリアが足を止めた。
「ただし、わたくしたちが見たのは光が残ったという事実だけです。何がその光を生んだのか、まだ分かりません」
「分かってるよ。だから、見に行くんだろ?」
カルマさんはあっさり答えた。
私は二人を見比べた。
祈祷の仕組みを学んだ年月なら、私の方が長い。それでも、朝の事故について考えると、二人の言葉が頼もしかった。分からないことを、分からないまま確かめに行ける。
そういう相手が傍にいるのは、ありがたい。
◇
施療院の受付には、午後の診察を待つ人が並んでいた。
私が名乗ると、昨日から顔を合わせている受付の女性が、手元の台帳を確かめてくれた。
「ビアンカ・フェルナーさんですね。意識は戻っています。医師から、今日は無理をさせないようにと言われていますけれど」
「お話しできるか、ご本人に聞いていただけますか」
「分かりました。少しお待ちください」
戻ってきた受付係に案内され、私は一人で病室へ入った。リゼリアとカルマさんは廊下で待っていてくれるという。
窓際の寝台で、ビアンカさんは毛布を肩まで掛けていた。顔にはまだ疲れが残っているものの、調整棟で支えたときより呼吸は落ち着いて見えた。
「今日、調整棟でお会いしたシュテルです。お加減はいかがですか?」
「……ああ、あのときの。助けてくださって、ありがとうございます」
起き上がろうとする彼女を、私は慌てて止めた。
「そのままで。お医者様には、もう診ていただきましたか?」
「はい。しばらく魔術も祈祷も使わず、休むようにって。でも、私、祈祷は使えないんです。魔術も生活魔法くらいしか……」
「それなら、今は身体を休めることが一番ですね」
私が椅子に腰を下ろすと、彼女は包帯の巻かれた腕を見た。
「ここ、痛いんです。腕に輪を付けられたところ。外してからも、じんじんして」
「……今日の検査は、どんなものだと説明されていたのでしょう」
「灯具の修理補助に入るなら、魔力の反応を測っておきたいって。普通の検査だと思ったんです。修理した灯具を触ることもあるから、問題がないか確かめるんだろうなって」
彼女は一度息を整えた。
「輪を腕に当てられて、手を台の上に置くように言われました。少し温かくなったあと、胸が苦しくなって……。やめてほしいって言ったら、すぐ終わるから動かないでって」
「それは、どなたが?」
「白い服の人です。名前までは……ごめんなさい」
「謝らなくて大丈夫です。顔や服装を覚えているだけでも、十分参考になります」
彼女が少しだけ肩の力を抜いたので、私は続けた。
「検査が終わったら、診察を受けられると聞いたそうですね」
「ええ。具合が悪いって何度も伝えて、それでやっと。だけど、休ませてもらったあと、また別の部屋へ運ばれることになって……」
「どんな部屋か聞かされましたか?」
「いいえ。私が質問しても、担当じゃないからって」
ビアンカさんの目が伏せられる。
「仕事を紹介してもらったばかりなんです。断ったら、もう雇ってもらえないんじゃないかって。それで、言われたとおりにしてしまって」
私は膝の上で手を握った。
仕事を失う不安は、審問官章を持っている私よりも、彼女にとってずっと現実的なものだろう。ここで、なぜ逃げなかったのかなどと尋ねる気にはなれなかった。
「今日は、危険だと分かる前に止められなくてすみませんでした」
「あなたが謝ることじゃ……」
「いえ。私は祈祷の専門家として、あの場にいました。もっと早く異常に気づけたかもしれないと思うんです」
彼女はしばらく黙っていたが、やがて首を振った。
「だったら、次に同じことが起きないようにしてください。私は、しばらくあそこへ戻りたくありません」
「分かりました。そのお気持ちは、私からも担当の方へ伝えます。もちろん、あなたが望まない範囲まで事情を話すことはしません」
ビアンカさんはほっとしたように息を吐いた。
私は今日の出来事を記録していることを説明し、彼女が話してくれた内容を調査に使ってもよいか尋ねた。名前を伏せた形であればよい、と彼女は答えた。
それ以上、問いを重ねるのはやめた。
病室を出る前、彼女が私を呼び止めた。
「あの、輪を付けている間、ずっと音が聞こえていたんです」
「音、ですか?」
「鐘みたいな、低い音です。でも、部屋の人たちは誰も気にしていなくて。私だけが聞いているのかと思いました」
「……分かりました。覚えておきます」
それがどこから聞こえたのか、彼女には分からない。私にも分からない。
ただ、調整室で耳の奥を擦るように感じた振動を、私は思い出していた。
◇
廊下へ戻ると、カルマさんは窓枠に肘を載せ、外の通りを眺めていた。リゼリアは壁際で小さな手帳を読んでいる。
「どうだった?」
「意識ははっきりしています。ただ、腕の痛みと疲労が残っているそうです。検査についても少しお話しいただけました」
私は本人が許可した範囲で内容を伝えた。
カルマさんは聞き終えると、眉をひそめた。
「仕事を続けたいから、具合が悪くても止めてって言いにくかったわけか」
「言ったそうです。それでも、すぐには止めてもらえなかったと」
「そりゃ、ひどいな」
珍しく、彼は軽口を挟まなかった。
リゼリアは手帳を閉じた。
「身体に触れる器具を使っていたのなら、まずその構造を確かめたいですわね。あの銀環は、今どちらに?」
「事故のあと、守備騎士団の立会いで保管されたそうです。現物を見るには、改めて許可が必要かもしれません」
「じゃ、そこから始めようぜ」
「……ええ。ですが、現物を確認できても分解などはせず、見るだけにします。今日のような事故を繰り返すわけにはいきませんから」
「そりゃそうだ」
カルマさんは窓から身体を離した。
「俺だって、何をするか分からない輪をいじりたくはないよ。銃だったら話は別だけどな」
「銃でも勝手に分解しないでくださいね」
「俺の銃は俺が面倒見るって」
そう言いながら彼は先に歩き出した。私とリゼリアも、その後に続いた。
◇
現物を確認できたのは、翌朝だった。
事故に関する記録がまだ整理中だったため、守備騎士団の保管室で、担当騎士の立会いを受けることになった。
「封印は解きますが、器具へ魔力を通す試験はできません。外見の確認と記録の照合までです」
担当騎士の説明に、私は頷いた。
「それでお願いします。手で触れる必要があれば、先にお声がけします」
「武器や魔術の使用も控えてください」
「了解。見るだけなら俺も得意だよ」
カルマさんが答えると、騎士は少しだけ怪訝な顔をした。それでも、三人の同行は認めてくれた。
木箱の蓋が開く。
白い布の上に、昨日の銀環が置かれていた。
直径は両手で包めるほど。輪の内側に刻まれた細かな線は、光が消えた状態でも見える。昨日は技師が腕に引っかけていたため、全体を観察する余裕がなかった。
「リズさん、この辺りを見ていただけますか」
私は輪の内側を指した。
「ビアンカさんの腕に触れていたのは、おそらくこちら側です。ここに残っている布の繊維が、包帯の下に見えたものと似ています」
「似ている、というところまでですね」
「はい。断定はしません」
リゼリアが許可を得て、輪を横から覗き込んだ。
「妙ですわね。こちらの刻印は、内周と外周で深さが違います」
「使う場所が違うからじゃないのか?」
「その可能性もございます。ただ……ご覧くださいませ。外側の線が、こちらで途切れております」
彼女が示した場所には、細い継ぎ目があった。
外周を走る刻印はそこで切れ、わずかに色の異なる金属へ続いている。光の加減かと思ったが、位置を変えて見ても色の差は消えなかった。
「修理した跡でしょうか」
「かもな。でも、こっちの留め具を見てくれ」
カルマさんが、輪の裏側にある小さなねじを指した。
「頭の溝だけ、まだ角が立ってる。他は何度も回して削れてるのに、こいつだけ新しい。外側の部品を最近付け替えたんじゃないか?」
「そう判断した理由を、記録に残してもらえますか」
担当騎士が言う。
「構いません。ただ、何のために付け替えたのかまでは分かりませんよ」
「承知しています」
騎士が目録へ書き足す間、私はもう一度、銀環を見た。
祈祷具には、魔力の流れを安定させるための導路がある。内側に刻まれた線の一部は、それに似ている。けれど、外側から重ねられた線は、どこから始まり、どこで終わるのかさえ私には読み取れなかった。
「昨日、私の盾から魔力が引かれた感覚がありました。でも、直接銀環に触れてはいません」
「わたくしの魔札も同様ですわ」
リゼリアは、輪を見つめたまま続けた。
「祈祷か魔術かを選んで作用していたわけではなさそうですわね。もっとも、どちらも魔力を使う以上、不思議とまでは言えませんけれど」
「一番気になるのは、止めたあとだよな」
カルマさんが腕を組む。
「昨日、俺が外で戻した弁は、技師に言われたとおりのやつだ。間違いなく閉まった。なのに輪は光ってた」
「弁の閉鎖と、供給の完全な停止が同じとは限りません」
私はそう答えて、昨日の報告書を開いた。
外の遮断器が閉まったことは、技師も確認している。だが、設備には予備の供給路があるかもしれないし、銀環自体に魔力を蓄える部分があるのかもしれない。
「だから、まだ何も決められないんです」
「別の蛇口から水が出てたか、桶の中に水が残ってたか、ってところか」
カルマさんはそう言って、輪を見下ろした。
「なら、それを作った奴に聞くのが早いんじゃないか?」
もっともな話だった。
私が昨日、祈祷師に設計者を尋ねたとき、彼は中央保全局の仕様書しか知らないと言っていた。
「設計記録の開示は、申請中です。ですが、すぐに返事が来るかどうか……」
「待っている間にできることはございますわ」
リゼリアが騎士へ顔を向けた。
「こちらの継ぎ足された金属について、外部の職人へ材質の鑑定をお願いすることは可能かしら。器具を壊さず、封印も維持した状態で」
騎士は少し考えてから答えた。
「鑑定人の資格と、調査の目的を提出していただければ、上官へ取り次げます」
「ありがとうございます。それでは、そういたしましょう」
リゼリアは即座に頷いた。
私も申請書へ署名した。
自分が知らないからといって、存在しない技術だとは言えない。今日、確かめられたのは、銀環に新しい加工の跡があるということ。それだけだ。
けれど、それだけでも昨日よりは前へ進んでいた。
◇
第六保全棟の修繕区へ戻ったのは、午後になってからだった。
調整棟は閉鎖され、扉には事故調査中を示す札が下がっていた。作業場では、昨日会った案内役の女性が、机に並んだ灯具の部品を仕分けている。
「また来られたんですか」
「何度もすみません。今日は、調整室に使われていた銀環のことを伺いたくて」
「あの事故の器具ですね。私たちの工房で直したものではありませんよ」
女性は少し顔を曇らせた。
「昨日、あんなことが起きるとは思いませんでした。搬送された方は、大丈夫だったんですか?」
「意識は戻っています。まだ休養が必要ですけれど」
「そうですか。それならよかった……」
彼女は工具を置いてから、私たちを作業台の端へ案内した。
「銀環は、調整室が直接管理している品です。こちらへ来るのは外側の留め具や配管の修理依頼だけで、中の刻印には触らないように言われています」
「理由は聞いていますか?」
「検査の精度が落ちるから、という説明です。でも、祈祷具の部品なら、普通はどこを触ってはいけないか分かるように図面が付いてきます。あれには、外側の寸法図しかないんですよ」
女性は棚から一枚の図面を取り出した。
「これです。私たちが受け取っているのは」
そこには、銀環の外形と、留め具の位置だけが描かれていた。内周の刻印や継ぎ目については、何もない。
カルマさんが図面を覗き込む。
「へえ。外したねじの大きさは分かるけど、肝心の中身は分からないってわけだ」
「そう。私たちは壊れた留め具を替える仕事なんです。中の仕組みまで知らなくても、普段の修繕なら困りませんから」
彼女の言い方には、仕事への誇りがあった。
私はそれを疑いたくなかった。
「昨日の銀環には、外周に新しい加工が加えられたような跡がありました。こちらで修理された覚えはありますか?」
「少なくとも、私の班では扱っていません。ただ、外注品が入ってくることはあります」
「外注先は?」
「資材係に聞けば分かると思います。でも、あの器具の中身を教えてもらえるかは……」
「分かりました。調べてみます」
女性が図面の余白へ何かを書きかけ、手を止めた。
「……ひとつお願いしてもいいですか」
「何でしょう」
「昨日の人、ビアンカさんでしたっけ。戻ってきたら、私たちからも声を掛けていいか、聞いてもらえませんか。現場の人間が誰も心配していないと思われるのは、嫌なんです」
私は彼女を見た。
修理をする人、検査をする人、搬送をする人。ひとつの建物にいても、自分の仕事以外は知らない人が大勢いる。それ自体が悪いわけではない。
けれど、その間に挟まれた人が、誰にも助けを求められなくなったら。
「はい。ご本人の具合が落ち着いたら、お伝えします」
「ありがとうございます」
女性はほっとした顔で、作業台へ戻っていった。
◇
夕刻、私たちは修繕区を出たところで足を止めた。
カルマさんが、通りの向こうを見ていた。
「……どうしたんですか?」
「さっきから同じ男が、二回角を曲がってる」
「こちらを尾けているということですか?」
「そこまでは知らない。通りが狭いから、たまたま道が重なっただけかもしれないしな」
彼はいつもより小さな声で答えた。
私が振り向こうとすると、カルマさんが首を横に振る。
「確かめるなら、こっちが先に動こうぜ。お前が振り向いたら、向こうも気づく」
リゼリアは何も言わず、私の横へ並んだ。
私たちは次の角を曲がり、人通りの多い市場通りへ出た。職人たちの帰宅時間なのか、道には買い物客が増えている。
カルマさんは店先で足を止め、果物をひとつ手に取った。値段を聞くふりをしながら、目だけを通りへ向ける。
「……いなくなったな」
「やはり、誰かが?」
「いや、今のだけじゃ分からない。顔を確認する前に向こうが曲がった。尾行だったのか、同じ道を歩いてただけなのか、決めつける気はないよ」
彼は果物を買い、紙に包んでもらった。
「なら、何のために立ち止まったんですか?」
「普通に腹減ったから」
「……先ほど、食べたばかりでは?」
「昼飯から何時間経ったと思ってるんだ」
リゼリアが手を伸ばした。
「ひと口いただいても?」
「おい、丸ごと持ってく気だろ、それ」
彼女は上品な笑みを浮かべたまま、果物を受け取った。
私は思わず吹き出してしまった。
警戒を怠っているわけではない。だからこそ、こうしていつものように話せるのだろう。
それでも、修繕区へ向かう道を誰かに見られていた可能性は残る。
今夜のうちに、事故の報告を更新しておこう。
◇
シュトラール家に戻る前、私は小さな礼拝堂へ立ち寄った。
祈りを捧げに来た人々が帰り、堂内には掃除をする修道女の足音だけが残っている。ここなら、静かに考えられると思った。
「お前、まだ何か試したそうな顔してるな」
入口でカルマさんが言う。
「試すわけではありません。今朝の現象が、私の祈祷の問題ではなかったか、考えていただけです」
「シュテルさんの祈祷は、あれほど乱れた状況でも維持できていましたわよ」
リゼリアが隣に立った。
「ありがとうございます。でも、私の方に原因がなかったとは、まだ言い切れません。盾の形成が遅れた瞬間もありましたから」
「それなら、一度だけいつもどおりに構えてみてはいかがかしら。危険な器具は、ここにはありませんもの」
私は修道女に許可を取り、誰もいない礼拝堂の脇庭へ出た。
ゆっくり息を整える。
胸の内にある盾の形を、いつもと同じように思い描く。祈りの言葉に合わせて、自然の魔力を光へと編み上げる。
《ステラ・シールド》。
私の左腕に、淡い光の盾が現れた。
重さはない。盾の縁は滑らかで、魔力の流れにも乱れはなかった。私は姿勢を変え、もう一度盾を構える。
昨日のように、外から何かに引かれる感覚はない。
「……普通ですね」
「そりゃ、普通に出したんだからな」
カルマさんが笑った。
「つまり、ここでは問題ないってことだろ?」
「はい。ただ、それだけです。昨日の場所で何が違ったのかは、まだ分かりません」
「それで十分でしょう」
リゼリアが言った。
「少なくとも、シュテルさんの祈祷そのものが突然不安定になったわけではないと確認できました。次は、あの設備を調べる番ですわ」
私は盾を消し、深く息を吐いた。
「銀環の内側にある刻印は、祈祷具の導路に似ていました。でも、外周に継ぎ足された線は私には読めませんでした」
「わたくしも、魔術陣としては見慣れない構造でしたわね」
「じゃあ、祈祷師にも魔術師にも分からないってことか?」
「少なくとも、今のわたくしたちには、ですわ」
リゼリアは少し考えてから続けた。
「ただ、材質の異なるものを繋ぎ、元の術式へ別の働きを持たせるのでしたら、魔術と祈祷だけに考えを絞る必要はございません」
「……錬金術ですか?」
「可能性のひとつですわ。金属そのものに何が施されているのか、専門の方に見ていただかなければ」
それは、私の学んできた祈祷の外側にある問いだった。
祈祷は魔力を形にする。術式は、それを一定の条件で働かせる。けれど、異なる素材を組み合わせたとき、魔力がどのように移り変わるのか。
見覚えのない継ぎ目を前にして、私は知識が足りないことを認めるしかなかった。
「……そうですね。外部の鑑定をお願いしましょう」
私が言うと、カルマさんは大きく頷いた。
「いいじゃん。分からないものを、分からないままにしておくよりずっといい」
「それにしても、職人さんが図面を見せてくださったのは助かりました」
「ええ。あの方も、知らされていなかったことを知りたいのでしょう」
リゼリアは礼拝堂の白い壁を見上げた。
「知らないことは罪ではございませんわ。でも、誰かが倒れたあとも、確かめようとしないのでしたら話は別です」
私はその横顔を見た。
リゼリアが何を思い出しているのか、私には分からない。けれど、彼女の言葉が向けられているのは、昨日の事故だけではないのだと思った。
◇
屋敷へ戻る頃には、空が濃い青へ変わっていた。
玄関に入ると、エヴァが私たちを迎えてくれた。祖母はまだ来客中らしく、夕食まで少し時間があるという。
「シュテル様、中央の使いの方がこちらをお預けになりました」
差し出された封筒には、中央保全局の印があった。
私は嫌な予感を覚えながら封を切った。
中身は、第六保全棟の調整設備に関する設計記録の照会への回答だった。
〈該当資料は設備管理上の機密に当たり、現段階で閲覧を認めない〉。
予想していた文面だった。それでも、実際に読めば腹立たしい。
「……断られました」
「でしょうね」
リゼリアは驚かなかった。
「ですが、先ほどの鑑定申請まで却下されたわけではございませんでしょう?」
「はい。それは守備騎士団の判断待ちです」
「なら、進めることはありますわ」
カルマさんが封筒を覗き込む。
「ちゃんと理由を書いてくれたのはありがたいな。誰が止めたかも、これで分かる」
「決裁者の部署名までは書かれています。ですが、これだけで不正があったとは言えませんよ」
「分かってる。だから、次に聞く相手が決まったって話」
彼はそう言って、私の手から封筒を奪うこともなく、一歩下がった。
エヴァが夕食の支度を知らせに奥へ戻る。
私は照会書を机に置き、その横へ今日の記録を並べた。
ビアンカさんの証言。
銀環の外周にあった、新しい加工の跡。
修繕班が持っていた、内側を描いていない図面。
それらはまだ、一つの答えには繋がっていない。
けれど、最初から最後まで何も分からなかったわけではなかった。本人が望まない検査を止め、誰かが使った器具を確かめ、どこから先が自分たちの知らない領域なのかを知ることができた。
窓の外で、聖都の夜の鐘が鳴った。
私はふと、ビアンカさんの言葉を思い出した。
輪を付けられている間、鐘のような低い音が聞こえていた、と。
私が昨日感じた振動と、同じものだったのだろうか。
今はまだ、確かめられない。
机の上に置いた鑑定申請書を、もう一度見直す。
祈祷の知識では、あの外周の線を読み解けなかった。リゼリアにも分からなかったのなら、金属と魔力の関わりを専門に調べている人の意見を聞くべきだ。
分からないまま、また誰かの腕にあの輪が付けられるのは嫌だった。
私はペンを取り、守備騎士団に提出する外部鑑定の希望理由を書き足した。
今度は、目の前で苦しんでいる人がいるうちに、答えへ近づけるように。




