第50話 祈りの届かない場所
中央保全局の建物を見に行くと言い出したのは、カルマさんだった。
「正面から入って断られるのは、明日でもできるだろ。今日のうちに外だけ見ておこうぜ」
第六保全棟の名前を知ってから、まだ半日も経っていない。
私は手元の照会書を見下ろした。第六保全棟への患者移送記録と、そこに添えられた〈魔力応答〉〈採取〉という項目。中央保全局に説明を求めるため、必要なことは書いたつもりだ。
「建物を見たところで、中のことまでは分かりませんよ」
「分かるところだけでいいんだよ。出入口とか、搬入口とか。昨日は門の前で話してる間に石弓が飛んできたんだからさ」
「それを言われると、反論できませんね……」
リゼリアは広げていた街路図を畳んだ。
「第六保全棟は、北の修繕区にございますのね。大聖堂からは離れていますけれど、聖都の結界設備を扱うには都合のよい場所でしょう」
「行ったことはありますか?」
「いいえ。わたくしも初めてですわ」
彼女はそう答え、わずかに目を細めた。
「ただ、聖都の設備がどのように管理されているのか、興味はございます」
興味、という言葉が少しだけ鋭く聞こえた。
私たちは城壁の内側に沿って歩いた。観光客の姿は次第に減り、代わりに工具を下げた職人や、霊晶灯の交換部品を積んだ荷車とすれ違うようになる。
夕方の第六保全棟は、白い石造りの大きな建物だった。古い建物に新しい棟を継ぎ足したらしく、屋根の高さが途中で変わっている。正門には中央保全局の紋章。東側の壁には、荷車が通れる幅の搬入口があった。
少し離れた場所から様子を見ていると、カルマさんがあっさり言った。
「明日はそっちの門も確認した方がいいな」
「搬入口ですか?」
「ああ。正面から来る奴には何を見せるか決められる。でも荷物の出入りまで全部隠すのは大変だろ」
「……お仕事柄、見るところが違いますわね」
「褒められたと思っておくよ」
搬入口から、修繕用の長い木箱を積んだ荷車が一台出てきた。御者は係員と短い言葉を交わし、送り状を受け取ってから通りへ出る。
私が想像していたよりも、ずっと普通の仕事場だった。
その普通さが、かえって気になった。
「ここで働いている方の多くは、ただ設備を直しているだけなのでしょうね」
「そうでしょうね。祈祷具の修理が止まれば、施療院も困りますもの」
リゼリアが頷く。
「ですからこそ、何が起きているのかを確かめなければ。働いている方全員を疑うわけにはまいりませんわ」
私たちは通りの端に立つ案内板を確認した。第六保全棟の一般修繕窓口は、午前中に外来者の受付を行っているらしい。
建物の裏側には細い水路があり、壁に沿って銀色の管が何本も延びていた。そのうちの一本だけ、修繕棟ではなく奥の高い建物へ繋がっている。
「……あの管は?」
「霊晶灯の補助配管かもしれません。ここからでは何とも言えませんけれど」
私が見上げると、屋根の上で小さな白い灯が一度だけ明るくなった。
隣の霊晶灯は変わらない。
時刻を知らせる鐘も鳴っていなかった。
気になったが、外から眺めるだけでは答えは出なかった。
◇
その夜、シュトラール家の食卓で、祖母は私の手元をじっと見ていた。
「シュテル。左手を見せなさい」
「……はい?」
「隠すのが下手になったわね」
祖母は食器を置いた。私は観念して左手を差し出す。
昨日、石弓を防いだときに盾を支えた掌だ。怪我はないが、長時間祈祷を使ったせいか、指の付け根に少し張りが残っている。
「無理をしているの?」
「多少は。でも、きちんと休めています」
「あなたの『多少』は、昔から信用できません」
向かいでカルマさんが吹き出しかけた。
「何か?」
「いえ。よくご存じだなと思いまして」
祖母が軽く眉を上げると、カルマさんは姿勢を正した。今朝までの軽口とは違う、客人としての話し方だった。
「お二人も、この子を止めてくださって構わないのですよ」
「止めようとしたことならあります。効いた覚えはありませんが」
「リズさんまで……!」
私だけが抗議している。少し不公平な気がした。
祖母は笑わなかったが、手に添えていた指をそっと離してくれた。
「中央保全局に照会するそうね」
「はい。患者さんの移送先を確かめたいんです」
「施設の名目と実際の仕事が違うことは、珍しくありません。部局が増えれば、そのたびに仕事も移ります。だから、名札だけで相手を責めてはいけませんよ」
「分かっています。ただ、実際に人が拘束されていたことまで、事務の都合では説明できません」
「それも分かっています」
祖母は私から目を逸らさなかった。
「あなたが見た事実を、正しく持っていきなさい。見ていないことまで、見たように話さないこと。相手がどれほど嫌な態度を取っても、その点だけは忘れないで」
「……はい」
私が返事をすると、祖母はようやくスープを口に運んだ。
厳しい言い方だった。けれど、子供の頃に祈祷を教わったときと、何も変わらない。
そのことが少し嬉しくて、同時に胸が苦しくなった。
◇
翌朝、第六保全棟の正門には、昨日より多くの守衛が立っていた。
私は審問官章を示し、夜のうちに受領された照会書の控えを渡した。
「第三祈祷庫で保護した患者さんの件です。ここで同じ便番号の照合が行われていると分かりました。担当部署の説明をお願いできますか」
守衛は書類を確かめたあと、奥の受付係を呼んだ。
灰色の作業服を着た中年の女性が出てきた。腕まくりした袖には白い粉が付いている。どうやら、現場から呼ばれたらしい。
「一般の修繕区画ならご案内できます。ただし、検査室と保管室は局長の許可が要ります」
「では、まず修繕区画を見せていただけますか。それから、検査室への照会は担当者へ取り次いでください」
「分かりました。お連れの方は?」
「お二人とも同行者です。立入りの規則は守っていただきます」
カルマさんが手を上げる。
「変なところに入り込んだりしないよ。道具も触らない」
「火気は厳禁です。銃は抜かないでくださいね」
「了解」
リゼリアは名を尋ねられると、迷わずリズ・ヴァーレンと答えた。私は受付係の前で訂正しなかった。
案内された修繕室は、油と削りたての金属の匂いがした。
霊晶灯の金具、祈祷用の補助具、割れた結晶をはめ直す枠。作業台の上には、どれも見覚えのあるものが並んでいる。
窓際では年配の職人が、ひびの入った灯具を外していた。
「これは、街灯用の霊晶灯ですか?」
私が尋ねると、案内役の女性は頷いた。
「そうです。通りのものも、施療院のものも、修理だけならここでやります。壊れたからといって全部取り替えられるほど、安い品じゃありませんから」
「そうですよね」
少し話してみると、彼女は祈祷具の扱いにも詳しかった。材料をどこで調達するのか、古い部品をどれだけ再利用できるか。話す内容は具体的で、何も隠しているようには見えなかった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
室内の壁に沿って伸びる銀色の管。
昨日、外から見たものと同じ材質だ。作業台の背後を通り、隣の棟へ消えている。
「この管は、どの設備に繋がっているんですか?」
「ああ、そちらは奥の調整室です。修理が済んだ祈祷具の反応を確かめるためのものですよ」
「祈祷具に魔力を通して検査する、ということですか」
「ええ。ただ、調整の方は専門の祈祷師がやっています。私たちは部品を直すまでです」
女性はそう言って、窓際の職人へ声を掛けた。
私は壁の管から目を離せなかった。
祈祷具の点検なら、術者が魔力を流して反応を確かめれば済む。大きな調整設備があってもおかしくない。けれど、昨日の紙片にあったのは〈魔力応答〉と〈採取〉という文字だ。
誰の何を採取しているのか。
それを確かめたくて来たのに、まだ答えは遠かった。
◇
声が聞こえたのは、隣の調整棟へ通じる扉の前だった。
「ですから、まだ歩けないんです!」
若い女性の声だった。
案内役の女性が顔を上げる。
「……何でしょう」
扉の向こうから、車輪のきしむ音が近づいた。続いて、低い男の声。
「移送の時間が決まっている。ここで止めるわけにはいかない」
「でも、さっきから手が震えて……!」
私は案内役の女性を見た。
「隣に患者さんがいるのですか?」
「……調整室の見学は許可されていません」
「見学ではありません。今、具合の悪い方がいるように聞こえました」
返事が来る前に、扉が開いた。
作業衣の男性が二人。間に、車輪の付いた細い椅子がある。
そこに座っていたのは、まだ若い女性だった。顔色が悪く、片腕に包帯が巻かれている。椅子を押す男性が曲がろうとしたとき、女性の身体がぐらりと傾いた。
「危ない!」
私は飛び出し、椅子から滑り落ちかけた身体を支えた。
触れた肩が冷たい。
「聞こえますか。大丈夫ですか?」
女性は薄く目を開いた。
「……もう、終わったんですか」
「何がですか?」
「検査……。終わったら、診てもらえるって……」
言い終える前に、瞼が落ちた。
私は彼女の手首に指を当てた。脈はある。けれど、速く、弱い。
「この方を施療院へ運びます。担当の方を呼んでください」
椅子を押していた男性が、私の手を払おうとした。
「勝手なことをするな! こちらの予定が――」
「歩けない方を、どこへ運ぶ予定なのですか?」
「それは局の業務だ。部外者には説明できない」
手を伸ばしてきた男性の前へ、カルマさんが一歩出た。
「今、倒れそうになったのが見えなかったのか?」
「どけ!」
「話はしていいけど、まずその人を座らせてやれよ」
男性は舌打ちし、腰の短杖へ手を掛けた。
私は椅子を壁に寄せ、女性の頭を支える。
「カルマさん、お願いします」
「任せろ」
カルマさんは短杖を抜こうとする手首を押さえた。相手が肘を振り上げると、身体をかわして壁際へ誘導する。
その間に、もう一人の男性が調整室の扉へ走り、内側へ怒鳴った。
「搬送を止められた! いったん検査を切れ!」
「待て、まだ補助環を外していない!」
返事が聞こえたが、男は扉を閉めてしまった。
「ちょっと、お待ちくださいまし」
リゼリアが扉へ向かおうとした男性の前へ立った。
「施療院への連絡をお願いできますかしら。こちらの方は、急いで診察を受ける必要がありそうですの」
「……誰の許可で」
「審問官の指示です。聞こえていらしたでしょう?」
男性が黙り込む。
私は女性の脈を確かめ直した。呼吸は続いているが、唇が青い。
「すぐに担架を。できれば祈祷師も呼んでください!」
案内役の女性が駆け出した。
そのとき、奥の調整棟から、耳の奥を擦るような音がした。
金属を引きずる音ではない。
祈祷を始めるとき、魔力が形を取る直前に感じる、あの微かな振動に似ていた。
けれど、近くに祈りを唱える声はない。
「……何だ、今の」
カルマさんも扉の奥へ目を向けた。
壁の銀管が、細かく震えている。
続いて、廊下の霊晶灯が一斉に強く光った。
◇
「調整室の供給を止めろ!」
奥から怒鳴り声がした。
「止まりません! 補助環の方が――」
次の瞬間、床を伝って強い衝撃が走った。
車輪付きの椅子が跳ね、女性の身体が再び傾く。
私は反射的に《ステラ・シールド》を展開した。
光の盾を彼女の身体と椅子の間へ滑り込ませ、落下を防ぐ。もう一枚を廊下の奥へ向けた。
青白い光が揺れた。
盾そのものは保っている。だが、祈祷を維持するために集めた魔力が、横から引かれるような感覚があった。
「……っ!」
こんなことは、初めてだ。
「シュテルさん?」
「盾は大丈夫です。でも、奥から魔力の流れが……」
私が言いかけたとき、調整棟の扉が勢いよく開いた。
白い法衣の祈祷師と、作業服の技師が飛び出してくる。技師の腕には、銀色の輪が引っかかっていた。輪の内側には、細かな刻印が幾重にも刻まれている。
「誰か、外の遮断器を!」
「どこですか!」
「回廊の向こうだ! 内側の弁が固着してる!」
技師が言うより早く、カルマさんが走り出した。
「回廊って、あの右手か!」
「そうだ! 突き当たりの箱だ!」
カルマさんは廊下を曲がり、姿が見えなくなった。
一方、調整室では、白い光が壁の管を走っていた。
リゼリアが目を凝らす。
「管の途中に、固定具がございますわね。あれが緩んでおります」
見上げると、天井近くの金具が震え、その下に吊るされた重い部品が今にも落ちそうだった。
「下がってください!」
私が声を上げる。
リゼリアの指先から赤い魔札が飛んだ。
魔札が天井の梁へ貼りつき、伸びた血糸が落ちかけた部品を絡め取る。ぎりぎりのところで落下が止まった。
「長くは保ちませんわ。早く修理の方を!」
「私が支えます!」
もう一枚の《ステラ・シールド》を広げ、部品の下へ差し込んだ。
盾面に重量が掛かる。身体へ伝わる圧迫感は小さくない。それでも、頭上の部品が落ちてくるよりはずっといい。
技師が銀の輪を作業台へ置こうとして、急に膝をついた。
「……まだ、引いてる……」
「何がですか?」
「供給を……切ったのに……」
その声が、妙に耳に残った。
祈祷師は廊下の壁へ掌を当て、必死に何かを調べている。彼自身の魔力も、管の奥へ引かれているようだった。
私は盾を維持したまま、彼へ呼びかけた。
「この方の身体に、何をしたのですか!」
祈祷師は振り返る。
「反応を測っただけだ。こんな負荷が掛かるはずは……!」
それ以上は答えられなかった。
外から、金属が弾ける音がした。
続いて、カルマさんの怒鳴り声。
「動かねえぞ! 内側から何か噛んでる!」
「鎖を切れば、手動で戻せる!」
技師が叫び返した。
短い銃声が、建物の外壁に反響した。
一拍遅れて、重い金具が引きずられる音。
「……よし! 戻った!」
霊晶灯の光が、少しずつ弱まった。
魔力を引かれる感覚が途切れ、私は大きく息を吐いた。
頭上の部品も揺れを止める。
リゼリアは血糸の張りを緩め、技師が支え棒を差し込むまで待ってから魔札を戻した。
それでも、床に置かれた銀の輪だけが、弱い光を残していた。
「……おかしい」
祈祷師が呟いた。
「もう、供給は落としたのに……」
銀の輪の内側を、鈍い琥珀色の光が細く一周する。
一度、途切れた。
それからまた、同じ場所に現れた。
私は、その輪から目を離せなかった。
◇
救護の人たちが到着したとき、女性はまだ意識を取り戻していなかった。
担架に移す前に、私は肩をそっと叩いた。
「施療院へお連れします。聞こえていますか?」
唇が、かすかに動いた。
「……ビアンカ」
「お名前ですか?」
小さな頷き。
「ビアンカ・フェルナー……です」
「分かりました。ビアンカさん。きちんとお名前を伝えますからね」
彼女はそれきり目を閉じたが、呼吸は先ほどより落ち着いているように見えた。
救護に来た祈祷師が担架を運び出す。私は施療院への連絡票に、彼女の名前と見た状態を記した。
腕に何をされたのか、なぜ意識が薄くなったのか。まだ分からない。
だが、今ここで必要なのは、その原因を推測することではなく、身体を診てもらうことだった。
「ちょっと、そこの人」
戻ってきたカルマさんが、ビアンカさんを運ぼうとしていた男性へ声を掛けた。
「さっき、どこへ連れて行くつもりだったんだ?」
「……中央の指示で、別室へ移すことになっていた」
「その別室ってのは?」
「知らない。指示書に書かれた場所へ運ぶだけだ」
「じゃあ、その紙を見せてくれよ」
男性は口を開きかけたが、私が隣へ立つと、渋々折り畳んだ指示書を差し出した。
そこには、〈反応終了後、東側別室へ移送〉とあった。
診察先の名前はない。担当の医師の名前もない。
「この方は、検査の前に説明を受けていたのですか?」
「……受付で説明したはずだ」
「誰が、何を説明したのか確認したいんです。ご本人が話せるようになったら、改めてお聞きします」
男性は答えなかった。
私は指示書の内容を書き留め、原本は守備騎士団の到着までここで保管するよう求めた。
その間、リゼリアは銀の輪を見ていた。
「シュテルさん。先ほど、盾の維持に違和感があったとおっしゃいましたわね」
「はい。祈祷を使うために集めた魔力が、脇へ引かれるような感覚でした」
「わたくしの魔札も、固定した場所から魔力を持っていかれそうになりました。直接触れておりませんのに」
「そんなことが……」
リゼリアは輪を指差した。
「供給を切ったというのに、あれはまだ動いていますわ。何かが内部に残っているのでしょうけれど、どういう仕組みなのかまでは分かりません」
私も祈祷の知識なら、ある程度は持っているつもりだ。
けれど、あの輪に刻まれた線は、見覚えのある祈祷式とも、一般的な魔術陣とも少し違っていた。
同じ円の中に、違うものが重ねられているように見える。
「祈祷師の方に聞いてみます」
私がそう言うと、近くにいた祈祷師は疲れ切った顔で首を振った。
「私は調整を任されただけです。補助環の設計者ではありません。仕様書は保管局が……」
そこまで話して、彼は何かを思い出したように口を閉じた。
無理に言わせるわけにはいかない。
「分かりました。今の説明は、あなたのお名前と一緒に記録してもよろしいですか?」
「……ええ。事故の報告書にも、同じことを書きます」
「お願いします」
私が礼を言うと、彼は小さく頭を下げた。
◇
昼過ぎ、守備騎士団の立会いで事故の状況が確認された。
調整室の外まで広がった異常な魔力の流れ。遮断器が固着したこと。意識を失ったビアンカさんが診療を受けるため搬送されたこと。
すべてを一つの原因に結びつけるには、まだ調査が必要だった。
中央保全局の担当者は、銀の輪について「検査用の補助具」と説明した。
それ以上の説明はなかった。
私が設計記録の確認を求めると、彼は困った顔で言った。
「調整設備の専門部署へ、改めて申請をお願いします」
「申請します。ですが、事故の起きた設備は、そのまま使わないでください」
「停止の判断は技術部門が行います」
「では、技術部門へ伝えてください。今日ここにいた方たちが、また危険な目に遭わないように」
彼は、今度は頷いた。
外へ出ると、カルマさんが建物の壁にもたれていた。
「お疲れ。今度は銃を抜くなって怒られなかったぞ」
「……怒られるより先に、状況を報告しましたから」
「俺だって報告はしたって。鎖を撃った理由も、ちゃんと説明した」
「それならよかったです」
リゼリアが歩み寄る。手には、今朝の照会書と新しく受け取った事故記録の控えがあった。
「事故が起きなければ、調整室の存在を知るのも難しかったでしょうね」
「だからといって、あんな事故があってよかったとは思えません」
「ええ。もちろんですわ」
彼女は一度頷いてから、私に紙を渡した。
「ただ、今日目にしたものには、少々気になる点がございます」
「銀の輪ですか?」
「それもです。あの設備は、祈祷の調整を目的としているのに、わたくしの魔術にも干渉しました。どちらか一方の知識だけで説明できるのかしら」
私はすぐには答えられなかった。
祈祷も魔術も、魔力を使う。
それだけなら、どちらにも影響が出る可能性はある。
けれど、術者が供給を止めたあとも光り続けた輪と、そこに刻まれていた見慣れない線の意味は分からない。
「……調べたいです。ビアンカさんに何が起こったのかも、あの輪が何をするものなのかも」
「だろうな。でも、その前に飯にしないか?」
カルマさんが腹を押さえた。
「今朝から走りっぱなしだ。俺は腹が減った」
「この状況で、よくそんなことを」
「腹減ったままじゃ、頭も働かないだろ?」
リゼリアが笑った。
「珍しく、正論ですわね」
「珍しくは余計だ」
そのやり取りに、私も少しだけ笑ってしまった。
聖都の上には、いつもどおり白い雲が流れていた。
保全棟で働いている人たちも、あの輪が何をしているのか、皆が分かっていたわけではなかった。
ビアンカさんが無事に目を覚ますまでは、安心できない。それでも、あの場所から連れ出せたことだけは確かだ。
私は照会書を懐にしまい、二人の後を追った。
胸の奥には、今もあの銀の輪の弱い光が残っている。
祈祷の言葉では、まだ説明できない光だった。




