第49話 奪えない証言
第三祈祷庫から戻った翌朝、聖都の鐘はいつもと変わらない音を響かせていた。
昨日、あの鐘が鳴る少し前まで、私は石弓の矢を防いでいた。今朝は白い回廊を行き交う修道女たちが、洗い立ての布を抱えている。
同じ街で起きたことなのに、どちらかが夢だったようにも思える。
施療院の受付で名前を告げると、当直の女性がすぐに奥へ案内してくれた。
「レンツさんなら、熱が少し下がりました。まだ休養は必要ですけれど」
「よかった。お話ができるようでしたら、昨日のことを確認させていただきたいんです」
「ご本人にも伺ってみましょう」
寝台の上で、マティアス・レンツさんは窓を見ていた。
口元を塞いでいた布はもうない。手首には薄い包帯が巻かれている。私を見ると、彼は身体を起こそうとした。
「そのままで大丈夫ですよ」
「……あんたが、昨日の」
「シュテルです。眠れましたか?」
「少しな。目を閉じると、また荷車の中にいる気がして」
笑ってごまかそうとしたのだろう。けれど、声が震えていた。
私は寝台の横の椅子を借りた。いきなり帳簿を開くのはやめた。
「今日は、あなたがどこから運ばれてきたのか確認したくて伺いました。辛ければ、別の日にします」
「いや、話すよ。俺みたいなのが他にもいるんだろ?」
「可能性はあります。でも、確かめられていないことも多いんです」
「……そうか」
彼は包帯の巻かれた手を見た。
「最初は療養棟へ行くって聞いてた。具合が悪かったから、途中で車を替えられても逆らえなかった。第三祈祷庫に着いたとき、一度だけ名前を聞かれたよ」
私は紙を膝に置いた。
「そのとき、何と答えたんですか?」
「マティアス・レンツだって。そしたら、もう一人の男が『そっちは書かなくていい』って言った」
「……名前を書かなくていい、と?」
「そう。代わりに荷札の数字を確かめてた。俺の顔は見たのに、名前は書かなかった」
それは、彼が直接聞いたことだ。
誰が命じたのか、なぜ必要だったのか。そこまでは分からない。けれど、名前を告げた本人の前で、名前を記録しないよう指示が出された。
「今のお話を、証言として残してもよろしいですか。必要な調査にだけ使い、誰にでも見せることはしません」
「頼む。あのまま消えちまうのは嫌だ」
私は一つずつ内容を読み返してから、彼に紙を見せた。震える指で書かれた署名は、少し右へ傾いていた。
「下手な字で悪いな」
「ちゃんと読めます。マティアス・レンツさんですね」
「……ああ」
名前を呼ぶと、彼は今度こそ笑った。
◇
施療院を出ると、リズさんとカルマさんが入口の階段で待っていた。
カルマさんは紙袋を片手に持ち、もう片方の手で温かそうなパンを食べている。
「お、終わったか。朝飯、食ってないだろ」
「食べてきましたよ」
「じゃあ、これは昼飯の前借りだ」
紙袋から小さなパンが差し出された。
「何ですか、その理屈は」
「お腹が空いたときのために買っておいたのでしょう。いただきますわ」
リズさんが横から一つ取る。カルマさんは肩をすくめた。
「一等星様より先に手が出るとはな」
「食べ物を差し出されて遠慮するほど、わたくしも行儀がよいわけではありませんの」
そう言いながら、彼女は袋の口をこちらへ向けてくれた。
私は礼を言って一つ受け取り、二人へマティアスさんの話を伝えた。
「名前は要らない、か」
カルマさんの表情から、軽さが少し消えた。
「運び屋の仕事でも送り状は使う。荷札で数えることもある。だが、本人が名乗ってるのに記録するなってのは、また別の話だな」
「ええ。彼の話だけで全体の仕組みは分かりません。でも、昨日の帳簿と照合する必要があります」
「その前に、帳簿が無事か確かめるべきでしょうね」
リズさんが言った。
「昨日の方々は、あれを焼こうとなさっていたのですもの。ほかにも回収したがる方がいても不思議ではありませんわ」
「……そうですね」
昨夜、帳簿は守備騎士団が立ち会い、私の審問官章で封印した。
封印をしたからといって、誰にも触れられなくなるわけではない。正規の管理権限を持つ者なら、手続きを経て移管を求められる。
そして、その権限を持つ側に疑いがあるのなら。
私たちは、急いで守備騎士団の詰所へ向かった。
◇
詰所の前には、見覚えのない黒い馬車が停まっていた。
銀色の輪を重ねた紋章が扉に描かれている。中央保全局のものだ。
「随分とお早いお越しですこと」
「知らせが届いたのは昨夜だ。早朝から動いててもおかしくないさ」
カルマさんが馬車の車輪を見ながら答えた。
「……ただ、あの馬、ずいぶん汗をかいてる。急ぎの用なんだろうな」
中へ入ると、騎士団の詰所には昨夜の当直騎士と、濃紺の外套を着た男性がいた。男性の後ろには若い事務官が控えている。
「シュトラール審問官ですね。お待ちしていました」
濃紺の外套の男性が、私の徽章へ視線を落とした。
「中央保全局から参りました。第三祈祷庫の業務記録を、局の保管庫へ移したく存じます」
差し出されたのは、正式な印のある移管命令書だった。紙の質も署名の形式も、見覚えがある。
「昨夜の事件は、守備騎士団が現場を封鎖して調べていると伺っています」
「それは承知しています。ただし、祈祷施設の帳簿は中央保全局の管理資料です。部外者が閲覧できる状態に置くわけにはいきません」
私は隣に立つ騎士を見た。
「移管を認めたのですか?」
「まだです。封印の立会人であるあなたの確認が必要でしたので」
騎士の声には、少しだけ安堵が混じっていた。
私も安堵した。急ぎの命令が来たからといって、昨夜の出来事を何もなかったことにはしていない。
「では、現物を確かめさせてください。移管するのであれば、何を引き渡したのか記録に残したいです」
男性が眉を寄せた。
「封印を解くのですか?」
「中身を確認せず、すべて揃っていると署名するわけにはいきませんから」
「帳簿の内容は機密です。閲覧については、別途許可を申請していただくことになります」
「今日は中身を調査するのではありません。昨夜封じた帳簿が、同じ状態で残っているか確かめたいんです」
男性はしばらく私を見つめていた。
「……手早くお願いします」
それで十分だった。
◇
木箱は、詰所の奥にある証拠保管室に置かれていた。
封蝋には私の《星盾》の紋が刻まれている。傷はない。騎士が鍵を開け、封印を切る。
箱から取り出した帳簿は、昨夜の煤が付いたままだった。
「こちらの控えと照合いたしますわ」
リズさんが手帳を取り出す。
昨夜、保管に立ち会った際に記した表紙の傷、綴じ紐の位置、頁数。彼女は一つずつ見比べた。
「ええ。外側は一致しております」
「では、移管の署名を」
男性が紙を差し出す。
「待ってください。中の頁も確認します」
私は帳簿を開いた。
〈祈祷資材・受入調整控〉。
便番号と寝台の数。〈患者受領〉の空白。そして、その横にある〈資材移管済〉の印。
昨夜と変わらない。
次の頁には、焼け焦げた紙片が挟まっていた。
「これは……」
端が黒くなった紙が、表紙の綴じ糸に引っかかっている。昨夜は火を消すのに精一杯で、そこまで確かめられなかった。
紙片をゆっくり開く。
文字の上半分が焼けている。けれど、数字といくつかの項目は残っていた。
〈第六保全棟・受入照合〉。
その下には、帳簿と同じ便番号。
さらに〈魔力応答〉、〈採取〉、〈本人確認〉の欄が並んでいた。
〈本人確認〉だけが、空欄になっている。
「……これは、祈祷資材の帳簿に挟まれていたのですか?」
私が尋ねると、男性はすぐには答えなかった。
「詳細は、中央保全局で確認します。返してください」
「何を採取するのか、書かれていません。病人の搬送記録と同じ番号があるのに、本人確認が空白です。どのような検査なのですか?」
「審問官であっても、局の内部資料へ無制限に立ち入れるわけではありません」
「それは分かっています。だから、正式な照会をお願いします」
私は焦げた紙片を、騎士にも見えるように置いた。
「それから、この紙も引き渡しの記録へ加えてください。さきほどの移管命令書には、帳簿としか書かれていませんでした」
「付属資料として扱えば足ります」
「個別に記録していただきたいんです。昨日、燃やされかけていたものですから」
騎士が頷き、目録に新しい行を書き足した。
男性の口元が、わずかに固くなる。
そこへリズさんが静かに口を開いた。
「先ほどから、確認にお付き合いいただきありがとうございます。ひとつだけ伺ってもよろしいかしら」
「……何でしょう」
「こちらの移管命令書には、昨夜の襲撃事件について何も記されておりませんのね。施設の業務記録を取り戻すための命令、ということでしょうか」
「そのとおりです」
「でしたら、襲撃事件の証拠として必要な期間、こちらの騎士団で保管を続けるという選択も検討していただけませんこと?」
「局の判断を、あなたに説明する義務はありません」
「ええ。わたくしはただの同行者ですもの。ですが――」
リズさんは騎士が書いた目録へ目を向けた。
「証拠が必要なくなったと判断した方のお名前は、どこに残すのでしょう?」
返答がなかった。
男性が不機嫌そうに顎を上げる。
「命令書をご覧になったはずです。これ以上、手続きの妨げになるようでしたら――」
「おっと、ちょっと待った」
今まで黙っていたカルマさんが、若い事務官の手元を見た。
「そっちの兄ちゃん。今、何をしまった?」
事務官の肩が跳ねる。
「……何のことです?」
「その袖。紙を一枚、入れただろ」
私が振り向くと、事務官の右手が袖口の辺りにあった。
騎士が声をかける。
「手を見せてください」
「必要ありません。私は局の――」
「見せてください」
今度は騎士の声が強かった。
事務官が一歩下がる。
その手に、細く折った紙が見えた。
突然、彼が扉へ走り出した。
「止まれ!」
騎士が追いかける。私は反射的に《ステラ・シールド》を展開した。
通路へ滑らせた盾が、開きかけた扉の前で立ち上がる。事務官が急停止し、身体をひねった。
行き場を失った彼の手が外套へ潜り込む。
「危ない!」
カルマさんがその手首を掴んだ。
小さな刃が床へ落ちる。
「大人しくしてりゃ、手首は痛まなかったんだがな」
カルマさんは相手の腕を背中へ回し、騎士が拘束するまで押さえていた。
突然の出来事に、濃紺の外套の男性も立ち尽くしている。
「……何をしている。君、どういうつもりだ」
事務官は答えなかった。
騎士が袖から紙を取り出す。
それは先ほど帳簿に挟まっていた、焦げた紙片だった。
「入れ替えようとしていたのか?」
「いや、持ち出そうとしたんだろ。俺の立ってた位置からは、袖に入れたところまでしか見えなかったけどな」
カルマさんは刃を足で遠ざけ、騎士に場所を示した。
彼が書類を抜き取った瞬間は、私には見えていなかった。けれど、今、騎士が取り出した紙片の焼け跡は、先ほど見たものと同じだった。
「……これは、あなたの指示ですか?」
私は保全局の男性へ尋ねた。
「違う! 私は正式な移管のために来ただけだ!」
声は大きかった。驚きも怒りも、本物に見える。
だが、見た目だけで判断はできない。
「では、その方がなぜ持ち出そうとしたのか、調べる必要がありますね」
騎士が紙片を封筒へ収め、別の封印を押した。
「この件は、昨夜の襲撃事件とは別に記録します。移管命令の扱いについては上官に確認を取らせてください」
男性は何か言いかけ、口を閉じた。
私も、それ以上は追及しなかった。
騎士が見ていたこと、カルマさんが止めたこと、実際に紙片が見つかったこと。それだけを記録に残してもらう。
誰が背後にいるかを、今ここで決めるつもりはない。
◇
昼前、帳簿は守備騎士団の保管室へ戻された。
移管は、証拠の取扱いが整理されるまで保留となった。焦げた紙片については、別途目録が作られた。
事務官の身柄を引き取った騎士は、こちらへ何度も頭を下げた。
「こちらの監督が至らず、申し訳ありません」
「あなたが謝ることではありませんよ。止めてくださって助かりました」
私はそう答えた。
騎士が役目を果たしてくれなければ、あの紙片が失われたかもしれない。
建物の外に出ると、濃紺の外套の男性はすでに帰っていた。黒い馬車もない。
「……まさか詰所の中で追いかけっこになるとはな」
カルマさんが伸びをする。
「よく気づきましたね」
「目の前に証拠があるのに、俺の方を一度も見ない奴がいたからな。何かするなら、俺が邪魔だって思ってない証拠だろ」
「そういうものですか?」
「そういう奴もいるって話。全員に当てはまるわけじゃない」
リズさんは封印した目録の控えを確かめていた。
「第六保全棟……聖都中央保全局に、そんな施設があるのですね」
「ご存じありませんでしたか?」
「ええ。設備の保全を扱う部署だとは存じておりますけれど、病人が運ばれる場所とは聞いておりませんわ」
「私もです。あそこは祈祷具や結界設備の管理を担当するはずで……」
口にしたところで、胸の奥が冷たくなった。
第三祈祷庫で確保した帳簿には、患者と資材の同じ便番号。
そして、今日見つかった紙片には〈魔力応答〉と〈採取〉の欄。
それだけで何が行われていたか、すべて分かったわけではない。けれど、少なくとも、施療院で患者さんを診るための記録には見えなかった。
「……明日、中央保全局に伺います」
「待った。今日の昼に準備して、明日の朝に正面から行くのか?」
カルマさんが眉を上げた。
「まずは正式に問い合わせるべきだと思います」
「それもいいけど、昨日と今日で向こうはこっちの顔を覚えたはずだろ。何が残ってるか、分からないぞ」
リズさんが控えを閉じる。
「無理に忍び込むことはありませんわ。でも、行く前に確かめたいことがございます」
「何でしょうか?」
「第六保全棟が、正式には何を保管する施設なのか。どこから入れるのか。それから、誰がそこへ出入りできるのか」
カルマさんが笑った。
「そうこなくちゃな。門の前で待ってるだけじゃ、また矢が飛んでくる」
「笑い事ではありません」
「分かってるって。だから今回は、矢が飛んでくる前に考えようって話」
言い返そうとして、私はやめた。
彼の言うことも、もっともだ。
私は守るべき人のところへ急ぎたい。けれど、自分たちが何を調べられるか確かめることも、守るために必要なのだ。
前を行く二人は、もう次の道順を話し始めていた。
リズさんは通りの案内板に目を向け、カルマさんは建物の裏手へ続く道を確かめている。
私はその後ろを歩きながら、懐にしまった証言書へ指を添えた。
マティアス・レンツ。
本人が名乗った名前を、書く必要はないと言われた人。
今、その名前は私の手元の紙に残っている。
ほかにも同じ思いをしている人がいるのなら、確かめたい。
中央保全局が何を隠しているのか。
そこへ運ばれた人たちは、どこにいるのか。
聖都の鐘が、昼を告げた。
私たちは、その音を背にして歩き出した。




