第47話 白い荷車の行き先
翌朝、北回廊へ向かう前に、私はナディアさんの宿を訪ねた。
昨日聞き取った内容と、これから確認する場所を伝えるためだ。夜のうちに何か知らせが届いていないか、確かめる意味もあった。
「夫からは、まだ何も」
ナディアさんは寝不足らしい顔で答えた。それでも昨日より身支度は整っていて、手には例の搬送控えが握られている。
「今日も一緒に行きたいのですが……」
「お気持ちは分かります。ただ、昨日の受渡所は立ち入りが制限されていました。ご家族が直接行っても、また別の窓口を案内されるだけかもしれません」
「じゃあ、私はどうすれば?」
「この宿にいていただけますか。何か分かったら、私たちの方から必ず来ます。もちろん、ここで待つよう強制するつもりはありません」
言いながら、自分の言葉が頼りなく聞こえた。
待つのは私ではない。夫の居場所も分からず、一晩を過ごした人だ。
ナディアさんは少し考えてから頷いた。
「分かりました。夫が見つかったら、私に会いたいか聞いてくださいね。あの人、心配をかけると何でもないふりをするから」
「はい。必ず」
宿を出ると、通りの反対側でカルマさんが待っていた。
「どうだった?」
「まだ連絡はないそうです。今日は宿で待ってくださることになりました」
「そっか。じゃあ、こっちが頑張るしかないな」
彼は焼きたてのパンを紙袋から取り出し、私へ一つ渡した。
「朝飯、ちゃんと食ったか?」
「食べましたよ」
「なら、予備」
「……昨日も似たようなことを言っていましたね」
「備えあれば、ってやつだ」
リズさんが路地から姿を見せた。黒い外套のフードを浅く被り、手には昨日の受領印を書き写した紙がある。
「西の車馬場で、受領印をもう一度確認させていただきましたわ。昨日の写しでは薄かった番号も、はっきり読み取れました」
「朝からもう一仕事か。早いな」
「お二人こそ。わたくし抜きで朝食を済ませてしまうなんて」
「今のは予備だよ。まだあるぞ」
「では、一ついただきますわ」
カルマさんが差し出した袋から、リズさんは迷いなくパンを取った。
不思議と、こういうやり取りをしていると気持ちが落ち着く。
私たちが調べようとしているのは、ただの記入間違いではないかもしれない。それでも、二人が隣にいるなら目の前のことから確かめられる。
◇
北回廊の第二受渡所は、朝から荷車が出入りしていた。
白い石塀の内側に倉庫が並び、門を抜けるたびに車輪の音が反響する。外から見れば、聖堂の修繕に使う資材を扱う、ごく普通の施設だった。
「それじゃ、俺は外を見てくる」
門の手前でカルマさんが言った。
「危ないことはしないでくださいね」
「人の家に忍び込んだりしないって。出てくる荷車を見るだけだ」
「……分かりました」
「何かあったら、声を掛けてくれ。聞こえるところにいる」
彼は手をひらひら振って、厩舎へ続く通りへ歩いていった。
私とリズさんは、管理事務室へ向かった。
入口で審問官章を示し、追加調査の申請書とナディアさんから預かった同意書を提出する。個人の診療記録すべてを見せてほしいわけではない。調べたいのは、オスカー・フェルンさんを乗せた便が、どこへ引き渡されたのか。その一点だった。
受付の男性は書類を確かめ、奥から管理主任を呼んでくれた。
現れたのは、襟元まできっちり留めた灰色の服の男性だった。
「主任のヴェッカーです。審問官殿がこちらの荷の受領記録を確認したいと伺いました」
「はい。昨日、患者さんを乗せた便がこちらへ引き渡されていると分かりました。ご本人の行き先を知りたいんです」
「患者ですか。当所で扱うのは祈祷資材ですが」
「その説明は昨日も伺いました。でも、車馬場の帳簿には、この施設の受領印があります」
リズさんが控えを差し出す。
「こちらです。便番号も、印章の特徴も一致していますわ」
ヴェッカーさんはしばらく紙を見ていた。
「……搬送便の中には、資材と一緒に施療関係の人員を運ぶものがあります。荷と人では管理台帳が異なりますので、こちらの帳簿だけでは分かりません」
「では、人員の受渡記録はどちらに?」
「中央の施療受入調整室が管理しています」
「私が昨日まで照会していた部署ですね」
「そうなります」
答え方は丁寧だった。けれど、ここで何かを尋ねるたび、別の部署の名前が出てくる。
「こちらに患者さんが一時的に留まることは、ないのですか」
「通常はありません」
「通常ではない場合は?」
ヴェッカーさんの手が止まった。
「……搬送先の準備が整わないとき、裏手の待機室を使用することはあります。ただし、あくまでも短時間です」
「では、そこも確認させてください。オスカーさんがいらしたかもしれませんから」
「待機室は作業区画の内側です。外部の方には――」
言い終わる前に、裏庭から低い声が響いた。
「だから、まだ歩けないって言ってるだろ!」
男性の声だった。
すぐに車輪が石畳を擦る音がした。誰かが何かを急いで動かしている。
私は立ち上がった。
「今の声は?」
「待機室の利用者でしょう。搬送の時間なのだと思います」
「具合の悪い方がいるのですね。確認します」
「審問官殿、勝手に入られては困ります」
「勝手には入りません。あなたにも来ていただけますか」
主任の返答を待ちながら、私は扉の方へ歩いた。
誰かが助けを求めているのなら、所在が判明するまで座っているわけにはいかない。
◇
裏庭には幌を掛けた荷車が停まっていた。
荷台に載っているのは木箱だけではない。細長い寝台の脚と、そこに掛けられた毛布が幌の隙間から見えた。
車の脇では、作業衣の男が御者へ向かって声を荒らげている。
「予定が詰まってるんだ。早く出してくれ」
「でも、この人、足を動かせないって言ってるんですよ。揺らしたら――」
「次の受入先で診ればいい」
寝台から、苦しそうな咳が聞こえた。
「少し待ってください!」
私が声を掛けると、二人が振り返った。
「何ですか、今は搬送中で……」
「聖盾審問官シュテル・シュトラールです。患者さんの状態を確認させてください」
寝台の上の人影が、わずかに動いた。
青白い顔をした男性だった。額に汗が浮き、足首には包帯が巻かれている。彼は私の胸元の審問官章を見て、掠れた声を出した。
「……施療院の人か」
「救護の知識はあります。どこがつらいですか」
「足だよ。昨日から熱もあって……ちゃんと診てもらえるって、言われたのに」
言葉の途中で咳き込んだ。
私は荷台へ上がるため、御者に一声掛けた。
「今は動かさないでください。状態を診ます」
「分かりました。俺も気になってたんです」
御者が手綱を緩めた。馬は落ち着いている。
患者の額に手を当てる。熱がある。傷を覆う布にも、じっとりと湿り気が残っていた。
「お名前を伺えますか」
男性は唇を動かし、ようやく答えた。
「オスカー……フェルン」
胸の奥が強く鳴った。
「オスカーさんですね。奥様のナディアさんが、ずっとあなたを捜しています」
「……ナディアが?」
「はい。聖都に来ていらっしゃいます」
男性は目を閉じ、長く息を吐いた。
「よかった。もう、俺が先に着いたって知らせが、行ってるもんだと……」
その声を聞いて、昨日のナディアさんの顔が浮かんだ。
見つかった。
けれど、喜ぶのはこの人を安全な場所へ移してからだ。
「発熱しています。これ以上、車を揺らすのはよくありません。近くに施療の設備はありますか?」
作業衣の男が答えるより先に、主任のヴェッカーさんが庭へ入ってきた。
「その方の搬送先は決まっています。こちらの都合で止めることはできません」
「患者さんが発熱しています。再診察をせずに移動を続けるのは危険です」
「医療担当者へ引き継ぐための搬送です」
「でしたら、ここで診られる方を呼んでください。難しいなら、私が北区療養棟への手配をお願いします」
ヴェッカーさんは答えなかった。
その沈黙を遮るように、荷台の反対側からリズさんの声がした。
「シュテルさん、もう一人いらっしゃいます」
幌の奥に、別の寝台があった。
年配の女性が横になり、うっすら目を開けている。身じろぎするたびに毛布がずれた。冷たい外気が入らないよう、リズさんがそっと掛け直す。
「この方にも確認が必要ですわね。ご本人の名前をお聞きしても?」
女性は小さく頷いたものの、声を出す元気はないようだった。
私は指先に光を集めた。
《ステラ・シールド》。祈祷で具現化した薄い盾を寝台の脇へ展開し、荷台の揺れから二人の身体を守るように支える。
いま必要なのは、威圧するための大きな盾ではない。患者が安心して横になれる、揺れない場所だった。
「少しだけ身体を動かします。痛みが増したらすぐに言ってくださいね」
オスカーさんが頷いた。
私が寝台を持ち上げようとしたところで、門の外から聞き慣れた声がした。
「おい、ちょっと待ってくれ。あんたら、この車をどこへ持っていくつもりだ?」
カルマさんだった。
◇
彼は裏門の外から戻ってきたばかりだった。
門の外に並んだ車の行き先を見ていたら、この荷車だけが通常の療養棟とは逆方向へ出ようとしていることに気づいたらしい。
「札に書いてあるのは〈第三祈祷庫〉だろ。北区の療養棟へ行く道じゃないよな」
「指定の搬送先だ。部外者には関係ない」
作業衣の男が言い返す。
「いや、関係あるさ。そこにいる人を家族が捜してる。少なくとも、本人がどこへ運ばれるかくらい説明してくれよ」
カルマさんは私たちと荷台の二人を見て、表情を変えた。
「……おっと。もう見つけてたのか」
「はい。オスカーさんです。それから、もう一人患者さんがいらっしゃいます」
「じゃあ、話は早い。俺が療養棟へ走って、誰か連れてこようか?」
「助かります。ただ、先にこの車の移動を止めたいんです」
私の返事に、作業衣の男が苛立った声を上げた。
「こっちは中央から命じられてるんだ! 予定を遅らせたら、俺たちが責められる!」
「それでも、具合の悪い人を無理に運ぶ理由にはなりません」
「分かったような口を利くな!」
男が荷台へ近づき、私の腕を引こうとした。
その手が届く前に、カルマさんが横から割って入った。
「まあまあ。怒鳴ったところで熱は下がらないだろ」
伸びてきた手首を片手で受け、男の力を逃がすように横へ流す。相手が体勢を崩す前に放したので、殴り合いにはならなかった。
「触るなよ。あっちは患者を診てるんだ」
「……誰だ、お前は」
「手伝いに来た奴。今はそれでいいだろ」
男がもう一度何か言おうとしたところで、ヴェッカーさんが割って入った。
「やめなさい。ここは管理事務室の管轄です」
「でしたら、主任さん」
私は荷台から降り、真正面に立った。
「オスカーさんの搬送控えには、北区療養棟と書かれています。ご本人は、別の祈祷庫へ移ることに同意していないそうです。このまま出発させることは認められません」
「同意を取る部署は別です」
「オスカーさん。行き先が第三祈祷庫に変わると、説明を受けましたか」
寝台の上で、彼は首を横に振った。
「祈祷庫? そんな話、聞いてない。北区の療養棟へ行くはずだったんだ」
「ありがとうございます」
私は主任へ向き直った。
「では、確認が済むまで止めてください。患者さんの安全に関わります」
「……中央の指示書があるんです」
「見せていただけますか」
ヴェッカーさんは唇を結び、作業衣の男を見た。
男は渋々、荷台脇の筒から書類を取り出した。
リズさんが横から覗き込み、何かに気づいたように顔を上げた。
「これ、昨日見た受領印と同じですわね。しかも、搬送先の記載が違います」
私は紙を受け取り、確かめた。
上には〈第三祈祷庫へ移送〉。下には〈施療受入調整室・指示〉。
発行者個人の署名はない。
患者の名前は、二人とも書かれていなかった。代わりに、便番号と寝台の数だけがある。
「……患者さんの行き先を変えるのに、お名前も同意の記録も必要ないのですか?」
「うちはその指示どおりに動くだけです」
「だからこそ、今ここで止めてください。誰の指示であっても、説明のないまま患者さんを別の施設へ運ぶことはできません」
私が審問官章を示すと、ヴェッカーさんは目を伏せた。
「……分かりました。搬送を中断します」
ようやく荷台脇の車輪止めが置かれた。
男たちが離れたのを見て、カルマさんが息を吐く。
「よし。じゃあ、今度こそ医者を呼んでくる。シュテル、ここは任せたぞ」
「はい。お願いします」
彼が走り去ると、庭にいた若い女性職員が恐る恐る近づいてきた。
「……あの、近くの施療室なら使えます。普段は作業員が怪我をしたときだけ開ける部屋ですが」
「ありがとうございます。お名前を伺っても?」
「ミーネです。洗浄用の湯もあります」
「それなら助かります。患者さんたちを一緒に運んでいただけますか」
彼女はほっとしたように頷いた。
リズさんの《ブラッドアルカナ》が、荷台と地面の間に浮かぶ。魔札が寝台の四隅を支え、揺れないよう少しずつ高さを変えた。
「シュテルさん、こちらをお願いしますわ」
「はい」
私が光の盾で患者の身体を支え、ミーネさんが扉を開く。
私たちは二つの寝台を順番に施療室へ運んだ。
移動する前に、私は女性の患者さんにも説明した。施療室で休んでいただけるか尋ねると、彼女は弱々しく頷いてくれた。
寝台を廊下へ運ぶ途中で、女性がようやく小さな声を出した。
「……助かったの?」
「はい。今は、安全な場所で休んでください」
その問いが、なぜかいつまでも耳に残った。
◇
カルマさんが連れてきた施療師が診察を終える頃には、午後の鐘が鳴っていた。
オスカーさんの足の傷は悪化しかけていたものの、すぐに処置を始められる状態だった。女性の患者さんは衰弱が強く、温かい飲み物を少しずつ取ってから、療養棟へ移すことになった。
診察が済んだところで、私はオスカーさんの寝台の脇へ戻った。
「奥様をお呼びしてもよろしいですか」
彼は何度も頷いた。
「お願いします。……俺、ナディアに変な心配かけてないかな」
「心配は、していらっしゃいますよ」
「だろうなあ」
弱々しく笑って、彼は目元を擦った。
「でも、会いたいです」
「分かりました」
カルマさんは宿まで走ると言って、また外へ出ていった。
私は見送りながら、ようやく肩の力を抜いた。
リズさんは施療室の隣の机で、ヴェッカーさんに写しを確認してもらっていた。
「この受領印、調整室から配られたものなのですね」
「……はい。先月、新しい用紙と一緒に届きました」
「以前は、患者の搬送先を変える際に、本人の同意を確認していましたか」
「少なくとも、以前の帳簿には確認欄がありました」
「では、その変更がいつ行われたかも、記録に残っているはずですわね」
ヴェッカーさんは少し黙り、それから頷いた。
「帳簿は捨てていません。上から処分するよう言われたこともないので」
「それは幸いです。必要な記録が失われずに済みますもの」
リズさんは柔らかく微笑んだ。
けれど、その目は一度も帳簿から離れなかった。
私はヴェッカーさんへ向き直った。
「今日の移送を中断した理由と、患者さんの状態を正式な記録に残してください。こちらでも照会書を作ります。中央から何か問い合わせが来たら、私の名前を出して構いません」
「……中央に報告したら、私が責任を問われるかもしれません」
「そのときは、私からも経緯を説明します。患者さんの状態を確認し、搬送の中断を求めたのは私ですから」
「そうしていただけるなら……助かります」
ヴェッカーさんは胸元の留め具を直し、ようやく椅子に腰を下ろした。
「正直なところ、私も気になっていたんです。どうして病人を、わざわざ祈祷庫へ運ばなければならないのか」
「中央へ問い合わせたことは?」
「あります。返事はいつも『指示どおりに』でした」
そのやり取りも、正式に記録してもらう必要がある。
私が筆を取ろうとすると、隣からリズさんが口を挟んだ。
「記録が残っているのなら、明日からは調べやすくなりますわ」
「……明日も来られるのですか?」
「必要でしたら」
ヴェッカーさんは何とも言えない顔をした。
◇
ナディアさんが施療室へ駆け込んできたのは、それからしばらくしてだった。
扉の前で一瞬立ち止まり、寝台にいる男性の顔を見た。
「……オスカー?」
「悪い、遅くなった」
彼が申し訳なさそうに笑うと、ナディアさんは歩み寄ってその手を握った。
「何が、遅くなったよ……!」
怒った声だった。けれど、手は離さなかった。
「待ってろって言ったの、あんたでしょう。私、どこで待てばいいかも分からなかったんだから」
「ごめん」
「……もう、一人で先に行かせない」
「うん」
彼女は泣きながら、夫の肩を軽く叩いた。
私は少し離れたところに下がった。
ここから先は、二人だけの時間が必要だ。
カルマさんも戸口から静かに離れた。リズさんは机の書類をまとめ、私の隣へ来る。
「よかったですわね」
「はい。少なくとも、オスカーさんは奥様のもとへ戻れました」
ナディアさんは何かを話している。オスカーさんは頷き、ときどき困ったように笑っていた。
私はその様子を見て、やっと昨日から胸にあった重みが少しだけ薄くなった。
でも、西の車馬場の記録では、同じ便に3人が乗っていた。
ここで保護した女性がその一人だったとしても、まだ1人足りない。
「……あの書類、患者さんの名前が一つもありませんでした」
私が呟くと、リズさんは頷いた。
「ええ。便番号だけですものね。荷物の受渡しならそれで済むのかもしれませんけれど」
「人は、そうはいきません」
「そうですわね」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「ただ、あの帳簿が残っているのなら、まだ調べられますわ。誰が運用を変えたのか。どこへ送ったのか。たとえ上からの指示でも、跡を残さずには済みませんもの」
私は隣の机に置かれた新旧の帳票を見た。
どちらも同じように、白い紙に黒い文字が並んでいる。
その片方には、以前まで存在した本人確認の欄があり、もう片方にはない。
名前を消す術式は使われていない。それでも、そこから人の名前を取り除いただけで、誰がどこへ運ばれたのか分からなくなる。
――そんなことが、あっていいはずがない。
午後の鐘が、白い回廊を伝って響いた。
私は審問官章を握り直した。
次に確かめるのは、あの指示がどこから来たのか。
そして、まだ戻っていない人たちが、どこにいるのか。
今日、見つけられた人がいる。
そのことだけは、確かな事実だった。




