第46話 荷札の向こうにいる人
昼食を終えた頃には、聖都の空に薄い雲がかかっていた。
中央教義院でもらった追加調査の申請書は、まだ鞄の中にある。申請先と回答期限は記されていたけれど、肝心の搬送先については、これから改めて照会しなければならない。
「で、その紙を出したら、あとは返事待ちか?」
カルマさんが屋台で買った焼き栗を一つ、口へ放り込んだ。
「そうなります。けれど、待っている間にできることはありますよ。施療案内所の方にも、今日教わった運用をお伝えしたいですし」
「現場の人たちが勘違いしたままでは、同じ問題が起きますものね」
リズさんは私の隣で歩きながら、教義院の控えを読み返していた。
「ええ。それに、昨日お世話になったマリエさんにも、お礼を伝えたいんです」
「お前、仕事を増やす才能があるよな」
「褒めています?」
「半分くらいは」
「残りの半分は?」
「ちゃんと休めってこと」
カルマさんは紙袋を差し出してくれた。焼き栗はまだ温かい。
受け取って一つ食べると、香ばしい甘さが口に広がった。昼食は済ませたばかりなのに、思わずもう一つ手を伸ばしてしまう。
「……おいしいですね」
「だろ? さっきから一等星様の目が袋を追ってたからな」
「追っていません」
「そういうことにしとくよ」
リズさんが笑った。
不思議なものだ。昨日までは教義院からの呼び出しに気を取られていたのに、今はこうして二人と焼き栗を分け合いながら歩いている。
それでも、鞄の中の申請書の重さは忘れられなかった。
◇
西の広場にある施療案内所は、午後も混み合っていた。
午前の診察を終えた人と、これから紹介状を受け取る人が行き交っている。廊下の長椅子には赤ん坊を抱いた女性が座り、窓口の前では年配の男性が眼鏡を探していた。
「シュトラール様」
登録・照会の窓口にいたマリエさんが、私に気づいて席を立ちかけた。
「そのままで大丈夫ですよ。昨日はありがとうございました」
「いえ。こちらこそ……中央へ行かれたと聞きましたが、何か分かりましたか?」
「はい。到着確認の印を、事前の受入準備にも使っているそうです。でも、本人が到着したかどうかは、別の欄で確かめなければなりません」
教義院で受け取った控えを見せ、説明された運用を伝えた。
マリエさんは紙に目を通し、困った顔をした。
「そういう意味だったんですか……。現場には『新しい様式を使うように』としか届いていなくて。到着したかどうかまで一緒に確認できるものだと思っていました」
「マリエさんが間違えたわけではありません。説明が届いていないことも、照会に加えます」
「ありがとうございます。それなら、こちらでも上司に確認しますね」
彼女が控えを写し始めたところで、隣の窓口から女性の声が聞こえた。
「ですから、夫に会いたいだけなんです。ここへ来れば分かると言われたから来たのに、また別の場所へ行けと言われても……」
若い女性が受付台の前に立っていた。旅装の裾には土がつき、握りしめた巡礼札の紐が指へ食い込んでいる。
職員は申し訳なさそうに頭を下げた。
「受入先は北の療養棟となっています。そちらへ確認していただければ――」
「昨日も行きました。療養棟では、そんな人は来ていないと言われたんです」
その言葉に足が止まった。
マリエさんも筆を置いた。
「失礼します」
私は隣の窓口へ近づいた。
「お困りのところすみません。お連れの方と、連絡が取れないのでしょうか」
女性は私を見た。疲れた顔をしているけれど、目だけは必死だった。
「夫が施療院へ運ばれたんです。三日前に。私だけ後から来るように言われて……なのに、誰もどこへ行ったのか教えてくれなくて」
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「私はナディア・フェルン。夫はオスカーです」
「ナディアさん。私はシュテルと申します。施療に関する記録を調べているところです。差し支えなければ、最初からお話しいただけますか」
ナディアさんは一度、私の背後を見た。
リズさんが軽く会釈し、カルマさんは通路を塞がない位置へ下がった。
「……あの、皆さんは?」
「一緒に調査をしています。でも、話しにくいことがあれば、私だけで伺いますよ」
少し考えてから、彼女は首を横に振った。
「いいえ。聞いてください。誰でもいいから、ちゃんと聞いてほしいんです」
◇
案内所の奥にある相談卓を借りた。
マリエさんが湯を持ってきてくれて、ナディアさんは両手で杯を包んだ。指先は冷えているようだった。
オスカーさんは街道で足を悪くし、自力で歩くのが難しくなったという。二人は一緒に聖都へ向かっていたが、途中の巡礼案内所で優先搬送の便を勧められた。
「夫は早く診てもらいたがっていました。私も、あのまま馬車で揺られるのはかわいそうだと思って……先に行ってもらったんです」
「そのとき、オスカーさん自身は何とおっしゃっていました?」
「『聖都で待ってる』と。ちゃんと本人が返事をして、札にも署名しました」
彼女は胸元から折り畳んだ紙を取り出した。
優先搬送の控えだ。そこには出発した日付と便の番号、オスカーさんの名前、本人の署名が残っていた。受入先は〈北区療養棟〉。搬送の責任者の欄には、読みにくい印が押されている。
「私は翌日に聖都へ着いて、言われた療養棟へ行きました。でも、入院した人の中に夫の名前はないって……。それで案内所へ戻ったら、もう搬送完了だからここでは調べられないと言われました」
「最初の窓口では、受入先の方へ確認するよう案内されたんですね」
「はい。そこへ行けば、またこちらへ戻るように言われて……」
ナディアさんは紙を握り直した。
「私が、先に行っていいと答えたからいけなかったんでしょうか」
「それは違います」
自分でも驚くほど、早く言葉が出た。
「ご本人が希望して、あなたも送り出した。だからといって、今どこにいるのか分からなくてよい理由にはなりません」
ナディアさんが俯いた。
私はその返事を待ってから、控えを指差した。
「この便の番号を、調べても構いませんか。個人の記録ですから、あなたの了承が必要です」
「もちろんです。お願いします」
カルマさんが紙を覗き込んだ。
「北区の療養棟か。ここへ運ぶなら、西の車馬場を通るはずだな」
「ご存じなんですか?」
「昔、荷の仕事で通ったことがある。病人を乗せた馬車も同じ道を使うかまでは知らないけど、便番号があるなら配車の控えは残ってると思う」
リズさんは紙の端を見ていた。
「この印、二つ重なっていますわね。出発の印と、受領の印です。日付は同じ……」
「そうなんですか?」
「ええ。ただ、それだけで不正とは言えませんわ。先方がどの時点で受領したことにしているのか、確かめたいところですわね」
ナディアさんが顔を上げる。
「一緒に行っても、いいですか」
「はい。ですが、無理はなさらないでください。今日だけで全部分かるとは限りませんから」
「それでも、もう一度ただ窓口を回るよりは……」
私は頷いた。
申請書を鞄にしまい直した。中央の返答を待つことも大切だ。でも今は、目の前に助けを求めている人がいる。
◇
西の車馬場には、聖都の外から届く馬車が集まっていた。
砂利敷きの広場に轍が幾重にも重なり、乾いた藁の匂いが漂っている。御者たちは荷台を点検し、厩舎の前では馬が水を飲んでいた。
「この番号なら、あっちの受付だな」
カルマさんが示したのは、白い壁に古い木の庇を付けた小さな事務所だった。
窓口の男性は、最初、私たちの話を聞いて困惑した。
「患者さんの行き先なら、施療院に聞いてくれないか。うちは馬車を出すだけだから」
「出発と引き渡しの記録を確認したいんです」
カルマさんはナディアさんの控えを広げた。
「家族の人が一緒に来てる。本人もこの便で出たはずなのに、受入先に着いていないらしい」
「それは……困ったな」
男性は額を掻いた。
「俺の一存で記録は見せられないよ」
「ええ。ですから、確認できる方をお願いします」
私は審問官章を示した。
「シュテル・シュトラールです。ご家族の同意も得ています。運送記録のうち、この便についてだけ確認したいのですが」
男性は慌てて背筋を伸ばした。
「分かった。責任者を呼んでくる」
叱られると勘違いさせてしまっただろうか。私は追いかけるように声を掛けた。
「あなたを責めるためではありません。ご協力いただけると助かります」
「……それなら、ありがたい」
男性が奥へ消えると、カルマさんが私を見る。
「一等星様の紋章、こういう時は便利だな」
「便利という言い方は、あまり好きではありません」
「分かってるよ。使う理由がある時だけってことだろ」
「……はい」
思ったよりも簡単に伝わって、少し拍子抜けした。
ほどなくして責任者の女性が現れた。事情を聞くと、ナディアさん本人の署名を確認し、対象便の記録だけを卓上へ出してくれた。
「三日前の昼過ぎですね。ここで馬を替えています」
指で示された行に、オスカーさんの名前があった。
出発時の人数は三人。全員、介助が必要と記されている。
「では、この車馬場へは来たのですね」
「はい。そこまでは担当の御者が確認しています。ただ……」
責任者の女性は頁をめくった。
「ここから先の受領印が、いつもの療養棟の印ではないんです。中央の委託便へ渡したことになっています」
「委託便?」
「聖堂区の中は通行許可のある御者しか入れませんから。患者さんをここで乗せ替えることはあります」
カルマさんが腕を組んだ。
「その委託先の名前は?」
「帳簿には〈北回廊・第二受渡所〉とあります。そこからどこへ運んだかは、こちらでは把握していません」
「おかしくねえか? 受入先は北区療養棟のはずだろ」
「私も、先月から気にはなっていたんです。でも、中央指定の便だと言われてしまって……」
責任者の女性は声を小さくした。
「この受領印に変わってから、療養棟の人が患者さんを迎えに来なくなったんです」
私はその場で、受領印の形と便番号を控えさせてもらった。ほかの患者の名前や病状を書き写す必要はない。責任者の女性にも確認してもらい、照会に使うことを伝えた。
ナディアさんが椅子の背へ手を掛けた。
「じゃあ、夫はどこへ……」
「まだ分かりません。ですが、次に確認する場所は見つかりました」
私は彼女へ向き直った。
「ここから先の記録を持っている方へ、話を聞きに行きましょう」
◇
北回廊へ向かう道は、聖堂区の外れにあった。
巡礼者が行き交う大通りとは違い、こちらを歩くのは荷車を引いた職人や、白い作業衣を着た人ばかりだ。石畳には深い車輪の溝があり、道の両側には背の高い倉庫が続いている。
シュトラール家へ向かう坂道から、そう遠くない。
幼い頃は、この通りを何度も通り過ぎた。聖堂へ運ぶ食料や修繕用の石材が集まる場所だと教えられていたから、特別に気に留めたことはなかった。
「ナディアさん、こちらの門から先は一度、私たちに任せてもらえますか」
第二受渡所の看板が見えたところで、私は立ち止まった。
「どうしてですか?」
「搬送の行き先が分からないままです。まず受付で確かめたいんです。もし面会できると分かれば、すぐにお呼びします」
彼女は不安そうに門の奥を見た。
リズさんが寄り添うように声を掛けた。
「すぐそこの休憩所で、お待ちいただけますか。人通りもありますし、何か分かれば必ずお伝えしますわ」
「……分かりました。でも、どうか夫の名前を忘れないでください」
「忘れません」
私ははっきりと答えた。
「オスカー・フェルンさんですね」
ナディアさんはその名前を聞いて、ようやく小さく頷いた。
彼女を休憩所の椅子へ案内してから、私たちは第二受渡所へ向かった。
門の前には、二人の作業員が立っていた。片方は書類を受け取り、もう一人は荷車の積み荷を確認している。
「すみません。三日前の優先搬送便について、お尋ねしたいのですが」
私は受付の作業員に声を掛けた。
「患者さんの話なら、療養棟の窓口へ行ってください」
「西の車馬場で、こちらへ引き渡した記録がありました。そこから先の搬送先だけでも、確認できませんか」
作業員は私が差し出した控えを見ず、首を横に振った。
「うちでは外の人の名前は調べられません。別の部署です」
さっきと同じ言葉だった。
門の向こうで荷車の車輪が軋んだ。
リズさんが、庇の下に下がる看板を見上げる。
「こちらは、祈祷資材の受渡所なのですね」
看板には〈北回廊・第二受渡所 祈祷資材管理〉と書かれていた。
「ええ。聖堂で使う物を預かる場所ですよ」
「では、どうして患者を乗せた便がこちらで受領されているのでしょう?」
作業員の眉が動いた。
「……その便は、ここの仕事ではありません」
「帳簿には、ここの印があります」
私は車馬場で記された受領者欄の写しを示した。個人名と病状は伏せてあるが、便番号と印の形は残してある。
作業員は紙を受け取りかけ、隣の同僚を見た。
「これ、あの……」
「余計なことを言うな。担当じゃないんだ」
年上の作業員が低い声で遮った。
カルマさんは二人の顔を見比べたが、口を挟まなかった。
「責任者の方へ照会したいんです。窓口はどちらでしょうか」
私が尋ねると、年上の作業員は門の奥を指した。
「管理事務室だ。だが、今日は外部の人間には会えないと思うぞ」
「理由は?」
「上から、そう言われてる」
誰が命じたのかは教えてくれなかった。
そのとき、門の奥から別の荷車が出てきた。幌の下には木箱が幾つも積まれ、外側に白い荷札が下がっている。
荷車が私たちのすぐ横を通り、坂道へ曲がろうとしたところで、荷札の一枚が風に煽られた。
そこには〈祈祷資材・受領済〉とあった。
荷札の下には別の紙が挟まっている。風でめくれたその端に、見覚えのある二つの文字が印刷されていた。
〈搬送完了〉。
カルマさんが小さく息を吐いた。
「……リズ。あれ、見えたか?」
「ええ。けれど、ここからでは内容までは分かりませんわ」
彼は荷車を追いかけようとはしなかった。行き先を確かめるには距離があるし、こちらはナディアさんを待たせている。
代わりに、門の上へ掲げられた管理標を見た。
「少なくとも、便番号をどこへ聞けばいいかは分かったな」
「はい。でも、これだけではオスカーさんがここへ運ばれたとは言えません」
「分かってる。だから調べるんだろ」
私は頷いた。
◇
休憩所へ戻ると、ナディアさんがすぐに立ち上がった。
「夫は?」
期待のこもった声だった。
申し訳なさが胸に刺さる。それでも、分かったことと分からないことを混ぜて話してはいけない。
「西の車馬場までは、オスカーさんが乗っていた便の記録を確認できました。そこから先は、北回廊の受渡所へ引き継がれています」
「そこにいるんですか?」
「まだ確認できていません。受渡所では患者を扱っていないと説明されました。でも、搬送便を受領した記録があります。必ず確認を続けます」
彼女は唇を噛み、少し俯いた。
「……見つかったら、会わせてもらえますか」
「もちろんです。オスカーさん本人が、面会を望んでいれば」
「夫は、待ってると言いました」
「はい」
その言葉を、軽く受け止めたくなかった。
リズさんが隣で尋ねる。
「ナディアさん、今夜お泊まりになる場所は決まっていますか?」
「昨夜と同じ宿へ戻るつもりです」
「でしたら、宿の名前と連絡先をお預かりしてもよろしいでしょうか。こちらからお伝えできることがあれば、必ずお知らせいたします」
「お願いします」
リズさんは彼女の返事を聞いてから、丁寧に控えを書き取った。
カルマさんが休憩所の入口へ視線を向ける。
「もう暗くなる。宿まで送ろうか」
「いえ、大丈夫です。通りを戻るだけですから」
「そっか。じゃあ、気をつけて」
ナディアさんは何度も頭を下げた。
姿が通りの向こうへ消えるまで、私たちは見送った。
「……シュテルさん」
リズさんが静かに呼んだ。
「はい」
「港で見た帳簿と、少し似ておりますわね。人が到着したかを確かめず、書類だけが先へ進んでしまうところが」
「……ええ。でも、まだ同じことが行われているとは限りません」
「もちろんですわ。今は、そういう可能性があるというだけです」
カルマさんは坂道の向こうを見ていた。
「俺が気になるのは、運ぶ方だな」
「運ぶ方、ですか?」
「患者用の便が、祈祷資材の受渡所で止まってる。その先に本当に療養棟があるなら、なんで正面から運ばない? 荷を預かる窓口へ人を回す理由が、まだ分からない」
それは、私も気になっていた。
誰が便を手配したのか。受領したのは誰か。どこで、どのような理由で搬送先が変わったのか。
教義院でもらった申請書には、そのどれも書かれていない。
「明日、北回廊の管理事務室へ正式に照会します」
「また書類か?」
「はい。でも今度は、聞く相手が分かっています」
「だったら、俺は出入りする車を見ておく。どこへ行くかくらいは分かるかもしれないしな」
「無理なことはしないでくださいね」
「まだ何もしてないって」
リズさんが小さく笑う。
「わたくしは、西の車馬場の受領印をもう一度見せていただきたいですわ。印の形が、教義院の控えと一致するかもしれませんので」
「……お願いします」
頼む前に、それぞれの役目が決まった。
ふと、港を出た日のことを思い出した。
あの頃は、三人が同じ場所へ向かうことさえ、不思議に感じることがあった。
今は誰も、協力する理由を言い直したりしない。
ただ、目の前の人が困っていて、自分たちにできることがあるから動く。
それが、私にはありがたかった。
聖堂区の鐘が夕暮れに響いた。
白い鐘楼の足元で、祈りの時間を告げる音が街へ広がっていく。
けれど今、私はその音よりも、先ほどの荷札に書かれた文字を思い出していた。
〈搬送完了〉。
いったい、何を運び終えたというのだろう。




