第45話 確認者のいない記録
朝食の席で、カルマさんが珍しく黙っていた。
パンを食べ終えるまでの間、窓の外を眺め、時折、懐中時計を確かめている。昨日の夜は「寝不足で中央教義院に行くよりいいだろ」と言っていたのに、今朝は私より早く身支度を済ませていた。
「……何ですか?」
「いや、今日はどこまで一緒に入れるのかなと思って」
「昨夜、同行許可の申請を出しておきました。返答は、入口で確認することになっています」
「そうか。まあ、俺たちを入れない理由も分からなくはないけどな」
カルマさんはそう言って、残っていた珈琲を飲み干した。
リズさんが、卓上に広げた写しを重ね直す。
「向こうが調べたいのはシュテルさんの照会目的なのでしょう? でしたら、最初からわたくしたちが同席する必要はないかもしれませんわね」
「必要になったら、あとで呼んでもらえばいい。俺たちが勝手に名乗り出て、話をややこしくしても仕方ないしな」
「……ありがとうございます」
リズさんはここではリズ・ヴァーレンという名前を使っている。私が正式に名乗ったからといって、彼女まで危険な立場を明かす必要はない。
昨夜、改めて話し合ったことだった。
「ただ、一つだけお願いします」
「何でしょう?」
「中で困ったら、ちゃんと困ったと言ってください。何もなかった顔で戻ってこられるのが、一番困りますから」
リズさんの言い方は穏やかだった。
「……はい。そうします」
「お前の場合、困ってる自覚が遅いんだよな」
「カルマさんには言われたくありません」
「俺はすぐ文句を言うだろ?」
「それは知っています」
昨夜まで胸に残っていた緊張が、少しだけ和らいだ。
◇
中央教義院は、聖堂区の奥にあった。
大聖堂の尖塔を背に、半円形の回廊が東西へ伸びている。白い石柱の間には色硝子が嵌め込まれ、朝の光が床へ淡い青と金の模様を落としていた。
幼い頃、祖母に連れられて何度か訪れた場所だ。その時は廊下を走るなと叱られたことばかり覚えている。
今日は、走るつもりはない。
入口には二人の守備騎士と受付の修道士がいた。私が審問官章と呼出状を差し出すと、修道士は帳簿を確認した。
「シュテル・シュトラール審問官。お待ちしておりました」
「おはようございます。同行者の申請について、返答をいただけますか」
「申し訳ありません。事情確認は申請者ご本人のみとなっております。お二人には、外来者用の待合室をご利用いただけます」
「分かりました。回答いただいた内容を、私の控えにも残していただけますか」
「ええ。もちろんです」
修道士は丁寧に返答を書き、確認印を押してくれた。
隣でカルマさんが受付の奥を覗いた。
「待合室なら俺たちも入っていいんだな?」
「はい。武器を抜いたり、執務区画へ立ち入ったりされなければ問題ありません」
「分かった。じゃあ、そっちで待たせてもらうよ」
そう答えると、カルマさんは守備騎士の方へ軽く会釈した。言葉遣いはいつも通りでも、余計な揉め事を起こす気はないらしい。
「大人しく待っていてくださいね」
「俺が何かすると思ってる?」
「思ってはいませんけど、念のためです」
「信用がねえなあ」
リズさんが口元を緩めた。
「では、お二人とも。終わったら、こちらへ戻ります」
「ええ。急ぐ必要はありませんわ」
「その代わり、変だと思ったことは覚えとけよ。帰ってから聞くから」
カルマさんの声は、もういつもの調子だった。
◇
案内された応接室は、昔の記憶よりも小さかった。
窓は中庭に面し、白いカーテンが風に揺れている。卓の上には水差しと筆記具。壁際の書架には、施療と巡礼に関する条例集が並んでいた。
待っていると、灰色の法衣を着た男性と、書類を抱えた女性が入ってきた。
「中央施療受入調整室の補佐官、ヘルマン・リートです。こちらは記録担当のルチア。お時間をいただき、ありがとうございます」
「聖盾審問官シュテル・シュトラールです。よろしくお願いいたします」
二人は席に着いた。ルチアさんが筆を取り、机上に記録用紙を広げる。
「まず、今回の照会について伺わせてください。なぜ街道の宿坊にある受入表を、審問官が調べているのでしょうか」
予想していた質問だった。
「巡礼路で負傷者の救助に関わった際、実際には到着していない方へ〈到着確認済〉の印が発行されていると知ったからです。同様の問題が聖都の窓口でも起きており、診察を求める方が足止めされていました」
「宿側が、先行受付の表示を誤解した可能性はありませんか?」
「考えました。ですが、窓口に置かれた印章見本では、先行受付と到着確認は別の印でした」
「その確認は、どなたがなさいました?」
「現場の職員と一緒に行いました。照会の対象は印の発行部署と処理条件です。職員個人の判断を審問しているのではありません」
補佐官は一度、ルチアさんの筆先を見た。
「なるほど。問題の起きた経緯は分かりました。では、宿坊の受入表の原本についてですが、当室へお預けいただくことはできますか」
「原本は宿にあります。宿の主人が保管しており、私は許可を得た写しだけを持っています」
「こちらで精査するため、原本の提出が必要かもしれません」
「正式に求める場合は、保管者へ依頼してください。私から、預けるとお約束することはできません」
補佐官は唇を結び、それから少し笑った。
「慎重でいらっしゃる」
「持ち主の許可をいただいていませんので」
「分かりました。では、先に当室の運用について説明しましょう」
ようやく、こちらが知りたかった話になった。
◇
説明によれば、巡礼路から聖都へ送られる情報には、本来二つの段階があった。
街道の案内所で行う、施療希望者の事前登録。
本人が宿坊や施療院へ到着してから行う、実際の到着確認。
私はそこまでは知っていた。港を出てから、同じ仕組みの説明を何度も聞いている。
「今年に入ってから、二つの記録をまとめて処理する方式に切り替えました。巡礼者が増え、受付が混雑したためです」
「事前登録を早めるため、でしょうか」
「ええ。到着後の負担を減らすためです」
補佐官が一枚の見本票を差し出した。
左側に〈巡礼路での事前登録〉。右側に〈受入施設への到着〉。中央には、双方を照合する小さな欄がある。
「通常であれば、到着欄には宿や施療院の担当者が確認を入れます」
「……通常であれば?」
私が尋ねると、補佐官は別の見本票を出した。
「緊急の優先受入に限り、中央から先に到着扱いにすることがあります。受入施設へ人員や寝台を確保させるためです」
「それは、実際に到着したという意味ではないのですね」
「ええ。実務上の仮処理です」
「でしたら、どうして印には〈到着確認済〉と書かれているのですか?」
補佐官は答える前に、書面の文字を指でなぞった。
「旧式の帳簿に合わせているためです。表示の改善は検討しています」
「いつから、そのように扱っているのでしょうか」
「具体的な日付は、担当部署で調べなければ分かりません」
「変更の承認者は?」
「中央で承認されています」
「どなたが?」
「……教義院として、です」
ルチアさんの筆が止まった。
私は見本票を見直した。
仮処理なのに、到着したことを示す印を使う。知らない人が見れば、本人がすでに施設にいると考えるだろう。実際、中央の窓口ではそのせいで診察を断られかけた人がいた。
「宿や施療院へは、仮処理であることを説明しているのですか」
「通達は出しています」
「窓口の方は、ご存じありませんでした。宿の主人もです」
「通達が届かなかったのでしょう。その点は確認します」
私は頷き、手元の紙へ今の説明を書き留めた。
届け方の問題なら、改善すれば済む。けれど、いつ誰が変更を決めたか分からないことは、別の問題だった。
「もう一つ、確認させてください。この仮処理によって、施療院以外の施設への移送も始まるのですか?」
「どうして、そのようにお考えに?」
「街道で、病人だけを先に送る便の案内を受けました。本人と付き添いの方の意思が分かれる場合に、どこで確認するのか気になったんです」
「あれは患者の搬送を早めるための便です。付き添いの方が通常便を利用されることもあります」
「同意はいつ確認されるのですか」
「当然、現場で確認していますよ」
「その確認の記録は、事前登録と一緒に届くのでしょうか」
補佐官はしばらく沈黙した。
「……審問官殿。今回の照会は、到着印についてだったはずです」
「そうです。到着したことになっている方が、本人の希望を確認される前に別の場所へ移されないか、それが心配なんです」
「当室が、そのようなことをしていると?」
「確かめたいだけです。していないのなら、そのように説明できる記録があるはずです」
少し強い言い方になってしまった。
私は一度、息を整えた。
「申し訳ありません。疑っているように聞こえたかもしれません。ただ、街道で出会った母娘が、離れて運ばれることを望まなかったんです。あの方々が、自分で決められる仕組みであってほしいと思っています」
ルチアさんが静かに筆を動かした。
◇
補佐官は棚から別の帳票を取り出した。
「では、申請者が閲覧できる範囲の記録だけ、お見せしましょう」
そこには、名前や病状を伏せた受入状況が並んでいた。
受付番号。事前登録の日付。優先受入の区分。施設へ送った連絡の時刻。
問題の〈到着確認済〉は、その連絡が発信された時点で印字されている。
「ほら、こうして施設側へ通知しているでしょう。本人の到着を確認したという意味で使っているわけではないんです」
「では、実際の到着を記録する欄はどちらですか?」
「この右端です」
指された先には、〈本人対面確認〉という欄があった。
何行かに確認印がある。別の行は空白だった。
その空白の隣に、〈移送準備済〉という表示が付いている。
「……こちらは?」
「受入施設への搬送の手配が済んだ、という意味です」
「対面確認の前に、搬送の手配を?」
「遠方から来る方のためには、当然のことです。馬車を用意するのに時間がかかりますから」
それも、理由としては理解できる。
けれど、そのうち一つは、本人対面確認が空白のまま、〈搬送完了〉になっていた。
「補佐官殿。この番号の方は、対面確認を受けずに搬送が完了したのですか」
彼の目が、私の指先へ移る。
「……施設側の確認が、こちらへまだ届いていないのでしょう」
「それなら、どの施設が本人を受け入れたのか、確認していただけますか」
「個別の情報は、閲覧権限の範囲外です」
「施設名だけでも構いません。今どなたが保護の責任を負っているか、知りたいんです」
「個別調査として、改めて申請していただく必要があります」
私は紙の上から顔を上げた。
「分かりました。では、申請方法を教えてください」
補佐官は一瞬、言葉を失ったように見えた。
「……本当に、お調べになるのですね」
「はい。搬送が適切に行われていることを確かめたいので」
「審問官の権限を、施療事務の細かな不備に使う必要があるでしょうか」
それは、祖母からも似た形で聞いた言葉だった。
教義院にも守らなければならない仕事がある。施療に携わる人たちを、一つの疑問だけで疑わせるわけにはいかない。
だからこそ、私はここへ来たのだと思う。
「権限を使えば、すべての記録を見ることが許されるとは考えていません。だから手続きを伺っています。ですが、誰も確認していないまま人が運ばれているのなら、それは細かな不備では済みません」
窓の外で鐘が鳴った。
ルチアさんがそっと帳票を閉じる。
「本日の事情確認は、ここまでにいたしましょう」
補佐官が言った。
「照会については、中央の回答を整えて送ります。追加調査の申請書は、受付で受け取ってください」
「ありがとうございます。それから、もう一点だけ」
私は卓の上の記録用紙を見る。
「今日ご説明いただいた運用と、閲覧した帳票の項目について、私の控えを作っていただけますか。個人名や病状は必要ありません」
補佐官はしばらく私を見ていたが、ルチアさんへ頷いた。
「項目名と運用説明だけなら、構いません」
書記官が新しい紙を取り、書き写し始める。
彼女の手元には、先ほど私が気づいた〈搬送完了〉の欄も含まれていた。
帳票の名前も、残される。
◇
応接室を出た時には、昼の鐘が鳴る少し前になっていた。
待合室へ戻ると、カルマさんが窓際の椅子で脚を組んでいた。リズさんは小さな冊子を読んでいる。
「お帰りなさい、シュテルさん。お疲れ様でした」
「ただいま戻りました」
「で、聞けたか?」
「はい。少しは。ただ……私の方からも、いろいろ聞いてしまいました」
「だろうな」
「どうして分かるんですか」
「予定より長かったし。あんた、疑問を残したまま帰ってくるの嫌いだろ」
それは否定できなかった。
待合室の受付で退館の手続きを済ませると、案内してくれた修道士が頭を下げた。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「こちらこそ。お世話になりました」
カルマさんも修道士に軽く手を上げ、私たちと一緒に門を出た。
白い回廊を背に、街の喧騒が戻ってくる。
「……それで、何が分かった?」
カルマさんが歩きながら尋ねた。
私は控えを開き、説明を順番に話した。
先行受付の情報を、到着確認として処理する運用があること。実際に本人が到着したかを記録する欄は、別に存在すること。そして、一部の搬送記録では、その欄が空白のまま完了扱いになっていたこと。
「なるほどな。送り状を先に切るのは分かる。でも荷を降ろした記録がないのに、運び終わったことになってるわけか」
「人を荷物にたとえるのは、あまり好きではありませんけれど」
「悪い。昔の仕事の癖だ」
「……でも、問題は分かりやすいです」
リズさんが控えを受け取り、眉を寄せた。
「この欄、確認者のお名前がありませんわね」
「はい。運用を変えた承認者も、教義院として承認したとしか教えていただけませんでした」
「では、誰かが責任を負っているはずなのに、書類からは辿れないのですね」
「そういうことになります」
リズさんはしばらく紙を見つめ、それから私へ返した。
「《ローズ・リスト》で調べられそうなこともありますけれど、この控えだけでは個々の公名への操作が行われたとは断定できませんわ。もう少し、元の記録が必要でしょうね」
「はい。私もそう考えています」
彼女が無理に力を使わないことに、私は少しほっとした。
あの本は、奪われた名前を取り戻せる。だからこそ、誰かを疑うためだけに公名へ触れるような真似はしてほしくなかった。
「次はどうする?」
「追加調査の申請を出します。それから、昨日の窓口にも伺いたいです。先行受付と実際の到着確認が別の記録だと分かったので、現場でどこが混同されているか、説明できると思います」
「仕事が増える一方だな」
「申し訳ありません」
「なんでお前が謝るんだよ。」
カルマさんは軽く笑った。
「それに、面白くなってきた。書類を作った奴が、書類のせいで自分の首を絞めてるんだからな」
「人が困っていることを面白がってはいませんよね?」
「そこはもう説明しただろ?」
「確認です」
「……一等星様は本当に厳しいな」
リズさんがくすりと笑った。
今日は、何かを暴いたわけではない。誰かを捕まえたわけでもない。
けれど、教義院の人たちが口にした言葉と、帳票に残された項目を比べれば、確かめるべきことは見えてくる。
本人に会っていないのに、到着したことになる。
本人に会っていないのに、運び終えたことになる。
その間に、本人はどこにいるのだろう。
私は控えを折り畳み、内ポケットにしまった。
「まずは昼食にしませんか。お二人とも、待たせてしまいましたから」
「賛成ですわ。朝から何も召し上がっていない方もいるでしょうし」
リズさんがカルマさんを見る。
「俺は朝飯を食ったぞ」
「……この方ですか?」
「ええ。待ってる間に、二度ほどお腹が鳴っておりましたから」
「聞こえてたのかよ」
「静かな待合室でしたもの」
カルマさんは降参したように両手を上げた。
「分かったよ。飯にしよう。今度は俺が店を選んでいいか?」
「構いませんけれど、変なお店は困りますよ」
「信用ねえなぁ」
中央教義院の白い壁が、背後へ遠ざかっていく。
次にあの門をくぐる時には、今日より多くのことが分かっているだろうか。
そう願いながら、私は二人の後を追った。




