第44話 シュトラール家の食卓
エヴァさんに案内された家は、修練場へ続く坂道の途中にあった。
白い壁に青い窓枠。軒先には干した薬草が下がり、開け放たれた台所の窓から、焼き菓子の甘い香りが漂ってくる。
「どうぞ。昔のように勝手に入ってくれてもいいのよ」
「昔も、勝手には入っていませんでしたよ」
「あら。あなたが毎週、裏庭から窓を叩いていたのは覚えているけれど」
「……あれは、玄関の呼び鈴が高いところにあったからです」
私の返答に、エヴァさんは声を立てて笑った。
隣ではカルマさんが窓枠の高さを目で測っている。
「なるほどな。昔から苦労してたんだな」
「いま、背の話をしました?」
「呼び鈴の話だよ」
「その顔では説得力がありません」
リズさんが口元を押さえた。笑うのを堪えているのが分かる。二人とも、ここへ来てから妙に楽しそうだ。
家に入ると、低い棚の上に古い木箱が置かれていた。角が丸く擦り減り、蓋には小さな星が彫られている。
「まだ取ってあったんですね」
「あなたが修練の帰りに預けていったものよ。中身を確認してみる?」
勧められて蓋を開けると、布で包んだ小さな木の盾が出てきた。幼い私が、光の魔力で具現化する《星盾》を真似て作った模型だ。子供が片手で持てる大きさで、片側だけ塗料が厚く、星の先も少し曲がっている。
「これ、シュテルさんが?」
「はい。幼い頃、私が作りました」
リズさんが身をかがめる。
「よくできていますわ。こちらの模様は?」
「星盾のつもりだったんです。でも、当時は星の角を揃えられなくて」
「今とあまり変わらないな」
「カルマさん」
「冗談だって。よく残ってるなと思っただけだよ」
木の盾を裏返す。拙い文字で、名前が刻まれていた。
シュテル。
姓はない。星盾を継ぐ家の娘という説明もない。
私はしばらく、その文字を見つめた。
「お茶が冷めるわよ」
エヴァさんの声に顔を上げ、盾を元の布へ包み直した。
◇
卓には焼き菓子と紅茶が並んでいた。エヴァさんがポットを傾けながら、私たちを順番に見る。
「シュテルが友達を連れて帰ってくるなんてね。昔は修練が終わると、すぐ屋敷へ戻っていたのに」
「お友達……」
「違うの?」
「違いません。ただ、そう紹介したことがなかったので」
カルマさんが菓子を一つ取った。
「じゃあ、友達ってことで」
「ずいぶん軽く決めるのですね」
「本人が否定しないなら、いいだろ」
「……ええ。そうですね」
リズさんも静かに頷いている。その様子が少し嬉しくて、私は紅茶を口に運んだ。
茶葉の香りは昔と同じだった。
「お祖母様には、もう知られているでしょうか」
尋ねると、エヴァさんは頷いた。
「今日、審問官のお名前で中央に照会を出したんでしょう。シュトラール家にも、さっき知らせが届いたそうよ」
「……早いですね」
「聖都の中で家名を使えば、そうなるわ。とはいえ、帰ってきたからすぐ屋敷へ来いと命じる方でもないでしょう?」
「昔は、修練の報告が少し遅れただけで迎えが来ました」
「それはあなたが、怪我をしても言わなかったからよ」
カルマさんがこちらを見た。
「その辺りも昔からか」
「今は報告しています」
「心配されてからだろ?」
「……改善中です」
「なら何よりだ」
エヴァさんは菓子をもう一枚、私の皿へ置いた。
「お祖母様のお気持ちは分からないけれど、会いたいなら会ってきなさい。まだ会いたくないなら、今日はここでお茶を飲んで帰ってもいいわ」
「でも、いずれは話さなければなりません」
「いずれ、ね。その『いずれ』を今日にするかどうかは、シュテルが決めることよ」
そう言われて初めて、誰かから帰宅を命じられるのを待っていた自分に気づいた。
幼い頃、屋敷へ戻る時刻も、外へ出てよい場所も、誰に会うかも、ほとんど祖母が決めていた。今の私は聖盾審問官で、昨日は自分の判断で署名までしたのに、家のこととなると昔の癖が残っているらしい。
「……今日、会いに行こうと思います」
私が言うと、カルマさんは残りの菓子を口に放り込んだ。
「了解。じゃあ、俺たちは宿で待ってるよ」
「え?」
「家族の話だろ。必要なら呼んでくれればいい」
「俺たちは、って。わたくしにも相談してくださらないの?」
リズさんが眉を上げる。
「こういう時は、余計な口を挟まない方がいいと思って」
「それは同感ですけれど、シュテルさんの希望はまだ聞いておりませんわ」
二人がこちらを向いた。
どうしてか、そのことに少し驚いてしまった。
「……できれば、一緒に来ていただけますか」
「もちろんですわ」
「了解。じゃあ、俺も行く」
カルマさんの返事はあっさりしていた。
「面倒な相手かもしれませんよ?」
「俺より面倒な奴なら、会ってみたいな」
「期待はしないでください」
「そこは否定してくれよ」
エヴァさんが楽しそうに笑う。
「よかった。シュテル、今は頼れる人がいるのね」
「はい」
今度は迷わず答えられた。
◇
シュトラール家の屋敷は、聖堂区へ向かう坂道の上にある。
石造りの外壁を覆う蔦は秋の色に変わり、鉄柵に彫られた星盾の紋章には、昔と同じように白い砂が詰まっていた。門の前に立つと、手入れされた庭の匂いが風に乗って届いた。
何度も見た景色なのに、門をくぐるまでに時間がかかった。
「入っていいんだよな?」
カルマさんが尋ねる。
「はい。私の家ですから」
「なら、遠慮しすぎると向こうも困るだろ」
「そういう問題でしょうか」
「少なくとも、俺ならそう思う」
門番は私に気づくと、驚いて背筋を伸ばした。
「シュテル様! お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。お祖母様はいらっしゃいますか」
「お待ちでございます。お客様のことも伺っております」
既に準備ができていたらしい。門が開き、玄関の重い扉も内側から開かれた。
廊下の壁には、歴代の審問官が祈祷で具現化した《星盾》を模して作られた記念盾が並んでいる。
磨かれた銀の縁。
記録に残る欠けた星飾りまで再現した細工。
握りの部分に巻かれた革。
盾の形は当時の肖像画や記録をもとに再現されたものだ。
それぞれの下には公名と功績が刻まれていた。幼い頃、私はこの廊下で何度も暗唱をさせられた。
星盾を持つ者は、先人の名を忘れてはならない。
その教えに、今も異論はない。
ただ、名前を残された人以外は、どこにいるのだろうと考えるようになった。
「なかなか物騒な廊下だな」
カルマさんが壁の盾を見上げる。
「本物ではありませんよ。歴代の当主が使った《星盾》の姿を再現したものです」
「へえ。じゃあ、あのでかいのも?」
「はい。前々代の当主の盾を模しています」
「ずいぶん大きいですわね。あの大きさでも扱えたのですか?」
「ええ。光の魔力で具現化した盾は、術者自身にはほとんど重さを感じさせませんから。ただ、こちらの模型は持ち上げるだけでも大変でしょうね」
「そりゃそうか。光でできた盾を、そのまま壁に掛けられるわけじゃないもんな」
「そういうことです」
説明しながら歩いていると、食堂の扉の前で執事が一礼した。
「当主がお待ちです」
私は呼吸を整え、扉を開けた。
◇
祖母は窓際に立っていた。
白銀の髪を後ろでまとめ、濃紺の長衣を着ている。杖の握りには星盾の紋章が刻まれていた。昔より少しだけ背が丸くなったように見えたけれど、その視線は何も変わっていない。
「シュテル」
「……ただいま戻りました、お祖母様」
「顔を見せなさい」
近づくと、祖母は私の頬を見てから肩へ目を移した。怪我がないか確かめているのだと気づき、少し気恥ずかしくなる。
「無事のようね」
「はい。ご連絡が遅くなって、申し訳ありません」
「帰ってきたのに知らせがないから、私から迎えに行くべきか迷ったわ」
「お迎えは必要ありません。もう子供ではありませんから」
「そうね」
思いがけないほどあっさりとした返事だった。
祖母の目が、私の後ろにいる二人へ向く。
「お客様を紹介してくれる?」
「はい。こちらはリズさん。そしてカルマ・ベルモンドさんです。港での調査からご一緒しています」
「リズ・ヴァーレンと申します。突然お伺いしてしまい、申し訳ございません」
リズさんが優雅に礼をする。旅装のままなのに、身のこなしはやはり貴族のそれだ。
「カルマです。お邪魔します」
カルマさんも頭を下げた。いつもより少し丁寧なのは、私の家だからだろうか。
「マグダレナ・シュトラールです。シュテルがお世話になったようね。どうぞ、席へ」
祖母は二人にそれ以上、身分を問いたださなかった。
代わりに私へ向き直る。
「お腹は空いていない?」
「エヴァさんのところで、お茶とお菓子をいただきました」
「そう。では夕食を一緒に取りましょう。話は食後に」
「でも、照会の件は――」
「知っているわ。だから、なおさら食事を済ませてからにしなさい。空腹では、あなたは言葉がきつくなる」
カルマさんが小さく咳をした。
「……何か?」
「いや。今まで知らなかったことが一つ増えた」
「忘れてください」
「無理だな」
リズさんが、また笑いを堪えている。
祖母はそんな二人を見て、ほんの僅かに目を細めた。
◇
夕食の席は四つ用意されていた。
白パンと鶏肉の香草焼き、根菜のスープ。窓の外に夕暮れが落ち、暖炉では薪が静かに燃えている。
自分の席を見て、私は足を止めた。
「……まだ、この椅子を使っているんですか」
私の席だけ、座面が少し高くなっていた。
「職人に頼んで、座りやすい高さへ調整してもらったのよ」
「私も、もう少し背が伸びると思っていました」
「昔は伸びるたびに直していたけれど、最近は必要なくなったわね」
「お祖母様」
正面でカルマさんが口を押さえた。
「笑っていますね」
「いや、いい椅子だなって」
「椅子に感想を求めていません」
リズさんは椅子の座面を見てから、私へ微笑みかけた。
「大切に使われてきたのですね」
「ええ。……そうですね」
子供扱いだと思う気持ちはある。それでも、ずっと使っていた椅子がここにあることに、胸の奥が少し温かくなった。
座ると、祖母が私の皿へスープをよそってくれた。
人参が大きい。
「……これは」
「昔、細かく刻むと人参だけ残したでしょう。大きくすれば食べるようになったから、そのままにしているのよ」
「今は好き嫌いなく食べています」
「それは結構なことね」
スープを口に含む。
香草の匂いが鼻を抜け、柔らかく煮えた人参が舌の上で崩れた。子供の頃より少し薄い味付けに感じる。けれど、この味を覚えていることが嬉しかった。
「おいしいです」
祖母が小さく頷く。
「そう」
それきり、しばらくは食器の触れ合う音だけが続いた。
リズさんはパンに薄くバターを塗り、カルマさんは骨付きの肉を器用に切り分けている。二人とも無理に話題を作ろうとはしない。
その静けさが、今はありがたかった。
「……外の港では、大変だったそうね」
祖母が切り出したのは、食事が半分ほど進んでからだった。
「はい。ですが、いろいろな方に助けられました」
「教会側の関係者も、事件に関わっていたのでしょう」
「その疑いがあります。記録も残っています」
「そう。中央へ送られた報告書だけでは、分からないことが多いわ」
祖母はそれ以上追及せず、グラスを置いた。
「ただ、あなたが出した照会には、中央教義院からも問い合わせが来ている。施療の受付記録を、どうして聖盾審問官が調べるのかと」
「巡礼者の安全に関わるからです。到着していない方を到着済みと記録し、実際に助けが必要な方が窓口で足止めされていました」
「誤記という可能性もあるでしょう」
「あります。だからこそ、発行部署と処理条件を照会しています」
「先にあなたの名が教義院へ届くことも、承知していたのね」
「はい」
祖母は私を見た。その眼差しは厳しいけれど、怒っているようには見えなかった。
「随分と、自分で決めるようになったわね」
「……以前から、そのつもりではありました」
「以前は、決める前に私へ相談したでしょう」
「お祖母様に相談すれば、止められたと思います」
「止めたでしょうね」
即答だった。
私が返事に困っていると、カルマさんが低い声で言った。
「そこまで分かってるなら、話は早そうだな」
祖母が彼を見る。
「あなたは、シュテルが何を調べているか知っているの?」
「全部じゃないけど、港で何が起きたかは見てきました。中央で何が起きてるかは、俺も知りたいですね」
「それで協力を?」
「ええ。乗りかかった船ですから。面白そうだと思ったのも本当ですけど」
「面白そう、ですか」
「人が困ってるのを面白がってるわけじゃないですよ。隠してる奴の腹を探るのが、って意味で」
「なるほどね」
祖母は咎めるでもなく、今度はリズさんに目を向けた。
「あなたも同じ理由で?」
「わたくしには、確かめたいことがございます。港で見つかった術式が、教会で《聖冠》と呼ばれていたものと繋がっておりましたので」
「……その呼び方を、どこで?」
祖母の手が一瞬止まった。
私は気づいたが、リズさんは声の調子を変えなかった。
「教会側の記録です。具体的な出所については、まず原本の扱いを確認してからお話ししたいと思っております」
「慎重なのね」
「必要な時には、ですけれど」
祖母は短く息を吐いた。
「では、この話は食後にしましょう」
私も頷いた。食卓の上で、証拠の出所も誰かの罪も決めるつもりはない。
◇
書斎には、昔と変わらず紙と革の匂いがした。
祖母は暖炉の前の椅子に座り、私たちが持参した写しを受け取った。巡礼札の受付印と、〈楡の灯亭〉の受入表。個人情報は必要な部分だけ残している。
「正式照会を出す前に、宿の主人の許可は得たの?」
「はい。写しを持ち出す際に了承を得ています。原本は宿に保管してあります」
「では、問題はその先ね」
祖母は書類を机に並べた。
「以前は、巡礼札の登録と、施療院への到着確認は別々に扱っていた。中央で処理をまとめたのは、最近のことよ」
「その変更を、家として把握していたのですか」
「概要だけは。到着確認の基準まで当主に通知されるわけではない」
「現場で働く方々も、確認の基準を知らないようでした」
「なら、まず調べるべきは処理の責任者ね。窓口の職員を責めても答えは出ない」
「私もそう思います」
少し安心した。祖母と同じ結論に辿り着くこともあるのだ。
けれど、祖母は次の言葉を慎重に選んだ。
「ただし、シュトラール家の名で深入りすれば、教義院も黙っていないでしょう。私には守らなければならない者がいるの」
「その中に、窓口で診察を待っていた人たちは入らないのですか」
「シュテル」
たしなめる声に、私は口を閉じた。
祖母が家を守ろうとしていることは分かる。それでも、そのために調べるのをやめるわけにはいかない。
「……言い方がよくありませんでした。申し訳ありません」
「いいえ。あなたの言いたいことも分かるわ。でも、家の当主は感情だけで動けないの」
「私も、感情だけで調べているのではありません。現場で確かめた事実がありますし、照会の記録も残しています」
「そうね。それは分かっている」
祖母は写しを戻した。
「教会の名前で行われていることを、すべて教会の善意として受け止めるわけにはいかない。けれど、誰かが不正をしたからといって、そこで働く人たちの生活まで簡単に壊していいわけでもない」
「はい」
私たちがハルム村で出会った人たちも、聖都の案内所で懸命に働いていたマリエさんも、何かを隠すために他人を助けているようには見えなかった。
「ですから、確かめます。誰が、何を決めたのかを」
「そのために自分の立場を危険に晒すことになっても?」
「はい」
祖母は長く私を見た。
「……あなたのお母様も、そういうところがあったわ」
母の話が出るとは思わず、私は息を呑んだ。
「お母様が?」
「誰かが困っていると聞くと、自分の修練を後回しにしてでも出ていった。帰ってくると決まって、外套の袖が擦り切れていたわ」
私は幼い頃の母を思い出そうとした。記憶にあるのは、外套の裾と、抱き上げられた時の薬草の匂い。そして、いつも帰ると言って出ていった背中だ。
「……初めて聞きました」
「話す機会を逃していたのね」
祖母の声は、いつもより少し小さかった。
「お祖母様。母のことも、いつか教えてください。教会の記録に載っていることだけではなくて」
「……ええ」
短い返答だったけれど、拒まれなかったことにほっとした。
そこで書斎の扉が叩かれた。
「当主様。中央教義院から、お届けものです」
◇
執事が運んできた封筒には、白い封蝋が押されていた。
祖母が受け取り、封を切る。文面へ目を通したところで、眉が寄った。
「……早いわね」
「私の照会についてですか」
「ええ。中央施療受入調整室からの回答ではないわ。審問官本人への事情確認の通知よ」
祖母は書面を私へ渡した。
明朝、中央教義院の応接室へ出頭すること。
照会目的と、入手した資料の出所について説明すること。
調査対象に関係する原本があれば、その扱いを協議すること。
文面は丁寧だった。呼び出しの理由も、形式上は不自然ではない。
ただ、最後の一文が気に掛かった。
――同行者の立ち入りは、別途許可を要する。
「いきなり一人で来いってことか」
カルマさんが書面を覗き込む。
「許可を申請すればよいだけかもしれません。けれど、受理されるかは分かりません」
「その前に、照会した処理条件の回答を出してほしいものですわね」
リズさんは落ち着いた声だったが、視線は文面に向いていた。
祖母が私へ尋ねる。
「どうするつもり?」
「行きます。私の公名で申し立てたことですから」
「あなた一人で?」
私は二人を見た。
港での事件から今日まで、何度も助けられた。だからといって、二人が付き添うと勝手に決めるつもりはない。
「まずは同行許可を申請します。お二人には、その後で相談させてください」
「俺は行くつもりだけどな」
カルマさんが言う。
「許可が出なければ、その時に考える。少なくとも、外で待ってるくらいはできるだろ」
「わたくしも、お手伝いいたしますわ。ですが、先方が何を知っているのかを確かめるまでは、急いで動かない方がよろしいでしょうね」
「ありがとうございます」
祖母は二人を見比べ、それから私へ目を戻した。
「……あなたがこの方たちを連れてきた理由が、少し分かった気がするわ」
「そうですか」
「昔のあなたなら、呼び出しの通知が来た時点で、私に判断を求めていたもの」
否定しようとして、やめた。
きっとその通りだ。
けれど今は、頼れる人がそばにいることと、自分で決めることが、矛盾しないと知っている。
「お祖母様。今日はありがとうございました」
「もう帰るの?」
「はい。今夜は宿に戻ります。明日の準備もありますので」
「客室は空けてあるわよ」
「分かっています。でも、今は三人で動いていますから」
祖母は少しだけ残念そうに見えた。
「……そう。では、気をつけて帰りなさい」
「また伺います」
「今度は、照会のついでではなく顔を見せに来なさい」
私は頷いた。
◇
屋敷を出ると、聖都の夜には冷たい風が吹いていた。
石畳の向こうで鐘が鳴り、仕事を終えた人々が灯りのある家へ帰っていく。
「どうだった? 久しぶりの実家は」
カルマさんが尋ねる。
「少し疲れました」
「そりゃそうだろうな」
「でも……行ってよかったです」
私は屋敷の窓を振り返った。
祖母は、教会について私と同じ考えを持っているわけではない。何を隠しているのか、何を恐れているのかも、まだ分からない。
それでも今日、食卓で昔の話をして、母の話を聞けた。
家へ帰ってきたことは、間違いではなかったと思う。
「明日は忙しくなりそうですわね」
リズさんが言う。
「ええ。まずは同行許可の申請からです」
「晩飯は食ったんだろ? なら、今日は寝ようぜ」
「カルマさんは、いつも結論が早いですね」
「寝不足で中央教義院に行くよりいいだろ」
それは正論だった。
「……そうですね。今日は休みましょう」
三人で歩き出す。
故郷へ戻れば、一人で向き合わなければならないことばかりだと思っていた。
もちろん、自分で選ばなければならない場面は、これからいくらでもある。
でも、一人で決めることと、一人きりになることは違う。
隣を歩く二人の足音を聞きながら、その違いを今夜は素直に受け止められた。
明日、教会がどんな返答をするのかは分からない。
それでも、答えを確かめに行くのは私自身だ。




