第43話 白い窓口の向こう
聖都の朝は、鐘より先にパンの匂いがする。
少なくとも、私たちが泊まった宿の周りではそうだった。
窓の下で荷車が止まり、焼きたてのパンを積んだ籠が店先へ運び込まれる。職人の掛け声に、遠くの鐘が重なった。幼い頃はあの音に急かされて修練場へ走ったものだが、今日はどこへ急ぐよう命じられているわけでもない。
それなのに、いつもより早く目が覚めてしまった。
青いリボンを結び、外套の襟を正す。鏡の前で審問官章を手に取ったところで、指が止まった。
昨日までは、この章を人目から隠して旅をしていた。
港から持ってきた証拠を教会へ差し出せば、私たちが何を調べているかも知られる。けれど、章を使わずに調べられる範囲には限りがある。聖都へ戻ってきた以上、いつまでも身分を伏せているわけにもいかないだろう。
私は章を内ポケットへ収め、部屋を出た。
◇
「おはようございます。……もう召し上がっているんですね」
食堂ではカルマさんがパンを頬張っていた。向かいに座るリズさんは、旅籠から預かった写しを机の上へ広げている。
「今日は俺の方が早かったな」
「起きた順番を競っていた覚えはありませんけど」
「そう言うと思った」
カルマさんが皿を寄せてくれた。まだ温かいパンが二つ残っている。
「リズさん、それは昨日の?」
「ええ。〈楡の灯亭〉の受入表です。受付印の形をもう一度確かめておりましたの」
彼女は紙を私の方へ向けた。
巡礼者5人の個人情報を伏せた写し。〈到着確認済〉という文字と、宿に書類が届いた時刻が残されている。私たちがその5人を山道で救助したのは、書類の到着よりも後だった。
「前の巡礼案内所では、名前を先に送っておけば受付が早くなると聞きました。でも、宿泊していない人に到着印を付けてよいとは聞いていません」
「窓口を間違えて聞いたって可能性もあるんだろ?」
カルマさんが紅茶を注ぎながら尋ねる。
「あります。先行受付の印を、宿が到着印と読み違えたのかもしれません」
「だったら、印を作った方に確認すれば済む話ですわね」
リズさんが写しを折り畳んだ。
「聖堂区へ入る前に、一般の施療案内所へ行きましょう。仕組みを尋ねるだけなら、どなたでもできますでしょう?」
「はい。西の広場に中央の案内所があります。私がいた頃は、巡礼者の道案内と施療院への紹介を一緒に扱っていました」
「今も同じなら、そこで決まりだな」
カルマさんは最後のパンを半分に割り、私の皿へ置いた。
「ほら、食っとけ。腹が減ってると顔に出るぞ」
「そんなに分かりやすいでしょうか」
「少なくとも、俺がパンを取ろうとした時の目は怖かった」
「それは、私の分まで召し上がるつもりだったからです」
「……ばれてたか」
リズさんが笑った。その声を聞いているうちに、少し緊張が解けた。
◇
西の広場は、朝から巡礼者で賑わっていた。
木陰には長椅子が置かれ、飲み水を配る人がいる。白い法衣の修道士もいれば、商人や職人もいる。聖都に住んでいた頃は見慣れた光景だったのに、しばらく離れている間に案内所の建物だけが大きくなっていた。
古い石造りの受付窓口に、新しい建物が継ぎ足されている。入口には〈巡礼案内〉〈施療相談〉〈登録・照会〉の札が下がっていた。
「立派になったな」
カルマさんが見上げる。
「以前は窓口が二つしかありませんでした。受付の方々は、忙しい時になると廊下へ机を出していたんです」
「増築するだけ人が来るってことか」
「そうですね。施療院を頼って来る方が、それだけ多いのでしょう」
入口へ入ると、紙をめくる音と、消毒薬の匂いがした。
窓口で順番を待つあいだにも、いろいろな声が聞こえてくる。
「母の診察を早めたいんです」
「紹介状をお持ちでしたら、まずこちらへ」
「宿坊の場所を教えてください」
「青い札の方は、右の列へお並びください」
対応する職員たちは忙しそうだった。迷っている老人には椅子を勧め、子供を抱えた女性のために水を運んでいる。ここにいる誰もが、不正を知って手伝っているとは思えなかった。
「次の方、どうぞ」
若い受付職員に呼ばれ、私たちは窓口へ進んだ。
「確認したいことがあります。街道の巡礼札と、宿坊の受入表についてなのですが」
「巡礼札の再発行でしょうか?」
「いいえ。実際には到着していない人へ、〈到着確認済〉の印が付くことはありますか?」
職員の手が止まった。
「事前登録のことでしたら、ありますよ。施療院での受付を早くするために、巡礼路の案内所から情報を送るんです」
「では、登録と到着は別の扱いですよね」
「もちろんです。本人が到着されたかどうかは、宿や施療院から報告を受けて――」
私は写しを差し出した。
「こちらは、巡礼者が宿へ到着する前に送られてきた受入表です。宿の方から、印が押されている理由を確かめてほしいと頼まれました」
職員は写しへ目を落とし、眉を寄せた。
「……少々お待ちください」
奥の棚から印章の見本帳を持ってきて、頁をめくる。
「これは先行受付の印ではありませんね。到着確認の印です。宿側で押したのでなければ……」
「こちらで発行されたものなのですか?」
「いえ、出力した部署まではこの見本だけでは分かりません。受入表は、中央の配布係からまとめて届くので」
「その配布係へ照会することはできますか」
「できますけど、通常は宿の方から申請していただいています」
「宿の方の署名が必要ですか?」
「ええ」
「それなら、〈楡の灯亭〉のご主人へ返送する書式をいただけますか。宿に残してある原本も合わせて確認できます」
職員はほっとした様子で頷き、引き出しを開けた。
そこで、隣の窓口から大きな声がした。
「だから、うちの親父はまだここへ来てないって言ってるんだよ!」
振り向くと、旅装の男が受付台へ身を乗り出していた。手には皺だらけの紙がある。向かいの職員は困り果てた顔で、何度も同じ欄を指していた。
「こちらの記録ですと、もう施療院へ到着されていることになっています」
「そんなわけないだろ。俺が今朝、隣町から連れて来たんだ。親父は外で座って待ってる。歩くのが遅いから、受付だけ先に済ませようと思ったのに……」
私は男の視線を追った。入口の外の長椅子に、杖を持った年配の男性が座っている。荷物の上には、まだ泥のついた外套が畳まれていた。
「申し訳ありません。照会先からの返答を待つ必要があって……」
「待てって、どれくらいだよ。診てもらうために来たんだぞ」
男の声が荒くなる。周囲の人々がちらちらと視線を向けた。
窓口の職員は、紙から顔を上げられずにいた。
私は二人のそばまで歩いた。
「突然失礼します。ご本人は外でお待ちなのですね」
男は警戒するようにこちらを見る。
「ああ。あんたも教会の人か?」
「施療について少し知識があります。ご本人の具合が悪いのでしたら、まず座ったままで診てもらえる場所へご案内したいのですが」
「……熱はない。ただ、足が痺れるって言ってる。昨日から長く歩けなくて」
「分かりました。受付の問題は後から確認できます。まずは急いで処置が必要な状態か、診察担当の方に見ていただきましょう」
職員へ向き直る。
「到着記録が重なっていても、本人がここに来ていることは確認できます。診察の前に、状態の確認だけでもお願いできませんか?」
「それでしたら、施療相談の窓口へお連れできます」
「ありがとうございます」
男はまだ納得していない顔だったが、父親を迎えに行くために窓口を離れた。
すると、背後からカルマさんの声がした。
「お前、黙って見てられないよな」
「患者さんがいらっしゃるのに、書類だけを見ているわけにはいきませんから」
「そこは褒めてる。俺は親父さんが座ってられるよう、入口の椅子を空けてくるよ」
リズさんは、私たちのやり取りを聞きながら、別の窓口へ目を向けていた。
「シュテルさん。先ほどの方の書類も、実際に到着する前に受け取られたのかもしれませんね」
「……その可能性はあります」
「同じ印が、別々の場所で使われているのでしょうか」
考えていると、最初の職員が小さな声で呼び止めた。
「すみません。こちらの照会用紙なのですが……記録番号を調べてきました」
紙の端に書き加えられた数字を見て、私は息を止めた。
発行部署は〈中央施療受入調整室〉。
その下に、二つの項目が並んでいる。
〈事前受付〉。
〈到着確認〉。
どちらにも、同じ処理番号が振られていた。
◇
「一つの番号で、二つの処理が行われるのですか」
私が尋ねると、職員は迷うように周囲を見た。
「最近、そういう形式に変わったんです。案内所側では受付番号しか入力しません。あとは、中央から届く受入表を使うように言われています」
「本人が到着していない場合は、どうされるんです?」
「宿や施療院から未着の連絡があれば、照会票を出します。ただ、中央から訂正が返ってくるまで、こちらでは書き換えられなくて……」
窓口の奥には、同じ大きさの帳簿が何冊も積まれていた。
その一つが開かれている。頁の左には〈到着〉、右には〈未着照会〉。昨日の日付だけで、未着照会の欄に小さな印が幾つも並んでいた。
「こういう件は、最近増えていますか?」
職員はすぐには答えなかった。
「以前から多少はありました。でも、到着していないのに〈到着済み〉となっている件は、ここ何週間かで増えました。現場から連絡しても、先行受付だから問題ないと言われてしまいます」
「それなら、到着という項目の意味を変えたのでしょうか」
「私も、そう聞いてみたんです。でも……」
職員は言いにくそうに声を落とした。
「『説明は不要だ。中央の記録が優先される』と」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が冷たくなった。
私が幼い頃に教わったのは、まず本人に会って事実を確かめることだった。祈祷も施療も、目の前にいる人を見なければ始まらない。そう教えてくれた人は、この街に確かにいた。
なのに今、窓口の職員が困っている理由は、本人に会って確かめた事実を、上の記録へ反映できないことなのだ。
「ここで働いている方々が、勝手に押している印ではないのですね」
「少なくとも、この窓口ではありません」
「分かりました。お話しくださって、ありがとうございます」
リズさんがそばへ来る。
「では、正式な照会を出しても、同じ回答が戻ってくるだけかもしれませんわね」
「はい。でも、どこから返ってくるのかを確かめられます。まずはそこからです」
彼女は私を見た。何を考えているのか、尋ねるまでもない。
私が審問官章を出せば、中央の資料を確認する権限を求められる。けれど、誰が来たのかも記録される。
そうすれば、リズさんの素性まで調べられる可能性がある。
「少し、相談してもよろしいですか」
「もちろんですわ」
カルマさんも戻ってきた。外の親子は相談窓口へ案内され、診察担当が様子を見に来ることになったらしい。
私たちは廊下の端へ移動した。
「身分を明かせば早く確認できます。でも、それは私たちが聖都にいると、教会へ知らせることにもなります」
「今まで使ってこなかったのは、そのためだろ?」
「はい」
「なら、無理に出す必要はないんじゃないか。照会だけなら、宿の主人に頼んでおけばできるんだろ」
「できます。ただ……この印が間違いだとしても、その間に困る人がいます。さっきのお父様のように」
カルマさんは腕を組んだ。
「急ぐ理由は分かった。けど、正体を見せて得るものがあるか、そこは考えた方がいいな」
「同感ですわ」
リズさんが頷く。
「こちらが持っているのは写しですし、まだ誰かの罪を証明したわけでもありません。お一人で危険を引き受ける必要はございませんわ」
「ありがとうございます。でも、私もそうしたいから調べているんです」
二人がこちらを見た。
「教会の中にいる人たちが、自分で確かめた事実を記録できなくなっている。それは、今の私に調べられることだと思います。少なくとも、問い合わせた事実が残るようにしたいんです」
「……なるほどな」
カルマさんが窓口を振り返る。
「じゃあ、まずは俺たちと切り離せ。同行者の名前は出さず、あんた個人の審問として申請する。そういう形ならどうだ?」
「証拠の出所は?」
「宿の記録の写しだろ。原本は宿に残ってる。嘘をつく必要はない」
リズさんが考えるように指を顎へ添える。
「回答先も、この宿ではなくシュテルさん個人に指定すれば、少なくともわたくしの名前が申請に載ることは避けられますわね」
「ただし、どなたと一緒にいるかまでは隠しきれません」
「それはそうですわ。ですが、隠れることだけを考えていても調査は進みませんもの」
リズさんは折り畳んだ写しを私へ差し出した。
「お預けします。必要な部分だけ、使ってくださいませ」
私は頷いた。
◇
窓口へ戻り、内ポケットから審問官章を出した。
「改めて、正式な記録照会をお願いできますか」
受付職員の目が、銀色の紋章に釘付けになる。
「……聖盾審問官の、印章?」
「シュテル・シュトラールです。港湾支部での緊急審問を終え、聖都へ戻りました。施療巡礼の到着記録に関する照会を申請します」
職員は椅子を引き、慌てて立ち上がった。
「し、失礼いたしました。シュトラール様だとは知らず……」
「座ってください。先ほどまでのお話を伺って、手続きが必要だと思っただけです。あなたが説明してくださったことを責めるつもりはありません」
職員は恐る恐る腰を下ろした。
「では、中央へ審問照会票を送ります。こちらで受け付けた時刻と担当部署を控えに残しますが、よろしいですか」
「お願いします。なお、元の宿泊記録については原本が宿にあります。写しの個人情報は伏せたまま、印の発行部署と処理条件の照会だけをお願いします」
「承知しました」
職員が新しい用紙を引き寄せる。
私は署名欄に、自分の公名を書いた。
シュテル・シュトラール。
それは、今まで何度も書いてきた名前だった。それでも、今日の一筆は重い。
依頼を受けた職員は控えを一枚作り、机上の受付印を押した。時刻と連絡先、照会先が記されている。私はそれを受け取り、内容を確認してから懐へ収めた。
「中央受入調整室から返答が届き次第、お知らせします」
「ありがとうございます。お名前を伺ってもよろしいですか。問い合わせの続きを、同じ方に確認したいので」
「マリエです」
「マリエさん。今日は丁寧に教えてくださって、助かりました」
彼女は少し驚いた顔をした。
「……いえ。私は、窓口の仕事をしただけですから」
「だからこそです」
その返事に、彼女はようやく小さく笑った。
窓口を離れたとき、外の広場から昼の鐘が聞こえてきた。
◇
「案外、あっさり済んだな」
広場の屋台で水を買いながら、カルマさんが言った。
「照会が受理されただけです。まだ何も明らかになっていません」
「それでも、あんたが名前を出したのは初めてだろ。ここへ来てから」
「ええ」
リズさんは隣で買った焼き菓子を紙袋にしまっていた。昨日、靴屋に変わっていた菓子屋を残念がる私に、別のお店を探してくださったのだ。
「これで、教会の方はシュテルさんがお戻りになったと知るかもしれませんわね」
「そうでしょうね」
「怖くはありません?」
「……怖いです」
否定しても仕方がない。名前を書いたとき、手が少し震えたのを自分でも感じた。
「でも、窓口で働く方々が、来ていない人を来たことにしなければならない仕組みは、やはりおかしいと思います。私はそれを確かめたいです」
カルマさんは水を飲み、少し考えてから言った。
「だったら、返事が来るまで待つか?」
「いいえ。待っている間に調べられることもあります。宿の方から正式な照会が出せるよう、書式を写しておきたいですし」
「仕事熱心だなぁ、一等星様は」
「カルマさんも、今朝から窓口の出入り口ばかり見ていましたよね」
「一等星様が思い切ったことを始めても、逃げ道くらいは確保しとこうと思ってな」
「私が何かする前提なんですか?」
「現に、いきなり審問官章を出しただろ」
「……そうでしたね」
言い返せずにいると、リズさんが横で楽しそうに笑った。
私たちは白い石畳を歩き、宿へ戻る道を選んだ。あちこちから昼食の匂いが漂い、鐘楼の下では子供たちが遊んでいる。
教会は、そのすべてを消し去るような敵ではない。
けれど、教会の名で行われていることなら、確かめなければならない。
宿の角を曲がる直前、背後から声がした。
「……シュテル?」
振り返ると、買い物籠を抱えた年配の女性が立っていた。
銀色の髪をきっちりと結び、紺の袖口に白い刺繍がある。修練場の備品係だった、エヴァさんだ。
「やっぱり、シュテルなのね。大きくなって……って、あら。背はあまり変わっていないかしら」
「エヴァさん……お久しぶりです」
懐かしさより先に、頬が熱くなった。
「失礼ね、私ったら。お帰りなさい。お祖母様には、もうお会いになったの?」
祖母。
その一言で、足が止まる。
シュトラール家の屋敷は、この街にある。
教会の記録を調べることばかり考えていたけれど、帰郷したことを知らせていない相手が、もう一人いた。
「……いえ。まだです」
エヴァさんは少し眉を下げ、それから私の隣にいる二人を見た。
「そう。それなら、まずお茶でも飲んでいきなさいな。お祖母様にお会いする前に、顔色を整えておかないと」
「顔色、ですか?」
「ええ。あなた、難しいことを考えている時ほど、分かりやすい顔をするから」
カルマさんが横で小さく吹き出した。
「……笑わないでください」
「悪い。昔からなんだなと思って」
「カルマさん」
リズさんは私を見て、穏やかに言った。
「急ぐことはございませんわ。まずはエヴァさんのお茶をご馳走になりましょうか」
私は頷いた。
聖都へ戻ってきた実感が、ようやく胸の奥へ落ちてきた。
昨日まで、知らない街ではないと思っていた。
けれど、ここには私を知っている人がいて、私の帰りをまだ知らない家族がいる。
そして、私が確かめなければならない記録がある。
そのどれも、もう誰かに任せて通り過ぎることはできなかった。




