第42話 白い街へ帰る道
聖都へ向かう旅の最終日。今回はリゼリア視点です。山裾の旅籠を発った三人は、ついにオルディオンの白い街壁を望みます。
鐘の音が、山を越えてきた。
窓を開けた途端、朝の冷気と一緒に届いたのは、遠くで重なり合う鐘の響きだった。ひとつ、ふたつ。まだ姿も見えない街から、こんなところまで音が届くものなのかしら。
「聖都の鐘ですよ」
背後からシュテルさんの声がした。
振り向くと、彼女は青いリボンを結び直していた。旅装はすでに整い、肩には昨夜洗って干した外套を掛けている。
「ずいぶん早起きですのね」
「いつもと同じ時間です。リズさんこそ、もう支度を?」
「目が覚めてしまいましたの。鐘のせいかもしれませんわ」
窓の外には〈楡の灯亭〉の小さな庭がある。雨水を含んだ土から、草の匂いが立ち上っていた。
「聞き覚えがありますか?」
「ええ。朝の祈りを告げる鐘です。聖都から少し離れた土地では、あの音を聞いて畑へ出る人もいるんですよ」
「時計代わりなのですね」
「そうですね。子供の頃は、鐘を聞いてから慌てて身支度をして、よく叱られました」
意外なお話だ。シュテルさんなら、鐘の鳴る前に起きて机に向かっている姿しか想像できない。
「そのようなお子様だったとは」
「……今は間に合っています」
「ええ。存じておりますわ」
からかうつもりで口元を緩めると、彼女も小さく笑った。
その笑みが、窓の向こうへ目を向けた途端、少しだけ静かになる。
今日、わたくしたちは聖都オルディオンへ入る。
そこはシュテルさんの故郷であり、彼女が審問官として守ってきた教会の中枢がある街だ。
◇
食堂へ下りると、カルマはすでに朝食を終えかけていた。
「おはよう。そっちも早いな」
「カルマこそ。もう召し上がったの?」
「焼きたてのパンがあるって聞いたら、そりゃ起きるさ」
卓上には、小麦の香りがする丸いパンと、根菜の煮込みが並んでいる。彼の皿には、パンの欠片がひとつ残っているだけだった。
「私たちの分は残してありますか?」
シュテルさんの問いに、カルマは大げさに傷ついた顔をした。
「一等星様、俺を何だと思ってるんだよ」
「先に起きて、先に食べていた方です」
「事実を並べるのはやめてくれ」
厨房から宿の女主人が顔を出した。
「安心しな。二人の分はちゃんと取ってあるよ。こっちの兄さんには、最初から大盛りを出しといたからね」
「ほら、俺は悪くない」
「誰も悪いとは申し上げておりませんわ」
わたくしが席に着くと、主人は湯気の立つ皿を置いてくれた。
昨夜救助した巡礼者たちは、まだ奥の部屋で休んでいるという。足を痛めていたルーディさんも、今朝は食事を取れたそうだ。馬車の修理も済み、出発は明日以降、本人たちの体調を見て決めるらしい。
「急がせないことにしたんだよ。昨日みたいな目に遭うのは御免だからね」
「それがよいと思います。ルーディさんも、もう少し足を休ませた方がいいですから」
シュテルさんが答えた。
「ところで、例の紙なんだけどさ」
主人は声を少し落とし、帳場から折り畳んだ写しを持ってきた。
「昨日の受入表だよ。人の名前は伏せたけど、あの印と、紙が届いた時間はそのまま残してある。聖都で仕組みを尋ねるだけなら、これで足りるかい?」
「ええ。ありがとうございます。元の記録は、こちらで保管なさってください」
「もちろん。あたしの宿に来た人のことだからね」
わたくしは写しを受け取り、折り目に沿って封筒へ収めた。
記録があっても、書かれている人が無事だとは限らない。それを確かめられたのは、昨日、この宿の方々が5人を待っていたからだ。
「聖都で役に立つといいね」
「役に立てるようにいたしますわ」
礼を述べると、主人はわたくしたちの顔を順に見て笑った。
「それにしても変わった三人だね。お嬢さん方は礼儀正しいし、この兄さんはよく食べるし」
「俺だけ評価の基準がおかしくないか?」
「よく働く、も付けとこうか」
「そっちを先に頼むよ」
シュテルさんが堪えきれず笑った。
港を出てから、わたくしたちは何度も宿を替え、知らない方々の世話になってきた。旅の途中で出会う人を、皆が善人だと決めつけるつもりはない。それでも、今朝のこの食卓は忘れずにいたいと思う。
◇
山裾の道を抜けると、視界が突然開けた。
丘の向こうに、白い屋根が連なっていた。
最初に目に入ったのは高い鐘楼。その周囲に大小の聖堂が集まり、さらに外側へ住居と商店の屋根が広がっている。街壁は白い石で築かれ、朝日を受けた外側の面が淡く輝いていた。
聖都オルディオン。
名だけは以前から知っている。王国の信仰を集め、多くの施療院と教会施設を抱える街。父がまだ健在だった頃、公爵家にもここからの書簡が届いていた。
けれど、こうして自分の足で近づくのは初めてだった。
「……立派な街ですわね」
「遠くから見ると、特にな」
カルマは街を見下ろし、眩しそうに目を細めた。
「近くに行くと、人も馬車もごちゃごちゃしてる。荷物運ぶなら、港の方がまだ道が分かりやすいぞ」
「何度かお越しになって?」
「ああ。仕事で通ったことはある。いい思い出ばっかりじゃないけどな」
彼はそれ以上詳しく話さなかった。尋ねれば答えてくれるかもしれないけれど、今は隣のシュテルさんの方が気になる。
彼女は街を見つめていた。
外套の胸元へ手を添え、そこから一度、指を離す。青いリボンが風に揺れても、直そうとしなかった。
「シュテルさん」
「はい」
「少し休みましょうか。あちらに腰掛けられそうな石がありますわ」
「……ありがとうございます。でも、疲れてはいません」
「ええ。わたくしが景色を見ていたいだけですの」
そう答えると、シュテルさんは表情を和らげた。
街道から少し外れた場所に、低い石積みがあった。わたくしたちはそこで水を飲み、荷物の紐を締め直した。街へ入ればしばらく人波に揉まれる。落ち着いて話せるのは、ここが最後かもしれない。
「懐かしいです」
シュテルさんがぽつりと言った。
「教会の建物は、ほとんど変わっていません。あの鐘楼も、修練が終わると毎日見上げていました」
「どちらで暮らしていらしたの?」
「奥の聖堂区です。ここからでは屋根しか見えませんけど……あの辺りですね」
彼女が示したのは、街の中央近くに重なる白い屋根だった。
「戻るのは、やはり気が重いですか」
「正直に言えば、少し。知っている人と会うのが怖いというより、顔を見たら、何も変わっていないような気がしてしまいそうで」
言葉を探しているのが分かった。わたくしは続きを促さずに待った。
「でも、確かめたいことがあります。あの教会の中で起きていることも、そこで働いている人たちのことも。……両方とも、自分で見たいんです」
「そのときは、わたくしも隣におりますわ」
「はい。心強いです」
返ってきた言葉は短かったけれど、こちらを見る瞳に迷いはなかった。
「で、俺は荷物持ちか?」
石積みに腰掛けていたカルマが言う。
「カルマには、何かあったときの退路も見ていただきたいですわね」
「ほら、結構大事な役だろ」
「わたくしがお願いする前から、そうしてくださるでしょう?」
「……まあな」
妙に素直な返事だった。
カルマは水筒の蓋を閉め、立ち上がる。
「そろそろ行こうぜ。ここで日が暮れたら、せっかく宿に泊まれるのにまた野営だ」
「それは困りますね」
「一等星様も同意見か。じゃあ決まりだ」
シュテルさんは頷き、先に街道へ戻った。
わたくしも腰を上げる。
父の裁判で聞いた《白冠計画》という言葉を、ふと思い出した。
あのときは意味も分からなかった。名を奪われた人々と、国を守るための結界がどう結びつくのか。港でグレゴールが他者の名核を使って命を繋いでいたのを見てから、なおさら分からなくなっている。
教会では同じ《白冠》を《聖冠》と呼ぶ。
街を包む朝の光を眺めていると、その名が似つかわしいもののようにも思える。けれど、美しい呼び方をされているからといって、仕組みまで美しいとは限らない。
今ここで答えを出す必要はない。
わたくしは外套の留め具を確かめ、二人のあとを追った。
◇
聖都の西側へ続く道は、昼が近づくにつれて賑やかになった。
白い巡礼札を下げた人々が歩く一方で、野菜を積んだ荷車や、石材を運ぶ馬車も次々と街へ向かっている。祈りの歌だけでなく、荷の値段を言い争う声や、車輪に油を差す職人の怒鳴り声まで聞こえてきた。
「思っていたより、普通の街ですのね」
「どんな想像してたんだ?」
「どなたも静かに祈っていらっしゃるのかと」
「祈ってるだけじゃ飯は食えないからな」
カルマが顎で道の先を示す。
荷車の隣では、若い修道士が箱を持ち上げようとして、年配の女性に叱られていた。
「だから腰で持つんだって! 背中を丸めちゃ駄目だよ」
「修行では習いませんでした……」
「じゃあ今日から覚えな!」
シュテルさんが口元を押さえた。
「どうかなさいまして?」
「……私も、ああいうことを言われた覚えがあります。祈祷の勉強ばかりしていた頃、厨房を手伝おうとして」
「皿を割った?」
「鍋を落としました」
「そっちかよ」
「中身は空でした」
「それは何よりですわね」
シュテルさんは少し恥ずかしそうに頷いた。
門の手前には水場があり、巡礼の途中らしい家族が休んでいた。母親が子供の首から下げた札を結び直し、父親が水筒を満たしている。子供は待ちきれずに、街壁の上を指差していた。
「もう着いたの?」
「もう少し。門をくぐったらね」
父親の返事に、子供は満面の笑みを浮かべた。
その横を通りながら、わたくしは思った。
誰もが何かを求めてこの街へ来るのだろう。病を診てもらうため。家族のため。仕事のため。もちろん、ただ祈りを捧げるための方もいる。
わたくしたちが調べようとしている制度も、まずはそうした人々のためにあるべきものだ。
なのに港では、人の名前そのものが荷物のように扱われていた。
「リズ」
カルマに呼ばれ、顔を上げた。
「そろそろフードを深くしておけよ」
門の脇に、掲示板が見える。宿の空き部屋を知らせる紙、迷子の知らせ、盗難品の特徴。古い紙の上から新しいものが貼られていた。
その端には、王国の手配を示す赤い印もあった。
「……ええ。ありがとうございます」
わたくしは髪を外套の中へ収め、目元に影が落ちるようフードを直した。
リゼリア・ノワールヴェインという公名は、もう消えていない。むしろ、追う側が望めば記録のどこかから辿れるだろう。
だからこそ、ここではリズとして歩く。
シュテルさんは一瞬こちらを見て、何も言わずに外套の前を閉じた。審問官の徽章は、今は人目に触れない場所へしまってある。
◇
西門は、巡礼者の列と商人の列に分かれていた。
わたくしたちは荷物を背負い、一般の旅人が通る方へ並んだ。門番は忙しそうに馬車の荷台を覗き、木箱の封を確かめている。
「聖都へは何の用だ?」
順番が来ると、衛兵が尋ねた。
「宿を探して、数日滞在するつもりです」
カルマが答える。
「商売か?」
「いや、旅の途中だ。知り合いに会う用もある」
「武器は?」
「銃を二丁。荷の中には入れてない」
カルマは外套の端を少し開き、銃帯が見えるようにした。銃そのものには手を触れない。
衛兵は一瞥し、頷いた。
「街中で抜くなよ。喧嘩を起こしたら、宿の主人ごと事情を聞くことになる」
「分かってる。飯を食いに来ただけで撃ち合う気はないさ」
「それならいい。そっちの二人は?」
「わたくしも旅の者です。連れと一緒に宿へ」
「巡礼札は持ってるか?」
「いいえ。巡礼ではございませんの」
「なら、聖堂区へ入るときは別の手続きがある。ここは外郭の通行門だからな。案内は中で聞いてくれ」
衛兵はわたくしたちの人数を帳面に記し、通行を促した。
身元を確認する魔術は使われなかった。
ほっとしたのは事実だ。けれど、外郭の門を通れたからといって、聖堂区へ自由に入れるわけではない。そのことは十分に理解していた。
「ありがとうございます」
シュテルさんが頭を下げたとき、衛兵がその声に少し顔を上げた。
「……あんた、ここの出身か?」
「以前、こちらで暮らしていました。しばらく街を離れていたんです」
「そうか。なら道は分かるな。最近は巡礼の案内所が増えたから、迷ったら聞いてくれ」
「はい。ありがとうございます」
彼女は穏やかに答え、それ以上は何も言わなかった。
門を抜けてから、カルマがこちらへ少し顔を寄せる。
「危うく一等星様の凱旋になるところだったな」
「声だけでは、そう簡単には分からないと思います」
「胸を張って言うなよ。今日は目立たず宿に着きたいんだろ?」
「……ええ。そうでした」
シュテルさんの少し困った声に、思わず笑ってしまった。
◇
街壁の内側には、外から見えなかった生活の音があった。
白い石畳の上を荷車が通り、洗濯物が窓から風に揺れている。香辛料の店の前には小さな行列ができ、魚売りの声が裏通りまで響いていた。
高い鐘楼の下に広がるのは、祈るためだけの街ではない。
シュテルさんは何度か角を曲がりかけ、そのたびに首を傾げた。
「こちらの通りには、以前、小さな菓子屋があったんですけど……」
「今は靴屋みたいだな」
カルマが店先の革靴を指差した。
「そうですね。あのお店の焼き菓子、好きだったんです」
「一等星様にも食いしん坊な時代があったのか」
「今も甘いものは好きですよ」
「じゃあ、宿を取ったら代わりを探そうか」
「……いいんですか?」
「俺も腹減ったし」
結局、そういう理由になさるのね。
わたくしは笑いながら、通りの先に立つ鐘楼を見た。
石畳の隙間に、黄色い小花が咲いている。白い街も、近くで見れば誰かの暮らす場所だった。
「リズさん、こちらです」
シュテルさんが呼んだ。
小さな宿の軒先に、旅人向けの空室札が掛かっている。カルマはすでに扉を開け、主人へ部屋の数を尋ねていた。
わたくしが足を止めていても、二人は宿の前で待っていてくれた。
「何か気になるものでも?」
シュテルさんが尋ねる。
「いいえ。……ようやく着きましたのね、と」
「ええ」
彼女は一度、中央の聖堂がある方へ視線を向けた。
「明日から、確かめることがたくさんあります」
「そうですわね。でも、今日はまず宿を取りましょう。カルマがこのままでは、夕食前に菓子屋を三軒くらい回りそうですもの」
「聞こえてるぞー」
宿の中から声が飛んできた。
「二軒にしといてやるよ!」
「……ほら」
シュテルさんが吹き出し、わたくしも笑った。
港で持ち出した記録も、父の裁判の記憶も、ここへ運んできている。明日になれば、きっとそれらを開くことになるだろう。
わたくしは宿の敷居をまたいだ。
聖都へは、ひとりで来るつもりだった。
今、隣には二人いる。
鐘の音が、白い街の屋根を越えて響いていた。




