第41話 灯を待つ人
旅籠の灯りが見えたとき、私はようやく肩の力を抜いた。
丘を越えてからも街道は長かった。雨上がりの山道は足元が悪く、靴の裏に泥が張りつく。薄暮の中、道の先で橙色の明かりが揺れているのを見つけたのはカルマさんだった。
「お、あれじゃないか。今日の宿」
「……助かりました。もう少し遠いのかと思っていました」
「案内役が言うと不安になるな」
「道を間違えたわけではありません。思っていたより、坂が長かったんです」
「それを普通、見積もりが甘いって言うんだよ」
言い返そうとして、口を閉じた。今日は確かに、私の見積もりが甘かった。
隣でリズさんが外套の裾を持ち上げる。
「では、今夜は早めに休みましょう。カルマも、今日は余計な仕事を引き受けないでくださいね」
「こんな山の中で仕事なんか見つからねえよ」
「あなたなら見つけてしまいそうですもの」
「……一等星様が二人に増えたな。分かった、今夜は休むよ」
そう言いながらも、カルマさんは私たちより先に玄関へ向かった。片手を上げて宿の人を呼ぶ姿には、もう迷いがない。
軒先に吊された木札には〈楡の灯亭〉と書かれていた。巡礼路の山裾にある、小さな旅籠だ。入り口の脇には馬の水桶が二つ。雨に濡れた薪が軒下に積まれ、その奥から煮込み料理の匂いが漂ってくる。
扉を開けると、温かな空気が頬に触れた。
「三人です。泊まれますか?」
私より先に声を掛けたカルマさんへ、帳場の女性が顔を上げた。四十代ほどだろうか。髪をひとつにまとめ、袖を肘までまくっている。
「相部屋でよければ空いてるよ。今日は雨の影響で、みんな遅れてるからね。食事はまだ間に合う」
「ありがたい。俺はもう腹が減ってて」
「カルマさん、まず宿帳を」
「分かってるって」
彼は羽根ペンを手に取り、宿帳の空いている欄へ名前を書き始めた。
リズさんはちらりとこちらを見る。私は小さく頷いた。ここでは彼女の本名を使わない。街道で通してきた〈リズ〉の名で十分だ。
女性は私の外套の留め具を見て、一瞬、目を細めた。
「あなた、教会の方?」
「……以前、こちらの巡礼路に関わっていました」
嘘ではない。ただ、今の立場を説明するには時間がかかる。
「そうかい。なら、道の事情は分かるね。今夜は南の坂で馬車が一台遅れてる。早く着くといいんだけど」
「馬車、ですか?」
「施療院へ向かう巡礼の一行さ。ここで一晩休ませる手筈になってるんだよ」
女性は帳場の端に置かれた紙を指した。〈巡礼者受入表〉という見出しの下に、人数と寝床の割り当てが記されている。
「五人分の寝台と食事は用意したんだけど、まだ誰も来ない。もう暗くなるっていうのにね」
「遅れたら知らせが入る仕組みは?」
カルマさんが尋ねる。
「本当なら峠の祈り場から使いが来るんだよ。でも、今日の昼に届いた紙には、もう〈到着確認済〉と書いてあるんだ」
「……見せていただいても?」
思わず身を乗り出してしまった。
女性は不思議そうにしながらも、紙をこちらへ寄せた。
確かに、五人の欄には一様に印が押されている。人名の脇にあるのは、聖都の施療巡礼で用いられる白い受付印。その下には〈到着確認済〉の文字が添えられていた。
昼に届いた紙だという。けれど、その五人はまだこの宿に到着していない。
「いつも、この印で到着を確認するのですか?」
「前は、実際に泊まった人へ私が印を付けてたよ。近頃は名簿が先に回ってきて、もう全部済んでるんだってさ。便利だと言われればそうなんだろうけど、来てない人まで到着したことにされちゃ困るね」
昨日、巡礼路の案内所で聞いた説明が頭をよぎった。
札の番号と名前を先に送る。そうすれば、聖都での受付が早くなる。
手続きを前倒しすることはできる。でも、それだけでは人の足を速くできない。
「最後に馬車を見た方はいらっしゃいますか?」
「昼過ぎに、坂の下で荷を積んでるのを見た商人がいたね。あの古い南道は、この雨だとひどいぬかるみになるんだよ」
私は窓の外を見た。向かいの丘には、もう影が降り始めていた。
「迎えに行きたいです。まだ道にいるなら、明るいうちに見つけないと」
女性が目を丸くする。
「今からかい? 宿の者を一人出そうと思ってたけど……」
「俺も行くよ」
カルマさんは、宿帳を書き終えたばかりの手を挙げた。
「どのみち道を知ってるやつが必要だろ。あの坂、二つに分かれてたしな」
「リズさん、お願いできますか?」
「もちろんですわ。ですが、まず宿の方に場所を教えていただきましょう。闇雲に歩いても、行き違ってしまいますもの」
彼女の言葉に、私は頷いた。
こういうとき、自分の足が先に動いてしまうのは悪い癖かもしれない。
◇
宿の女性は、私たちに古い道の目印を教えてくれた。
南道の途中にある倒木。そこから先、右手の谷へ下りる細い轍。馬車が通れるのは、その先の緩い坂まで。雨が降ると水が溜まる場所があるという。
「帰りが遅かったら、軒先の灯りを増やしとくよ。迷ったら明かりを頼りに戻っておいで」
「ありがとうございます」
彼女はランタンを二つ貸してくれた。
外へ出ると、先ほどまで温かかった手がすぐに冷えた。山から流れてくる風は湿っていて、草の匂いを運んでくる。
カルマさんは前を歩き、泥の上に残る轍を確かめていた。
「まだ新しいな。車輪の溝が崩れてない」
「分かるのですか?」
「これでも荷の運び屋をやってたからな。あとは馬の足跡が続いてれば、そう外れない」
リズさんは後ろでランタンを高く掲げている。火の揺れに合わせて、濡れた黒髪の先が赤く光った。
「シュテルさん、足元にお気をつけて。こちら側は土が柔らかくなっていますわ」
「はい。ありがとうございます」
言われて確かめると、右足のすぐ横が深く沈んでいた。自分が先頭だったら、気づくのが遅れたかもしれない。
「……私、急ぎすぎていますね」
「急ぐ理由はありますもの。だからこそ、三人で来たのでしょう?」
リズさんは当然のように言った。
返事をする前に、前方から馬のいななきが聞こえた。
「いたぞ!」
カルマさんが坂を駆け下りる。
倒木を回り込んだ先、道の右端で小型の幌馬車が大きく傾いていた。片側の車輪が泥に沈み、荷台の角が低い斜面に引っかかっている。馬は外され、近くの木に繋がれていた。
車体の横には、御者らしい男が一人と、白い布を肩に掛けた女性が立っていた。女性は腕を押さえながら、幌の中へ呼びかけている。
「あと少しだから、じっとしてて!」
「大丈夫ですか!」
私が声を掛けると、女性が振り向いた。
「宿の方ですか? よかった……人を呼びに行こうにも、置いていけなくて」
「山裾の旅籠から来ました。中に何人いらっしゃいますか?」
「私を入れて五人です。御者さんのほかに、足の悪い方が二人と、付き添いが二人。ほかの四人は、まだ中にいます」
五人というのは巡礼者の人数だろう。御者と合わせれば六人。私は話を聞きながら、まず状況を確かめた。
傾いた車体は、急に動かせば危ない。出口側は斜面に向いていて、幌の内側には二人の老人が座り込んでいる。付き添いの男性は、体を支えようとして手すりを掴んでいた。
「中の方々は怪我を?」
「転んだだけだと思うんですけど、おじいさんが立てなくて……」
「分かりました。順番に外へお連れします。急に立たせず、そのままでいてください」
私は車体のそばへ膝をついた。
「お名前を伺ってもいいですか。今からお手伝いしますね」
「……ルーディだよ。足が、ちっとも言うことを聞かなくて」
「ルーディさんですね。私はシュテルです。いま車体を動かさないようにしますから、こちらの声が届くところにいてください」
《ステラ・シールド》を幌の低い側へ展開した。薄く広げた盾を車体の下へ差し込み、重みが斜面へ滑るのを支える。
カルマさんが足場を確かめて近づいてきた。
「こっちの車輪、泥に嵌まってる。後輪の軸はまだ大丈夫そうだが、引っ張る前に人を降ろそう」
「はい。私は中の方を見ます」
「じゃ、俺は車体を押さえる。リズ、そっち頼めるか?」
「ええ。荷台の傾きを抑えますわ」
リズさんの手元から血色の魔札が舞い、荷台の左右に散った。白い盾が受ける重さがわずかに軽くなる。私は幌の中へ手を伸ばした。
「立つのがつらければ、無理をしなくて大丈夫です。ひとりずつお降ろししますから」
付き添いの男性二人を先に降ろし、一人に外側で支えてもらった。それからもう一人の老人を支え、最後にルーディさんを車外へ移す。
膝の力が抜けた彼の体を受け止めた瞬間、腰へずしりと重みがかかった。
「すまんね……」
「謝らなくて大丈夫です。ここへ座りましょう」
泥の少ない木の根元に外套を敷き、ルーディさんを腰掛けさせた。呼吸は速いが意識ははっきりしている。右足首は腫れていて、触れると顔をしかめた。
「少し痛みを抑えます。よろしいですか?」
「ああ。助かるよ」
同意をもらってから、患部を動かさないよう手を添えた。《ヒーリング》の光を薄く巡らせる。怪我の状態を確かめないまま歩かせるつもりはない。急な痛みが落ち着いたところで、添え木を当て、布で固定した。
顔を上げると、荷台の方で木の軋む音がした。
「そっちはどうですか?」
「もう少し。馬を戻す前に、車輪を泥から出すだけだ」
カルマさんは車軸の下へ丸太を差し込み、てこの要領で少しずつ持ち上げていた。ワイヤーが荷台の丈夫な金具から近くの木へ伸び、車体が余計に傾くのを防いでいる。
リズさんは魔札で荷台を支えながら、御者へ声を掛けた。
「今、木の板を車輪の下へ入れます。合図をしたら、ゆっくり馬を引いてくださる?」
「分かった。頼む!」
「……はい、今ですわ」
男が手綱を引く。馬が力を掛けると、泥が音を立てて裂けた。沈んでいた車輪が板の上へ上がり、荷台はゆっくりと水平へ戻っていく。
私はルーディさんの背中を支えたまま、その様子を見守った。
車輪が抜けた瞬間、御者が大きく息を吐いた。
「助かった……。このまま夜になったらどうしようかと」
「宿までは戻れそうか?」
カルマさんが問う。
「ああ。車輪は壊れてない。荷を減らしてゆっくり行けば、大丈夫だと思う」
「ルーディさんは歩かせられません。馬車に乗っていただきましょう」
「もちろんだよ」
私は彼の足をもう一度確かめた。今夜のうちに安静にできれば、まずは落ち着くだろう。ただ、聖都で改めて診てもらう必要はある。
リズさんがランタンを差し出した。
「シュテルさん。馬車にはわたくしも付き添いますわ。行き道と同じように、足元を見てくださる方が必要でしょう?」
「ありがとうございます。お願いできますか」
「もちろんです」
こういうとき、何をしてほしいか細かく説明しなくても伝わる。それが今はありがたかった。
◇
宿へ戻った頃には、空はすっかり暗くなっていた。
〈楡の灯亭〉の軒先には、出発するときより多くの灯りがともっていた。帳場の女性が戸口で待ち、馬車が見えるなり手を振った。
「お帰り! よかった、みんな無事なんだね」
「少し足を傷めた方がいます。寝床を使わせていただけますか?」
「もちろんさ。さあ、こっちへ。湯も沸かしてあるよ」
私たちはルーディさんを運び、濡れた外套を脱いだ。室内に入った途端、火のそばにいた旅人たちが席を空けてくれる。
誰に言われたわけでもない。毛布を運ぶ人、水を汲む人、食事を温め直す人が次々と動き出した。
ルーディさんを寝台へ寝かせたあと、私はようやく一息ついた。
台所の方からカルマさんの声が聞こえる。
「俺の夕飯、まだ残ってる?」
「温めてるところだよ。おかわりもある」
「そいつは良かった。今日は本当に腹が減った」
声に疲れが混じっているのに、相変わらず食事の心配が先だ。私は少し笑った。
リズさんは袖口の泥を払いながら、帳場に置かれた受入表を見つめていた。
「シュテルさん、こちらを」
呼ばれて近寄る。
紙には、最初から押されていた〈到着確認済〉の印が残っている。その横に、宿の女性が新しい字で書き足していた。
『実到着・日没後。南道で馬車立ち往生。五名、全員到着』
「これでいいかい? 上から来た紙も、捨てずに取っておくつもりだけど」
「はい。ありがとうございます。できれば、いつこちらへ届いたかも書き添えていただけますか?」
「昼の鐘が鳴る前だったよ。ちゃんと覚えてる」
女性は別の紙にも日付と時刻を書き、私たちへ見せてくれた。
私は手帳を開いた。
「この記録を、聖都で確かめるために写してもよろしいでしょうか。巡礼者の皆さんのお名前は、許可なく他へ伝えません」
「構わないよ。役に立つなら、持っていっておくれ。ただし、私の宿で誰かを見捨てたみたいには書かないでよ」
「そんなことはしません。今夜、皆さんを待っていてくださったことも記録します」
女性はほっとしたように頷いた。
受入表の数字は正しかった。五人の巡礼者は確かに、ここへ来る予定だった。
けれど〈到着確認済〉の印が押された時刻には、五人ともまだ泥の中にいた。
もし、誰も彼らを探さなかったら。
そのとき聖都へ送られる報告は、「五人全員、到着済み」のままだったかもしれない。
「私、以前はこの印を見るだけで安心していた気がします」
小さく呟くと、リズさんが顔を上げた。
「何か、思い当たることが?」
「いいえ。審問官として仕事をするときは、現場に行く前に書類を読むことも多かったので。確認済みと書かれていれば、その通りだと思っていたかもしれません」
「でしたら、これから確かめればよろしいのではなくて?」
リズさんの声は、穏やかだった。
「書いた人が悪いと決めつける必要もありませんし、書かれていることだけを信じる必要もありません。今夜は、実際に会いに行けましたもの」
私は頷いた。
巡礼者の一行が無事だったことと、書類の扱いがおかしいことは、別々に考えればいい。もう、それを混同しない。
◇
遅い夕食を終えると、宿は少しずつ静かになった。
ルーディさんは足を高くして横になり、付き添いの人も隣で眠っている。御者は馬の様子を見に行ってから、暖炉の前でうとうとし始めた。
私は宿の裏口から外へ出た。
山の斜面には、灯りが点々と続いている。街道の宿や祈り場だろう。湿った風に混じって、遠くから鐘の音がひとつ聞こえた。
聖都へ近づいている。
知っているはずの道なのに、今は知らないものが増えていくように感じた。
「こんなところにいたんですのね」
振り向くと、リズさんが戸口に立っていた。手には小さな湯呑みが二つある。
「温かいお茶です。まだ眠れそうにありません?」
「ありがとうございます。……少し、考え事をしていました」
「教会のこと?」
「はい」
湯呑みを受け取る。指先がじんわりと温まった。
「祈り場にも、施療院にも、私の知っている人がたくさんいます。今日の宿の方みたいに、誰かを助けるために働いている人たちも。……それなのに、どこで何が変わったのか、分からないんです」
「何もかも知っている方が、不自然ですわ」
「そうでしょうか」
「ええ。わたくしだって、自分の家が守っていたものを、すべて理解していたわけではありませんもの」
リズさんはそう言って、お茶をひと口飲んだ。
私も湯気の向こうを見つめる。
「……聖都へ着いたら、まず何を確かめましょう」
「巡礼札の扱いでしょうね。今日のお宿で写した記録がありますし、仕組みを知っている方から話を聞きたいですわ」
「私は、施療院の人にも直接会いたいです。患者さんが本当に到着したか、何をもって確認しているのか」
「では、別々に調べるより、最初は一緒に参りましょうか」
「はい。その方がいいと思います」
いつの間にか、二人で次の日の予定を立てていた。
カルマさんはどうするだろう。
そう思ったところで、背後から声がした。
「先に寝るぞー。明日も歩くんだろ?」
戸口から顔を出したカルマさんが、欠伸を噛み殺している。
「ええ。もう少ししたら戻ります」
「夜中にまた誰かを探しに行くなら、今度は先に起こしてくれよ」
「そのときはお願いします」
「そこは『行きません』じゃないのか」
リズさんがくすりと笑った。
「カルマ。お二人で出掛けるなら、あなたにも声を掛けますわ」
「それ、俺が参加する前提なんだな」
「違いまして?」
「……まあ、そうだな。おやすみ」
彼はそれ以上何も言わず、中へ引っ込んだ。
私たちも、湯呑みが空になる前に宿へ戻った。
暖炉にはまだ火が残っていた。今夜の巡礼者たちは、ちゃんとここにいる。
その姿を目で確かめてから、私は部屋へ向かった。
明日も聖都へ向かって歩く。
いまは、目の前の道を三人で進むことができる。




