第40話 札だけが先に行く
雨で通れなくなった橋を迂回し、3人は巡礼路へ戻ります。今回はカルマ視点。旅の途中で見つけた巡礼札の疑問が、少しずつ形を持ち始めます。
川の音で目が覚めた。
作業小屋の戸口から、冷たい朝の空気が流れ込んでいる。雨は上がっていたが、窓の外にはまだ霧が残っていた。
俺は外套を肩へ掛け直し、板の上に並べた靴を確かめた。昨夜のうちに泥を落としておいたおかげで、革はだいぶ乾いている。
「おはようございます、カルマさん」
振り向くと、シュテルが小さな鍋を火から下ろしていた。髪を結ぶ青いリボンが、朝の薄明かりで淡く見える。
「早いな。何時から起きてた?」
「少し前です。橋を見に行った方が戻られたので、温かいものを用意しておこうと思って」
「偉い偉い。俺なんか、もう一度寝るか本気で悩んでたぞ」
「悩む前に起きてください」
声は穏やかだが、返事は容赦がない。
奥ではリズが畳んだ毛布を積んでいた。昨日、入口に張っていた雨除けの布も取り外され、きちんと折り目が揃っている。
「おはようございます、カルマ。眠れました?」
「ああ。川がうるさかった割にはな。リズこそ早いじゃないか」
「皆さまからお借りしたものを、元に戻しておりましたの。今日は出発できますでしょう?」
「上流の橋なら渡れるってさ」
答えたのは、ちょうど戸口から顔を出した御者の男だった。
「村の連中が朝一番で見てきてくれた。道はぬかるんでるが、馬車でも通れる。昼までには向こう岸だろうよ」
「助かりますね。エルナさんたちも一緒に?」
シュテルの問いに、男は奥で眠る母娘へ視線をやった。
「もちろん。俺の荷車に乗せるって約束したからな。荷を少し詰め直しゃ、母娘の座る場所くらい作れる」
「ありがとう。助かるわ」
メルタが娘を起こさないように立ち上がった。目の下には疲れが残っているが、昨日より表情が明るい。
あの親子がこれで聖都まで行けるとは限らない。それでも、今日の道が決まっただけで、ずいぶん安心できるらしい。
俺も人のことは言えない。行き先が決まっている旅は、そうでない旅よりずっと歩きやすい。
◇
上流の橋へ続く道は、思った以上に細かった。
雨に削られた轍を避け、荷車は何度も速度を落とす。片側は雑木林、反対側には草の生えた斜面が続いていた。濡れた葉が朝日を弾き、土からは青臭い匂いが立っている。
俺たちは荷車と並んで歩いた。
エルナは荷台の前寄りに座り、母親の膝に足を乗せている。シュテルが昨夜巻き直した布は、まだ綺麗だった。
「お兄ちゃん、あの馬、名前あるの?」
突然声を掛けられた。
「俺じゃなく、御者のおっちゃんに聞いてみな」
「おっちゃん、馬の名前は?」
「ベルだよ」
「ベル?」
「ああ。鈴を鳴らしても驚かないからな」
エルナは少し考え、それから俺の腰を指差した。
「お兄ちゃんのも、ベル?」
黒い外套の下には《赤鐘》がある。どうやら昨日、銃帯を直したときにちらりと見えたらしい。
「俺のはベルって名前じゃないな」
「じゃあ、何?」
「赤鐘。赤い鐘って書くんだ」
「鳴るの?」
「そりゃもう、大きな音がする」
「お馬さんがびっくりしちゃう」
「そうだな。だから今日は鳴らさない」
そう答えると、エルナは満足したように頷いた。
隣を歩いていたリズが、口元を押さえている。
「何がおかしい?」
「いいえ。あなたがそんなに丁寧に説明するとは思いませんでしたの」
「子供相手に銃の講義を始めるわけにもいかないだろ」
「それはそうですね。特に馬の隣では」
シュテルまで加わった。
「……二人とも、俺を何だと思ってるんだ?」
「鐘を鳴らす前に、周囲をよく見る人ですわ」
リズがそう言って笑ったので、妙に言い返しにくくなった。
やがて林が途切れ、川を渡る古い石橋が見えた。
橋脚は太く、昨夜見たものよりずっと高い。水面はまだ濁っていたが、橋の上を商人の荷車が普通に行き来している。
御者が手綱を引く。
「ここまで来りゃ大丈夫だ。あとは聖都への大きな道に戻るだけさ」
エルナが身を乗り出そうとしたので、メルタが慌てて肩を抱いた。
「危ないから、座っていようね」
「うん」
橋を渡るあいだ、少女は素直に川を眺めていた。
◇
巡礼路に合流したのは昼前だった。
道幅が広がり、両側には距離を示す石柱が立っている。巡礼者のための休憩所も増え、白い札を胸に下げた人々が、荷物を抱えて北へ歩いていた。
その一角に、見慣れない列ができていた。
屋根付きの仮設台に、白い布。看板には〈施療巡礼・案内受付〉と書かれている。順番待ちの旅人たちは、胸から札を外して手に持っていた。
「ここでも受け付けをしてるのか」
俺が呟くと、シュテルは足を止めた。
「……少し確認したいです」
「あの印のことですの?」
リズが声を落として尋ねる。
「はい。もし新しい制度なら、私も知っておきたいので」
メルタも列を見つめていた。
「エルナの札、ここで何か手続きがいるんでしょうか」
「聞くだけ聞いてみよう。並んでるあいだは俺が荷物を見てる」
御者は馬を休ませるため、道端の水場へ向かった。俺は親子の荷袋を持ち、三人と一緒に案内台へ近づいた。
受付にいたのは、俺とそう歳の変わらなさそうな男だった。袖をまくり、積み上がった紙を忙しそうに捌いている。聖職者の衣ではなく、白い腕章だけをつけていた。
「聖都の施療院へ?」
「ええ。この子の足を診てもらいたくて」
メルタが答える。
「巡礼札を見せてください。ああ、もう先行受付がお済みですね」
男は札の裏へ視線を落とし、台帳をめくった。
「番号とお名前を確認します。……メルタさんとエルナさん。間違いありませんか?」
「はい」
「では、こちらに印を。聖都までの途中に、病人を先に運ぶ馬車が出ています」
男が指した先には、小さな屋根付きの荷車が二台停まっていた。毛布が積まれ、御者のほかに白い前掛けの女性が一人乗っている。
「それなら、娘を乗せていただけますか?」
「ええ。ただ、優先便は患者さんだけなんです。お付き添いの方は一般の巡礼路から来ていただくことになります」
メルタの手が止まった。
「……私とは別々に?」
「施療院で合流できますよ。通常の便より先に着けますし、向こうで受け入れる手筈になっていますから」
説明する男に悪気はなさそうだった。むしろ、少しでも多くの患者を運ぶために忙しくしている顔だ。
それでも、メルタの表情は暗くなった。
エルナが母親の外套を掴む。
「お母さんと一緒がいい」
「……ええ。私もそうしたいわ」
男は困ったように台帳を見た。
「でも、せっかく先行受付が通っているんですよ。次の便は夕方までありませんし」
「ちょっといいか?」
俺は横から声を掛けた。
「その先行受付ってのは、本人が聖都に着く前に受け付けてるって意味か?」
「はい。札の番号と名簿を先に送って、施療院での確認を早くする仕組みです」
「なるほど。船荷の送り状と似てるな」
男は少し嬉しそうに頷いた。
「ええ、そういうものです。道中で時間がかからなくなります」
「じゃあ確認。これに申し込んだ覚えがない人でも、印があれば先行受付済みになるのか?」
「それは……札を発行した祈り場で、説明を受けていらっしゃるはずですが」
メルタが首を振った。
「説明されたのは、施療院での受付が早くなるということだけです。娘と離れるとは聞いていません」
受付の男が眉を寄せた。
「それは困りましたね……。あちらでは患者さんだけの便を想定していますので」
「困るのはこの親子だろ。あんたを責めてるんじゃない。普通の道を行けば、その札はまだ使えるのか?」
「ええ。一般の順番で構わなければ、問題はありません」
「だったら、選ぶのは二人だな」
メルタを見た。
迷いはあったと思う。娘の足を早く診てもらいたい。それでも、見知らぬ馬車へ一人で乗せることには抵抗がある。
「……エルナ、どうしたい?」
「お母さんと行く」
母親は頷いた。
「では、私たちは一緒に行きます。普通の道で大丈夫です」
「承知しました。到着後は札を窓口へお出しください」
男はそれ以上引き止めなかった。
シュテルは親子が荷袋を持ち直すのを待ってから、受付台へ一歩近づいた。
「もう一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい、何でしょう」
「こちらの印ですが、以前は聖都の施療院で、実際に受付を終えた方へ押していたものに似ています。今は先行受付にも使っているのでしょうか?」
男は札を見直した。
「印の使い分けまでは、俺も詳しくないんです。ここには上から届いた名簿を渡されていて。札の番号が載っていれば、それで受け付けるようにと」
「名簿は、どちらから?」
「祈り場から集められたものを、聖都でまとめてるそうです。俺たちは番号が合うか確認するだけで……」
彼は申し訳なさそうに、積まれた紙を見た。
「もっと詳しい担当者が夕方には戻りますが、お待ちになりますか?」
「いいえ。お忙しいところありがとうございました」
シュテルは頭を下げた。
俺も軽く手を挙げ、台から離れた。
◇
「……何かおかしいんですか?」
水場へ戻る途中、メルタが小さな声で尋ねてきた。
「まだ、分かりません」
シュテルはそう答えた。
「ただ、以前と印の使い方が変わっているようなので、聖都で調べてみたいと思っています。今のところ、札をお持ちであること自体に問題はありません」
「そうですか……」
「心配なさらないでください。まずはエルナさんの足を診てもらうことを優先してくださいね」
母親は頷き、娘を抱えて荷車へ戻った。
御者は干し草を束ね直していた。
「どうした、乗せてもらえそうだったか?」
「優先便は子供だけらしい。二人とも一緒がいいってさ」
「そりゃそうか。うちの荷車なら、まだ席は空いてるよ」
「助かる。頼むな」
男は気軽に手を振った。
出発の支度ができるまで、俺たちは木陰で待つことにした。
リズは水筒を開け、喉を潤している。シュテルは、受付で聞いた説明を手帳へ書き留めていた。
「先に送るのは、札の番号と名前だけ……ね」
俺の呟きに、リズが顔を上げた。
「何か気になりますの?」
「いや、仕組み自体は分かるんだよ。港でも、船が着く前に荷の書類を回すことはある。着いてから全部数えてたら、日が暮れちまうからな」
「合理的ですわね」
「そう。ただし、書類が先に着いたからって、荷物まで届いたことにはならない」
シュテルが筆を止めた。
「……施療院で受付を終えた印を、まだ着いていない人に使っている。そこが気になるんですね」
「それもある。それに、本人が何を承諾したか、案内所じゃ確かめようがなさそうだった」
「ええ。ですが、あの受付の方がすべてを知っているとも思えません」
シュテルの言い方には、少し疲れが混じっていた。
リズが手帳を覗く。
「祈り場での説明、先行受付の印、聖都へ送る名簿。調べる場所は少し絞れましたわね」
「《ローズ・リスト》を使うのか?」
「必要になれば。ですが、まず確認したいのは教会の手続きです。誰がどの名前を記録したのか、という問題とは分けて考えませんと」
「なるほどね。じゃ、今は見て聞いたことを持っていけばいいか」
「ええ。あの方たちの名前を、勝手に調査資料へ広めるわけにもまいりませんし」
リズはそう言って、水筒の蓋を閉めた。
港でも似たような話をした。
誰かの名前は、知ったやつが好き勝手に扱っていいものじゃない。そのことを、今は三人とも説明なしで分かっている。
「カルマさん」
シュテルが顔を上げた。
「さっき、助かりました。私だけでは、印の話から先に聞いてしまったかもしれません」
「礼ならメルタさんに言ってくれ。俺は船荷の話しかしてない」
「でも、あの方がどうしたいか、先に聞いてくださいましたから」
「……ま、子供があれだけ嫌がってたしな。無理に乗せても後が大変だろ」
そう返すと、リズが少し笑った。
「わざわざ実務的なお話に戻さなくてもよろしいのに」
「現場の話だよ。そこを怠ると面倒なんだ」
「では、そういうことにしておきますわ」
二人とも、そこで追及をやめてくれた。
たまにはありがたい。
◇
別れたのは、午後になってからだった。
荷車は巡礼路の脇にある宿坊へ向かう。メルタたちはそこで一泊してから、同じ御者と聖都を目指すという。俺たちは、その先の山裾にある旅籠まで歩くことにした。
エルナが荷台から身を乗り出した。
「お兄ちゃん!」
「何だ?」
「赤い鐘、鳴らさないでね!」
「分かってるって。馬がびっくりするからな」
少女は満足したように手を振った。
メルタが何度も礼を言うので、俺はさっさと歩き出した。こういうとき、どう受け取ればいいか今ひとつ分からない。
少し進むと、リズが横に並んだ。
「鳴らさないお約束、守れそうですか?」
「襲われなきゃな」
「……それは、あまり安心できるお返事ではありませんわね」
「聖都に入るまで、平和であってほしいとは俺だって思ってるさ」
シュテルが後ろから追いついてきた。
「それなら、銃以外で解決できる問題は、できるだけそうしましょう」
「今日だって撃たなかったろ?」
「ええ。とても助かりました」
「まさかそんなことまで褒められる日が来るとはな」
リズがくすりと笑った。
街道はここから緩やかな登りになっていた。雨雲の切れ間から日が差し、遠い丘の上に、白い石でできた巡礼標が見える。
その向こうに、聖都がある。
シュテルの歩幅が少し小さくなった。
「疲れたか?」
「いえ。あの先から、昔よく通った道なんです」
彼女は石柱の方を見た。
「子供の頃は、聖都を出るときも戻るときも、必ずあそこで祈るように言われていました」
「帰ってきたらお礼を言う、とか?」
「ええ。無事に道を歩けたことへの感謝です。……それ自体は、今でもいい習慣だと思っています」
リズは先に進まず、シュテルの隣へ立った。
「では、少し立ち寄りましょうか」
「でも、急がないと旅籠に着くのが遅くなりますよ」
「大丈夫ですわ。この程度の寄り道なら、日が暮れる前には着きますもの」
「俺も賛成。せっかくだし、案内してくれよ」
シュテルは俺たちを交互に見てから、頷いた。
「……はい。こちらです」
巡礼標の足元には、誰かが置いていった小さな花があった。雨で花弁は濡れていたが、石のくぼみに守られて散らずにいる。
シュテルは膝をつき、静かに目を閉じた。
俺は何もしなかった。リズも隣で黙って待っている。
しばらくして、シュテルが立ち上がる。
「お待たせしました」
「いや。何を祈ってたんだ?」
「無事にここまで来られたことです。それと、これから会う人たちのことを少し」
「俺たちのことも?」
「もちろんです」
「そいつはありがたい」
シュテルはほんの少し笑った。
俺は石柱の向こうへ目を向けた。白い街道が丘の稜線を越え、その先で見えなくなっている。
シュテルが石段を下りると、リズは外套の裾についた草を払ってやった。二人がまた道へ戻るのを待っている自分に気づき、俺は少しだけ笑った。
「カルマ?」
リズに呼ばれた。
「どうした?」
「そろそろ参りましょう。あなたが一番、日暮れを気にしていらしたでしょう?」
「ああ、そうだった。ほら、一等星様も。置いてくぞ」
「そんなに急ぐなら、最初から寄り道しなければよかったのでは?」
「それを言うなって」
三人で笑いながら、石柱を離れた。
聖都の手前には、まだいくつもの宿と祈り場があるらしい。
その一つ一つで、白い札を下げた誰かとすれ違うことになる。
あの受付の男は、番号と名前を先に送れば便利だと言った。確かにそうだろう。俺だって港で同じようなことをしてきた。
だが、帳面に名前が載っただけじゃ、本人が無事に目的地へ着いたことにはならない。
そんな当たり前のことを、聖都の連中が忘れていなければいいんだが。
俺は外套の裾を直し、二人の歩調に合わせて坂を上った。




