第39話 雨の分かれ道
聖都へ向かう道中、3人は雨で通れなくなった橋に足止めされます。
レーヴァを発つ朝、広場から大砲の音は聞こえなかった。
代わりに、屋根を打つ雨の音がしている。
「昨日のうちに降ってくれれば、芝居も中止になったかもしれないのにな」
食堂でカルマが窓の外を眺めながら言った。
「残念でしたわね。あなたの勇姿をもう一度拝見できたでしょうに」
「俺の勇姿って、あの大砲を引きずるやつか?」
「ええ。たいそう重そうでしたわ」
「ご本人よりも装備の方が強そうでしたね」
シュテルさんまで口を挟んだので、カルマは匙を持ったままわたくしたちを見比べた。
「……お前ら、まだそれで笑えるのか」
「長く楽しめる芝居だったということですわ」
そう答えると、シュテルさんはとうとう小さく吹き出した。
昨夜はあれほど真面目に今後の旅程を相談していたというのに、今朝の話題はずっと大砲である。困ったものだと思いながら、わたくしも口元を隠した。
朝食を終え、宿の主人から雨除けの布を借りた。返却は同じ街道を通る商人に託せばいいという。代金を払おうとすると、主人は首を振った。
「昨日、芝居の兄さんたちがえらく喜んでいてね。あんたたちのおかげで今夜の客も増えそうだってさ」
「それなら、代金くらい取っておけばよかったな」
「カルマ」
シュテルさんが名前を呼ぶと、彼は笑って両手を上げた。
「冗談だって。ありがたく借りるよ」
わたくしは布を畳んで鞄へ収めた。
お礼を言って宿を出る。石畳には薄い水が流れ、空は低い雲に覆われていた。旅人の多くは雨が止むのを待っているらしい。通りには、荷を積んだままの馬車が数台停まっている。
「出発を遅らせますか?」
シュテルさんが尋ねた。
「今の雨なら歩けるだろ。先の道が悪くなる前に出たい」
カルマは空を見上げた。
「ただ、橋の具合は気になるな。昨日、荷馬車の御者が水かさが増えてるって話してた」
「でしたら、途中で状況を見て決めましょう。無理に渡る必要はありませんわ」
答えながら、わたくしはフードを深くかぶった。
わたくしたちには聖都へ急ぐ理由がある。けれど、急いで怪我をすれば、それこそ目的地が遠くなる。
「珍しいな。リズが予定を一日ずらしてもいいなんて」
「わたくしだって、毎回予定どおりに進めるとは思っておりませんのよ」
「買い物のときは一分刻みだっただろ」
「あれは市場での効率を考えた結果です」
「はいはい。街道には卵屋もいないしな」
シュテルさんが、今度は隠さず笑った。
◇
宿場町を離れると、道はゆるやかな下り坂になった。
畑の端に水が溜まり、草の先から滴が落ちる。雨に濡れた土は靴裏へまとわりつき、歩くたびに重くなった。
それでも、巡礼者の姿は少なくない。
杖をついた老人。荷物を分け合って運ぶ夫婦。小さな子を背負った父親。みな外套の胸元に、白い札を下げていた。
薄い板に銀色の文字が刻まれ、その下に紐が通されている。聖都へ向かう巡礼者の証だろう。
「だんだん増えてきましたね」
シュテルさんが道の先を見た。
「この辺りから、各地の巡礼路が一本にまとまるんです。聖都へ入るまで、しばらく人通りが多いと思います」
「出入口が限られているのでしょうか」
「大きな門は幾つかありますが、施療院を目指す方は北側へ集まります。宿坊もそちらに多いので」
「なるほどな。俺たちも人混みに紛れるには都合がいい」
カルマの声は軽かったが、視線は行き交う旅人を確かめていた。
わたくしの公名は戻っていても、王国からの手配が消えたわけではない。今はリズと名乗り、外套の下に髪を隠している。往来が増えるほど目立ちにくくなる一方、誰が手配書を知っているかも分からなくなる。
小さな石橋が見えてきたのは、昼前だった。
橋の手前に人が集まっている。荷車が二台、横へ寄せられ、その周りを雨具姿の旅人が取り囲んでいた。
「何かあったみたいですね」
「見てくる」
カルマはそう言いかけ、こちらを振り返った。
「……いや、三人で行くか」
「もちろんですわ」
わたくしたちは集団へ近づいた。
橋の中央に、太い木の柵が渡されている。石造りの橋脚は残っていたが、橋面の片側が崩れ、川の上へ張り出していた。濁った水がその下を勢いよく流れている。
柵の前には、雨に濡れた上着の男が立っていた。
「すまんが、今日は通せないよ。夜のうちに護岸が崩れたんだ。向こう岸まで足場が持つか分からん」
「歩くだけなら渡れるんじゃないか?」
誰かが尋ねると、男は首を振った。
「さっき、石が一つ落ちた。俺の目の前でな。人を渡した後で落ちたら、誰が責任を取る?」
ごもっともだった。
橋を渡れない旅人の一人が、泣き出した子供を抱き直す。荷車の御者は馬をなだめながら、何度も空を見上げている。
カルマが柵の根元へしゃがんだ。
「迂回路は?」
「上流に石橋があるが、ここから歩いて半日だ。雨のままだと夕方までかかるかもしれん」
「この橋は誰が管理してる?」
「村の組合だよ。今朝、人を呼びにやった。直すにしても、今日は無理だろうな」
男の口調には、苛立ちより疲労が滲んでいた。朝から同じ説明を繰り返しているのだろう。
「仕方ないですね。上流へ回りましょうか」
シュテルさんはわたくしを見た。
「ええ。道を確かめてから――」
そこで、橋のたもとから小さな咳が聞こえた。
荷車の陰に、母娘らしい二人が座っていた。母親は膝に外套を広げ、その下に女の子を入れている。子供はまだ幼く、足首に白い布を巻いていた。
シュテルさんも気づいたらしい。
「お子さん、寒そうですね」
彼女は二人の前にしゃがみ、母親と目を合わせた。
「もしよろしければ、雨の当たらない場所へ移りませんか? 近くに休める建物がないか、聞いてきます」
母親は少し迷ってから答えた。
「娘の足が腫れていて、あまり歩かせられないんです。聖都の施療院まで連れていこうと思ったんですが……」
「触れても構いませんか?」
母親が頷き、娘にも尋ねる。女の子は小さく頷いてから、布を少し持ち上げた。
シュテルさんはそっと状態を確かめた。わたくしの位置からは、足首の外側が赤くなっているのが見えた。
「足首が腫れていますね。濡れた靴を脱がせて、今日は無理に歩かせないようにしましょう」
少女は母親の袖を握り締めた。
「……今日、着かないの?」
母親が答える前に、シュテルさんは少女の目を見た。
「今日は難しいかもしれません。でも、まずは暖かい場所で休みましょう。その後で、一緒にどうするか考えませんか」
「……うん」
無理な約束はしない。その言い方が、いかにも彼女らしかった。
母親はメルタ、少女はエルナという名だった。わたくしも、リズとだけ名乗った。
◇
橋を管理している男に事情を尋ねると、少し離れた畑のそばに、使っていない作業小屋があるという。
「屋根はあるけど、中は何もないぞ。それでもよければ鍵を開ける」
「十分ですわ。ありがとうございます」
「ただし、火は土間で焚いてくれ。古い藁が残ってるからな」
男は柵の前に別の村人を呼び、小屋へ案内してくれた。
濡れた木戸を開けると、乾いた土と藁の匂いがした。壁際には古い道具と空の木箱が積まれている。雨漏りもなく、床の半分には板が敷かれていた。
わたくしたちだけなら、今から上流へ回ればいい。
けれど、橋のそばにはまだ何人も旅人が残されている。皆が今夜中に迂回路を歩けるわけではない。
「少しここを片づけましょうか」
わたくしが言うと、カルマは袖をまくり始めた。
「箱は俺が動かす。リズは入口の布、頼めるか?」
「承知しましたわ」
「私はあの子を連れてきます。お母さんにも、こちらへ移ってもらいますね」
シュテルさんが外へ出ていった。
いつものことながら、役割が決まるまでに時間がかからない。
わたくしは借りた雨除けの布を取り出した。入口に吊れば、吹き込む雨を少しは防げるだろう。
カルマが木箱をどけているあいだに、《ブラッドアルカナ》を二枚だけ呼び出す。札から伸ばした細い血糸を梁に通し、布の端を留めた。
木戸を閉めても指先ほどの隙間があったが、風はほとんど入らなくなった。
「相変わらず便利だな、それ」
「雨除けに用いるのは、少々贅沢でしょうか」
「いいんじゃないか? 濡れたら紙束まで駄目になるんだろ」
「……そうですわね」
わたくしは荷袋の底にある帳面を思い出した。大事な記録を守るために使う術式なら、雨に濡れる子供を守るために使ってもよいはずだ。
カルマは木箱を重ねて長椅子を作り、破れかけた一枚には上から板を渡した。手際がよい。置き場所も、人が通る幅を残してある。
「ずいぶん慣れていらっしゃいますのね」
「仮住まいは得意なんだよ。長居したいわけじゃないけどな」
「褒めておりますのよ」
「分かってる。珍しいから驚いただけだ」
「まあ」
顔を上げると、彼は先ほどの芝居を思い出したのか、わざとらしく片肩をすくめた。
反論する前に、戸口から声がした。
「お二人とも、少し手を貸してください」
シュテルさんが母娘を連れてきていた。その後ろには、年配の夫婦と荷車の御者もいる。
カルマはメルタさんの荷物を引き受け、娘を抱える彼女が足元を滑らせないよう、小屋の奥まで案内した。シュテルさんはエルナの濡れた布を替え、持っていた乾いた毛布を掛ける。
わたくしは湯を沸かすための鍋を借りに外へ出た。
◇
小屋の前に人が増え始めたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
迂回路へ向かう者もいれば、雨が弱まるまで待つ者もいる。村人が薪と水を持ち寄り、旅人たちは空いている場所へ自分の荷物を寄せた。
わたくしたちがすべてを取り仕切る必要はなかった。
橋の管理をしていた男が、誰が迂回路を案内できるか話し合い、荷車の御者は馬を休ませる場所を確保する。料理のできる女性が、持ち寄った食材で薄い汁物を作り始めた。
何が必要かを尋ねれば、案外、できることを知っている人が多い。
「リズさん、こちらのお鍋を見ていただけますか?」
声を掛けたのは、メルタさんだった。少女が毛布にくるまったまま眠ったので、ようやく台所を手伝えるようになったらしい。
「ええ。どうされました?」
「火を弱めたいんですけど、薪を抜くと煙が出そうで……」
「でしたら、鍋の方を少し離しましょう。下に石を足せばよいかしら」
「助かります」
わたくしは火から鍋を移し、温めていた野菜を確かめた。人参は大きさがばらばらで、芋はところどころ皮が残っている。
以前なら切り直したくなったかもしれない。
けれど、少し不揃いな方が、今はずっとおいしそうに見えた。
「味見をお願いします」
メルタさんから木匙を受け取って口へ運ぶ。薄い塩味の向こうに、野菜の甘みがあった。
「ええ。十分おいしいですわ」
「よかった」
そこへカルマが顔を出した。
「味見係なら俺も――」
「お昼まで取っておくお約束でしたよね」
いつの間にかシュテルさんが後ろに立っている。
「昨日の干し林檎と同じ話かよ」
「今日も同じことをなさるからです」
メルタさんが笑い、カルマもつられて笑った。
小屋の空気が、少し明るくなった気がした。
◇
夕方前には雨が弱まり、窓の外に川面が見えるようになった。
少女はまだ歩けなかったが、顔色は朝より落ち着いていた。母親は明日、迂回路を行く荷車へ一緒に乗せてもらえることになったらしい。御者が快く申し出てくれたという。
「本当に、ありがとうございます」
メルタさんは何度も頭を下げた。
「わたくしたちだけでは何もできませんでしたわ。橋の方も、御者の方も、皆さんが手を貸してくださいましたもの」
「でも、お三方が最初に声を掛けてくれなかったら、ここに来ることもできませんでした」
そう言われると、どう返してよいか迷ってしまう。
隣にいたシュテルさんが微笑んだ。
「無事に休めてよかったです。今夜は足を高くして、できるだけ動かさないでください。痛みや腫れが強くなるようなら、早めに診てもらってくださいね」
メルタさんが頷いた。
「聖都で受け付けてもらえるといいんですが……」
メルタさんは胸元に下げた白い札を指でつまんだ。
「これを持っていけば、施療院へ入れるんですよね?」
「巡礼札ですね。見せていただいても?」
シュテルさんが尋ねると、母親は札を外して差し出した。
裏には小さな四角い印が押されている。わたくしには文字がほとんど読めなかったが、シュテルさんは指先を止めた。
「これは……どちらで受け取ったんですか?」
「レーヴァに入る前の祈り場です。娘の足が悪いと話したら、受付が早くなるからって」
「お名前は尋ねられましたか?」
「ええ。私と娘の名前を。その場で書いてもらいました」
シュテルさんは札を裏返し、もう一度印を見た。
「何かおかしいのですか?」
わたくしが尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。
「この印は、私がいた頃は聖都の施療院で使っていたものに似ています。来院した方の受け付けが済んでから押す印です」
「ということは、もう受け付けられているのか?」
カルマが横から覗く。
「それなら、この方たちには助かる話ですけど……私はまだ聖都へ着いていません」
メルタさんが不安そうに札を握った。
シュテルさんはその手を見て、声を和らげた。
「今は出張窓口があるのかもしれません。私の知らない手続きが増えた可能性もありますから、この札が間違っているとは言い切れません」
「じゃあ、持っていっても大丈夫ですか?」
「はい。捨てずに持っていてください。ただ、ほかに渡された紙があれば、それも一緒に保管してくださいね」
「分かりました」
メルタさんは少し安心したように頷いた。
母娘が小屋の奥へ戻ってから、わたくしはシュテルさんに近づいた。
「気になっているのでしょう?」
「……ええ。出張窓口なら、窓口名が書かれているはずなんです。それがありませんでした」
「後から制度が変わっただけかもしれませんわ」
「そうだといいんですが」
シュテルさんは濡れた外套の袖を整えた。
わたくしは懐から小さな帳面を取り出し、メルタさんが話した祈り場の位置と札の印について書き留めた。ここで《ローズ・リスト》を開いても、彼女たちがどの窓口で何を説明されたかまでは分からない。
教会の受付を知らぬ間に変えた者がいるのか。それとも、本当に新しい仕組みができただけなのか。
確かめるのは、聖都へ着いてからでよいだろう。
◇
その夜、わたくしたちも小屋の板間で休むことになった。
川が増水したせいで迂回路までぬかるんでいるという。日の落ちた道へ無理に出る理由もない。
入口の布を確かめると、《ブラッドアルカナ》を手元へ戻した。濡れた梁には糸の跡も残らない。
カルマは窓のそばに腰掛け、靴を脱いで泥を落としていた。
「今日、結局どれくらい進んだんだ?」
「川の手前までですわね」
「距離だけなら、昨日の方が歩いたなあ」
「明日は上流の橋まで行けると思います。母娘の方たちも荷車に乗れますし」
シュテルさんが乾いた布を畳む。
「お前たち、あの子のことずいぶん気にしてたな」
「気にならない方が難しいでしょう」
カルマは泥の落ちた靴を並べた。
「いや、そういう意味じゃない。渡れない橋を見たとき、俺はまず迂回路を探した。お前たちは、あそこで動けなくなってる人を見たんだなと思ってさ」
「カルマだって、すぐ小屋を片づけてくださいましたわ」
「場所が決まればやることは分かるからな」
「それを、わたくしたちは頼りにしておりますのよ」
言い終えてから、少し照れくさくなった。
カルマは靴を片方持ったまま、妙な顔をした。
「……最近、素直だな。どうした?」
「礼を申し上げただけでしょう?」
「そうだけどさ。もう少し嫌味が返ってくると思ってた」
「では、その泥だらけの靴を今すぐ外へ出していただけるかしら。せっかく床を拭いたのに」
「はいはい。いつものリズだ」
彼が靴を抱えて外へ出ると、シュテルさんがくすりと笑った。
「……明日は私たちも早めに起きましょうか」
「そうですわね。橋を渡り直すのに、また随分と時間がかかりそうですもの」
小屋の隅では、少女が母親の隣で眠っていた。
その外套の上に、白い札が置かれている。
ここへ来たとき、わたくしたちはあの札をただの旅の目印だと思っていた。
明日になれば、また別の札を下げた人々とすれ違うのだろう。
シュテルさんは、まだその印のことを考えているかもしれない。
でも、今夜は深追いするつもりはなかった。目の前の人が眠れたのなら、まずはそれでよい。
雨が上がると、川の音がよく聞こえるようになった。
わたくしは毛布を引き寄せ、明日歩く道を思い浮かべた。
少し遠回りになる。
それでも、三人で歩いていけばよい。




