第38話 黒薔薇は舞台に上がらない
聖都を目指してハルム村を発った3人。次の宿場町で、思いがけず自分たちを題材にした旅芝居に出会います。今回はカルマ視点です。
ハルムを出るとき、エダが包みを三つ渡してくれた。
「昨日の残りですけど、街道で食べてください」
中身は固焼きのパンと干し林檎だった。甘酸っぱい匂いにつられて一つ摘まもうとすると、シュテルに手首を止められる。
「今朝はもう食べましたよね?」
「昼の分を先に味見するだけだよ」
「それを食べたら、昼の分が減ります」
「正しい。反論の余地がない」
俺が包みを鞄へしまうと、エダはようやく笑った。
奥の部屋では母親がまだ休んでいるらしい。昨日より声は出るようになったが、熱はすぐには引かないという。シュテルは無理をさせないよう伝え、エダも素直に頷いていた。
「また寄ってくださいね」
「近くを通ったらな。今度は客として飯を食わせてくれ」
「はい。今度こそちゃんと開けておきます」
別れ際、リズが小さく手を振った。
黒いフードの下から覗く赤い瞳を見ても、エダは何も尋ねなかった。昨日、一緒に人参を刻んだ旅人。あの村では、それで十分だったのだろう。
◇
午後になると、街道の往来が増えた。
巡礼者を乗せた馬車、布地を積んだ荷車、杖をついた老人。聖都へ近づくにつれて、道端に立つ道標の数まで増えていく。
「次の宿場で靴の手入れをしたいです」
シュテルが自分の足元を見た。泥を落とした革靴の踵に、少しだけ傷がついている。
「その程度なら放っておいても平気じゃないか?」
「今のうちに直せるなら直したいんです。聖都に入ってから歩けなくなる方が困りますから」
「ごもっとも」
「カルマさんの靴も見てもらいましょう」
「俺のは大丈夫だって」
「先ほどから左足だけ着地が浅いです」
「……見てたのか」
「歩いていれば分かります」
俺は諦めて頷いた。肩の次は靴か。審問官と旅をすると、日々の歩き方まで見張られるらしい。
「それなら、わたくしは筆記具を補充いたしますわ」
リズが鞄を軽く叩く。
「クロイツハーフェンで買った紙が、残り少なくなってしまいましたの」
「その割に、昨日も何か書いてたよな」
「旅費と食料の記録です」
「三人分の財布は俺が持ってるけど?」
「ええ。ですから、わたくしも把握しておこうと思いまして」
「信用ないねえ」
「先ほど昼食用の干し林檎を食べようとしていた方には、必要な管理だと思いますけれど」
「そこにつながるのかよ」
シュテルが口元を押さえた。笑いを隠すくらいなら、いっそ笑ってくれた方が気楽なのだが。
やがて、丘の向こうに赤茶色の屋根が並んで見えた。宿場町レーヴァ。大きな町ではないが、馬を替える厩舎と雑貨屋、それに旅人向けの食堂がまとまっている。
中央の広場から、やけに景気のいい太鼓の音が聞こえてきた。
「祭りでもやってるのか?」
俺が言うと、リズが掲示板の方へ目を向けた。
色紙を貼り合わせた大きな札がある。
『本日午後、港の怪奇譚――血塗られた黒薔薇!』
その下には、黒い髪の女が巨大な鎌を振り上げ、赤い海の上に立つ絵が描かれていた。
「……へえ」
思わず声が出た。
「どうしたんですか?」
シュテルが覗き込み、ぴたりと止まる。
リズも見た。
それから、やけに静かな声で尋ねてきた。
「カルマ。わたくし、あのような鎌を持っていたかしら?」
「少なくとも港では見てないな」
「それに、この胸元の開いた衣装は何ですの?」
「さあ。興行師の趣味じゃないか?」
「……そうですか」
返事は穏やかだった。
だから余計に、笑うのを我慢するのが大変だった。
◇
用事を済ませて広場へ戻ると、芝居は始まっていた。
木組みの小さな舞台に、布でできた海と、紙の船。黒い外套を着た女役が、片手を天に突き上げている。長い付け髪には真っ赤な毛糸が縫いつけられ、目元まで赤く塗られていた。
「聞け、港の愚民ども! 貴様らの名は、この黒薔薇がいただいた!」
広場に子供の笑い声が響く。
舞台袖から、赤い筒を背負った男が飛び出した。
「待てい、邪悪なる魔女! この正義の赤鐘射手が、貴様を撃ち抜く!」
「……何だ、あの筒」
俺の口から勝手に言葉が出た。
「大砲でしょうか」
シュテルが真面目に答える。
「俺、あんなもん背負って走った覚えないぞ」
女役が両手を振り回すと、赤い布切れが大量に舞った。背後の男が一人、布を投げているのが丸見えだ。
「ひいっ! 血の魔法だ!」
「逃げろ、名前を奪われるぞ!」
見物客の子供たちが喜んで叫ぶ。
舞台には今度、白い鍋の蓋を両手に持った小柄な女が登場した。
「そこまでです! 神の盾の前に、悪は滅びます!」
シュテルが口を開きかけ、閉じた。
もう一度、口を開く。
「……私の盾は、鍋の蓋ではありません」
「しっ。笑うから勘弁してくれ」
「笑っていらっしゃるでしょう」
「まだ堪えてる」
隣でリズが、妙に真剣な顔をしていた。
「どうした?」
「いえ。あの方の足運び、あれでは次の動作に移れませんわね」
「そこか?」
「鎌を振り上げるなら、もう少し軸足を……」
「直さなくていいからな。本人より怖くなる」
舞台の三人が大きく跳ねたところで太鼓が鳴り、黒薔薇役が見事に転んだ。
客席から拍手が起きる。
「黒薔薇は倒れた! 港には平和が戻った!」
芝居の語り手が高らかに宣言した。
俺はさっきまで笑っていた。
だが、その後に続いた台詞で、少しだけ笑えなくなった。
「恐ろしい魔女は、港の働き手を四十と七つ、まとめてさらったのでございます。その名を奪い、海の向こうへ売り払おうとしたのです!」
見物客の何人かが顔をしかめた。
「怖いねえ」
「聖都まで来たらどうするんだろう」
隣で、リズの手が外套の裾を押さえた。
あの47人は、実際に名前を奪われていた。今も元どおりの生活へ戻るために、港で働いている者がいる。逃げた者もいるだろう。
その話が、道を二つ三つ越えただけで、まるで反対になっている。
リズは何も言わない。
シュテルは唇を引き結び、舞台から視線を外していた。
「……行くか」
俺が言うと、二人とも頷いた。
ただ、広場を離れようとしたところで、後ろの方から声が上がった。
「そんな話じゃなかったぞ!」
老人の声だった。
振り向くと、荷袋を持った痩せた男が立っている。日に焼けた顔、擦り切れた上着。旅の途中らしい。
「クロイツハーフェンでは、名を返された連中がいたって聞いた。俺の甥も港で働いてる。そいつから手紙が来たんだ!」
客席がざわつく。
語り手は困ったように笑った。
「旦那、こいつは芝居でしてね。細かいことをおっしゃられても」
「だったらさらっただの売っただの、勝手なこと言うなよ。港の連中が何をされたかも知らねえくせに」
「そりゃ、旅先で聞いた話を元に作ってますから……」
男はまだ何か言おうとした。周囲の客が振り返り、空気がささくれ始める。
俺はリズを見た。
フードの下の瞳が、老人と舞台を交互に見ていた。
「先に宿へ行っててくれ」
「カルマ?」
「ちょっと話を聞いてくる。喧嘩になりそうだしな」
「……わたくしも」
「目立つだろ」
言うと、彼女は一度だけ息を吸った。
「ええ。分かっていますわ」
シュテルがそっとリズの肘に触れる。二人は広場の端へ下がった。
昔なら、俺も黙って立ち去ったかもしれない。
芝居の嘘なんざ、俺の銃を鈍らせたりしない。
だが、あの二人の顔を見たあとで、無視する気にはなれなかった。
◇
「まあまあ。おじさん、甥っ子が港にいるんだって?」
男と語り手の間へ割って入ると、二人がこちらを向いた。
「何だ、お前さんは」
「通りすがり。ちょうど港から来たところでさ、話なら少し分かる」
俺は舞台を指した。
「黒薔薇ってのが、47人の名前を奪ったってのは本当かい?」
語り手が肩をすくめた。
「知らんよ。そういう噂があってね。そっちの方が客が喜ぶんだ」
「じゃあ、知らないところは脚色したってわけだ」
「芝居だからな」
「それは分かる。赤鐘射手が大砲を担いで走るところなんか、俺も好きだぜ」
語り手が笑った。
「だろう? あれは受けがいいんだ」
「でも、港で働いてる人間の話をひっくり返すと、客の中には本気にするやつもいる。そこだけは別の落ちにしてくれないか」
「簡単に言うな。芝居は筋書きがあるんだよ」
「だったらこういうのはどうだ。黒薔薇が名を奪ったと皆が思ってる。でも実は、奪ったのは港の親玉だった。最後に名が戻って、赤い銃と白い盾も出番がある。役者を一人足せば済む」
「親玉役の衣装が要るだろ」
「いま黒いの着てるやつに、帽子かぶせればいい」
「……あんた、芝居小屋の人か?」
「いや。大砲も担げない、ただの通りすがりだ」
老人が俺を見る。
「本当に、港から来たのか?」
「ああ。働き手の名前が戻ったのは見た。戻ったあとの苦労も、少しはな」
「そうか……。じゃあ、甥っ子が言ってたのも、本当なんだな」
男は荷袋を握り直した。怒鳴っていたときより、ずっと疲れた顔をしている。
語り手は頭を掻いた。
「港に知り合いがいるなら、詳しい話を教えてくれよ。脚本を直す材料になる」
「俺の話を聞く前に、この旦那の手紙を読んだらどうだ? 本人の言葉の方がいいだろ」
男が少し驚いた顔をした。
「……いいのか、見せて」
「本人がよければな。嫌なら断っていい」
「いや。読んでほしい。俺も、甥がどうなってるのか分からなくてさ」
男は袋から、何度も折り畳まれた紙を取り出した。
語り手は舞台の端に腰を下ろして目を通した。目の前で読まれる手紙は、さっきの派手な台詞とは随分違うものだった。
『名前は戻った。まだ働き口を決めていない。前の給金については組合が話をしてくれている。身体は無事だから心配するな』
それだけ。
男は鼻をすすった。
「無事だって言うんだよ。何年も顔を見せなかったくせにな」
「そりゃ、帰ってくるまで心配だよな」
「……ああ」
語り手はしばらく黙っていた。それから、手紙を丁寧に畳んで返した。
「悪かったよ。客が笑うならいいと思ってた。あんたの甥っ子まで、俺が勝手に悪役の仲間にしちゃいかんよな」
「……分かってくれりゃいい」
「今晩の公演までには、直す。親玉の帽子も探しておく」
「帽子で済ませるのかよ」
俺が笑うと、二人も少しだけ笑った。
もちろん、これで街道に広まった噂が消えるわけじゃない。
それに、芝居小屋の一座に説教して回ったところで、王国の記録が書き換わるわけでもない。
俺にできたのは、たまたま目の前にあった話を、少しだけ直してもらうことくらいだった。
◇
広場を離れたところで、二人が待っていた。
「どうでした?」
シュテルが真っ先に尋ねる。
「とりあえず、あの話は直してくれるってさ。今夜から黒薔薇が港を救ったことになるかもしれん」
「……よかったです」
「でも、正義の赤鐘射手は相変わらず大砲持ちだ」
「そこはよろしいの?」
リズが尋ねる。
「気に入ったんだよ。肩に担げる大砲があれば、荷物運びが楽そうだ」
「あなたが大砲を背負って歩くようになったら、わたくしは別の街道を選びますわ」
「ひでえな」
シュテルが笑う。
やがてリズが、少しだけ真面目な顔になった。
「……あの方、本当に名前を取り戻された方のご家族なのね」
「ああ。甥っ子から手紙が来たらしい」
「わたくしも、少しお話ししたかったですわ」
「無理に近づかない方がいいだろ。ここには港の手配書を持ってる奴だっているかもしれない」
「ええ。それは分かっています」
彼女は広場の方を見た。
「それでも、あの方が手紙を受け取れたことは嬉しく思いますの。公名が戻ったあと、誰かがちゃんと名前を呼んでくれているのだと分かりましたから」
俺は返事をしなかった。
何となく、茶化すには惜しい言葉だった。
代わりに、靴の踵を鳴らす。
「さて。俺たちも宿を探すか。靴屋の親父に、こっちの踵を削られすぎたんだよ」
「それは元々すり減っていたからです」
シュテルがすぐ答える。
「お前、見張ってたのか?」
「隣で靴を直していましたから」
「……何でも見てるなあ」
「カルマさんが気づいていないことが多いんです」
リズが笑う。
「それは随分と心強いことですわね」
「俺の立場は?」
「もちろん、頼りにしておりますわ」
「今さら言われてもな」
そう言いながら、悪い気はしなかった。
◇
宿では隣り合う二部屋を借りた。俺は荷物を置いてから、二人の部屋へ顔を出した。
通りに面した窓を開けると、広場の小さな舞台が見えた。夕方になり、役者たちは道具を運び直している。黒薔薇役が大きな黒い帽子を持って歩いていた。
あれを親玉にかぶせるつもりらしい。
リズは机に紙を広げ、明日の道順を書いていた。シュテルはその隣で、破れた靴紐を結び直している。
「明日は少し早めに出ましょうか。巡礼路へ入る手前に、古い分かれ道がありますから」
シュテルの提案に、俺は頷いた。
「朝市に寄る時間は?」
「必要なものがあれば。ただ、今日は保存食を買いましたよね」
「了解。今度こそ干し林檎を昼まで取っとくよ」
「約束ですよ」
リズが笑いながら、書き終えた紙を畳んだ。
俺は窓の外をもう一度見た。
人に話すたび、話は少しずつ形を変える。
俺自身、悪い噂ならいくらでも聞いた。赤い銃を持ってるだけで、やった覚えのない仕事まで押しつけられたことがある。
それでも、あの二人は俺の噂より、目の前で何をしているかを見てくれる。
港で起きたことがどんな話に変わっても、今日見たことまで変わるわけじゃない。
外から、芝居の稽古が聞こえてきた。
「待てい、邪悪なる港湾王! この赤鐘射手が――」
語り手が叫び、続いて何か重いものが倒れる音がした。
「……大砲、また落としたな」
「見に行かれます?」
リズが尋ねる。
「やめとく。これ以上口を出すと、俺まで出演させられそうだ」
「それは少し見てみたいです」
「シュテル、お前まで?」
「鍋の蓋でよければ、お貸ししますよ」
「……一等星様、意外と根に持つんだな」
三人で笑った。
窓の向こうでは、赤い筒がもう一度、派手な音を立てて倒れていた。




