第37話 旅人を迎える灯
聖都へ向かう旅の途中、3人は巡礼路の小村に立ち寄ります。今回はシュテルの視点から、礼拝堂に残る人々の暮らしを描きます。
朝の空気は、思ったより冷たかった。
焚き火の残りを小枝でかき寄せると、灰の下に赤い火がひとつ残っていた。昨夜の最後の見張りを引き受けたのは私だ。そろそろ二人を起こす時間だけれど、東の山並みが明るくなり始めている。
カルマさんは外套を枕にして、木の根元で眠っていた。少し離れた場所では、リゼリアさんが毛布を肩まで引き上げている。夜の間、何度か目を覚ましたようだったのに、今は穏やかな寝息を立てていた。
昨夜、リゼリアさんは三人で旅支度をすることが不思議だと言っていた。
私は、その言葉を少し考えていた。
教会では、自分の役割を常に明らかにするよう教わる。救護なら救護、審問なら審問。誰が責任を負い、どこまで権限を持つか。それが曖昧なまま動けば、助けられる人まで傷つけてしまうことがある。
それは今も正しいと思っている。
ただ、昨夜は誰にも指示されず水を汲み、カルマさんは火を起こし、リゼリアさんは鍋を用意した。
誰かが偉いわけでも、誰かに従っているわけでもない。
そういう協力の仕方を、私はあまり知らなかった。
「……何時だ?」
足元から声がした。
「もうすぐ朝です。起こしてしまいましたか?」
「いや。寒くて目が覚めた。お前、ずっとそこにいたのか?」
「見張りですから」
「そういう意味じゃねえよ。火が消えそうなら起こしてくれればよかったのに」
カルマさんは起き上がり、膝を叩いて立ち上がった。
「残りの薪は?」
「もう十分だと思います。そろそろ出発できますし」
「朝飯を食わずに歩く気か?」
「……そのつもりはありませんでした」
「なら、もうちょい燃やそうぜ。湯くらい沸かせる」
彼は小枝を火の上へ重ねた。煙が細く立ち、やがて明るい炎になる。
私が礼を言う前に、背後から声がした。
「お二人だけで朝食を始めるおつもり?」
リゼリアさんが毛布を畳んでいた。
「違う違う。ちょうど今起きたところだ」
「でしたら、わたくしもお手伝いいたしますわ」
彼女は鞄から小鍋を取り出す。
私は水筒を手に取った。
昨日と同じように、相談する間もなく朝が動き始めた。
◇
昼前には、街道沿いの小さな村が見えてきた。
畑の間を抜けた先に、赤い屋根の家が十数軒。丘の上には風車が一基、その下に背の低い礼拝堂が建っている。村の入口に立つ道標には、聖都オルディオンまで続く巡礼路の名が刻まれていた。
「ここ、知ってるのか?」
カルマさんが尋ねる。
「名前だけです。ハルムという村だったと思います。街道を使う巡礼者のために、休憩所を開いていると聞いたことがあります」
「休める場所があるなら助かるな。今夜の宿も取れるかもしれん」
リゼリアさんは道標を見上げ、フードを少し深くかぶった。外套の内側に長い黒髪を収める。手配書の顔を知る人がいるかもしれない以上、人前で本名を呼ぶことも控えた方がよさそうだった。
「人が多く集まる場所なら、わたくしは目立たないようにいたしますわ」
「お前は黙ってても目立つからなあ」
「では、カルマが代わりに黙っていてくださる?」
「俺が黙ったところで、お前の髪の色は変わらんだろ」
そんな話をしているうちに、礼拝堂へ続く坂道へ差しかかった。
入口には木製の立て札がある。
『巡礼者の方へ。温かい飲み物と休憩の場所があります』
その下に、別の板が釘で打ちつけられていた。
『本日、炊き出しはお休みします』
新しい文字だ。まだ墨の匂いが残っている。
「残念。飯は別のところで探すか」
カルマさんが踵を返しかけたとき、礼拝堂の扉が開いた。
出てきたのは、私より少し若いくらいの女性だった。袖を肘までまくり、両手で大きな水桶を抱えている。持ち上げた拍子に足元へ水がこぼれ、彼女は困ったように顔をしかめた。
「あの、手を貸しましょうか?」
思わず声を掛けると、女性はびっくりしてこちらを見た。
「いえ、大丈夫です。……あ、休憩所なら今日は閉めているんです。ごめんなさい」
「看板は見ました。水だけいただくことはできますか?」
「井戸なら村の広場にあります。ここの分は、今から運ぶところで……」
言い終わる前に、桶の取っ手がずれた。
カルマさんが横から底を支える。
「おっと。悪い、勝手に触った。どこへ置けばいい?」
「そ、その台所です。ありがとうございます」
彼女が指した扉の奥から、焦げたような匂いがした。
◇
礼拝堂の裏は、小さな共同台所になっていた。
かまどの上には空の鍋があり、隣には干した薬草と薪が積まれている。普段は大勢が使うのだろう。棚には木椀が整然と並び、壁には『熱い鍋に触らないこと』という子供の字の注意書きがあった。
ただ、今日は何も作られていない。
「母が寝込んでしまったんです」
女性はエダと名乗った。
「いつもは母と私と、近所のおばさんで炊き出しをしてるんですが、おばさんも今日は畑の収穫を手伝いに行っていて。母がいないと、私ひとりでは準備が間に合わなくて……」
「お母様の具合を診せていただいてもよろしいですか?」
私が尋ねると、エダさんは少し警戒したように眉を寄せた。
「旅のお医者さんですか?」
「医師ではありません。けれど、救護の経験はあります。無理にとは言いませんから、お母様が望まれるなら」
エダさんは考え込み、やがて頷いた。
「少しだけ、お願いします」
隣の部屋では、年配の女性が横になっていた。
額に汗が浮かび、喉を痛めているのか声がかすれている。額に触れると、かなり熱い。けれど呼びかけにははっきり応じ、呼吸も落ち着いていた。
「今は休んでください。水分は少しずつ飲めていますか?」
「ええ。娘が、何度も運んでくれるの」
「食事は無理に取らなくても構いませんが、飲めなくなったり、息苦しさが出たりしたら、村のお医者様にすぐ相談してください。今は身体を冷やしすぎず、休むことが大切です」
女性は安心したように頷いた。
魔術で熱を下げれば早いのでは、と一瞬考える。けれど、回復術式は身体の治癒を助けるものであって、体力そのものを生み出すわけではない。診断もつかないまま、疲れた身体に余計な負担を掛けたくなかった。
「少し楽になったら、また私が診ますね」
「ありがとう、お嬢さん。……外のお客さん、何か食べていってね」
自分が寝込んでいるのに、旅人の食事を心配している。
「お母さん、今日は休みだって言ったでしょう」
エダさんが困った声を出した。
「でも、せっかく来てくれたんだからねえ」
私は返事に迷った。
手を貸すつもりで来たのに、何をどこまで手伝えばよいのか、まだ分からない。
部屋を出ると、リゼリアさんが台所の棚を見ていた。
「お母様の具合はいかがです?」
「高い熱があります。ひとまず安静にしていただくしかありません。エダさんも心配で、ほとんど休めていないみたいです」
「では、こちらを片づけてしまいましょうか」
リゼリアさんが視線を向けた先には、空の鍋と野菜の籠があった。
「エダさん。ここでは、どんなものを出していらっしゃるの?」
「日によりますが、豆と野菜の煮込みが多いです。村の人が少しずつ持ってきてくれて、それを……」
「必要な材料は揃っていますのね」
「はい。でも、お客さんも来ますし、お二人にまで手伝っていただくわけには……」
「三人だぞ」
戸口でカルマさんが言った。
いつの間にか、水桶を空にして戻ってきていた。
「井戸から水を運ぶくらいなら俺もできる。飯が出るなら、なおさら手伝う理由がある」
エダさんは私たちを交互に見た。
「……本当にいいんですか?」
「お母様が休めるなら、その方がよいと思います」
私が答えると、リゼリアさんが笑った。
「それに、わたくしたちも旅の途中ですもの。温かいものをいただけるのは嬉しいですわ」
カルマさんが鍋の中を覗き込む。
「よし。じゃあ、まずは何をすりゃいい?」
◇
あれほど危険な場所を一緒に抜けてきたのに、私たちは台所でも簡単には息が合わなかった。
「その人参、もう少し大きく切ってください」
「これ以上ですの? 火の通りが揃わなくなりません?」
「煮込みですから大丈夫です。今のままだと、ほとんど刻み野菜になってしまいます」
リゼリアさんは包丁を止めた。
まな板の上には、見事なほど同じ大きさに切り揃えられた人参が並んでいる。料理というより、何かの検査標本に見えた。
「……なるほど。揃えすぎもよくないのですわね」
「いいえ、悪くはないんですが……」
「せっかくだ。今日の煮込みは、貴族様の几帳面さを味わおうぜ」
カルマさんが笑った。
彼はかまどに薪を足し、鍋の位置を調整していた。重い鍋を持ち上げようとしたところで声を掛けると、黙って鍋つかみを私へ渡してくれた。
「カルマさんは、もう少し休んでいてください」
「こんなとこでまで診察されるとは思わなかったな」
「昨夜、明日痛くなったら言うと約束したでしょう?」
「痛くなってねえって。ほら、ちゃんと動くだろ」
彼は肩を回そうとした。
「わざわざ動かして見せなくていいです」
「はいはい。一等星様の言うことは聞きますよ」
リゼリアさんが小さく笑う。
そこへ、礼拝堂の表から物音がした。
外には旅人が二人立っていた。年配の男性と、その肩を借りた少年だ。少年の靴は片方が濡れ、足首から泥が落ちている。
「悪い。休みの札は見たんだが、少し座らせてくれないか。川の浅瀬で足を滑らせてしまって」
「もちろんです。こちらへ」
エダさんが答えるより先に、私は椅子を引いた。
少年に確認してから靴を脱いでもらう。足首には腫れがあり、動かすと痛むらしい。無理に歩かせるべきではなかった。
「骨に問題があるかもしれません。ここでは断定できないので、できるだけ体重を掛けないでください。村に診てくださる方はいますか?」
「少し先に診療所があります。昼から先生が戻るはずです」
エダさんが教えてくれた。
「では、そこへ連絡をお願いできますか。こちらで足を動かないように支えて、冷やしておきます」
カルマさんは濡れた床へ布を敷き、少年が滑らない場所を作った。リゼリアさんは荷物をどかし、通れる幅を確保している。
少年は私の手元を見ていた。
「お姉さん、教会の人?」
問いかけられて、指が一瞬止まった。
「……どうしてそう思ったんですか?」
「さっき、包帯を結ぶときに祈りの言葉を言ってたから。うちの村の先生も、よく言うんだ」
無意識だった。
痛みを和らげられるようにと、教わった短い祈りを口にしていたらしい。
「ええ。教会で学びました。でも、今は旅の途中です」
「そっか。じゃあ、聖都に行くの?」
「はい」
「俺も、いつか行ってみたい。すごく大きな礼拝堂があるんだろ?」
「ありますよ。歩くだけでも疲れるくらい大きいです」
「本当に?」
「本当です。……足が治ったら、いつかお父様と見に行けるといいですね」
少年は頷いた。
その笑顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。
あの街で、今も誰かが病人を診ている。私に祈りを教えてくれた人もいる。けれど、クロイツハーフェンで見つけた記録には、教会の印が押されていた。
どちらも、私が目を逸らしてはいけない事実だった。
◇
夕方、村の診療所から医師が来て、少年を診てもらうことができた。エダさんのお母様も診察を受け、当面は休息と看病が必要だという。少なくとも、娘ひとりで具合を判断せずに済むようになった。
その頃には、鍋の中身がすっかり減っていた。
炊き出しを休むと書いたのに、結局いつもと同じくらいの人が来たらしい。エダさんは空になった木椀を数え、呆れたように笑った。
「お休みにした意味がなかったですね」
「でも、お母様は休めました」
私が言うと、彼女は奥の部屋を見た。
「……それは、そうですね」
礼拝堂の窓から、橙色の光が差し込んでいた。
リゼリアさんは使った包丁を拭き、カルマさんはかまどの灰を片づけている。私は洗い終えた木椀を棚へ戻した。
仕事が落ち着いてから、エダさんが言った。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「はい」
「教会の人って、皆さん、同じように考えているんでしょうか」
その問いに、すぐには答えられなかった。
「母は昔、教会の人に助けてもらったそうです。だから、この休憩所を始めたんです。でも最近、聖都の偉い人たちのことを悪く言う旅人も多くて。私には、何が本当なのか分からなくて……」
彼女は手にしていた布巾を畳んだ。
「私は、祈祷もできません。ただ、ご飯を作ってるだけです。それでいいのかなって、時々思うんです」
台所の向こうから、母親のかすれた咳が聞こえた。
私は、その音を聞いてから答えた。
「私は、教会で学んだことを全部間違いだったとは思っていません。でも、教会にいる人が皆、同じように考えているとも思いません」
「……はい」
「それに、エダさんが今日していたことを、ただの食事の支度だとは思いません。疲れて来た方が座れるように椅子を出して、熱いものを食べてもらって。私は、そのおかげで助かる方を何人も見ました」
エダさんは、少し俯いた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。私たちも温かい食事をいただきましたから」
そう返すと、彼女はようやく笑った。
私も、少しだけ肩の力が抜けた。
聖都へ行く前に、こんな場所に立ち寄れてよかった。
教会が何をしたのかを知ることは怖い。
けれど、教会の中で育った私が守りたかったものまで、全部捨てる必要はないのかもしれない。
◇
その夜、私たちは礼拝堂の一角に泊めてもらうことになった。
床には厚い敷物があり、窓には隙間風を防ぐ布が張られている。村の人が巡礼者のために少しずつ整えてきた場所なのだろう。
「今日は働いたなあ」
カルマさんが敷物へ腰を下ろした。
「元々は昼飯を食いに寄っただけなのに、まさか丸一日台所にいるとは思わなかった」
「でも、ずいぶん慣れていらっしゃいましたね」
「旅先で腹を空かせないためには、多少はできないとな」
リゼリアさんが荷袋を開き、村で分けてもらったパンを取り出す。
「わたくしは、もっと精進しなくてはいけませんわね。人参をあれほど細かく切る必要はなかったようですし」
「次は何を作るつもりだ?」
「野営用の煮込みを、もう少し工夫してみようかと」
「頼むから、包丁の仕事量を増やす方向には工夫しないでくれよ」
「失礼ですわね。次は大きさを変えるつもりですの」
「そこだけは譲らないんだな」
二人が笑うのを聞きながら、私は窓辺へ近づいた。
村の広場では、家々の明かりがひとつずつ落ちていく。礼拝堂の入口だけには、小さな灯が残されていた。遅れて来た旅人が、休憩所の場所を見つけられるようにするためだとエダさんが教えてくれた。
「シュテルさん、どうかしました?」
リゼリアさんが隣へ来た。
「いえ。あの灯りを見ていました」
「綺麗ですわね」
「ええ。聖都の礼拝堂にも、夜通し灯される明かりがあります。でも、あんなふうに外から見たことは、あまりなかったんです」
「中にいらしたから?」
「……そうですね」
私は窓の外を見た。
「リゼリアさん。聖都で、もし私が迷ったら……少し話を聞いていただけますか?」
「もちろん。何を見つけても、まずは一緒に考えましょう」
すぐに返事があった。
振り向くと、リゼリアさんが穏やかに微笑んでいる。
その後ろから、カルマさんが口を挟んだ。
「俺にも聞いてくれていいぞ。あんまり立派な答えは期待するなよ」
「分かっています」
「おい、そこは少し期待しろよ」
「では、少しだけ」
「少しだけかあ」
リゼリアさんが笑い、つられて私も笑った。
明日もまた聖都へ向かって歩く。
あの街にどんな記録が隠されているのか、まだ分からない。確かめるのが怖くないと言えば、嘘になる。
でも、今日は一日、何も隠さないで人に手を貸すことができた。
それだけで、少し救われた気がした。
入口の灯は、私たちが眠る頃にも消えなかった。
教会に隠されたものを追うシュテルが、道中で出会った人々から改めて考える一日でした。道中編はもう少し続きます。




