第36話 三人分の足音
旅立つ朝に、鐘が鳴った。
クロイツハーフェンの港で聞く鐘の音は、少し前まで好きではなかった。船の出入りを告げる音も、荷役の交代を知らせる音も、どこかで誰かを従わせる合図のように思えたからだ。
けれど今朝は違う。
窓の下では、荷車を引く男性が通りがかりの女性と口論していた。積み方が悪いだの、道の真ん中で止まるなだの、実に賑やかだ。
その騒ぎに混じって、焼きたてのパンの匂いが二階まで届いてくる。
どうやら、この港もずいぶん普通になったらしい。
「リゼリアさん、入ってもよろしいですか?」
「ええ。どうぞ」
返事をすると、シュテルさんが顔を覗かせた。白い髪はいつもどおり青いリボンで結ばれ、旅用の外套を腕に掛けている。
「お食事の支度ができたそうです。それと、宿のご主人が保存食を包んでくださいました」
「まあ。昨日もあれほどいただきましたのに」
「断ったのですが、『道中で腹を空かせた顔を見たくない』と」
「それは……カルマに言っていただいた方がよさそうですわね」
「俺が何だって?」
廊下から声がした。
振り返ると、カルマが戸口に寄りかかっていた。肩から下げた荷袋はすでに膨らんでいる。旅支度が早いのは意外だったけれど、彼の場合、どんな場所からでもすぐ離れられるようにしているのかもしれない。
「食い意地が張っているというお話ですわ」
「朝から濡れ衣かよ。俺はまだ何も食ってねえぞ」
「では、下でいただきましょう。出発前に薬も塗り直したいですから」
「一等星様、昨日も診ただろ」
「昨日は昨日です。今日は今日の傷を診ます」
「……はいはい」
カルマは笑いながら階段へ向かった。以前なら、もう少し言い返していたかもしれない。
わたくしも机の上を確かめる。地図、筆記具、旅費の小袋。港で集めた証拠の写しは、濡れないよう封をして鞄へ入れた。原本は港湾組合と別の保管先に預けてある。どこか一か所を押さえられたからといって、記録が消えるようにはしたくなかった。
そして、《ローズ・リスト》。必要になればいつでも呼び出せるため、鞄に収める必要はない。
空いた場所を眺めていると、何となく落ち着かなかった。
あれほど重かった帳簿が、今では指先一つで現れる。不思議なものだ。荷物は軽くなったのに、背負うべきものまで軽くなったわけではない。
「……さて」
外套を羽織り、フードを深くかぶって部屋を見回す。
港を離れれば、わたくしの手配書を見ている者に出会うかもしれない。しばらくは旅人の一人でいるつもりだった。
忘れ物はない。
誰かが来るのを待つ理由も、もうない。
◇
宿の主人は、朝食の皿を下げながら何度も引き留めようとした。
「もう一晩くらいいたっていいだろう。あんたたちが来てから、この宿も随分騒がしくなったんだからさ」
「褒められてるのか、それ」
「もちろん。宿屋は静かすぎても困るんだよ」
主人が笑う。
その足元を、灰色の猫がするりと横切った。白い前足と、少し欠けた右耳。
「あ」
シュテルさんの顔が明るくなる。
猫は彼女の靴先を一度だけ嗅ぎ、尻尾を立てて食堂の方へ歩いていった。
「……行ってしまいました」
「お別れの挨拶は済んだみたいですわね」
「そうでしょうか。こちらから何もお伝えできませんでしたが」
「猫に旅程を説明しなくていいだろ」
カルマが鞄を担ぎ直した。
「それに、あいつはあいつで好きなところへ行くさ」
シュテルさんは少しだけ名残惜しそうに食堂を見たあと、頷いた。
「……ええ。そうですね」
宿を出ると、空は青く晴れていた。
昨日までの潮風には雨の気配が混じっていたのに、今日は頬に触れる風も柔らかい。港の通りには新しい荷受け表が掲げられ、そこに記された名前を船員たちが声に出して確かめている。
遠くに、エルンストさんの姿が見えた。
荷車を押しながら仲間と話していた彼は、こちらに気づくと片手を上げた。
わたくしも手を上げる。
それだけだった。
彼は仕事へ戻り、わたくしたちは歩き出した。
見送りのために作業を止めていただく必要など、どこにもない。あの方々が自分の時間を取り戻したのなら、それで十分なのだから。
市場を過ぎ、石畳が途切れるところまで来ると、カルマが振り返った。
「ようやく港の外か。長居したなあ」
「随分と働いていただきましたもの。感謝しておりますわ」
「お、珍しい。もう一回言ってくれる?」
「二度申し上げるほど安くはありませんの」
「礼の言葉に相場があるのかよ」
笑っているカルマの横で、シュテルさんが道標を見上げていた。
石に刻まれた行き先の中に、聖都オルディオンの名がある。
教会の中枢がある街。
シュテルさんにとっては、ただの調査先ではない。
「……シュテルさん」
声を掛けると、彼女は道標から視線を下ろした。
「本当に、よろしいのですか?」
「聖都へ行くことですか?」
「ええ。港で見つけた記録が事実なら、教会の中枢には公名の剥奪に関わった方がいらっしゃるはず。あなたにとって、気持ちのよい調査にはならないでしょう」
「それは、そうだと思います」
シュテルさんはすぐには続けなかった。
遠くの畑から、鍬が土を打つ乾いた音が聞こえる。彼女は一度息を吸い、落ち着いた声で言った。
「でも、見なかったことにはできません。教会で教わったことの中には、今でも大切にしているものがあります。だからこそ、あの場所で何が行われているのか、自分の目で確かめたいんです」
「……そうですのね」
「それに、私だけが知っている記録の読み方や、教会の中で通じる手続きもあります。お役に立てるはずです」
「すでに随分と助けていただいておりますわ」
「私もです。港で皆さんに助けていただきましたから」
微笑んだ彼女の表情には、迷いがないわけではなかった。
それでも、自分で決めた方の顔をしていた。
「で、俺は?」
カルマが横から口を挟んだ。
「聞かねえの? 俺の理由」
「聞いてほしいのですか?」
「そこは普通に聞けよ」
「では、カルマ。聖都までご一緒してくださる理由を伺っても?」
「面白そうだから」
あまりにあっさりした返答に、思わず足を止めてしまった。
「……それだけ?」
「いや、乗りかかった船ってのもあるな。港であれだけ派手にやらかして、教会の方は知らん顔ってのも気になるだろ」
「もう船は降りておりますけれど」
「分かって言ってるだろ、お前」
「ええ。少しだけ」
カルマは肩をすくめる。
「まあ、俺が付き合いたくなきゃとっくにどっか行ってる。そうしてないってことは、そういうことだよ」
言い終わると、彼は勝手に先へ歩き始めた。
その背中を見送りながら、わたくしは口元を緩める。
まったく。この方は、肝心なところをいつも冗談にしてしまうのだから。
「リゼリアさん?」
「参りましょうか、シュテルさん」
「はい」
歩幅の違う三人の足音が、石畳から土の道へ移った。
◇
海の匂いが消えたのは、昼を過ぎた頃だった。
代わりに乾いた草と土の匂いが濃くなる。畑の向こうでは風車がゆっくり回り、遠くには雪を頂いた峰が見えた。
わたくしは何度か旅をしたことがある。公爵家にいた頃は馬車で、家を失ってからは人目を避けながら。
けれど、こうして目的地を隠さず、道端の景色に目を向けて歩くのは久しぶりだった。
「あの、少し休みませんか?」
シュテルさんが道の先にある木陰を指した。
「ちょうど水場もあるみたいです」
「賛成。俺はそろそろ昼飯にしたい」
「カルマは朝もおかわりしていたでしょう?」
「歩いてりゃ腹も減るんだよ」
「理屈は通っておりますわね」
「だろ? やっと認めてくれたか」
木陰へ入ると、宿の主人が包んでくれた黒パンと干し肉を広げた。
シュテルさんが水を汲みに行く。カルマは外套を脱ぎ、鞄から小さな包みを取り出した。
「そういや、これ。昨日の買い物で余ったやつ」
中には、砂糖をまぶした干し果実が入っていた。
「まあ。まだ残してありましたの?」
「帰り道で全部食ったら、一等星様に怒られそうだったからな」
「怒りませんよ」
戻ってきたシュテルさんが答える。
「ただ、食事の前に甘いものを食べすぎるのは勧めません」
「ほら、怒った」
「注意しただけです」
わたくしが笑うと、カルマも包みを差し出してきた。
果実は甘酸っぱく、潮気の強かった港では気づかなかった香りがした。
食事を終えたところへ、車輪の軋む音が聞こえてきた。
道の向こうから小さな荷車が来る。荷台には麦袋と木箱が積まれ、手綱を握る男性の隣に、まだ幼い女の子が座っていた。
ところが、木陰の手前で車輪が深い轍へ落ち込んだ。
「おっと、こりゃ参った」
男性が手綱を引く。馬は足を踏ん張ったが、傾いた荷車は動かない。女の子が荷台の縁を掴んでいる。
カルマは立ち上がると、荷車の後ろへ回った。
「親父さん、いったん馬を休ませてくれ。荷の重さを抜けば動くと思う」
「悪いね、旅の人。ちょうどここだけ土が緩くてさ」
「構わねえよ。ほら、嬢ちゃん。降りるならこっちだ」
女の子は父親を見た。頷きを確かめてから、カルマの差し出した手を取る。
シュテルさんが女の子を道の乾いた場所へ連れていく。そのまま荷車の傾きを見て、倒れたときに備える位置へ移った。
わたくしは荷台の反対側へ回る。
「木箱を先に降ろしましょう。麦袋の下敷きになっているものから順に」
「頼めるかい?」
「ええ。こちらはお任せくださいな」
男性が持ち上げた木箱を下から支え、荷台の縁に引っ掛けないよう、ゆっくり地面へ下ろした。
荷を少し下ろすと、カルマが車輪の後ろに平たい石を噛ませた。
「よし。親父さん、馬を一歩だけ前へ。慌てなくていい」
車輪がきしむ。
わたくしは反対側の荷枠を押さえ、カルマが後ろから力を掛けた。
荷車がわずかに浮き、轍から抜ける。その拍子に残った木箱がずれかけたけれど、シュテルさんがすばやく手を添えて押さえた。
「大丈夫です。こちらへ落ちることはありません」
シュテルさんの声に、女の子がようやく息をつく。
男性は無事に道へ戻った車輪を見て、額の汗を拭った。
「助かったよ。本当に。三人とも、旅の途中なのに」
「そんなに大したことじゃないさ。車輪が壊れなくてよかったな」
カルマが手の土を払う。
「よかったら、林檎を持っていってくれないか。親戚の畑で採れたやつなんだ」
渡された籠には、少し形の不揃いな赤い実が並んでいた。
「では、三つだけいただいても?」
「遠慮しないで、もっと持っていってよ」
「いえ。まだ歩きますので、荷物が増えすぎても困りますもの」
「そりゃそうだ。どちらまで?」
「聖都の方へ」
シュテルさんが答えると、男性は頷いた。
「うちの妹も、あっちの施療院に世話になったんだ。腕のいい先生がいるらしい。道中、気をつけてな」
「……はい。ありがとうございます」
シュテルさんは深く頭を下げた。
馬車が遠ざかるまで、彼女は道の先を見ていた。
「どうかなさいまして?」
「いいえ。ただ、教会に助けられている方も、たくさんいらっしゃるのだと思って」
「そうですわね」
「だから、なおさら確かめなくてはいけないんです」
彼女はそう言って、林檎を一つ受け取った。
わたくしは残りをカルマへ渡す。
「お二人とも、手際がよろしかったですわね」
「荷車の押し方を褒められる日が来るとはな」
「ええ。銃を抜くよりお上手かもしれません」
「それは褒めてないだろ」
カルマの抗議を聞きながら、再び歩き出した。
誰が何をするか、決めてから動いたわけではない。
けれど、誰かの手が足りなくなることもなかった。
◇
日が傾いた頃、わたくしたちは街道から少し外れた小高い場所で足を止めた。
次の宿場まではまだ道が続いている。明るいうちに無理をして進むより、今夜はここで野営した方がよいというのがカルマの判断だった。
低い木々が風を遮り、少し下ったところには細い水流がある。街道の様子も見渡せる。
「火を起こすなら、あの岩の陰がいいな。道からも見えにくい」
「水場から離れすぎませんか?」
「汲んでくりゃいい。寝る場所が湿る方が困る」
「確かにそうですね」
シュテルさんは水筒を手に取り、わたくしを見た。
「一緒に行きませんか?」
「ええ、参りましょう」
「じゃあ俺は薪を拾ってくる。戻る頃には火をつけられるようにしとくよ」
あまりに自然な流れに、思わず足を止めた。
「……あら」
「どうしました?」
「いえ、何でもありませんわ」
水を汲んで戻る頃には、カルマが小枝を乾いた葉の上へ組み、火打ち具を用意していた。わたくしが荷から小鍋を取り出すと、シュテルさんは買っておいた野菜を並べ始める。
相談もせずに、夕食の支度ができていった。
「リゼリア、その林檎はまだ切るなよ。飯のあとだ」
「まあ。わたくしが先にいただくとお思いで?」
「さっきから眺めてるからさ」
「形が少し歪んでいるのが気になっただけですわ」
「食べれば同じです」
シュテルさんが真面目に言い、カルマが笑う。
「一等星様、たまに雑だよな」
「味には影響しないと思いますけれど?」
「ほら、本人は大真面目だ」
鍋の中で乾燥野菜が柔らかくなり、温かな湯気が立ちのぼる。港でもらったパンをちぎって入れると、それだけで随分と贅沢な夕食に思えた。
食後、カルマは地図を広げ、次に立ち寄れる村の位置を指で示した。
「明日はこの辺りまで行けるだろ。無理そうなら手前で止まればいい」
「聖都の手前には、巡礼路に入るための宿場がいくつかあります。私も知っている道ですから、ご案内できます」
「助かる。俺は港の道なら詳しいんだが、あっちは久しぶりだ」
「では、明日はシュテルさんに道案内をお願いしても?」
「もちろんです」
話が決まる。
それだけのことだった。
少し前なら、誰が指揮を執るか、どこまで同行するか、危険があればどう離脱するか、そんな話をしていたかもしれない。
今では、明日の食事を誰が用意するかと同じ調子で、次の行き先が決まってしまう。
カルマが地図を畳み、欠伸をした。
「で、見張りはどうする? 今夜は俺が最初でいいぞ」
「肩の傷はもう大丈夫なのですか?」
「おかげさまで。明日痛くなったら正直に言うよ」
「約束ですよ」
「へいへい」
「では、次はわたくしが」
「私は最後に起きますね」
シュテルさんが当たり前のように言った。
ふと、胸の奥に温かなものが広がる。
父を失ってから、誰かと長く歩くことを考えたことがなかった。必要な相手とは手を組む。でも、目的を果たせばそれぞれの道へ戻る。それが当然だと思っていた。
今回も、本来なら同じはずだった。
シュテルさんは教会へ。
カルマは、また別の仕事へ。
わたくしは父の残した謎を追って、ひとりで。
ところが二人とも、わたくしと一緒にここまで来ている。
頼んだ覚えは……ある。助けてもらった回数も数えきれない。けれど、これから先も一緒にいるための約束を交わした記憶はなかった。
それなのに、明日も三人で歩くことを、誰も疑っていない。
「リゼリア?」
顔を上げると、カルマがこちらを見ていた。
「さっきから黙ってるけど、眠いのか?」
「いいえ。少し、考え事をしておりましたの」
「また難しいことか?」
「そうでもありませんわ。ただ……不思議ですわね、と」
「何がです?」
シュテルさんも首を傾げる。
「わたくしたち、いつの間にこんなに旅支度が上手になったのでしょう」
カルマはしばらく考え、それから肩を揺らして笑った。
「そりゃ、あれだけ一緒に走り回ればな」
「走り回ってばかりではありませんよ」
「そうだな。荷車も押した」
「おつかいもしましたし」
「昼寝も邪魔された」
「……それは、まだ気にしていらしたの?」
「忘れるわけないだろ。人生で一番忙しい昼寝だったんだぞ」
シュテルさんは困ったように笑い、わたくしもつられて笑った。
夜風が火を揺らす。
海から遠く離れた丘の上で、鐘の音はもう聞こえない。
代わりに、薪の弾ける音と、隣に座る二人の声がある。
聖都へ向かう理由は、それぞれ違う。
それでよいのだと思う。
明日の朝、わたくしが目を覚ませば、シュテルさんはきっと道を確かめている。カルマは食事の匂いに文句を言いながら、誰より先に荷物をまとめていることでしょう。
そんな光景が、もう容易に想像できる。
「では、お先に休ませていただきますわね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい、リゼリアさん」
毛布を肩まで引き上げた。
遠くで街道を行く荷車の音が、しばらくして消える。
わたくしは目を閉じた。
今夜は、背後の足音を確かめる必要がなかった。
聖都までの旅が始まりました。それぞれの理由で歩く3人の日常と、道中で出会う人々を描いていきます。




