幕間Ⅰ シュテル、猫に敗北する
クロイツハーフェンでの騒動を終えた3人。休暇の朝、シュテルが出会った思わぬ難敵とは。
相手の意思を尊重する。
それは、私が教会に教わった規則というより、自分で守ろうと決めた約束だった。
人のためと思っても、本人が望まないことを押しつけてはいけない。相手が小さな子供でも、立場の弱い人でも、同じだ。
ただ、猫については、あまり深く考えたことがなかった。
「……そろそろ降りていただけますか?」
「にゃあ」
朝の宿屋の食堂。
私の膝の上で、灰色の猫が丸くなっている。前脚だけ白く、右耳の先が少し欠けていた。朝食を終えて席を立とうとしたところへ、開いた窓から入ってきて、いきなり跳び乗ったのだ。
撫でても嫌がらない。むしろ喉を鳴らしている。
それはよいのだけれど、動けない。
「おはようございます、シュテルさん」
階段から降りてきたリゼリアさんが、私の膝を見て足を止めた。
「あら、可愛らしいお客様ですわね」
「おはようございます。ええ、つい先ほどいらっしゃいました」
「飼い猫かしら?」
「首輪はありませんが、迷い猫かもしれません」
猫が私の膝に顎を預けた。
リゼリアさんは椅子を引いて向かいに座る。
「それで、どうしてそんなに困った顔をしていらっしゃるの?」
「席を立ちたいのですが、降りてもらえないんです」
「抱き上げて床に下ろせばよろしいのでは?」
「嫌がるかもしれません」
「……そうかもしれませんわね」
リゼリアさんは紅茶を頼んだ。
助けてくれると思ったのに、普通に朝食を始めてしまった。
「そういえば、運河の遊覧船は9時の便でしたわね」
「はい。昨日予約していただきました」
時計は8時40分。船着き場までは徒歩15分ほどかかる。
「では、そろそろ出ましょうか」
「……猫が」
「存じていますわ」
私はもう一度、猫にお願いした。
「申し訳ないのですが、少しだけ場所を移っていただけませんか」
「にゃあ」
猫は伸びをして、私の膝の上で眠り直した。
これは、了承ではなかったらしい。
◇
「朝から何やってるんだ、お前ら」
カルマさんが階段を下りてきた。まだ寝癖がついているのに、腰には銃帯を着けている。
私の膝を見るなり、彼は数秒だけ黙った。
「……飼うのか?」
「いいえ。この子が自分で乗ってきたんです」
「じゃあ、下ろせばいいだろ」
「本人が望んでいないようなので」
「本人?」
「この猫です」
「それは分かるんだが……」
カルマさんは椅子に座り、宿の主人に珈琲を頼んだ。飲み終えると、改めて私を見た。
「なあ、シュテル。お前、道の真ん中で猫が寝てたらどうする?」
「馬車に轢かれそうなら、安全な場所へ移します」
「移せるじゃねえか。じゃあ遅刻しそうなときは?」
「遅刻では、猫の生命に危険はありません」
「遊覧船に間に合わなくなるのは俺たちなんだけどな」
「それは……そうですね」
私にも行きたい理由はある。グレゴールが支配していた水門を、今度は普通の人々が使っているところを見てみたかった。
でも、猫は眠っている。
「では、猫ごと連れていくというのはいかがです?」
リゼリアさんが提案した。
カルマさんは私を見る。
「やめといた方がいい気がするぞ」
「何か問題がありますか?」
「……俺の勘だけどな」
猫をそっと抱き直す。嫌がる様子はない。
「この子も、港を見たいのでしょうか」
「それは猫に聞いてくれ」
「聞いています」
「じゃあ返事は?」
「にゃあ、と」
「そうかい」
カルマさんは諦めたように席を立った。
◇
8時57分。
私たちは船着き場へ到着した。
船頭さんは笑顔で手を振り、それから私の腕の中を見るなり、申し訳なさそうに表情を変えた。
「すまないね。船には動物を乗せられないんだ。驚いて水へ飛び込むと危ないから」
「……そうなのですか」
係留柱の横には、確かに注意書きがあった。
カルマさんがこちらを見る。
「ほらな」
「そのような決まりがあるとは知りませんでした」
「知ってたら抱いて来なかった?」
「……その場合は、宿屋で改めて相談しました」
「やっぱり下ろさねえんだな」
リゼリアさんが船の時刻を確かめる。
「シュテルさん。残り2分ですわ」
「分かっています」
私は猫を見下ろした。
「困りましたね。私たちは船に乗りたいのですが」
「みゃあ」
猫が伸びをした。
次の瞬間、私の腕から軽やかに飛び降り、船着き場を歩いていく。振り返りもしないまま、魚屋の荷箱の陰へ消えた。
「……行ってしまいました」
「猫の自由意思ってやつだな」
カルマさんが笑った。
「今なら間に合いますわ。シュテルさん、参りましょう」
「はい!」
3人で走り、最後の乗船客になった。
船が動き出す頃には、猫はもう見えなかった。
でも、港を渡る風は心地よかった。水門の向こうでは、小舟の船頭が自分の判断で舵を切っている。
私たちが見に来たかったのは、きっとあの光景だった。
◇
船から降りて宿へ戻ると、玄関先に朝の猫がいた。
「……あら、またいらっしゃいました」
猫は私を通り過ぎ、カルマさんの靴に頬を擦りつけた。そして、そのままブーツの甲に座った。
「おい。今度は俺かよ」
猫は動かない。
私は少し考えてから言った。
「カルマさん、本人の意思を尊重してあげてください」
「言うと思った。だがな、シュテル。俺にも足を動かす意思があるんだよ」
「……確かに」
「だろ?」
「では、双方の意思を確認しなければいけませんね」
「猫と合意形成する気か?」
リゼリアさんが口元を押さえた。肩が少し揺れている。
「リゼリア、笑ってるだろ」
「そんなことございませんわ」
「目を合わせて言ってくれ」
「それはお断りします」
「ほら、本人の意思だ。尊重してやれよ」
私が言うと、とうとうリゼリアさんが吹き出した。
その声に驚いた猫が立ち上がり、今度はリゼリアさんのドレスの裾へ潜った。
「……まあ」
「リゼリア、本人の意思を尊重してやれよ」
「カルマ。覚えていらっしゃい」
カルマさんが笑っている。
やがて猫は飽きたのか、路地へ歩いていった。
◇
その夜、私は宿の窓を少し開けて眠った。
また会いたいと思っていたのかもしれない。けれど、猫がどこで眠るかは猫が決めることだ。
翌朝、顔の横で小さな鳴き声がした。
「にゃあ」
昨日の猫が窓辺に座っている。
「……まだ早いですよ」
私は布団の端を少し持ち上げた。
「中へ入りたいですか?」
猫がするりと潜り込み、私の脇腹へ身体を寄せた。
暖かい。
私はもう一度、布団を掛け直した。
「今のは、私がお招きしたんですからね」
「にゃあ」
「……では、問題ありません」
猫は返事をしたつもりなのか、目を閉じた。
私もそうした。
目覚めたのは、宿の主人が昼食の支度を始めた頃だった。
聖盾審問官として、相手の意思を尊重した結果である。
……私の睡眠時間については、特に審問する必要はないと思う。
【後書き】
第一部幕間Ⅰ。既存エクストラストーリーを一人称版へ改稿しています。




