第35話 鐘の鳴る港で
クロイツハーフェンの港は、名を返しただけでは立ち直らない。リゼリアたちは北湾分室の拒否を越え、最後の後始末へ向かう。
名を返すことと、暮らしを返すことは違う。
その当たり前の事実を、クロイツハーフェンは毎朝、わたくしに教えてくれた。
グレゴールが倒れた翌日には港湾組合が荷役の許可を出し直し、3日目には止まっていた小船が動き始めた。けれど、仕事を再開したからといって、奪われた2年分の賃金が支払われるわけではない。公名を取り戻した人々の中には、住む場所のない方もいた。
鐘楼で交わした約束を、紙の上だけで終わらせるわけにはまいりませんもの。
◇
「閲覧不可。理由は規則第18条。ただし、条文のどこを読んでも今回の拒否には当たりませんわ」
北湾分室から届いた回答を机に置くと、カルマが向かいで欠伸をした。
「それ、昨日も言ってなかったか?」
「昨日は第17条でした」
「一つ増えたのかよ」
「ええ。回答するたびに根拠が変わるなんて、随分と便利な規則ですこと」
シュテルさんが封筒を受け取って、末尾の署名を確かめた。
「正式な拒否通知ですね。なら、こちらも正式な手続きで異議を申し立てられます」
「それで素直に見せてくれる連中なら苦労しないけどな」
「素直に応じなくても構いませんわ。拒否した事実も、残りますもの」
指先に魔力を通す。
黒薔薇の紋が淡く咲き、《ローズ・リスト》が掌の上へ現れた。古い革表紙を開くと、北湾分室に関わる公名の操作履歴が細い文字となって並んでいる。
あの方々の名前を奪った命令が、いつ、誰の権限で行われたのか。それを監査することはできる。
けれど、台帳のどこへ賃金が移されたかまでは、この本も教えてくれない。
「名録院の職員が手放す理由を作りましょう。港湾組合には未払い契約の当事者として請求していただきます。わたくしは公名操作の監査記録を提出しますわ」
「教会側の搬送許可については、私が照会します」
「じゃあ俺は?」
「カルマは、給金がどこへ消えたかを探っていただける?」
「最初からそれを言ってくれ。紙と喧嘩するより得意だ」
もっとも、その紙のおかげで今ここにいることを、本人は忘れていらっしゃるようだけれど。
◇
翌日、分室は再び閲覧を拒んだ。
その翌日には、港湾組合の代表者たちが連名で再請求した。
3度目の回答は届かなかった。
代わりに、港湾衛兵が帳簿保管庫の封印を確認した。管理組合からの申立てと、施療所に保護された労働者たちの証言を受け、原本を持ち出させないための措置だという。
書類の山を動かすのは、思いのほか骨が折れる。
カルマはわたくしの横で、紙束より厚い封筒を机へ滑らせた。
「例の給金、いくつかの架空会社を通って、最後は旧塩倉庫の運営費になってた。使われた分は戻らないだろうが、まだ残ってる口座もある」
「よく見つけましたわね」
「払い先の名前が毎回変わるわりに、荷車の番号が同じだったんだ。馬鹿正直に帳面を合わせた奴がいたらしい」
わたくしは封筒を開く。入出金の控えと、荷役契約の写しが束ねられていた。
「こちらはどこから?」
「港の連中から、預かった。原本は向こうが保管するそうだ」
「勝手に持ち出さなかったのですね」
「褒め方がひでえな」
「失礼いたしました」
謝りながら、少し笑ってしまった。
カルマも口元を緩めた。
◇
1週間が過ぎる頃、北湾分室の原本は第三者立会いのもとで開示された。
開けさせたのは《ローズ・リスト》だけではない。名を取り戻した人々が証言し、港湾組合が金銭債権を主張し、施療所が強制労働の傷を記録した。その一つ一つが、相手の逃げ道を狭めた。
原本の数字は、残酷なほど几帳面だった。
47人から差し引かれた給金。消された契約者名。架空の手当。教会名義で処理された搬送費。
わたくしたちは帳簿を写し、原本の封印を確認した。補助具から回収された術式片も、別の箱に収めた。
ただ、すべてを取り戻せたわけではない。
使い込まれた金は戻らず、責任を認めない商会も残った。返還の見込みが立った給金だけを先に仮払いし、残額の請求は組合が引き継ぐことになった。
「俺たちの名前で揉められるのは、もう御免だ」
エルンストさんはそう言って、受領書を見つめた。
「だから、これからのことは自分で決めたい。ここで働くかどうかも、誰と暮らすかも」
「ええ。もちろんですわ」
彼が署名を終えるまで、誰も急かさなかった。
久しぶりに自分の名を書く手が、途中で震えた。隣にいたシュテルさんは、筆を取って代わるのではなく、紙が滑らないように端を押さえた。
書き終えたエルンストさんは、少しだけ笑った。
「変なもんだな。前は、これを書くのが怖かった」
「今は?」
「……まだ少し怖い。でも、自分の名前だ」
その答えだけは、《ローズ・リスト》にも書かれていない。
◇
次の週、港湾組合は暫定体制を終え、新しい運営規約を公表した。
荷役、漁師、船主、宿屋。それぞれが代表者を選び、金の管理と荷受けの許可を分けて扱う。単独で公名を預かる者は置かない。契約書の控えを本人へ渡し、異議申立ての窓口も作る。
会議の席には、かつて番号で呼ばれた人々の代表も座っていた。
もちろん、紙に書いただけでは正しく機能しない。争いが起きれば、また判断を迫られるでしょう。
それでも、今度は港の人々が、自分たちの言葉で決めた。
「グレゴールの代わりを置くつもりはないよ」
漁師組合の女性が、わたくしにそう言った。
「失敗するかもしれないけどね。そうなったら、またみんなで決め直すさ」
「そのほうが、ずっとよろしいと思いますわ」
「それと、例の《レッド・ベル》の話も聞いてはいる。必要になったら組合で相談するよ」
「ええ。判断は皆さんで」
カルマは少し離れた場所で港の地図を見ていた。師匠へ便りを書いた様子はない。
それでよいのだと思う。
◇
港から不正な輸送をすべて消せたとは、申しません。
教会と王立名録院へ繋がる承認印は、まだ調べなければならない。〈白鳥〉の白い羽根も、書類の隅に残っている。《聖冠》と《白冠》がなぜ同じ術式なのかも、答えを得られていない。
だからこそ、港で得た証拠は複数の保管先へ分けた。被害者の公名は本人の同意なしには公表しない。そのうえで、教会へ向かう道筋だけは、確かになった。
旅立つ前日の夕方。
わたくしたちは鐘楼の広場で、エルンストさんたちと別れた。
「ありがとう」
何度も聞いた言葉だった。けれど、今日のそれは、今までと少し違って聞こえた。
「もしまた名前を奪おうとする奴が来たら、俺たちは黙っていない」
「そのときは、遠慮なく声を上げてくださいな」
エルンストさんが頷く。
彼はわたくしに頭を下げたのではなく、隣の仲間へ声を掛けた。
そうして歩き出した後ろ姿を見送りながら、肩の力が少し抜けた。
「終わりましたね」
シュテルさんが隣へ来る。
「この港での仕事は、ひとまず」
「ひとまず、ですわね」
「じゃあ明日は休みでいいな」
背後からカルマが割り込んできた。
「傷の具合は?」
「施療所で診てもらった。もう大丈夫だよ、一等星様」
「今度こそ無理はしないでくださいね」
「あいよ。で、リゼリア。まさか休みの日まで書類を読む気じゃないだろうな」
「まあ。少しくらい構いませんでしょう?」
「駄目だ。昨日も夜中まで起きてたろ」
「どうしてご存じなの?」
「廊下に灯りが漏れてた」
シュテルさんが頷く。
「明日は3人とも休息にしましょう。次の調査へ向かうのは、その後です」
「……そうですわね」
黒薔薇も、光盾も、赤い銃も。
今夜だけは、何かに備えて構える必要がない。
潮風の中で、港の鐘が鳴った。
今度の鐘は、誰かを縛るためではなく、夕暮れを告げるためのものだった。




