第34話 鐘楼の下の取引
《ローズ・リスト》によって奪われた公名を返還したリゼリア。しかし、港に残された仕事と人々の暮らしは、まだ元に戻っていなかった。
港の鐘が鳴った。
昨夜はあの音に合わせて水門が開き、人が動かされていた。今朝は荷車の車輪が軋み、魚売りの声が重なっている。
同じ港なのに、随分と違って聞こえるものね。
わたくしは鐘楼へ向かう坂の途中で足を止めた。
通りの端に魚箱を積んだ荷車が2台、立ち往生していた。車輪が壊れたのではない。荷役の男たちが、互いに顔を見合わせている。
「運べないの?」
店先の女性が尋ねた。
「運び先の責任者が捕まったんだ。勝手に卸したら、こっちが弁償させられる」
「それじゃ魚が傷んじまうよ!」
「俺に言われてもなあ……」
男は濡れた帽子を握り直した。
グレゴールが死んで、港の朝まで止まったわけではない。けれど、その男が握っていた荷の許可や金の流れを、誰も引き受けたがらないらしい。
「すみません。鐘楼の会議に向かわれる方ですか?」
声を掛けたのは、若い荷役係だった。わたくしの外套と、その少し後ろにいるカルマを交互に見ている。
「ええ。何かございました?」
「だったら、これを持っていってもらえませんか。今日の荷受けの控えです。昨日の騒ぎで、署名できる奴がみんないなくなっちまって」
渡された紙には、入港予定の船と、荷を待つ店の名前が並んでいた。横に書かれた時刻は、すでに過ぎている。
「持っていきますわ。ただ、わたくしが代わりに許可を出すことはできませんけれど」
「分かってます。それでも、誰かに見てもらわないと」
「今朝の分も書いてあるのか?」
カルマが紙を覗いた。
「昨日から全部です」
「じゃあ、これを見せれば話が早いな」
彼はわたくしの手から紙を取らず、男の肩を軽く叩いた。
「魚は日陰に入れとけよ。会議が終わるまで日に当てたら、そっちが先に駄目になる」
「……ああ、そうだな。おい、こっちだ!」
男たちが荷車を押し始める。
カルマは破れた左肩の上から外套を引き直した。シュテルさんに縫っていただいたらしいけれど、布の色が少しだけ違う。
「まだ痛みますの?」
「動かしゃ痛い。じっとしてる分には平気だ」
「その言い方、昨日も聞きましたわ」
「今日は撃ち合いに行くわけじゃないからな」
……それなら、よいのですけれど。
◇
鐘楼の会議室には、長机が2列並べられていた。
荷役組合、漁師組合、船主会、宿屋組合。それに、施療所を代表してオルガさんが来ている。壁際には港湾衛兵が2人。兜を脱いだまま、外へ通じる扉を気にしていた。
皆、昨日からあまり休めていないのだろう。珈琲の匂いに混じって、濡れた革と油の臭いがする。
「黒薔薇が来たぞ」
誰かが小声で言った。
別の男がわたくしの手元を見た。昨夜、飛んできた《無名簿》はもう持ち歩いていない。
「例の帳簿は?」
「必要なときにお見せしますわ」
「本当に名前を戻せたのか?」
「戻りましたよ」
先に答えたのは、入口から入ってきた作業服の男性だった。
エルンスト・ベルナーさん。まだ顔色はよくないけれど、今朝は昨日よりも足取りがしっかりしている。
シュテルさんが付き添っていた。
「エルンストさん。無理はしないでくださいね」
「話だけしたら戻ります。あんたにも約束しましたから」
そう言って彼は空いた椅子へ座った。
荷役組合の年配の男性が、訝しげに眉を寄せる。
「昨日まで番号で呼ばれてた連中まで、会議に出すのか」
「その方々が働かされていた倉庫の話をするのでしょう?」
わたくしが尋ねると、男性は返事に詰まった。
「本人に聞かずに決めるのは、やめてほしいです」
エルンストさんが言った。
声は少し掠れていたけれど、はっきり聞こえた。
オルガさんが椅子を引き寄せ、彼の背へ小さな枕を当てる。
「言いたいことを言ったら、うちへ戻って寝るんだよ」
「はい」
会議を取り仕切る船主会の男性が咳払いをした。
「……では、始めよう。まず、グレゴール・ヴァイスについてだ」
「死亡を確認しています」
シュテルさんが答える。
「私が遺体を確認しました。遺体と、胸に取り付けられていた補助具の破片は別々に保全しています」
「2年前に死んだことになっている男が、昨日もう一度死んだ。そんな話を役所が認めると思うか?」
船主会の男性が頭を抱えた。
「認めてもらうために、遺体と記録を残したんだろ」
カルマは壁際の窓枠に寄りかかった。
「火事の死亡記録と、昨夜の倉庫の出入り記録を照らせばいい。どっちかが嘘なんだからな」
「簡単に言うな。名録院まで関わっているんだぞ」
「だから紙を捨てるなって話だよ」
反論が止んだところで、わたくしは鞄から荷受けの控えを出した。
「そのお話も必要ですけれど、こちらを先にご覧になって」
机へ広げると、漁師組合の女性が身を乗り出した。
「これ、うちの船だ。朝の競りに間に合わなかったんだよ」
「港の仕事を止めるのは、もう少し後にしていただけません?」
軽い冗談のつもりだったけれど、笑ったのはカルマだけだった。
「……おっしゃるとおりだ」
船主会の男性が紙を取り上げる。
「責任者がいなくなって、今朝は誰も署名を引き受けなかった。明日も同じことになれば、入ってくる船が減る」
「倉庫の鍵も、何本かはグレゴールの連中が持ったままだ」
荷役組合の男性が言う。
「すぐに全部使えるようにはならん」
「では、今日中に誰が荷を受け、どこに預けるかを決めませんこと?」
わたくしは空いた紙を1枚、机の中央へ置いた。
「まず傷みやすいものから。そのあとで、倉庫の鍵と荷の数量を確認しましょう」
船主会と漁師組合が話し始める。はじめは互いの責任を押しつけ合っていたけれど、紙に船名を書き足していくうちに、ようやく順番が決まってきた。
ずっと立っていた衛兵の1人も、明け方から押さえている倉庫の場所を書き込んだ。
誰かが勝手に持ち出したと言われないよう、受け渡しには双方の確認を残すことになった。
……こういう話なら、皆さんよくご存じなのね。
港で生きてきた方々なのだから、当然かもしれない。
◇
ひとまず今日の荷受けが決まると、話は昨夜の倉庫へ戻った。
「救い出された作業員は、全員また働けるのか?」
荷役組合の男性が尋ねる。
「まだ療養が必要な方も大勢います」
シュテルさんが答えた。
「昨日は、身体を動かすよう強制されていたんです。今すぐ仕事に戻すことはできません」
「だが、人手が足りん。この港の仕事は待ってくれないんだ」
「……俺たちに、また命令する気ですか」
エルンストさんの声だった。
年配の男性は彼を見る。
「そういう意味じゃない。働き手が戻れば助かると言ってる」
「だったら、俺が決めます。今すぐは無理だけど、身体が戻ったら働きたい。給金も払ってもらえるなら」
「給金の記録は、別の名義になっているかもしれんぞ」
「だから、それを確かめてほしいんです。女房が何度も役所へ行ったけど、俺の名前がないって追い返されたんですから」
男性は口を閉じた。
わたくしは右手を開いた。
掌に黒薔薇の紋様が浮かび、赤黒い光が紙の形を取る。ほどなく、黒革の《ローズ・リスト》が現れた。
周囲から、小さなどよめきが上がる。
「この方の公名は、昨夜返還しましたわ」
頁を開き、本人に向ける。
「エルンストさん。こちらの記録を皆さんに見ていただいてもよろしい?」
「……俺の名前だけなら」
「承知しました」
わたくしは頁を彼の登録欄に開いたまま、机の端へ置いた。ほかの方々の公名や操作履歴は、勝手に見せるつもりはない。
船主会の男性が顔を近づける。
「原登録、復旧済……本物なのか」
「公名の登録は復旧しています。ただし、未払いの給金が本人に戻ったかまでは、まだ確認できておりません」
「その元帳はどこに?」
エルンストさんが身を起こした。
「旧倉庫の分なら、王立名録院の北湾分室だ」
荷役組合の男性が答える。
「支払いの控えも、そこへ集められてる」
「でしたら、原本を確かめる必要がありますわね」
「分室が簡単に見せると思うか?」
「分かりません。でも、こちらの記録と食い違うなら、その食い違いも残せます」
エルンストさんは書面をじっと見ていた。
「俺は、金が戻るまでここにいなきゃ駄目ですか?」
「いいえ」
思わず早口になった。
「必要なことは、こちらでも調べます。どうか、まず身体を休めてください」
「……よかった」
彼の肩が少し下がる。
オルガさんが立ち上がった。
「さあ、約束の時間だよ。帰るよ、エルンスト」
エルンストさんはゆっくり立ち、わたくしたちに頭を下げた。
その背を見送り、ようやく気づく。
返せたのは名前だ。その名前で暮らせるようになるには、まだ随分とやることがある。
◇
「証拠をどうするか、決めておこう」
カルマが机の上を指で叩いた。
「倉庫の荷札も、教会の受取印も、まだ現物が残ってる。まとめてひとつの倉庫に入れたら、燃やされたときに終わりだ」
その言葉に、数人の顔色が変わった。
2年前の火事を思い出したのだろうか。
「写しなら、こっちで作れる」
船主会の男性が言った。
「船の控えと一緒に保管しよう」
「俺たちも一部持とう。倉庫に残った物は衛兵に立ち会ってもらって数える」
荷役組合も応じた。
「宿屋にも置けるよ。旅人が見る帳面なら、いきなり押収するのも面倒だろう」
宿屋組合の女性が腕を組む。
「ただし、客の名前を勝手に貼り出すのは嫌だね」
「ええ。そこは分けましょう」
わたくしは《ローズ・リスト》を閉じた。
「港と教会が交わした承認記録や、どの荷がどこへ運ばれたかは残します。でも、被害に遭った方々の公名は、本人の許可なく広めないでください」
衛兵のひとりが頷いた。
「封印の控えはこちらでも保管できる。捜査用の記録には立会人の署名が必要だがな」
「その手配は俺がやる」
船主会の男性が紙を引き寄せた。
シュテルさんはその横で、施療所に必要な薬と寝台の数をオルガさんに確認している。
「救護院からの薬が止まったら、どうする?」
宿屋組合の女性が尋ねた。
「ひとまず、こちらで用意できる薬を数えます。足りない分は別の施療所にも尋ねます」
「聖盾審問官なのに、教会を敵に回していいのかい」
「救護院で働いている方が全員、不正に関わっているわけではありません。まず患者さんが困らないようにしたいんです」
「……そうだね。うちの姪も、あそこで世話になってる」
宿屋組合の女性は頷いた。
教会と港が裏で手を結んでいた事実は、もう消せない。けれど、この街で治療を受けている人々を放り出すわけにもいかなかった。
会議室の端では、いつの間にか、それぞれが必要な書類を書き始めていた。
それでも、最後に残った問題は大きい。
「今日の分は何とかなる」
荷役組合の男性が言った。
「だが、明日から誰が決めるんだ? グレゴールの代わりを1人置くのか」
しん、と部屋が静まった。
長机に並ぶ顔を見回す。
「皆さんで決めていただくのは、いかがでしょう」
「全員で? 船を出すたびに会議する気か?」
「普段の荷受けまで相談する必要はないと思います。ただ、倉庫の管理や緊急の決定は、複数の方が確認できた方が安心ではありません?」
「決まるまで時間が掛かる」
「それは困りますわね。では、普段の仕事は各組合で進めていただいて、港全体に関わることだけ代表の方で話し合うのは?」
誰かが紙へ線を引いた。
荷役、船主、漁師、宿屋、施療所。まずはそれぞれ1人ずつ、期限を決めて代表を出す。通常の仕事は従来の現場責任者が行い、複数の組合に関わる決定は3人以上の承認を取る。
急ぎの荷を動かすときは、引き受けた人と立ち会った人の名前を記録する。
「最初は14日。それで一度やり方を見直そう」
船主会の男性が言った。
「異議は?」
「山ほどあるよ」
漁師組合の女性が答える。
「でも、今ここで誰かを港湾王にするよりはましだね」
その言い方に、何人かが苦笑した。
「ただし、これで王立名録院の許可まで取れるわけじゃないぞ」と船主会の男性が釘を刺す。
「分かってるさ。まず、港の中の仕事を止めないことだね」
漁師組合の女性が答える。
書類の末尾に、代表者たちが順番に名前を書き始める。
ここは、わたくしが決める場所ではない。
それを確かめるように、一歩後ろへ下がった。
◇
「ひとつ、忘れてるぞ」
署名が終わりかけたところで、カルマが口を開いた。
「今度は何だ?」
「陸からの荷だよ。名録院や教会に輸送を止められたら、今の道だけじゃ足りなくなるだろ」
「そんなことになったら、どうしろっていうんだ」
「困ったら《レッド・ベル》を訪ねてみたらどうだ?」
数人が一斉に顔を上げた。
「……裏の連中か」
「そう。グレン・ハルバードって男が仕切ってる。北の河港にも、南の陸路にも顔が利く」
「お前、あそこにいたんだったな」
「昔の話だ」
「なら、お前から話をつけてくれないか?」
「俺が勝手に頼んだって、あいつらはあんたらのために動かないぞ」
カルマが肩をすくめた。
「必要なら組合から話しに行け。金も条件も、そっちで決めればいい」
「信用できるのか?」
「腕は確かだ。値切ったら怒るだろうけどな」
「……お前の師匠か」
「まあな」
カルマはそれ以上、グレンさんの話を続けなかった。
荷役組合の男性が、紙の端にその名を書き添える。
使うかどうかは、まだ決めない。必要になったときに、組合から話を持ちかける。
それで十分だった。
シュテルさんの視線が、カルマの左肩に向いた。
「カルマさん、そろそろ施療所へ戻りましょう。傷も診ておきたいです」
「あいよ……一等星様はホント、こういうときはうるさいからな。大人しく言うこと聞きますよ」
カルマは苦笑しながら窓際を離れ、外套を直した。
わたくしは《ローズ・リスト》を閉じて、掌の魔力へ戻した。
机には、新しい書類が次々と重ねられていた。
◇
外へ出ると、朝に見た魚箱はもう道に置かれていなかった。
坂の下では、荷車から樽を降ろす男たちが声を掛け合っている。いつの間にか、港の仕事が少しずつ動き出していた。
鐘楼の階段を下りきったところで、船主会の男性が追いかけてきた。
「黒薔薇、待ってくれ」
「何かございました?」
「北湾分室の件だ。さっき、うちの書記を走らせたんだが……」
彼は手にした紙を広げた。
エルンストさんの未払い給金について、元帳の閲覧を申し出たらしい。返ってきたのは、短い回答だった。
――対象者の公名は確認済。
――旧契約に伴う金銭債権は、引き続き保全対象とする。
――原本閲覧、不可。
「名前が戻ったのは認めるくせに、金の記録は見せないんだとさ」
カルマが紙を覗く。
「給金の行き先まで知られたくないってことか」
「そうかもしれませんわね」
わたくしは紙を受け取り、最後の一行を見直した。
公名は返せた。けれど、名前を奪った者が何を得たのか、そのすべてを《ローズ・リスト》だけで確かめられるわけではない。
「原本は、北湾分室にあるのですね?」
「ああ。そこから動かしていなければな」
「ありがとうございます。これはお預かりしても?」
男性が頷く。
わたくしは紙を折り、外套の内側へしまった。
「カルマ、シュテルさん。施療所へ戻ったら、北湾分室のことを相談させてくださいな」
「……その前に、あなたも休んでくださいね」
シュテルさんは即座に言った。
カルマが笑う。
「ほらな。俺だけじゃない」
「まあ。お2人とも、そんなにお疲れに見えます?」
「はい」
迷いのない返事に、思わず口をつぐんだ。
鐘がもう一度鳴る。
坂の下では、荷役の男が仲間に何かを尋ね、返事を聞いてから荷車の向きを変えていた。あの人たちは自分で行き先を決めている。
「リゼリアさん、置いていきますよ」
「今参りますわ」
わたくしは鐘楼を振り返り、2人の後を追った。




