第33話 名を返す黒薔薇
旧塩倉庫でグレゴールが倒れ、操られていた人々は解放された。しかし、公名はまだ戻っていない。リゼリアが血に残る《記憶痕》を読み取ったとき、《無名簿》が思いがけない反応を示す。
グレゴールの身体が倒れたとき、床に置かれた真鍮の鐘が小さく鳴った。
それきり、機械室は静かになった。
壁際では作業員たちが横たわり、シュテルさんが一人ずつ呼吸を確かめている。認証環の赤い光は消えていたが、金具はまだ腕に残っていた。
カルマは《ミゼリコルド》を下ろしたまま、グレゴールを見ていた。
「カルマ。左肩を見せてくださる?」
「ちょっと掴まれただけだ。大丈夫」
「服が破れておりますわ」
「……それは後で直す」
冗談のつもりなのだろうけれど、いつもより声が低い。
シュテルさんがこちらへ戻り、グレゴールの首筋に指を添えた。次に呼吸を確かめ、静かに手を離す。
「……亡くなっています」
カルマは短く頷いた。
あの銃弾は、胸を覆っていた補助具ごと心臓を貫いている。術式の光も戻らない。
グレゴール・ヴァイスは、今度こそ死んだ。
わたくしは彼から目を移し、床に散った黒い金具を見た。
胸元の補助具が砕けた場所には、血が流れている。割れた石の溝に沿って広がる赤の中に、白い糸のような光が混じっていた。
……まだ、魔力が?
札を1枚、血の縁へ滑らせる。
「リゼリアさん、どうしました?」
「この血……何か残っていますわ」
シュテルさんが隣に膝をついた。
「術式は止まっています。もう、あの方へ魔力は送られていないはずですが」
「ええ。けれど、血に残った《記憶痕》までは消えていないようですわ」
魔札の先端を細く裂き、血に混じった魔力だけをすくい取る。札の上に赤黒い粒が浮かび、わたくしの指先へ寄ってきた。
グレゴールの《記憶痕》を、ほんの一部だけ抽出する。
次の瞬間、見知らぬ景色が目の前に重なった。
高い位置から見下ろす机。こちらへ差し出された、荒れた手。自分の口が、低い声で命じる。
『名前を言え』
『……エルンスト・ベルナー』
男が震える声で答える。その名を聞いた手が、帳面の一行を黒く塗りつぶした。
――グレゴールの記憶だ。
別の男が引きずられてくる。今度は名を聞くより先に、番号を刻んだ環が嵌められた。作業員が抵抗すると、机の向こうにいる自分が苛立たしげに舌打ちする。
ここで、ようやく分かった。
彼は奪った名を知らないわけではない。実際に名乗らせ、記録を改めさせた場にいたのだ。
「……っ」
魔札を引くと、景色が消えた。
「リゼリアさん!」
「大丈夫ですわ。少々、気分の悪いものを見ましたけれど」
床に残った血へ目を戻す。
生命維持の術式は壊れた。グレゴールも、もう生き返らない。それでも、血に刻まれた彼自身の記憶までは消えていなかった。
そこに、奪われた人々の名前がある。
「それ、どうにかなるのか?」
カルマが近づいてきた。左肩をかばっている。
「まだ分かりません。ただ、この方が名前を奪ったときの記憶が残っているんです」
「……グレゴールの血に?」
「ええ。少なくとも、最初のひとりは分かりましたわ」
魔札の上で、赤黒い粒が震えた。
同じ拍子に、どこかで紙のめくれる音がした。
「……今、何か聞こえませんでした?」
「紙か? どこからだよ」
もう一度、ぱらり、と音がする。
音のした方へ顔を向けた瞬間、薄暗い機械室の入口に白い光が走った。
何かが飛び込んでくる。
「下がれ!」
カルマがわたくしの前へ出る。その肩へ手を伸ばしかけて、思わず止まった。
わたくしたちの頭の高さで、黒革の帳簿がぴたりと静止したのだ。
「……《無名簿》?」
今朝、施療所の書見台に置いてきたはずの本。
間違いない。角についた傷も、白い王冠の留め金も、そのままだ。
「おい、誰か運んできたのか?」
「いいえ。あの部屋に置いたままでしたわ」
カルマは入口を振り返る。誰もいない。
「……本だけ飛んできたってのか」
わたくしが手を伸ばすと、帳簿はゆっくり降りてきた。指先が表紙に触れた途端、右手首に残る鎖の痕が、じんと熱を帯びる。
けれど、もう鎖は現れなかった。
ひとりでに留め金が開く。
頁の中ほどに、先ほど聞いた名前が浮かんでいた。
――エルンスト・ベルナー。
文字の下には、名前を奪った日付と承認印。その隣に、記録を剥離した者の権限が残っている。
「……この印」
見覚えがある。《無名簿》を調べていたとき、空白の欄の脇に現れては消えた印だ。
わたくしは魔札を近づけた。
血の《記憶痕》と帳簿の文字が、同じ色に輝く。頁が続けざまにめくれ、消されていた名前が次々と現れた。
奪った人間の記憶と、奪われた際の操作記録。
どちらにも、同じ名前が残っていた。
「名前が出てきたぞ」
カルマが帳簿を覗き込む。
「ええ。今まで空白だったところですわ」
その横で、新しい文字が浮かび上がる。
――公名剥離。本人承認なし。
――原登録、復旧可能。
……復旧。
指先でその文字をなぞった瞬間、表紙の白い王冠がぱきりと音を立てた。
鎖を生み出した術式は、シュテルさんが切ってくださった。今、割れたのは、その下に残っていた王冠の飾りだった。
剥がれた金具が床へ落ちる。
黒革の表紙に浮かんだのは、見慣れた花の紋様。
「……黒薔薇」
父の机にあった監査書にも、同じ家紋が刻まれていた。
ノワールヴェイン家の黒薔薇。
わたくしは息を呑んだ。
王国が奪った名を売買するために、この帳簿が作られたのだと思っていた。
違う。
これは、公名がいつ、誰の手で、どう扱われたかを確かめるための記録だったのだ。
家紋に触れると、懐かしい父の声を思い出した。
――印だけを見るな。誰が、何のために押したかを確かめろ。
あの教えが、今になって胸に落ちた。
「リゼリアさん?」
シュテルさんが、作業員のそばからこちらを見ている。
「少しだけ、お時間をいただける?」
彼女が頷くのを見て、わたくしは帳簿へ視線を戻した。
記録の一つひとつに、剥離の承認印がある。けれど、本人の同意を示す欄は、どれも空白のままだった。
この名を消す権利など、最初から誰にもなかった。
「わたくしは、リゼリア・ノワールヴェイン」
黒薔薇の家紋に、左手を重ねる。
「この記録を監査します。奪われた公名を、元の持ち主へ」
《ブラッドアルカナ》の赤い魔力が、家紋の花弁を伝った。
黒い薔薇が、紙の上でゆっくりと開く。
同時に、帳簿を閉じていた術式がほどけた。文字が光を帯び、頁から舞い上がっていく。
――不正剥離、取消。
――原登録、返還。
金色の文字が、壁際に横たわる作業員たちへ飛んでいった。
ひとつの名前が、ひとりの胸元でほどける。
次の瞬間、からん、と金属音がした。
誰かの腕から認証環が落ちたのだ。
すぐ隣でも、同じ音。
「……え?」
シュテルさんが、目の前の男性の腕を取る。金具はもう光らない。彼女がそっと外すと、指が入るほど緩んでいた。
「リゼリアさん。こちらも外れています!」
「ええ。記録の剥離が取り消されていますわ」
頁がめくれるたび、番号が消え、名前が戻っていく。
床へ落ちる金具の音が重なった。
やがて、最後の文字が帳簿へ戻る。
――旧塩倉庫。不正剥離記録、全件返還完了。
わたくしは帳簿を閉じた。
……本当に、返せたのね。
◇
「……エルンスト」
壁際から声が聞こえた。
作業服の男が、毛布を握りしめている。先ほどの《記憶痕》で、グレゴールに名前を告げていた人だ。
「俺の名前……エルンスト・ベルナーだ」
隣の男性が顔を上げた。
「エルンスト? お前、そういう名前だったのか」
「そうだ。……ずっと、そう呼ばれてたんだ」
声を震わせながら、男は自分の手首を見た。認証環は足元へ転がっている。
「役所へ行っても、俺の名前なんてないって……。女房が給金を受け取れなくなって、どうにもならなくて……」
「もう一度、確認なさいます?」
頁を開き、彼の登録を示す。
――エルンスト・ベルナー。原登録、復旧済。
男は何度も文字を見つめた。
「……本当に戻ったんだな」
「ええ」
彼は顔を覆った。何か言おうとしているのだろうけれど、言葉にならないらしい。
少し離れたところでも、名前を呼び合う声が聞こえ始めた。
それでも、全員がすぐに思い出せるわけではない。自分の名を聞いて戸惑う人もいれば、ただ静かに腕の痕を撫でている人もいる。
シュテルさんは無理に話しかけず、身体の具合を見ながら、必要な人へ毛布を掛けていた。
名前は戻った。けれど、失った暮らしや給金まで、その場で元に戻るわけではない。
オルガさんと港の人たちにも、手伝っていただかなければ。
「それにしても……」
カルマが帳簿を見つめていた。
「施療所から勝手に飛んでくるわ、腕輪は外すわ。何なんだ、その本」
「わたくしも、驚いておりますわ」
表紙の黒薔薇に指を添える。
先ほどから、魔力が流れ込む感触が続いていた。まるで、わたくしが指先を動かすのを待っているように。
そっと力を抜いてみる。
すると本は薄い花弁のような光にほどけ、《ブラッドアルカナ》と同じ赤黒い輝きになって消えた。
「……おい、本が!」
「ええ。わたくしにも見えましたわ」
けれど、不思議と失くした気はしなかった。
右手を開き、先ほどの感触を思い出す。
黒薔薇の紋様が掌に浮かぶ。
次の瞬間、指先から紙の擦れる音がして、黒革の帳簿が元の形で現れた。
「……へえ」
カルマは目を瞬かせ、それから笑った。
「もう台車を引かなくて済むな」
「真っ先にそこですの?」
「俺の肩を見ろよ。助かるって」
「でしたら、なおさらシュテルさんに診ていただかなくては」
「……余計なこと言ったな」
シュテルさんが顔を上げた。
「後でちゃんと診ますからね、カルマさん」
彼は降参したように右手を挙げた。
もう一度、帳簿を見る。
《無名簿》。誰の名前もない、空っぽの帳簿だなんて。
今は違う。
ノワールヴェインの黒薔薇が、公名の記録とともに表紙へ咲いている。
「もう《無名簿》とは呼びませんわ」
赤い魔力が、本の縁を淡く照らす。
「《ローズ・リスト》。これからは、そう呼びましょう」
名前を口にした瞬間、家紋が小さく輝き、頁がひとりでに閉じた。
望めば手元へ現れ、不要なら魔力の中へしまえる。記録を失うこともない。
わたくしは《ローズ・リスト》を、もう一度だけ開いた。
そこには、先ほどの人々の公名が、返還の記録とともに並んでいた。
そして、その向こうにもまだ、数えきれない公名の操作履歴が続いている。
お父様が追っていた《白冠計画》。
王国と教会が、名前を奪ってまで守ろうとしているもの。
今なら、もう少し近づけるかもしれない。
わたくしは本を閉じ、黒薔薇の家紋を撫でた。
次は、誰がこの名前を奪ったのか。記録を確かめましょう。




