第32話 港湾王の拳
旧塩倉庫の地下で姿を現したグレゴール。認証環に従わされる港の労働者たちが、カルマたちへ襲いかかる。
俺は半歩、横へ出た。
グレゴールの拳が正面を突き抜ける。空振りした腕の外側へ回り込もうとした途端、奴の左足が石床を擦った。
来る。
身を沈めると、補強腕の肘が頭上を通った。殴りかかってきたんじゃない。避けた先を狙っていやがった。
「覚えてるか、カルマ。昔もお前は、右へ逃げる癖があったな」
「よく見てるじゃねえか!」
膝が飛んできた。腰を捻って外へ流し、《赤鐘》の銃把で腿の外側を打つ。硬い感触が返っただけで、奴は止まらない。
その背後から鉤棒が伸びてきた。
作業員だ。腕の認証環が赤く光り、顔を歪めたまま俺へ突っ込んでくる。
「悪いな!」
棒の内側へ踏み込み、銃把を柄の継ぎ目に叩きつけた。乾いた音を立てて木が割れる。残った柄を押し返すと、男がよろめいた。
俺が手を伸ばす前に、赤い札が男の足元を走った。
「こちらは任せてくださいまし!」
リゼリアの魔札から伸びた糸が、作業員の両腕と胴をひとまとめにする。胸元を締めつけないよう、腕を身体の横へ押さえた形だ。
「シュテルさん!」
「はい!」
青白い小盾が男の顎を下から打った。頭が跳ね上がるほど強くはない。それでも膝から力が抜け、男は目を閉じた。
倒れる身体を別の盾が受け止める。リゼリアの糸が緩み、男は壁際へ寝かされた。
……なるほど。そっちでいくのか。
「大丈夫か?」
「息はあります。気を失っているだけです」
シュテルが答えた。
「分かった。頼む!」
「カルマ! 前ですわ!」
振り返るより先に、鉄の腕が脇腹を掠めた。
「っ……!」
昨夜痛めたところへ鈍い熱が走る。足がもつれ、鐘の脇に積まれた空箱へ肩からぶつかった。
グレゴールが笑った。
「仲間の心配をしてる暇があるのか?」
「俺が倒れたら、そりゃ心配されるだろ!」
「なら、さっさと倒れてみろ!」
奴が箱を蹴り飛ばす。木片が跳ねた隙に、俺は鐘から離れ、搬送口寄りの石柱へ走った。
逃げたわけじゃない。柱の上には古い鉄路がある。
《赤鐘》を掲げてワイヤーを撃ち込んだ。鉤が梁の金具を捉える。巻き取りに身体を預け、石床から足が浮いた。
真下をグレゴールの拳が通り過ぎる。
「ちょこまかと!」
「当たったら死ぬからな!」
振り子のように柱を回り込み、奴の背後へ着地する。すぐにワイヤーを緩め、足元へ落ちた鎖を踏んで転がした。
グレゴールはそちらへ目もくれなかった。
補強腕を床について身体を反転させ、低い位置から拳を突き上げてくる。
銃身を引いた。まともに受ければ、腕ごと折られる。
肩を捻ってかわすと、拳が柱へめり込んだ。石粉が鼻に入り、思わず咳が出る。
「……その腕、ずいぶん丈夫だな」
「教会の連中は、金さえあればいい仕事をする」
「人の命で払ってる金だろ、それ」
奴の目が細くなった。
拳が柱から抜けるより早く、俺はワイヤーを巻き戻した。鉤が外れ、赤い線が銃の下へ戻ってくる。
その向こうでは、リゼリアの札が次々と搬送口へ飛んでいた。
◇
作業員が途切れない。
先ほど落とした空の荷枠を乗り越え、鉤棒を持つ男が2人、運搬鎖を引きずる男が続いてくる。さらにその後ろにも人影があった。
「シュテル、右の人!」
「見えています!」
リゼリアが札を回す。柱に預けた札と荷車に貼りつけた札の間で、赤い糸が交差した。
前へ出た作業員の腕が、その糸に取られる。
身体が止まる。強引に引っ張られても、糸は男の動きに合わせて少しだけ伸びた。
「動かないで……と言っても、無理なのでしょうね」
リゼリアは小さく息を吐き、糸を一本増やした。
シュテルがその脇を抜ける。青白い盾を掌の前に立て、男の鎖を横へ受け流した。引き戻そうとする腕が糸に止められる。
「ごめんなさい!」
小盾が男の顎先を打つ。
ふらついた身体を横から支え、床へ滑らせたところで、別の鉤棒がシュテルの背中へ迫った。
「後ろ!」
俺はグレゴールとの間合いを一瞬だけ外し、銃口を鉤棒へ向けた。
発砲音が石壁に跳ね返る。鉤と柄を繋ぐ金具が飛び、鉄の先端が床を滑った。
握り手を失った作業員の腕がなお振り下ろされる。その身体をリゼリアの糸が捕まえた。
「助かりましたわ!」
「貸し一つな!」
「あとで数えて差し上げます!」
シュテルは返事をしなかった。支えた男を横たえ、次の相手へ向き直っている。
……忙しいな、まったく。
だが、少しずつ動きが変わってきた。
リゼリアは作業員が互いにぶつからない間隔で拘束し、シュテルが一人ずつ意識を落としていく。盾に頭を乗せられた男たちが、壁沿いに並び始めた。
あの2人なら任せられる。
問題は、俺の目の前にいる奴だ。
「よそ見が多いな、赤鐘!」
グレゴールが操作卓の縁を掴み、身体を引き寄せた。重い靴音が近づく。
俺は拳の横を滑り抜け、《赤鐘》の銃口を奴の顔へ向けた。
グレゴールは顎を引かず、むしろこちらへ踏み込んだ。撃てば背後の作業員に当たる位置を選んでいる。
「撃ってみろよ」
「頼まれて撃つほど親切じゃねえよ!」
銃口を下げ、腕の下をくぐる。奴が追いかけてくるところへ、踵で足首を払った。
びくともしない。
代わりに補強具の膝が腹へ迫る。両腕で受けようとして、やめた。これも受けたら折れる。
横へ跳び、肩を壁に擦りつける。
そこへ、グレゴールの頭突きが来た。
「うおっ!」
額が鼻先を掠めた。視界が揺れ、唇の裏を噛む。
「……ほんとに喧嘩慣れしてんな!」
「お前らが港で暴れていた頃、誰が後始末をしていたと思う!」
「それと俺の顔面は関係ないだろ!」
吐き捨てながら、奴の左腕の内側へ拳を入れた。
硬い金属じゃない。脇の下、補強具の継ぎ目だ。
鈍い音がして、グレゴールの身体がわずかに傾く。すかさず肘を押し上げ、奴の体勢を崩した。
だが、倒れない。
奴は開いた左手で俺の襟を掴み、力任せに引き寄せた。
「捕まえたぞ」
「……二度目だな、それ!」
近すぎる。
銃を間へ差し込む余裕もない。俺は襟を掴む指へ銃把を叩きつけ、左手で奴の手首を押した。
まったく緩まない。
だったら、布を捨てる。
外套の留め具を外す。引っ張られた布だけが奴の手に残り、俺の身体は床へ落ちた。
着地と同時に足を払う。重い身体が半歩よろめいたところへ、胸板を蹴って距離を取った。
外套は返してもらわなくていい。
◇
背後から鎖が鳴った。
作業員の1人が運搬鎖を振り回し、俺の足を狙っている。グレゴールはその動きに合わせて詰めてきた。
挟まれる。
俺は鎖の届く寸前で石床へ膝を落とした。頭上を鉄が通り過ぎ、すぐ後ろでグレゴールの補強腕にぶつかった。
金属同士がぶつかる音。奴が腕で鎖を弾いた。
作業員はなお振り回そうとする。
俺は鎖の留め具へ銃を向けた。火花が散り、握り棒から鎖が外れる。長い鉄の輪が床にばら撒かれた。
「お前……!」
「そいつらに刃物持たせるなよ。危ねえだろ!」
グレゴールの蹴りが来る。銃を脇へ引き、膝を上げて受け流す。衝撃で足が痺れたが、踏みとどまった。
作業員の腕に赤い札が絡みつく。
「カルマ、こちらへ寄せて!」
リゼリアの声だ。
「頼んだ!」
男を傷つけないよう肩を押して位置をずらす。青白い盾が横から入り、男の顎を打った。
身体が崩れる。リゼリアの糸が支え、シュテルが床へ下ろす。
別の2人が迫ってきたが、赤い札が同時に動いた。足を取られ、武器を取り落としたところへ、盾が交互に飛ぶ。
鈍い衝撃音。
2人とも動かなくなった。
次の列が、搬送口で立ち止まっている。
違う。立ち止まらされている。
赤い糸が通路の左右を渡り、作業員の腕と胴を引き留めていた。
リゼリアは奥歯を噛みしめながら札を操っている。額には汗が滲んでいた。
「シュテルさん、まだいけます?」
「はい。倒れた方は私の後ろに」
シュテルも息が上がっている。盾で意識を奪うたび、もう一枚を床へ滑らせて頭を守る。単に打ち倒すだけよりずっと手間が掛かるはずだ。
だが、彼女は手を止めなかった。
搬送口から向かってきた最後の男も盾に受け止められ、床へ横たわった。
通路の先では、縛られたままの作業員が何人か身をよじっている。だが、こちらへ駆け込んでくる者はもういなかった。
「……カルマ!」
リゼリアが振り向く。
「こちらは片づきましたわ。あとは!」
「ああ!」
グレゴールの前に立つ。
もう、背中を気にする必要はない。
奴は認証環を光らせ、倒れた労働者たちを起こそうとした。
誰も動かない。
白い光だけが、腕の環を空しく明滅させた。
「ふざけた真似を……!」
「手下は休憩中だ。あんたもどうだ?」
「黙れ!」
グレゴールが床を蹴った。
……速い。
◇
さっきまでとは違った。
邪魔する作業員も、背後を狙う鉤棒もない。奴もそれを分かっているらしく、まっすぐ俺を潰しに来た。
補強された左拳が横から来る。
半歩沈んで避ける。続いて右の拳。銃を持った腕を引き、肩を捻る。
奴は一度踏み込んだ足を引かない。そのまま前蹴りを繰り出し、逃げる俺の足元を押し潰そうとした。
石床に亀裂が走る。
俺は《赤鐘》のワイヤーを、背後の鉄路へ撃ち上げた。鉤が噛み、身体が上へ引き上げられる。
蹴りの上を越え、空中で腰を捻った。
グレゴールは拳を振り上げてきた。
予想どおり。
巻き取りを止め、反対側へ身体を落とす。鉄拳が空を切り、俺の靴底が奴の肩を打った。
グレゴールがよろめく。だが、膝をつかない。
「よくも……!」
「まだ立つのかよ!」
「これがなきゃ、俺は死んでたんだぞ!」
奴は自分の補強具を叩いた。
黒い金具の隙間から白い光が滲んでいる。胸元へ伸びる線も、両肩を跨いで補助具の奥へ入っていた。
……狙うのは、あそこだ。
心臓を覆うように組まれた黒い補助具。金具の隙間を、白い術式が脈打つように走っている。
2年前の火事で終わるはずだった命を、あれが繋いでいる。ほかの人間から名前を奪ってまで。
問題は、そこまで近づけるかだ。
グレゴールが拳を引く。
俺はワイヤーを戻しながら石床へ着地した。右の銃を下げ、左腰へ手をやる。
奴が目を見開く。
「……それを抜くのか」
「さっきから、これしか残ってねえだろ」
《ミゼリコルド》。普段は滅多に抜かない、もう一挺の銃だ。
グレゴールは俺の左手を見ていた。
なら、右からいく。
《赤鐘》の銃把を奴の顔へ振り上げる。グレゴールが補強腕で受ける。金属がぶつかった隙に、俺は左腰へ手を滑らせた。
《ミゼリコルド》を抜く。
「その銃を撃つなら、先に腕を折る!」
グレゴールが踏み込んできた。右拳を構えたまま、左手で銃を奪いに来る。
俺は銃口を隠すように身体を横へひねった。
奴の手が左肩を掴む。爪のような金具が食い込んで、身体を持ち上げられた。
「カルマ!」
シュテルの声がした。
「手を出すな!」
俺は叫んだ。
ここからは、俺の間合いだ。
グレゴールが拳を振り上げる。俺は左肩を捨てるつもりで腕を伸ばし、補強具の内側へ銃口を押し込んだ。
狙いは左胸。心臓だ。
黒い補助具がそこを覆い、白い術式がその下で光っている。
「……終わりだ、グレゴール」
引き金を絞った。
爆ぜるような銃声が、機械室を揺らす。
至近距離で撃ち込まれた弾丸が胸の補助具を打ち砕いた。黒い金属が飛び、白い術式が弾ける。その奥にあった心臓まで、一撃が突き抜けた。
グレゴールの拳が止まる。
肩を掴んでいた指がほどけ、俺は石床へ落ちた。膝をつきながら見上げると、奴はまだ立っていた。
けれど、もう拳を上げられない。
砕けた胸の金具から白い光が消え、補強腕が力なく垂れ下がる。
グレゴールが何か言いかけた。声にはならなかった。
そのまま膝が折れ、重い身体が倒れる。
床にぶつかった拍子に、真鍮の鐘がかすかに鳴った。
誰も、その音に応じなかった。
作業員たちの腕では、認証環の赤い光が次々と消えていた。
◇
少しの間、誰も口を開かなかった。
耳がじんじんする。火薬の匂いに、焼けた金属の臭いが混ざっていた。
「カルマさん!」
シュテルが駆け寄ってくる。
「左肩、見せてください!」
「……後でいい。まず、あいつを」
グレゴールは仰向けに倒れていた。胸の真ん中で補助具が砕け、白い術式はもう光っていない。
シュテルが首元へ指を当てる。少し待ってから、口元へ手を寄せた。
「……亡くなっています」
「……ああ」
俺が撃った。心臓を狙って、撃った。
シュテルはそれ以上何も言わず、グレゴールの瞼を静かに閉じた。
2年前に死んだことにした男が、人の名前を奪って今日まで生き延びていた。
これで、本当に終わった。
俺は《ミゼリコルド》を下ろした。
「カルマ、肩が……」
リゼリアが近づきかけ、壁際で起き上がった作業員に気づいて足を止める。
「こちらは大丈夫だ。そっちを頼む」
「……分かりましたわ」
シュテルも立ち上がり、倒れた作業員たちの呼吸を確かめて回った。リゼリアは糸を緩めながら、目を覚ました人へ声を掛けている。
奥の男が、自分の腕の認証環を見つめていた。
「……また、働かなきゃいけないのか?」
「いいえ。もう大丈夫ですわ」
リゼリアが答える。
男はしばらく口を開けていたが、やがて顔を両手で覆った。
俺は床に落ちた外套を拾い、左肩に触れないよう右腕へ引っ掛けた。
倉庫の奥で、誰かが小さく泣き始めた。
グレゴールの胸元に、砕けた金具の一片が残っていた。教会の刻印が、まだ読める。
こいつは持って帰らなきゃならないな。
痛む肩を押さえ、金具を拾い上げた。




