第30話 白鎖の継ぎ目
朝から、右の袖がうまく通らない。
袖口を広げても、白い鎖が引っかかる。手首の腫れを避けながら布を引いたところで、今度は背後の台車ががたんと鳴った。
「……もう」
まさか着替えにまで付き添っていただく羽目になるとは。
椅子へ戻り、上着を膝に置いた。隣には《無名簿》を載せた書見台。その留め金から伸びる鎖が、わたくしの右手首に巻きついている。
昨日、血を落としてみたときには締めつけが強くなった。名前を確かめることはできても、解く方法までは見つからなかった。
窓の外では、工房の軒から雨粒が落ちている。カルマは昨日、水門まで調べて戻ってきたそうだ。あの方にばかり動いていただくのも、そろそろ申し訳ない。
……それに、いい加減、着替えくらい一人でしたいわ。
「リゼリアさん、入ってもいいですか?」
シュテルさんの声がした。
「ええ。ただ、少々お見苦しい格好ですけれど」
扉が開く。わたくしの膝にある上着と鎖を見るなり、彼女は事情を察したらしい。
「袖を通すの、手伝いましょうか」
「お願いできます?」
シュテルさんが鎖を避けるように袖口を持ち上げる。布が手首の傷に触れないよう、時間をかけて通してくれた。
「昨日より赤みは引いていますね。でも、まだ痛むでしょう?」
「少し。動かなければ平気ですわ」
「その『動かなければ』が難しいんですよね」
「ええ、まったく」
彼女が笑いながら、袖の皺を直してくれた。
その手つきを見て、ふと気づく。
布は鎖を通り抜けられない。けれど鎖は、わたくしの腕を引っ張るたびに長さを変え、手首から留め金へ戻っていく。
まるで一本の縄を繋いでいるようでいて、縄とは少し違う。
「シュテルさん。あとで少し、お時間をいただける?」
「鎖を調べるんですか?」
「ええ。今度は血を使いませんわ」
「……先にそう言っていただけてよかったです」
疑われている。
残念ながら、昨日の失敗を思えば仕方のないことね。
◇
《無名簿》を窓際へ寄せてもらい、燭台を二つ並べた。
カルマも起きてきたので、台車を押さえる役を頼んだ。脇腹の包帯が見えたけれど、本人は椅子に座っていれば問題ないと言い張っている。
「で、今度は何をするんだ?」
「留め金をよく見たいんですの。昨日は頁ばかり調べておりましたから」
「引っ張るのはなしだぞ。こっちも台車ごと持っていかれる」
「承知しております」
右手を動かさず、左手で《ブラッドアルカナ》を1枚浮かべた。
魔札を細く傾け、留め金の下へ差し込む。刃を立てるのではなく、燭光を反射させるためだ。
黒ずんだ金具の内側に、薄い銀色の板が見えた。
周りの革と金具は古い。縁に細かな擦り傷があり、指の触れるところだけ鈍く光っている。
けれど、その銀板だけは妙に新しい。
「これ、後から取りつけたのでしょうか」
シュテルさんが顔を近づける。
「そう思います。ほら、留め金の裏側。ここだけ鋲の頭が違いますの」
「よく見つけたな」
「父が、こういう細工にはうるさい方でしたから」
監査用の封書を見せられたときも、そうだった。
封蝋の印が正しくても、紙の繊維や糸の結び目が合わなければ開き直された疑いがある。父は、細工そのものより、手を加えた跡を探すよう教えてくれた。
わたくしは札を少しずらす。
銀板の端から白い線が伸び、帳簿の本来の留め金に沿っていた。その線は頁へ入らず、途中で曲がり、わたくしの手首へ向かっている。
「……あら」
「何か見つけました?」
「鎖の繋ぎ方が、おかしいんですの」
頁へ向かう線は、別の細い溝を通っている。先ほどの銀板には触れていない。
つまり、名前を読むための仕掛けと、わたくしを捕らえる仕掛けは、少なくとも入口が別なのだ。
「こいつが鎖の元か?」
「その可能性はありますわ。ただ、すぐに外せるとは限りませんけれど」
「昨日のこともあるしな」
「ええ。痛い思いをするのは、もう十分ですもの」
カルマが苦笑した。
シュテルさんは銀板に指を寄せかけ、すぐに止めた。
「触れていないのに、わずかに魔力が流れています。こちらから鎖へ向かっていますね」
「では、わたくしが本名を名乗ったとき、ここが繋がったのでしょうね」
「血で反応が強まったのも、そのせいかもしれません」
まだ確証はない。でも、ようやく調べる場所を絞れた。
◇
銀板の縁を、魔札の反射で照らし直した。
帳簿の頁へ向かう術式線と、銀板から鎖へ伸びる線。間近で見るほど、線の刻み方が違う。後から取り付けられた銀板が、本来の認証を横取りしているように見えた。
「シュテルさん。この白い線だけ、切ることはできます?」
彼女は銀板を覗き込み、頷いた。
「《ステラ・エッジ》なら、術式の接続を断てます。ただ、どこで繋がっているか、もう少し見せてください」
「ええ、もちろん」
わたくしは《ブラッドアルカナ》を1枚、留め金の裏へ滑り込ませる。燭光を反射させると、銀板の根元に小さな白い結び目が浮かび上がった。
「ここですわ。帳簿の中へ入る線は、その奥にあります」
「……分かりました。手首を動かさないでくださいね」
「その前に一つだけ。帳簿の方は大丈夫?」
「線が分かれているので、こちらには触れずに切れそうです。もちろん、少しずつ確かめます」
シュテルさんは右手に、短い星刃を形作った。青白い刃が、銀板の上で静かに止まる。
カルマが台車へ手を掛けた。
「俺はこっちを押さえておく。痛んだらすぐ言えよ」
「ええ。遠慮なく申し上げますわ」
刃の先が、白い結び目に触れた。
きん、と硝子を爪で弾いたような音。
右手首が一瞬きつく締まり、思わず息を呑む。
「……っ!」
刃が止まった。
「いったんやめますか?」
痛みが引くのを待って、首を横に振った。
「もう落ち着きました。続けていただける?」
「分かりました」
星刃がほんの少し傾く。
銀板に走っていた白い線だけが、ぷつりと途切れた。
鎖が緩む。今度は戻らない。手首を覆っていた輪がほどけ、光の粒になって消えていった。
わたくしはゆっくり右手を持ち上げた。
「……外れましたわ」
「よかった」
シュテルさんが刃を収める。わたくしの指を見て、まだ痛むところはないか確かめてくれた。
赤い痕は残っているけれど、手を開いたり握ったりしても、もう引っ張られない。
「これで荷車ごと移動せずに済むな」
カルマがようやく台車から手を離した。
「あら。ずいぶん不便をお掛けしたようで」
「そりゃあな。あんたが立つたびに帳簿がついてくるんだから」
「ふふ。それは申し訳ございませんでした」
《無名簿》の留め金へ目を戻す。古い金具も、頁へ続く術式線も残ったまま。白い銀板だけが光を失っていた。
鎖を作る仕掛けを切り離せた。ならば、これ以上あの板に触る必要はない。
◇
銀板は留め金に残したままにした。刻まれた線をあとで確かめられるよう、形を崩さずにおきたい。
《無名簿》を閉じても、もう腕は引かれなかった。留め金も元の位置に収まり、頁が傷ついた様子はない。
「記録の方は?」
カルマが訊いた。
帳簿を開くと、搬入日や倉庫の符号は昨日と同じ場所に並んでいた。ネージュさんの公名欄は、相変わらず空白のままだ。
「今見える範囲は変わりませんわ。ただ、すべて無事かは、もう少し調べないと」
「そうだな。急がなくていい」
彼は机の端に、昨日写してきた通行札を置いた。
「水門の方は、今日の夜にでも様子を見ようと思ってる。鐘が3度鳴ると格子が開くらしい」
「昨日、あれだけ脇腹を痛めてお帰りになったのに?」
「……あんたまで言うのか」
「心配しますとも。今度はわたくしも動けますから」
カルマが顔を上げる。
「いや、すぐ倉庫へ来いって話じゃないぞ。向こうには白い腕輪をつけた連中がいる。下手に騒げば、あの人たちまで傷つく」
「もちろん存じておりますわ。まずはこちらで、通行札と帳簿を調べましょう」
「助かる。俺は入口と見張りの方を見てくる」
シュテルさんがすぐに口を挟んだ。
「その前に、もう一度傷を見せてください。さっきから椅子に寄りかかってばかりです」
「……よく見てるな」
「見えていますから」
カルマは肩を落とした。
ふふ。今なら少し、彼の気持ちが分かる気がする。
シュテルさんは《無名簿》の留め金に残した銀板へ視線を戻した。
「これが外れたからといって、倉庫の方の腕輪も同じように外せるとは限りませんね」
「ええ。あちらの実物を見ておりませんし、仕組みも違うでしょう。簡単に触れるのは危険ですわ」
「では、まず患者さんたちの首札の記録から確認してみます。何か似た印があれば、お知らせしますね」
「お願いしますわ」
シュテルさんが立ち去ったあと、右手の袖を直した。
たったそれだけの動作が、随分と楽にできる。
……さて。
この手が空いたのだから、机の上の仕事も少しは早くなるでしょう。
書見台の脇へ椅子を寄せる。昼の光の下で、昨日の通行札を広げた。
錨を咥えた海蛇の印。その横に、3本の線と小さな丸。
水門の鐘が鳴る頃までには、もう少し分かることがあるかもしれない。
少なくとも今度は、帳簿に腕を引かれる心配はなかった。




