第29話 錆びた水門の番人
水門の鐘は、3度鳴って止まった。
荷車を引いていた男たちが、また歩き出す。誰も合図を待っていた様子はないのに、足だけが揃っていた。
俺は通りの端で靴紐を結ぶふりをした。
あの荷車の後をつければ、旧塩倉庫まで行けるだろう。問題は、監督役に見つかったときだ。腕輪をつけた連中を盾にされたら、こっちはまともに撃てやしない。
かといって、見失うのも惜しい。
顔を上げると、荷車は水門を渡り終えていた。灰色の作業着が、石壁の向こうに次々と消えていく。
……そういや、この先に裏道があったな。
昔、港の税吏から逃げるときによく使った道だ。たしか、干し網小屋の裏から水路へ抜けられたはず。
俺は荷車と反対側の路地へ入った。
◇
裏道はまだ残っていた。
ただ、覚えているよりずっと狭い。壁から飛び出した木箱を避け、湿った網の下をくぐる。海水に漬けた縄の匂いが服についた。
路地の先には、古い干し網小屋がある。板壁の隙間から西の水路が見えた。荷車が通る石橋も、その先にある低い水門も見渡せる。
ちょうどいい。
俺は壁際にしゃがみ、外套から小さな望遠筒を出した。
向こう岸で監督役が通行札を見せる。門番は札を受け取らず、錨と海蛇の印を確かめただけで格子を開けた。
……通行札さえあれば入れるのか。
荷車が格子を越えたところで、後ろの男が立ち止まった。
右眉の上に傷がある。さっき市場で見かけた男だ。
作業着の袖から、白い腕輪が覗いていた。隣にいた監督役が何か言うと、男はすぐに列へ戻った。
昔、ローデンという親父がいた。
仕事帰りに余ったパンを押しつけてきては、「若いのは食っとけ」と笑う、うるさい男だった。あの眉の傷まで似てる。
呼んで確かめたいところだが、名前を口にしただけで腕輪が反応するなら、やめておいた方がいい。
望遠筒を下ろしかけたとき、門番の背後で白いものが揺れた。
紙の鳥だ。
石橋の欄干から飛び立ち、水路を越えて、今度はこちらへ向かってくる。
「……おいおい」
しゃがんだまま小屋の奥へ退いた。
鳥が小屋の屋根を越えていく。すぐに見えなくなったが、代わりに路地から足音が聞こえた。
1人じゃない。砂利を踏む音が、少しずつ近づいてくる。
「こっちだ。赤い外套の男を見たってよ」
「逃げ道は?」
「裏口に回らせた。お前は俺と入れ」
……ずいぶん手際がいいな。
小屋の入口は南側に一つ。北側にある裏口は、今の俺の位置から6歩ほど先だ。そこを押さえられてるなら、外へ走るのは得策じゃない。
俺は《赤鐘》を抜いて回転胴を確かめた。通常弾が6発。魔力はまだ使っていない。
網を吊っている横木に目をやる。太い縄が天井近くの滑車を通り、壁の木楔に結ばれている。あれを外せば、網が手前へ落ちる仕組みだ。
ここで働いてた頃、一度あの下敷きになったことがある。あまりいい思い出じゃない。
入口の向こうで金具が鳴った。
「出てこい! こっちは顔を見てるんだぞ!」
「そりゃどうも。俺も自分の顔くらい知ってるよ」
「ふざけんな!」
男が踏み込んできた。
短い棍棒を持った大柄な男と、その後ろに短刀の男。どちらも腕に白い環はない。腰の革帯には港の見張り札を下げている。
少なくとも、さっきの労働者とは違うらしい。
「手を上げろ!」
棍棒が振り下ろされる。
俺は右へ一歩ずれ、作業台を挟んだ。棍棒が天板に当たり、乾いた音を立てる。
その間に短刀の男が左へ回った。2人で挟むつもりか。
「なあ、俺に何か用か?」
「西の倉庫を嗅ぎ回っただろ。何を調べてる?」
「古い知り合いを探してんだ。別に悪さはしてないぞ」
「なら銃を置け」
「そうしたら帰してくれるのか?」
返事の代わりに、短刀が突き出された。
話し合いは終わりだな。
俺は作業台を蹴って相手へ滑らせた。男の足に当たり、突き出した刃が机の縁を叩く。
棍棒の男が俺を追って台の横へ出た。棒が肋骨をかすめ、昨日痛めた脇腹に嫌な痛みが走る。もう一歩下がろうとしたところで、北側の裏口が開いた。
3人目。片手に小型の弩を構えていた。
射線にいるのは俺だけ。後ろに労働者はいない。まずはあれをどうにかする。
俺は《赤鐘》を天井へ向けた。
銃声が小屋に響く。鼻に火薬の匂いが刺さった。
弾が木楔を砕き、吊ってあった網が一斉に落ちた。弩の男が驚いて引き金を引く。短い矢が梁に刺さる音がした。
「うわっ、なんだ!?」
網は男の頭と腕に絡みつき、弩ごと床へ引き倒した。
俺は作業台の反対側へ移る。棍棒の男が振り向くより先に、その右手首を銃身で打った。棒が落ち、男は台の角に腰をぶつけて尻もちをつく。
左から短刀。
刃先が外套の袖を裂いた。腕を引いてかわし、相手の肘を作業台の角へ押しつける。短刀が床に滑ったところで、襟を掴んで台の上へ押さえ込んだ。
「動くな。怪我を増やしたくないだろ」
「この野郎……!」
背後で靴底が石床を擦った。棍棒の男が立ち上がったらしい。
短刀の男を作業台へ押さえつけたまま横を見ると、相手は落とした棒を拾おうとしていた。俺は床の棒を靴先で台の下へ押し込んだ。
「待て、そいつ俺の――」
「拾わせるかよ」
素手になった男が掴みかかってきた。俺は台に押さえた男の身体を横へずらし、その後ろへ半歩引く。勢いを殺し切れなかった棍棒の男は仲間にぶつかり、2人まとめて作業台に倒れ込んだ。
俺は短刀の男の手首を押さえ直した。こちらも楽ではない。脇腹が痛んで、息を吸うたびに少し響く。
……後で絶対、脇腹が痛むやつだな。昨日の傷がまだ残っている。
台の上の男がもがく。片手で押さえたまま、腰から細いワイヤーを引き出した。手首を台の脚へ回して留める。強く締めすぎず、指が動くのを確認してから手を離した。
裏口の男は網の中で暴れていた。弩は手から離れている。
「おい、助けろ!」
「そのまま待ってろ。暴れると余計に絡むぞ」
俺は落ちた短刀を拾い、棍棒の男から届かない棚へ放った。作業台の縁を掴んだまま、男は咳き込んでいる。
外から怒鳴り声がした。銃声を聞いた誰かが駆けつけてくるらしい。
長居はできない。
◇
「西の倉庫を見てただけで、そんなに困るのか?」
台に縛った男へ聞くと、男は唾を吐こうとして、顔を逸らした。
「……命令だ。俺たちは知らねえよ」
「誰の?」
「責任者だよ。通行札に名前があるだろ」
「その札は?」
男が黙る。
俺は見張り札を取り、裏返した。木札の裏には、小さな金属板が打ちつけられている。
錨を咥えた海蛇。その下に、見慣れた筆跡で通行の時刻が書き込まれていた。
古い印の流用なら珍しくない。だが、これは今日の日付だ。
「……あんたら、誰にこれを渡された?」
「顔は見てねえ。毎回、奥の窓口から出されるんだ」
「旧塩倉庫か?」
「違う。水門の下だ。鐘が鳴ったら、札を持って取りに行けって……」
男が言い終わらないうちに、遠くでまた鐘が鳴った。
ごん、と鈍い一打。
台に縛られた男が顔を上げる。さっきまで威勢のよかった顔が、青くなっていた。
「まずい……もう次の荷が来る」
「何が来る?」
「知らねえよ! ただ、鐘のあとで窓口を開けたままにすると、怒鳴られるんだ。閉めねえと……」
男は喉元を押さえた。
首には、白い環こそない。だが、襟の内側に赤く擦れた跡があった。
……なるほど。見張りだって、好きで働いてるとは限らないか。
「窓口を開けてるのは誰だ?」
「分かんねえ。向こうは暗くて、声しか聞いたことがねえんだ」
「どんな声だ?」
「低い声で……。昔から港にいる奴みたいな喋り方をする。あんたの名前も知ってたぞ」
「俺の?」
「赤鐘の小僧が戻ってきたら知らせろって。昨日から、そればっかりだ」
口の中が乾いた。
グレゴールが使っていた呼び方だ。
もちろん、知ってる奴はほかにもいる。これだけで生きてると決めつけるつもりはない。
ただ、ますます放っておけなくなった。
俺は男の拘束を解き、ワイヤーを回収した。
「行け。大通りへ出れば人がいる。銃声を聞いた連中も来るだろ」
「……逃がすのか?」
「銃声で人が来る。ここに残って捕まりたいなら、好きにしろ」
そう言って背を向けたところで、男が声を上げた。
「待て! 水門の鐘が3度鳴ったら、地下の格子が開く。1度だけの時は近寄るな。奴ら、何か試してる」
「分かった。助かる」
「……助けたつもりはねえぞ」
「分かってるよ。お互い、面倒なのはごめんだろ」
俺は裏口から外へ出た。
走り出すと、脇腹がずきりと痛む。外套の袖も裂けていた。昨日の傷は、やっぱり誤魔化せないか。
石橋の向こうで、また白い紙鳥が一羽、屋根の上へ降りた。
追ってはこなかった。
こっちの居場所を知らせる役目は終わったのか。それとも、まだ別の奴が見ているのか。
格子の内側を見られなかったのは惜しいが、通行札の手掛かりは取れた。もう一度あそこで撃ち合う気にはなれない。
◇
巡回の見張りを避け、遠回りして施療所に戻る頃には、夕方の鐘が鳴り始めていた。
オルガさんに脇腹の傷を見せると、眉間に皺を寄せられた。
「昨日も来たね、あんた」
「まあ、いろいろあってさ」
「いろいろで済ませるな。ほら、そこに座りな」
言われるまま椅子に腰を下ろす。包帯を替えてもらっていると、隣の部屋からシュテルが顔を出した。
「カルマさん、戻ったんですね。……その袖は?」
「網に引っかけた」
「網?」
「ちょっとな。向こうの連中とも引っかかってきた」
シュテルはため息をついてから、オルガさんへ替えの布を手渡した。
「無理をしないでください。まだ昨日の傷も治っていないんですから」
「分かってるよ。今日はもう動かない」
「……本当ですね?」
「本当、本当」
口だけなら信用してもらえそうにないな。
部屋の奥では、リゼリアが《無名簿》の前に座っていた。右手首から伸びる白い鎖は、相変わらず台車の方へ繋がっている。
「お帰りなさい。随分と派手なお袖ですこと」
「土産はそっちじゃない。これを見てくれ」
俺は写してきた通行札の印を帳簿の横に置く。
「同じ印ですわね。……日付は今日?」
「ああ。水門の見張りが、地下の窓口で受け取ったそうだ。誰が渡してるのかは分からん」
「では、倉庫が今も動いているのは確かですわね」
リゼリアは紙を傾け、認証線の形を確かめている。
「それと、俺のことを知ってるらしい。赤鐘の小僧が戻ってきたら知らせろって、見張りに言ってたそうだ」
彼女の手が止まった。
「……グレゴールが?」
「さあな。あいつなら言いそうなことだけど、まだ顔は見てない」
「鐘の合図については?」
「3度なら格子が開く。1度のときは近づくなって話だった」
シュテルが横から訊いた。
「その合図で、働いている方たちも動いていたんですか?」
「ああ。俺が見た限りじゃ、鐘の音で揃って歩き出してた」
「なら、無理に押し入るのは危険ですね。あの腕輪も、まだ仕組みが分かっていませんし」
「俺もそう思う。明日は別の入口を探してみるよ」
「カルマさん、明日は休んでください」
「……えっ」
シュテルの声がいつもより少し低い。
隣でリゼリアが笑いをこらえている。
「そうですわね。今日はずいぶん働いてくださいましたもの」
「2人して人を休ませに来るなよ」
「少なくとも、私が傷を診るまでは外出を許しません」
「分かった、分かった。じゃあ先に寝る。起こすなよ」
椅子から立ち上がろうとすると、脇腹が痛んだ。顔に出さないようにしたつもりだが、シュテルにはしっかり見られていた。
「……ほら」
「見たな」
「見えました」
諦めて腰を下ろす。
リゼリアは帳簿へ目を戻した。その指先が、今日の日付の横で止まっている。
銃を手入れしようとすると、回転胴の中に一つだけ空薬莢があった。さっき網を落とすために撃った分だ。
あの男が口にした「赤鐘の小僧」という呼び方を思い出す。
2年前に死んだはずのグレゴール。もし本当に生きているなら、今の俺をどこまで知っている?
空薬莢を抜き、卓に置いた。
次に会うときは、あの腕輪をつけた連中を前に出してくるかもしれない。だったら、もう少し準備が要る。
俺は弾帯を開き、使える弾を数え直した。




