第28話 朝市に紛れた番号
《無名簿》から見つかった旧塩倉庫の手掛かり。カルマは、港の朝市へ聞き込みに向かう。
施療所の戸を閉めると、湿った風が顔に当たった。
雨は上がっていたが、港へ続く石畳にはまだ水が溜まっている。裾を避けながら歩き出して、外套の内側から荷札の控えを取り出した。
錨を咥えた海蛇の印。その下に並ぶ、見慣れた倉庫の符号。
グレゴール・ヴァイス。
今朝、リゼリアがこの名を読んだときには驚いた。あいつが火事で死んだと聞いたのは、もう2年前だ。
火事の後、グレゴールの拠点は閉鎖されたはずなのに、あの帳簿には最近の日付があった。印を誰かが使っているだけなのか。それならそれで、十分まずい話だ。
朝市の通りが見えてきた。
魚屋は売れ残りを桶に戻し、隣のパン屋では昼の分を焼き始めている。荷車を避けて歩く人の間に、仕事を終えた港の連中が混じっていた。
ここなら、組合の人間を知っている奴がいるはずだ。
◇
「おう、久しぶりだな」
干物屋のおかみは、俺の顔を見るなり眉を寄せた。
「まだ港にいたのかい。とっくに別の土地へ行ったと思ってたよ」
「帰ってきたばかりでな。ちょっと聞きたいことがある」
「金なら貸さないよ」
「借りに来た顔に見えるか?」
「昔はよくそんな顔してた」
言い返せなかった。おかみは鼻で笑い、干物を一枚ひっくり返す。
「西の倉庫で働いてた組合の連中、覚えてるか?」
「グレゴールのとこの? ああ、毎朝うちで飯を買ってたよ。まとめて持っていくから、よく覚えてる」
「最近は?」
「さっぱりだね。代わりに食券だけは届くんだけどさ」
「食券?」
「前と同じ数だよ。支払いもされてる。けど、受け取りに来るのは知らない男ばっかりでね」
おかみが台の下から薄い帳面を出した。日付と枚数、それに受領印が押されている。名前を書く欄はあるのに、どの頁も空白だった。
「昔は誰が受け取ったか、書いてたんじゃないのか?」
「そうだよ。でも、いつからだったかねえ。あの子らの名前が思い出せなくなっちまって」
「顔は?」
「何人かならね。毎朝うちに来て、腹減ったってうるさかったのに……。変な話だろ」
そう言って、おかみは帳面を閉じた。
「役所には聞いたのか?」
「一度ね。そしたら、そんな組合員は最初からいないって言うんだよ。腹が立ったから、食券を持ってくる奴に文句を言ったら、余計なことは聞くなってさ」
「そいつの顔、覚えてるか?」
「目つきの悪い若い男」
「……それだけじゃ、俺も候補に入りそうだな」
「そうだねえ」
おかみが笑ったおかげで、少しは話しやすくなった。
帳面の受領印を写させてもらい、干物を二枚買った。片方は紙に包んで外套に入れる。
「また変なのに首を突っ込む気かい?」
「まだ調べてるだけだよ」
「それなら、そこの酒場にも行ってみな。あの連中、昼過ぎになるとよく寄ってたから」
「助かる」
「干物代、忘れるんじゃないよ」
「今払っただろ」
「昔の分さ」
……覚えてることは、覚えてるらしい。
◇
酒場は朝の片付けを終えたところだった。
主人は俺を見るなり目を丸くしたが、すぐに顎で奥の席を示した。
「昼飯なら、まだ仕込んでねえぞ」
「酒もいらない。西の組合について聞きたい」
その言葉で、主人の手が止まった。
「……あいつらの話か」
壁際には古い木杯がいくつも吊るされていた。底に刻まれた印は擦れているが、同じ組合のものだと分かる。
「もう来ないのか?」
「来ない。ずっとだよ。でも捨てられなくてな」
「知ってる奴の名前は?」
「……妙なんだよ。顔も、どこに座ってたかも覚えてるのに、名前だけ出てこねえ」
主人はひとつの杯を取り、親指で縁を撫でた。
「こいつを使ってた親父は、いつもパンを半分残してた。娘に持って帰るんだとさ。そういうことは覚えてるんだがな」
「役所へ行ったって話を聞いたぞ」
「ああ。そんな奴らはいないって追い返された。それからは、俺まで商売できなくなるぞって脅されてな」
「誰に?」
「分からねえよ。顔を隠してた。もうその話は勘弁してくれ」
「悪かった」
無理に聞いても仕方ない。俺は立ち上がり、買った干物を一枚だけ卓へ置いた。
「何だ、これ」
「口止め料じゃない。昔のツケの分だ」
「こんなんで足りるかよ」
「分かってる。また来る」
主人は呆れたように笑い、それから木杯を元の場所へ戻した。
外へ出て、路地の壁にもたれる。
顔を覚えている者はいる。食券も、杯も残っている。それなのに、役所だけが存在しなかったことにしている。
リゼリアに見せれば、帳簿と照らせるかもしれない。
そう思って控えをしまったところで、通りの向かいにある仕立屋が目に入った。店先の上着に、西の組合で使っていた青い縫い目が残っている。
◇
「これ、昔の荷役服だろ?」
仕立屋の親父は、俺の指した上着を見た。
「そうだが。まだ欲しがる奴がいるのか?」
「いや、誰が着てたか気になってな」
「古い注文のことなら、もう分からんよ。名前が変わってる客もいるからな」
「変わってる?」
親父は一度店の奥を振り返った。
「……ロイ、ちょっと来てくれ」
奥から出てきたのは、30代くらいの男だった。首元の襟をきつく留めている。俺を見た途端、警戒したように足を止めた。
「何ですか」
「この人、西の倉庫のことで調べてるそうだ。お前の昔の注文と関係があるかもしれん」
男は顔をこわばらせた。
「名前を聞きに来たんですか?」
「いや。あんたが知ってることだけ聞ければいい」
「……今はロイって呼ばれてます」
「分かった。俺はカルマだ」
ロイは少しだけ肩の力を抜いた。親父が帳面を開くと、同じ寸法の注文が何件も並んでいる。筆跡は同じなのに、受取人の欄には別々の名前が書かれていた。
「全部、あんたの注文なのか?」
「そうだと思います。でも、前の名前を思い出そうとすると、ここが苦しくなるんです」
ロイが首元を押さえた。襟の隙間から白い傷が見える。
「無理に思い出さなくていい。今の名前で困ってることはあるか?」
「役所の書類が合わなくて。前の仕事の給金も、俺のものじゃないって……」
「そいつは困るな。帳面を写させてもらえるか、親父さん」
「本人がいいって言うならな」
ロイを見る。
「後で調べるのに使いたい。名前は勝手に触れ回らない。それでどうだ?」
彼は迷っていたが、やがて頷いた。
「……今の名前も書いておいてください」
「ロイ、だな」
「はい」
親父が渡してくれた紙の端に、その名を書き加えた。
昔の名前を取り戻したいのかどうかは、まだ聞かなかった。給金のこともあるし、先に確かめることが多すぎる。
店を出ると、近くの鐘が昼を告げていた。そろそろ施療所へ戻る頃合いだが、もう一か所だけ寄りたいところがある。
西の組合がよく使っていた共同浴場だ。
◇
「西の倉庫の連中? ああ、夜中に来るよ」
浴場の主人は、俺の質問にあっさり答えた。
「今も?」
「おかしなことにね。昼間は姿を見ないのに、夜になると揃って来るんだ。終わったらすぐ帰っちまう」
「話はしたか?」
「何度かね。でも返事もしない。腕に白い輪っかをつけててさ、声をかけると光るんだよ」
……白い輪、か。
「何人くらい来る?」
「その日によるよ。奥の棚を使ってる。見てみるかい?」
案内された一角には、番号を刻んだ木札が並んでいた。端の方には新しい擦り傷があり、濡れた床に靴跡が残っている。
「この棚、前は名前が書いてなかったか?」
「そうだった気もするんだけどねえ。ある日見たら番号になっててさ。取り替えた覚えはないんだが」
しゃがんで木札を見ると、削られた跡の上から数字が彫られていた。表面の色が、周りと違っている。
荷札の符号と形がよく似ていた。
「今夜も来るのか?」
「たぶんな。いつも決まった頃に来る」
「そうか。助かった」
「何かあったのかい?」
「まだ分からん。できれば、そいつらには何も聞かずにいてくれ」
「……あんた、厄介ごとを持ち込むんじゃないだろうね」
「そのつもりはないんだけどな」
主人は疑わしそうに俺を見た。
浴場を出ようとしたとき、軒先に白いものが引っかかっているのが見えた。
紙を折った、小さな鳥。
風はないのに、首だけがゆっくり動いていた。
《黒宴》で見た白鳥の印を思い出す。
……やっぱり、見られてるか。
鳥には触れず、何も気づかなかったふりで表通りへ戻った。壊したところで、誰が仕掛けたのかは分からない。それに、こっちが調べていることまで教える必要もない。
◇
市場へ戻ると、通りの向こうから大きな荷車が来た。
引いているのは灰色の作業着を着た男たちだ。先頭から後ろまで、やけに歩調が揃っている。
荷車の周りには二人の監督役らしい男がついていた。片方は短い棒を持ち、もう片方はしきりに通行人をどかしている。
作業着の男たちの腕で、白い輪が光った。
さっき浴場で聞いたものと同じだろう。
俺は魚箱の陰へ移った。
荷車が石畳の継ぎ目に乗り上げたとき、後ろの一人が足をもつれさせた。膝が落ちそうになっても、隣の男は支えようとしない。そのまま同じ速さで歩こうとする。
「おい、遅れるな!」
監督役が棒を振り上げる。
倒れかけた男の腕輪が赤く灯った。
「ぐ……っ!」
男が喉を詰まらせ、胸を押さえる。棒はまだ当たっていない。
胸元の布の下に、細い光が走った。
あれを撃ち壊すのはまずそうだ。腕輪だけ壊しても、身体の中まで術式が繋がっていたらどうなるか分からない。
腰の《赤鐘》に手を伸ばしかけ、やめた。
「邪魔だ、どけ!」
荷車の前にいた子どもが、落とした包みを拾おうとしていた。監督役は気づいているのに、進路を変えない。
「おい、危ねえぞ!」
俺は子どもの襟を掴んで歩道へ引き寄せた。直後に荷車の車輪が水溜まりを跳ね、足元へ泥を散らす。
「何すんだよ!」
子どもが顔を真っ赤にする。
「車輪の下へ潜るな。ほら、これだろ」
包みを拾って渡すと、少し離れたところから母親らしい女が駆け寄ってきた。
「すみません! ほら、お礼は?」
「……ありがと」
「いいから、早く帰れ」
親子を見送る間にも、荷車は進んでいく。
監督役の片方がこちらを振り返った。
「何か用か?」
「目の前で子どもを轢かれちゃ、昼飯がまずくなるだろ」
「だったら引っ込んでろ」
「ああ、そうするよ」
肩をすくめて引き下がる。男の視線が外れたところで、魚屋の庇の下へ回り込んだ。
荷車の一人が、ほんの一瞬だけこちらを向いた。
右眉の上に、古い傷がある。
……あれ?
顔を確かめようと足を止めたが、男はすぐ下を向いてしまった。
昔、西の荷役場にいた親父に似ていた。仕事終わりに酒場で余ったパンを押しつけてきた、あの――。
名前が喉まで出かかった。
けれど、さっき腕輪が赤く光ったのを思い出して、声を飲み込む。呼び止めて、また痛めつけられたらたまらない。
男たちは通りを抜け、西の水門へ向かっていった。
屋根の上では、白い紙鳥が一羽、荷車の後を追うように飛んでいる。
追えば倉庫までの道は分かる。だが、あの監督役に見つかったら、男たちを盾にされるかもしれない。
今は距離を取ろう。
俺は次の角まで歩いてから、石壁に刻まれた古い水路番号を確認した。水門を越えれば道は二本に分かれる。ひとつは旧塩倉庫、もうひとつは廃船渠だ。
地図なら、施療所に置いてある。
……先に知らせておくか。
踵を返しかけたとき、遠くで金属を打つ低い音がした。
荷車の男たちが、揃って歩みを止める。
水門の向こうから、もう一度。
鐘の音だった。
俺はその場で立ち止まった。
あの鐘を、まだ使ってるのか。
【後書き】
お読みいただき、ありがとうございます。




