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第27話 空白の無名簿

《無名簿》を開いたリゼリアは、記録に残った番号と、空白になった公名を照らし合わせる。



 椅子から立とうとして、右腕が引っ張られた。


「……痛っ」


 白い鎖が手首に食い込んでいる。反対側は、台車に載せた《無名簿》の留め金へ繋がったままだった。


 そうだったわね。昨夜は、これを調べながら眠ってしまったらしい。


 窓から朝の光が差し込んでいる。頬には、机に伏せていたときについた袖の跡が残っていた。


 鎖を少し持ち上げてみる。重いだけで、長さは昨日と変わらない。擦れた手首は、まだじんじんと痛んだ。


「リゼリアさん、起きていますか?」


 扉の向こうからシュテルさんの声がした。


「ええ、どうぞ」


 入ってきた彼女は、包帯と清潔な布を抱えていた。白い外套の代わりに、今は薄手の上着を着ている。


「お加減はいかがですか?」


「手首が少し痛むくらいですわ。今、何時頃かしら?」


「朝の鐘が鳴ったばかりです。オルガさんが、あとで傷を見せてほしいそうですよ」


「では、こちらが済んだら伺いますわ」


「その前に包帯を替えさせてください。昨日から気になっていたんです」


 ……見逃してくださいそうにないわね。


 右手を差し出すと、シュテルさんは鎖を引かないように布を外した。


「昨日より腫れていますね。今日はあまり動かさないでください」


「分かりましたわ。読むだけなら左手でもできますし」


「本当に、読むだけにしてくださいね」


 釘を刺されてしまった。


 手当てを終えたシュテルさんは、机に何枚かの紙を置いた。


「船から持ち帰った荷札の控えです。お名前を話せる方には、オルガさんが確認しています」


「ありがとうございます。あとで帳簿と照らしてみますわ」


「何かあれば呼んでください」


 彼女が広間へ戻ると、わたくしは《無名簿》を開いた。


 黒い革表紙も、分厚い頁も、昨夜と変わらない。欄外には細い術式線が走り、小さな印がいくつも並んでいる。


 搬入日、保管先、札の番号。そこまでは読めるのに、公名の欄だけが空いていた。


 あれほど厳しく人を管理していたのに、名前だけ残さないなんて。何か仕掛けがあるのでしょうけれど……。


     ◇


「朝からやってるのか」


 顔を上げると、カルマが湯気の立つ杯を持っていた。


「少し気になることがありまして」


「まあ、その前にこれを飲め。オルガからだ」


 机に置かれた杯から、生姜の香りがした。


「ありがとうございます」


「で、何が分かった?」


「それが、まだ。こちらを見てくださる?」


 帳簿を彼の方へ向ける。


「日付も搬送先も書かれていますのに、名前のところだけ何もないんです」


「消されたんじゃないのか?」


「わたくしもそう思ったのですけれど、消した跡すら見当たりませんの」


 カルマが机に肘をつき、頁を覗き込んだ。


「……確かに真っ白だな」


「少し離れてくださる? お茶をこぼされては困りますわ」


「おっと、悪い」


 彼が杯を端へ寄せたところで、わたくしは紙を二枚並べた。


 一枚は昨夜の船から持ち帰った荷札の控え。もう一枚は、以前オルガさんが書き留めていたネージュさんの首札の記録だ。


「こっちはネージュの番号か?」


「ええ。オルガさんが首札の番号を控えてくださったの。同じものがないかと思いまして」


「なるほどな」


 帳簿の中から、ネージュさんの首札にあった番号と一致する欄を探す。見つかったのは、やはり名前のない頁だった。


「ネージュ・アーレン。名前はもう分かってるんだろ?」


「ええ。シュテルさんも以前からご存じですもの。でも、こちらには何も出てこなくて」


「帳簿の方がおかしいってことか」


「それなら話が早いのですけれどね」


 頁を窓の方へ傾ける。名前の欄の周りを、細い術式線が迂回していた。


 ……ここだけ避けているのかしら。


 昨夜、わたくしが本名を名乗ると反応した留め金へ目を移す。


「カルマ、少し試してみてもよろしい?」


「その鎖にか?」


「いえ、留め金の方ですわ。血で反応するか、確かめたいんです」


「手首、昨日から痛がってただろ。無理はするなよ」


「ええ。おかしな動きをしたら、すぐにやめます」


 左手の指先を針で浅く刺し、留め金へ一滴だけ落とした。


 金具が白く光った。


「……っ!」


 右手首が締まる。反射的に腕を引いてしまい、鎖が台車の縁を叩いた。


「おい、大丈夫か!」


「ええ……少し驚いただけですわ」


 痛みをこらえながら頁を見る。


 空白だった欄に、小さな文字が浮かんでいた。


 ネージュ・アーレン。


 その隣にも、日付と見慣れない印が現れている。


「カルマ、こちらを!」


「名前が出たな。隣の印は何だ?」


「それを見ようと……あら」


 文字が薄くなり、あっという間に消えてしまった。


「消えたぞ」


「……もう少し見たかったのですけれど」


 指先を見下ろす。もう一度血を落とせば読めるかもしれない。でも、鎖が今度はどれだけ締まるか分からなかった。


 ひとまず、見えた印の形を紙へ書き写す。


「その印なら、ここにもある」


 カルマが荷札の控えを裏返した。


 確かに似ている。線の曲がり方も、中央の小さな点も同じだった。


「……偶然にしては、よく似ていますわね」


「何かの承認印か?」


「かもしれません。でも、誰の印なのかまでは分かりませんわ」


 父の《名証印》を思い出した。公名がどう扱われたか確かめるための印。もし同じようなものなら、名前を隠した者の手掛かりになるかもしれない。


     ◇


 昼前、シュテルさんが戻ってきた。袖から薬草の匂いがする。広間の診察を手伝っていたのだろう。


「シュテルさん、少しよろしい?」


「はい。何かありましたか?」


「こちらの印に見覚えはありません?」


 書き写した紙を渡すと、シュテルさんはしばらく眺めてから頷いた。


「教会の搬送票で、似たものを見た気がします。承認欄にあった印です」


「どなたのものか分かります?」


「そこまでは……。元の票があれば、比べられるのですが」


「では、そちらも探してみましょう」


「それと、こちらを見てください」


 シュテルさんが別の荷札の控えを広げた。上の方に錨と海蛇の絵があり、裏面には短い符号が書かれている。


「オルガさんが、港の荷札に似ているとおっしゃっていました」


「それ、見せてくれ」


 カルマが横から覗き込む。


「ああ、やっぱり。昔、西の倉庫で使ってた札だ」


「今も使われていますの?」


「どうだろうな。俺が仕事してた頃には、まだあったけどよ」


 彼は裏の符号を指した。


「これは荷物を置く場所を示す印だ。人につけるもんじゃない」


「……随分な扱いですこと」


 帳簿をめくると、後ろの方にも同じ印が見つかった。そこには日付と数量が並んでいる。


 品目の欄に記されているのは、白荷、軽荷、歌荷という短い言葉だった。


「歌荷……」


 シュテルさんが眉を寄せた。


「船で歌わされていた子たちのことでしょうか」


「そうかもしれません。でも、今はまだ分かりませんわ」


 あの少女は喉を傷めている。無理に話を聞くより、帳簿と札を先に調べた方がよさそうだ。


 さらに頁をめくると、同じ倉庫の符号が繰り返し出てきた。そのうちの一件には、港湾労働者の登録番号がいくつも書かれている。


 数えると47人分あった。けれど、全員の名前が抜けている。


「これ、同じ日に運ばれたことになっていますわね」


「47人まとめてか?」


「ええ。でも行き先は書かれていませんの」


「倉庫の印は?」


「こちらですわ」


 カルマに見せると、彼は紙を指で押さえて黙り込んだ。


「……旧塩倉庫か」


「ご存じなの?」


「ああ。港の西側だ。今はほとんど使ってないはずだけどな」


「一度、見に行った方がよさそうですわね」


「そうだな。ただ、まだ誰か出入りしてるかもしれない。先に様子を見た方がいい」


 頁の下には、丸い私印が押されていた。錨を咥えた海蛇。その周りに、細い文字が刻まれている。


「グレゴール・ヴァイス……」


 口にした途端、カルマの指が止まった。


「……今、誰って言った?」


「グレゴール・ヴァイス。ここに名前がございますわ。お知り合い?」


「前に港の仕事を仕切ってた男だ」


「では、話を聞けるかしら」


「2年前の火事で死んだと聞いたぞ」


 彼は印から目を離さない。


「俺も仕事で何度か関わったが……あまりいい相手じゃなかったがな」


「そうでしたの。でも、この記録はもっと最近の日付ですわ」


「……あいつの印を、誰かが使ってるってことか?」


「その可能性はありますわね」


 私印の隣には、王立名録院の承認符号にも似た印がある。こちらも、実物と比べてみなければ分からない。


「死んだという話が間違っているのか、印だけが残っているのか……。今はどちらとも言えませんわ」


「なら、まず倉庫を調べよう」


「ええ。案内していただける?」


「もちろん。ただ、いきなり乗り込むのはやめとけ。誰が見張ってるか分からん」


「そうですわね。先に周りで話を聞きましょうか」


 シュテルさんも紙を覗き込んだ。


「教会に残っている搬送記録も確かめたいです。救出した方々について、何か分かるかもしれません」


「では、手分けした方がよさそうですわね」


「ああ。俺は倉庫の周りを見てくる。顔を覚えてる奴がいれば、話も聞けるだろ」


 カルマが立ち上がったところで、シュテルさんの視線がわたくしの手首に落ちた。


「リゼリアさん、その鎖は……」


 ……そうでしたわね。


 少し立ち上がるだけでも、台車から腕を引かれる。こんな帳簿を引きずって市場へ行くわけにもいかない。


「まず、こちらを何とかしなくてはなりませんわね」


「もう血は使わないでくださいよ」


「ええ。先ほどので懲りましたわ」


「先ほど?」


 シュテルさんに見られ、思わず視線を逸らした。


「……少しだけ、試したことがありまして」


「リゼリアさん」


「ご心配をおかけしました。もういたしませんわ」


 隣でカルマが吹き出した。


「笑い事ではありませんよ、カルマさんも」


「いや、悪い。……俺は先に出るぞ」


 カルマは荷札の控えを持ち、扉へ向かった。


「無理して動くなよ。倉庫の場所が分かったら戻る」


「ええ。お気をつけて」


 彼を見送ってから、もう一度帳簿に目を落とした。


 ネージュさんの名前は確かにあった。では、ほかの空欄にも名前が残されているのだろうか。


 外から魚売りの声が聞こえてくる。今すぐ出かけたいところだけれど、まずはこの鎖を外す手掛かりを探さなくては。

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