↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/77

第26話 濡れた外套と小さな寝台

《黒宴》を脱出し、施療所へ戻ったシュテルたち。救出した人々の手当てが始まる。




 荷船が《夜鴉号》から十分に離れた頃、雨が降り始めた。


 船縁に当たる波の音に、雨粒の細かな音が混じる。振り返ると、黒い船の上にはまだ煙が残っていた。遠くの警鐘も鳴りやまない。


 私は膝の上で指を開いたり閉じたりした。


 船底で使った《ステラ・サンクチュアリ》の負荷が、まだ両肩に残っている。腕を上げようとすると、背中まで鈍く痛んだ。


「シュテルさん、この人を見てください」


 荷役人に呼ばれ、船の中央へ移る。


 毛布をかけられた男性が、浅い息を繰り返していた。顔色も悪い。私は横にしゃがみ、呼びかけたが返事はなかった。


「オルガさん! こちらの方、呼吸が弱くなっています!」


「分かった! もう少しで着くから、そのまま様子を見ておくれ!」


 舵を握るオルガさんの声が飛んでくる。


 皆を船から連れ出せたのはよかった。けれど、長く封印されていた人の中には、衰弱がひどい人もいる。早く診てもらわなければ。


 隔離室から助けた少女も、外套にくるまって喉を押さえていた。目が合うと、かすかに頷く。無理に話しかけるのはやめておいた。


 水路の向こうに、見覚えのある建物が見えた。


 古い染物工房だ。ネージュを連れて駆け込んだ時と同じように、裏口には灯りがついていた。


     ◇


 船が岸に着くと、荷役人たちが板を渡した。


「歩ける人は、こっちの人についておいで。急がなくていいよ。運ぶ必要がある人は後から降ろす!」


 オルガさんが声をかけ、工房から出てきた人たちも手伝い始める。


 先ほどの男性を運ぶため、私は小さな星盾を水平に広げた。身体の下へ滑り込ませ、ゆっくり持ち上げる。


 船縁を越えたところで、盾の端が揺れた。


「……っ」


 慌てて力を込める。けれど、光の面がうまく安定しない。


「俺が持つ。そっちを支えてくれ!」


 カルマさんが荷役人と一緒に男性の身体を受け止めた。私は2人がしっかり支えたのを確かめてから、盾を解く。


「すみません。まだ使えると思ったのですが」


「さっきから腕が震えてるだろ。ここは任せてくれ」


 言われてみれば、指先にも力が入りにくい。


「……お願いします」


「了解。先に行って、寝かせる場所を聞いてきてくれ」


 私は頷き、工房の裏口へ向かった。


 中には暖炉が焚かれていて、煮沸した布と薬草の匂いがした。壁際には毛布が積まれ、普段は作業台のある場所にも寝具が並んでいる。


「オルガさん。呼吸が弱い方を運んできます。どちらへ?」


「奥の寝台だよ。まず私が診る。ほかの人は歩けるかどうかで分けておくれ」


「分かりました」


 戻って伝えると、カルマさんたちが男性を運び込んできた。オルガさんはすぐに胸の動きと脈を確かめ、助手に湯と布を頼んだ。


 私も手伝おうとしたが、肩に手を置かれた。


「シュテル。あんたは喉を傷めている子を見ておくれ。しゃべらせなくていいからね」


「はい」


「あと、あんたも後で診るよ。ずいぶん疲れた顔をしてる」


「……分かりました」


「本当に分かったのかい?」


「今度は、きちんと座ります」


 そう答えると、オルガさんはようやく男性の方へ戻った。


     ◇


 少女は広間の奥に設けた寝台にいた。


 首には導管を外した痕が残り、毛布の下で喉元に手を当てている。近くへ椅子を寄せると、こちらを見上げた。


「ここは施療所です。船には戻りませんから、安心してください」


 少女は唇を動かしたが、声にはならなかった。


「お話は、喉がよくなってからで大丈夫です」


 私がそう言うと、少女は毛布を胸のあたりまで引き上げた。


 何か聞きたいことがあるのかもしれない。けれど、今は痛みの方がつらそうだった。少し様子を見て、必要ならオルガさんを呼ぼう。


「……シュテル様?」


 背後から小さな声がした。


 振り返ると、ネージュが戸口に立っていた。薄茶の髪が寝癖で跳ねている。工房の奥で休んでいたはずだが、人が出入りする音で起きたらしい。


「起こしてしまいましたか?」


「ううん。外が騒がしかったから……。また誰か助けたの?」


「はい。船にいた人たちを連れてきました」


 ネージュは私の脇から部屋を覗き、寝台の上の少女を見つけた。


「……お姉ちゃん?」


 少女が顔を上げる。


 ネージュは駆け寄ろうとして、寝台のそばで立ち止まった。


「手を握ってもいい?」


 少女は小さく頷き、毛布の端から手を出した。


「よかった……」


 ネージュはその手をそっと握り、寝台の横に腰を下ろした。


 私は椅子を少し後ろへ引いた。


 2人とも、すぐには何も話さなかった。ネージュが何度か目元をこすっているのが見えたが、声はかけずにおいた。


 喉を傷めた少女は、ネージュの手を離さないまま、少しずつ目を閉じた。


 眠りかけているようだったので、私は椅子を静かに引き、部屋を出た。


     ◇


 広間へ戻ると、壁際に座っていた男性が、落ち着かない様子で胸元を探っていた。


「どうされました?」


「……札がないんだ」


「札、ですか?」


「首に下げられてたやつだ。あれがないと、呼ばれても分からない」


 船で番号を付けられていた方だろう。胸元には紐の擦れた痕が見える。


「ここでは札をつけなくても大丈夫です。何か用があれば、声をかけますから」


「でも、俺の名前……何だったか……」


 男性は言いかけて俯いた。


 私は隣に膝をつく。何か思い出してもらいたかったが、今すぐ答えを求めても困らせるだけだ。


「お名前は、落ち着いてから一緒に調べましょう。今は具合を教えてもらえますか?」


「手が冷たい。あと、頭がぼんやりする」


「オルガさんに伝えますね。毛布もお持ちします」


 男性が頷いたので、近くにあった毛布を広げて渡した。


「……ありがとう」


「すぐに戻ります」


 立ち上がったところで、オルガさんがやってきた。


「今のは聞こえたよ。こっちは私が診るから、あんたは少し休みな」


「まだほかにも――」


「手伝ってもらうことはあるよ。でも、その前に腕を休めておくれ」


 言い返せずにいると、後ろからカルマさんが現れた。


「先生には逆らわない方がいいぞ」


「カルマさんも、その手を診てもらいましたか?」


「……これからだ」


「では、ご一緒しましょう」


 差し出された右手の手袋には焦げた穴が開いていた。船で扉を爆破した時のものだろう。オルガさんは傷を見るなり、カルマさんを長椅子に座らせた。


「ほら、やっぱり火傷してる。手袋を外しな」


「大したことは――」


「いいから」


「……はいよ」


 私は彼の隣に座った。


 治療を受ける側になったのが少し落ち着かず、膝の上で手を組んだ。


     ◇


 リズさんは、工房の一番奥にいた。


 運び込んだ台車には《無名簿》の書見台が載せられ、布がかけられている。台車の車輪は魔札で固定されていた。


 彼女の右手首から伸びる白い鎖は、今も帳簿の留め金へ繋がっている。


「腕はどうですか?」


「少し痛みますけれど、動かせますわ」


 そう言って見せてくれた手首には、鎖で擦れた傷があった。血もまだ滲んでいる。


「診せていただいても?」


「ええ。ですが、鎖には触れない方がよろしいかと」


「分かりました。傷だけ確認します」


 椅子を寄せ、彼女の手を支える。指先の感覚を確かめてもらい、手首の傷を見た。ひどく腫れてはいないが、鎖が食い込むところには布を巻けそうにない。


「傷を洗いたいのですが、鎖を動かしても大丈夫でしょうか」


「無理に引くと、帳簿の留め金が反応しますの。できれば、このままで」


「では、周りだけにしておきます。あとでオルガさんにも診てもらいましょう」


 私は湿らせた布で傷の周囲を拭き、鎖に触れないところへ清潔な布を当てた。


「ありがとうございます」


「無理に腕を動かさないでくださいね」


「しばらくは、この台車と一緒にいるしかありませんわね」


 彼女は困ったように笑った。


「……シュテルさん。お伝えしておきたいことがありますの」


「はい」


「リズ・ヴァーレンというのは、競売へ入るために使った名です。わたくしの本当の名は、リゼリア・ノワールヴェインと申します」


 ノワールヴェイン。


 王都で処刑された公爵の姓だ。教会の記録でも目にしたことがある。


「……そうだったのですね」


「驚かれました?」


「ええ、少し。お聞きしたいこともありますが……今は腕の方が心配です」


 彼女は私を見つめ、それから小さく笑った。


「では、質問は後日にしていただけるかしら」


「もちろんです。これからは、リゼリアさんとお呼びしても?」


「ええ。お願いしますわ」


 そこで背後から声がした。


「腕の具合はどうだ?」


 カルマさんだ。右手には包帯が巻かれ、左手にいくつかの搬送札を持っている。


「傷の周りは処置しました。鎖はそのままです」


「そっちは俺も見た。引っ張るのはやめておこう」


「同感ですわ。そう簡単に外せるものなら、船の上で済ませておりますもの」


 リゼリアさんが肩をすくめる。


「で、カルマ。そちらの札は?」


「船から持ち出したやつだ。落ち着いたら帳簿と照らし合わせる」


「後で拝見しますわ」


「今は休んでろ。文字は逃げない」


「……ずいぶん優しいのですね」


「無理して倒れられると困るだけだ」


 そう言いながら、彼は荷札を濡れない棚へ移した。


 少し前まで互いの様子を探っていた2人が、こうして普通に話している。もう少し時間があれば、私もいろいろ聞けるかもしれない。


     ◇


 夜が更けるにつれて、雨が強くなった。


 処置を終えた人には毛布が配られ、広間の灯りも少し落とされた。眠っている人もいれば、隣に誰かがいないと不安なのか、椅子に座ったままの人もいる。


 競売場から助けた少女も、ようやく温かい飲み物を少し飲めるようになった。首に残っていた札は、本人に説明してから外してある。オルガさんが傷を見て、寝具を整えてくれた。


「シュテル、これを飲みな」


 オルガさんに差し出された椀から、生姜の香りがした。


「ありがとうございます」


「熱いから気をつけて」


 椀を受け取ると、手が思っていた以上に冷えていることに気づいた。


 カルマさんも長椅子に腰を下ろし、片手で匙を持っている。包帯の巻かれた右手は膝の上だ。


「……船底では、あまり動けませんでした」


 口にしてから、少し言い方を間違えたと思った。


「障壁を張っていたんだろ。あれだけ広けりゃ、動き回るのは難しいさ」


「そうなのですが……奥の部屋にいた子のことが、ずっと気になっていたんです」


「助け出せただろ。今は先生もついてる」


「はい」


 私は温かいスープをひと口飲んだ。


 船底では、障壁を保っている間、ほとんどその場を離れられなかった。もう少し早く導管を止められていたら、とも思う。けれど、あの時は棺の中の人たちを守ることで手一杯だった。


「次に同じようなことがあったら、もっと早く対処できるようにしたいです」


「それは俺も同じだ。搬送路の仕組みが分かってりゃ、あそこまで走り回らずに済んだ」


 カルマさんは匙を置き、肩を回した。


「とりあえず今夜は寝ようぜ。俺も疲れた」


「……そうですね」


 私も椀を置いたところで、奥の部屋から小さな物音がした。


     ◇


 喉を傷めた少女が、寝台の上で身を起こしていた。


 ネージュは隣に座ったまま、彼女の手を握っている。


「どうしました?」


 少女は何か言おうとしたが、すぐに喉を押さえた。


「喉が痛みますか?」


 首を横に振る。それから部屋の外へ視線を向けた。


「外の音が気になりますか?」


 今度は小さく頷いた。


 ネージュが私を見る。


「お姉ちゃん、さっきから音がするたびに喉を押さえてるの」


 船では、歌うのをやめると術式が反応していた。そのことをまだ怖がっているのだろうか。


「歌わないと、また痛くなると思っていますか?」


 少女が頷く。


「もう導管は外してあります。今は歌わなくても大丈夫ですよ」


「……ほんと?」


 かすれた声だった。


「はい。もし痛くなったら、すぐに呼んでください。近くにいますから」


 少女は少し迷ってから、ネージュの方へ身体を寄せた。


「私もいるよ」


 ネージュがそう言うと、少女は頷いた。


 その時、廊下の奥で金属の触れ合う音がした。


 気になって広間へ出ると、《無名簿》の布の下から白い光が漏れていた。


 リゼリアさんが右手首を押さえ、書見台を見ている。


「何かありましたか?」


「留め金が、少しだけ光りましたの。誰も触れておりませんのに」


 私は帳簿の近くへ寄った。鎖はまだ張っているが、先ほどより強く締まった様子はない。


「今は、どうですか?」


「もう収まりましたわ」


 少女が声を出したのと近い時刻だった。ただ、それが原因だとはまだ分からない。


「明るくなったら調べましょう。今はむやみに触らない方がよさそうです」


「わたくしもそう思いますわ」


 カルマさんが台車の車輪止めと窓の鍵を見直し、問題がないのを確かめた。


 大きな異変が起きなかったことにほっとしたが、帳簿のことは気にかかる。明日はオルガさんとも相談して、安全に調べる方法を考えなければ。


     ◇


 休むように言われたのは、工房の奥の小部屋だった。


 壁際に小さな木製の寝台がある。枠には星の模様が彫られ、枕元には布の兎が置かれていた。


「……オルガさん、こちらは?」


「子どもが泊まる時に使ってた寝台だよ。ほかは患者さんが使ってるから、今夜はそこで頼めるかい」


「それは構いませんけれど……」


 寝台の長さを確かめる。私なら足を伸ばして横になれそうだった。


 背後でカルマさんが、小さく笑った。


「何ですか?」


「いや、ちょうどいいなと思って」


「寝台の大きさの話ですよね?」


「ほかに何がある?」


「……カルマさん」


「悪かった、悪かった」


 彼は笑いをこらえながら廊下へ出ていく。


 入れ違いにリゼリアさんが顔を覗かせた。


「随分と可愛らしい寝台ですこと」


「必要があって借りているだけです」


「ええ、分かっておりますわ」


 そう言って、彼女は兎のぬいぐるみを私の方へ向けた。


「……リゼリアさんまで」


「ふふ。おやすみなさい、シュテルさん」


「おやすみなさい」


 小さく息を吐いて、寝台へ腰を下ろす。


 船に乗る前は、リゼリアさんもカルマさんも、何を考えているのか分からないところがあった。今だって、まだ聞いていない話は多い。それでも、こんな冗談を言い合えるようになったのは少し嬉しい。


 広間から、湯を運ぶ足音とオルガさんの声が聞こえる。まだ目を覚まさない人もいるので、夜番は交代で続けるそうだ。


 私は濡れた外套を椅子にかけ、ようやく横になった。


 肩はまだ痛む。明日はきっと、腕を上げるのにも苦労するだろう。


 隣の部屋では、ネージュが少女と話す小さな声がした。


 その声を聞いているうちに、いつの間にか眠っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。