第26話 濡れた外套と小さな寝台
《黒宴》を脱出し、施療所へ戻ったシュテルたち。救出した人々の手当てが始まる。
荷船が《夜鴉号》から十分に離れた頃、雨が降り始めた。
船縁に当たる波の音に、雨粒の細かな音が混じる。振り返ると、黒い船の上にはまだ煙が残っていた。遠くの警鐘も鳴りやまない。
私は膝の上で指を開いたり閉じたりした。
船底で使った《ステラ・サンクチュアリ》の負荷が、まだ両肩に残っている。腕を上げようとすると、背中まで鈍く痛んだ。
「シュテルさん、この人を見てください」
荷役人に呼ばれ、船の中央へ移る。
毛布をかけられた男性が、浅い息を繰り返していた。顔色も悪い。私は横にしゃがみ、呼びかけたが返事はなかった。
「オルガさん! こちらの方、呼吸が弱くなっています!」
「分かった! もう少しで着くから、そのまま様子を見ておくれ!」
舵を握るオルガさんの声が飛んでくる。
皆を船から連れ出せたのはよかった。けれど、長く封印されていた人の中には、衰弱がひどい人もいる。早く診てもらわなければ。
隔離室から助けた少女も、外套にくるまって喉を押さえていた。目が合うと、かすかに頷く。無理に話しかけるのはやめておいた。
水路の向こうに、見覚えのある建物が見えた。
古い染物工房だ。ネージュを連れて駆け込んだ時と同じように、裏口には灯りがついていた。
◇
船が岸に着くと、荷役人たちが板を渡した。
「歩ける人は、こっちの人についておいで。急がなくていいよ。運ぶ必要がある人は後から降ろす!」
オルガさんが声をかけ、工房から出てきた人たちも手伝い始める。
先ほどの男性を運ぶため、私は小さな星盾を水平に広げた。身体の下へ滑り込ませ、ゆっくり持ち上げる。
船縁を越えたところで、盾の端が揺れた。
「……っ」
慌てて力を込める。けれど、光の面がうまく安定しない。
「俺が持つ。そっちを支えてくれ!」
カルマさんが荷役人と一緒に男性の身体を受け止めた。私は2人がしっかり支えたのを確かめてから、盾を解く。
「すみません。まだ使えると思ったのですが」
「さっきから腕が震えてるだろ。ここは任せてくれ」
言われてみれば、指先にも力が入りにくい。
「……お願いします」
「了解。先に行って、寝かせる場所を聞いてきてくれ」
私は頷き、工房の裏口へ向かった。
中には暖炉が焚かれていて、煮沸した布と薬草の匂いがした。壁際には毛布が積まれ、普段は作業台のある場所にも寝具が並んでいる。
「オルガさん。呼吸が弱い方を運んできます。どちらへ?」
「奥の寝台だよ。まず私が診る。ほかの人は歩けるかどうかで分けておくれ」
「分かりました」
戻って伝えると、カルマさんたちが男性を運び込んできた。オルガさんはすぐに胸の動きと脈を確かめ、助手に湯と布を頼んだ。
私も手伝おうとしたが、肩に手を置かれた。
「シュテル。あんたは喉を傷めている子を見ておくれ。しゃべらせなくていいからね」
「はい」
「あと、あんたも後で診るよ。ずいぶん疲れた顔をしてる」
「……分かりました」
「本当に分かったのかい?」
「今度は、きちんと座ります」
そう答えると、オルガさんはようやく男性の方へ戻った。
◇
少女は広間の奥に設けた寝台にいた。
首には導管を外した痕が残り、毛布の下で喉元に手を当てている。近くへ椅子を寄せると、こちらを見上げた。
「ここは施療所です。船には戻りませんから、安心してください」
少女は唇を動かしたが、声にはならなかった。
「お話は、喉がよくなってからで大丈夫です」
私がそう言うと、少女は毛布を胸のあたりまで引き上げた。
何か聞きたいことがあるのかもしれない。けれど、今は痛みの方がつらそうだった。少し様子を見て、必要ならオルガさんを呼ぼう。
「……シュテル様?」
背後から小さな声がした。
振り返ると、ネージュが戸口に立っていた。薄茶の髪が寝癖で跳ねている。工房の奥で休んでいたはずだが、人が出入りする音で起きたらしい。
「起こしてしまいましたか?」
「ううん。外が騒がしかったから……。また誰か助けたの?」
「はい。船にいた人たちを連れてきました」
ネージュは私の脇から部屋を覗き、寝台の上の少女を見つけた。
「……お姉ちゃん?」
少女が顔を上げる。
ネージュは駆け寄ろうとして、寝台のそばで立ち止まった。
「手を握ってもいい?」
少女は小さく頷き、毛布の端から手を出した。
「よかった……」
ネージュはその手をそっと握り、寝台の横に腰を下ろした。
私は椅子を少し後ろへ引いた。
2人とも、すぐには何も話さなかった。ネージュが何度か目元をこすっているのが見えたが、声はかけずにおいた。
喉を傷めた少女は、ネージュの手を離さないまま、少しずつ目を閉じた。
眠りかけているようだったので、私は椅子を静かに引き、部屋を出た。
◇
広間へ戻ると、壁際に座っていた男性が、落ち着かない様子で胸元を探っていた。
「どうされました?」
「……札がないんだ」
「札、ですか?」
「首に下げられてたやつだ。あれがないと、呼ばれても分からない」
船で番号を付けられていた方だろう。胸元には紐の擦れた痕が見える。
「ここでは札をつけなくても大丈夫です。何か用があれば、声をかけますから」
「でも、俺の名前……何だったか……」
男性は言いかけて俯いた。
私は隣に膝をつく。何か思い出してもらいたかったが、今すぐ答えを求めても困らせるだけだ。
「お名前は、落ち着いてから一緒に調べましょう。今は具合を教えてもらえますか?」
「手が冷たい。あと、頭がぼんやりする」
「オルガさんに伝えますね。毛布もお持ちします」
男性が頷いたので、近くにあった毛布を広げて渡した。
「……ありがとう」
「すぐに戻ります」
立ち上がったところで、オルガさんがやってきた。
「今のは聞こえたよ。こっちは私が診るから、あんたは少し休みな」
「まだほかにも――」
「手伝ってもらうことはあるよ。でも、その前に腕を休めておくれ」
言い返せずにいると、後ろからカルマさんが現れた。
「先生には逆らわない方がいいぞ」
「カルマさんも、その手を診てもらいましたか?」
「……これからだ」
「では、ご一緒しましょう」
差し出された右手の手袋には焦げた穴が開いていた。船で扉を爆破した時のものだろう。オルガさんは傷を見るなり、カルマさんを長椅子に座らせた。
「ほら、やっぱり火傷してる。手袋を外しな」
「大したことは――」
「いいから」
「……はいよ」
私は彼の隣に座った。
治療を受ける側になったのが少し落ち着かず、膝の上で手を組んだ。
◇
リズさんは、工房の一番奥にいた。
運び込んだ台車には《無名簿》の書見台が載せられ、布がかけられている。台車の車輪は魔札で固定されていた。
彼女の右手首から伸びる白い鎖は、今も帳簿の留め金へ繋がっている。
「腕はどうですか?」
「少し痛みますけれど、動かせますわ」
そう言って見せてくれた手首には、鎖で擦れた傷があった。血もまだ滲んでいる。
「診せていただいても?」
「ええ。ですが、鎖には触れない方がよろしいかと」
「分かりました。傷だけ確認します」
椅子を寄せ、彼女の手を支える。指先の感覚を確かめてもらい、手首の傷を見た。ひどく腫れてはいないが、鎖が食い込むところには布を巻けそうにない。
「傷を洗いたいのですが、鎖を動かしても大丈夫でしょうか」
「無理に引くと、帳簿の留め金が反応しますの。できれば、このままで」
「では、周りだけにしておきます。あとでオルガさんにも診てもらいましょう」
私は湿らせた布で傷の周囲を拭き、鎖に触れないところへ清潔な布を当てた。
「ありがとうございます」
「無理に腕を動かさないでくださいね」
「しばらくは、この台車と一緒にいるしかありませんわね」
彼女は困ったように笑った。
「……シュテルさん。お伝えしておきたいことがありますの」
「はい」
「リズ・ヴァーレンというのは、競売へ入るために使った名です。わたくしの本当の名は、リゼリア・ノワールヴェインと申します」
ノワールヴェイン。
王都で処刑された公爵の姓だ。教会の記録でも目にしたことがある。
「……そうだったのですね」
「驚かれました?」
「ええ、少し。お聞きしたいこともありますが……今は腕の方が心配です」
彼女は私を見つめ、それから小さく笑った。
「では、質問は後日にしていただけるかしら」
「もちろんです。これからは、リゼリアさんとお呼びしても?」
「ええ。お願いしますわ」
そこで背後から声がした。
「腕の具合はどうだ?」
カルマさんだ。右手には包帯が巻かれ、左手にいくつかの搬送札を持っている。
「傷の周りは処置しました。鎖はそのままです」
「そっちは俺も見た。引っ張るのはやめておこう」
「同感ですわ。そう簡単に外せるものなら、船の上で済ませておりますもの」
リゼリアさんが肩をすくめる。
「で、カルマ。そちらの札は?」
「船から持ち出したやつだ。落ち着いたら帳簿と照らし合わせる」
「後で拝見しますわ」
「今は休んでろ。文字は逃げない」
「……ずいぶん優しいのですね」
「無理して倒れられると困るだけだ」
そう言いながら、彼は荷札を濡れない棚へ移した。
少し前まで互いの様子を探っていた2人が、こうして普通に話している。もう少し時間があれば、私もいろいろ聞けるかもしれない。
◇
夜が更けるにつれて、雨が強くなった。
処置を終えた人には毛布が配られ、広間の灯りも少し落とされた。眠っている人もいれば、隣に誰かがいないと不安なのか、椅子に座ったままの人もいる。
競売場から助けた少女も、ようやく温かい飲み物を少し飲めるようになった。首に残っていた札は、本人に説明してから外してある。オルガさんが傷を見て、寝具を整えてくれた。
「シュテル、これを飲みな」
オルガさんに差し出された椀から、生姜の香りがした。
「ありがとうございます」
「熱いから気をつけて」
椀を受け取ると、手が思っていた以上に冷えていることに気づいた。
カルマさんも長椅子に腰を下ろし、片手で匙を持っている。包帯の巻かれた右手は膝の上だ。
「……船底では、あまり動けませんでした」
口にしてから、少し言い方を間違えたと思った。
「障壁を張っていたんだろ。あれだけ広けりゃ、動き回るのは難しいさ」
「そうなのですが……奥の部屋にいた子のことが、ずっと気になっていたんです」
「助け出せただろ。今は先生もついてる」
「はい」
私は温かいスープをひと口飲んだ。
船底では、障壁を保っている間、ほとんどその場を離れられなかった。もう少し早く導管を止められていたら、とも思う。けれど、あの時は棺の中の人たちを守ることで手一杯だった。
「次に同じようなことがあったら、もっと早く対処できるようにしたいです」
「それは俺も同じだ。搬送路の仕組みが分かってりゃ、あそこまで走り回らずに済んだ」
カルマさんは匙を置き、肩を回した。
「とりあえず今夜は寝ようぜ。俺も疲れた」
「……そうですね」
私も椀を置いたところで、奥の部屋から小さな物音がした。
◇
喉を傷めた少女が、寝台の上で身を起こしていた。
ネージュは隣に座ったまま、彼女の手を握っている。
「どうしました?」
少女は何か言おうとしたが、すぐに喉を押さえた。
「喉が痛みますか?」
首を横に振る。それから部屋の外へ視線を向けた。
「外の音が気になりますか?」
今度は小さく頷いた。
ネージュが私を見る。
「お姉ちゃん、さっきから音がするたびに喉を押さえてるの」
船では、歌うのをやめると術式が反応していた。そのことをまだ怖がっているのだろうか。
「歌わないと、また痛くなると思っていますか?」
少女が頷く。
「もう導管は外してあります。今は歌わなくても大丈夫ですよ」
「……ほんと?」
かすれた声だった。
「はい。もし痛くなったら、すぐに呼んでください。近くにいますから」
少女は少し迷ってから、ネージュの方へ身体を寄せた。
「私もいるよ」
ネージュがそう言うと、少女は頷いた。
その時、廊下の奥で金属の触れ合う音がした。
気になって広間へ出ると、《無名簿》の布の下から白い光が漏れていた。
リゼリアさんが右手首を押さえ、書見台を見ている。
「何かありましたか?」
「留め金が、少しだけ光りましたの。誰も触れておりませんのに」
私は帳簿の近くへ寄った。鎖はまだ張っているが、先ほどより強く締まった様子はない。
「今は、どうですか?」
「もう収まりましたわ」
少女が声を出したのと近い時刻だった。ただ、それが原因だとはまだ分からない。
「明るくなったら調べましょう。今はむやみに触らない方がよさそうです」
「わたくしもそう思いますわ」
カルマさんが台車の車輪止めと窓の鍵を見直し、問題がないのを確かめた。
大きな異変が起きなかったことにほっとしたが、帳簿のことは気にかかる。明日はオルガさんとも相談して、安全に調べる方法を考えなければ。
◇
休むように言われたのは、工房の奥の小部屋だった。
壁際に小さな木製の寝台がある。枠には星の模様が彫られ、枕元には布の兎が置かれていた。
「……オルガさん、こちらは?」
「子どもが泊まる時に使ってた寝台だよ。ほかは患者さんが使ってるから、今夜はそこで頼めるかい」
「それは構いませんけれど……」
寝台の長さを確かめる。私なら足を伸ばして横になれそうだった。
背後でカルマさんが、小さく笑った。
「何ですか?」
「いや、ちょうどいいなと思って」
「寝台の大きさの話ですよね?」
「ほかに何がある?」
「……カルマさん」
「悪かった、悪かった」
彼は笑いをこらえながら廊下へ出ていく。
入れ違いにリゼリアさんが顔を覗かせた。
「随分と可愛らしい寝台ですこと」
「必要があって借りているだけです」
「ええ、分かっておりますわ」
そう言って、彼女は兎のぬいぐるみを私の方へ向けた。
「……リゼリアさんまで」
「ふふ。おやすみなさい、シュテルさん」
「おやすみなさい」
小さく息を吐いて、寝台へ腰を下ろす。
船に乗る前は、リゼリアさんもカルマさんも、何を考えているのか分からないところがあった。今だって、まだ聞いていない話は多い。それでも、こんな冗談を言い合えるようになったのは少し嬉しい。
広間から、湯を運ぶ足音とオルガさんの声が聞こえる。まだ目を覚まさない人もいるので、夜番は交代で続けるそうだ。
私は濡れた外套を椅子にかけ、ようやく横になった。
肩はまだ痛む。明日はきっと、腕を上げるのにも苦労するだろう。
隣の部屋では、ネージュが少女と話す小さな声がした。
その声を聞いているうちに、いつの間にか眠っていた。




