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第25話 爆ぜる黒宴



 手首が、引き千切られるかと思った。


 床から伸びた白い鎖が、わたくしを《無名簿》の書見台へ引き寄せる。踏ん張った靴底が滑り、舞台の板に浅い傷を残した。


 ……なるほど。名前を確かめるだけにしては、ずいぶん手荒な歓迎ですこと。


 右手は使える。ただ、鎖を通して帳簿の留め金へ繋がれているらしく、腕を引くたび骨の内側まで響いた。切り離そうと札を寄せると、帳簿の頁に白い光が走る。


 あの中に何が記されているか分からないうちに、壊すわけにはいかない。


「黒薔薇を確保しろ!」


 競売人の声が響いた。


 舞台の左右から剣を持った護衛が2人ずつ。奥の幕際にさらに2人。客席との境に2人。合わせて8人。上階の回廊には弓を構えた者が4人いる。


 逃げ道を塞ぐ配置としては、まずまずね。


 もっとも、全員がわたくしだけを見ているうちに、観客を逃がす場所まで考えてくださるかは怪しいものだわ。


 仮面を握ったまま、指を開いた。


 《ブラッドアルカナ》が12枚、赤黒い花弁となって散る。3枚を正面、2枚を左右の回廊へ。2枚は足元の床板に伏せ、1枚を書見台の裏へ。舞台の左柱に1枚、客席との境に2枚。残る1枚を手元へ。


 配置はこれでよい。


 右から迫る男が剣を振り上げた。


「《アルカナ・フォーク》」


 床に伏せた札の1枚が男の踝へ、書見台の裏に預けた1枚が剣を握る手首へ走る。男は足元を避けて剣を庇い、重心を自分から崩した。


 そこへ扇を差し込む。


 手首を打てば剣が落ちる。顎へ続けて一撃。倒れる男を踏み越えるころには、左側の護衛も間合いへ入っていた。


 弓弦が鳴った。


 上階から、ほぼ同時に2本。


「《ブラッド・ガード》!」


 正面の3枚を寄せる。赤い障壁に矢が当たり、硬い雨粒のような音がした。衝撃で1枚の形がほどける。指先に鈍い痺れが残った。


 札がなくなったわけではない。形を作り直し、再び障壁の端へ戻す。


 同じ攻撃を何度も受けたいとは思いませんけれど。


 上の弓兵が3本目をつがえる。その射線の下には、逃げようとして転んだ客がいた。


 そちらを狙われては困る。


 回廊へ預けた2枚を、弓を持つ腕ではなく手すりの内側へ潜らせる。札が跳ね、弦を引いた男の肘を持ち上げた。矢は天井の梁へ刺さり、もう1人の射手が慌てて身体を引く。


 客席の男が這うように退いたのを見てから、視線を舞台へ戻した。


 競売人は逃げていなかった。銀仮面の内側で口元が動き、書見台の足元に刻まれた白い円がひと回り大きくなる。


 すると、客席のあちこちで悲鳴が上がった。


「腕が……動かない!」


 振り向いた先で、金獅子の仮面が椅子ごと倒れた。ほかの客も、胸元の認証札を押さえたまま立ち尽くしている。札から細い光が床へ吸い込まれていた。


 ……あら。


 人間に値札を付けた皆様が、今度はご自身の名前を預けた代金を払わされるわけね。


「本会場をご利用のお客様には、防衛契約にもご協力いただいております」


 競売人が、場違いなほど穏やかに告げた。


 人の魔力を、本人の意思に関係なく集めている。舞台の床から船底へ延びる白い線が一段と明るくなった。


 あの子の喉へ、これ以上負担が掛かる。


「契約の内容を伺う前に、まずは退会させていただきたいものですわね」


 足元の札を1枚、床の白い線へ沿わせた。線は一本に見えて、舞台の中央で3方向へ分かれている。2つは客席の認証札へ。残る1つが書見台と船底を結んでいた。


 無造作に全部を断てば、逃げ場を失った魔力が下へ落ちる。


 ……先に出口を作らなければ。


 胸元の通信晶を押した。


「カルマ。聞こえまして?」


 応答はない。


 代わりに、舞台の奥で扉が開く音がした。


 白い鳥の仮面をつけた男が、護衛に囲まれて引いていく。追いかけるには鎖が邪魔だ。何より、帳簿を置いていくわけにはいかない。


 やけに用心深い方ですこと。


     ◇


 横から閃いた剣を、扇の骨で受け流す。刃が金属を擦り、耳障りな音を立てた。強い。こちらも剣先が近すぎて、札を撃ち込む余裕がない。


 護衛が踏み込むより早く、舞台の左柱に留めてあった札へ視線を送った。


「《アルカナ・キャスリング》」


 足元が抜けるような感覚。


 次の瞬間、立っていた位置に札が浮かび、わたくしは左柱の脇へ移っていた。


 鎖が遅れて張り、右腕を強く引く。


「……っ」


 胸の奥がひどく軋んだ。短い距離でも身体を丸ごと入れ替えるのは、札を操るのとはわけが違う。しかも、これだけのものを繋いだままでは。


 けれど、剣の切っ先は誰もいなくなった場所を通り過ぎている。


 札を床へ戻し、男の背後へ滑らせた。


「《ブラッドリバース》」


 床板の継ぎ目から赤い棘が立つ。男の靴の両脇と剣を持つ肘の外側を挟み、動きを止めた。そこで《ブラッディ・チェーン》を重ねる。棘から伸びた細い鎖が足首と手首を拘束した。


 命を奪う必要はない。今は追ってこられなければ結構。


 次の護衛が、書見台の前へ回り込もうとしていた。


 今度は殺すつもりで来たのかしら。あの方たち、肝心な帳簿まで傷つけかねない。


 手元に残した札を扇へ沿わせ、相手の剣の腹を叩く。金属が震えた瞬間に足を払う。男は書見台の足を掴みかけて倒れた。


 そのとき、留め金の隙間から一枚だけ頁が覗いた。


 公名らしき文字の隣に、日付と細かな欄が並んでいる。最後の欄は、まだ光が届かず読めない。


 ……ただの名前の一覧なら、なぜこんなに記入する場所が要るのかしら。


 確かめようと身を寄せたところで、客席の側から大きな破裂音がした。


 耳を刺す銃声とは違う。床を叩く鈍い衝撃が、舞台の下から突き上げてきた。


 客席の光が、一筋ずつ消えていく。


 誰かが下の回路を切った。


 赤い通信晶が震える。


『リズ、聞こえるか』


「ええ。ようやくですわね」


『星盾のところまで行ってきた。倉庫は守ってる。ただ、広い障壁を張って本人が動けない。あんたの所から下へ来てる術式を先に止めたい』


 カルマの声の後ろには、機械の低い唸りと、人の足音が混じっていた。


「先ほどの音は?」


『護送路の調整弁をグレネードで壊した。魔力が流れる道を一本減らしただけだ。根っこは上にある』


「こちらでは、舞台の中央から客席と船底へ分かれています。客席側は、名前を預けた方々から魔力を吸い上げていますわ」


『なら、そいつを切る。人間を踏み台にした導管なんざ、残す理由もない』


「ただし、一度に切れば下へ逆流します。まずわたくしが流れを分けます。あなたは、舞台の下から支えている制御器を止められる?」


『客席脇の整備階段から戻る。……2分くれ』


「2分も待たせるおつもり?」


『1分半にまけとくよ』


 通信が切れた。


 ……まったく。


 軽口を返せるなら、まだ大丈夫そうね。


     ◇


 待っている時間はない。


 書見台の左に回り、床を調べる。白い線が脈打つたび、わたくしの右手首にも鈍い痛みが返ってきた。


 ここを切れば鎖が消えるのか。それとも、名を結びつけたまま腕だけを奪われるのか。


 ……選ぶのは、まだ早いわね。


 客席の境に置いた2枚を動かし、舞台と避難通路の間に低い障壁を作った。立ちすくんでいた仮面客へ声をかける。


「そちらの扉はまだ開きますわ。動ける方から外へどうぞ。倒れた方も、置いていかないで」


「我々を助けるのか?」


「わたくしを捕らえる方が増えるより、逃げていただく方が助かりますもの」


 言い終える前に、向こうの男は仲間の腕を取って立ち上がった。


 理由は何であれ、出口へ動く人間が増えるのはよいことだ。


 競売人が杖を振る。


「護衛! 帳簿を守れ!」


 その声を合図に、奥に残っていた2人が動いた。片方は長槍、もう片方は火術の術具。わたくしと書見台を一直線に捉えている。


 火術が先に来た。


 赤い光が舞台の板を舐めて走る。正面から防げば、熱が帳簿へ回る。ならば、逃がす先を用意すればよい。


 回廊に残していた2枚を天井近くへ寄せ、舞台の左右に残る札で風の通り道を作る。


「《アルカナ・ディール》」


 炎の進路を覆うように札を配り、熱を上の換気孔へ導いた。床板が焦げる匂い。衣の裾が熱を拾ったけれど、帳簿に火は届かない。


 槍兵が突く。


 札の1枚が、穂先をほんの少し横へ押した。避けた先は書見台の縁。男が穂を引く前に扇を柄へ打ち込み、肩を押して前へ倒した。


 頬へかかった髪を払う余裕もない。


 けれど、これで正面は空いた。


「《ローズ・リリース》!」


 周囲の札から、鋭い花弁のような赤い光が広がる。狙うのは敵の身体ではなく、舞台奥の吊り幕を留める縄と、床に突き刺さった槍の石突。


 幕が落ち、護衛の視界を塞いだ。その隙に、床へ伏せていた札を一本の白い線へ揃える。


 細く、確実に。


 客席から魔力を奪う枝だけを、まず切る。


 白い線がほどけた。


 仮面客たちの胸元で、認証札の光が消える。膝をついていた人々が、ようやく息を吐いた。


 その瞬間、書見台の奥の線が明るくなった。


 余った魔力が船底へ落ちようとしている。


 ……このままでは。


「カルマ!」


『来た!』


 舞台左の整備扉が蹴り開かれた。


 赤銅色の仮面。赤黒い外套。《赤鐘》を構えたガンマンが、幕の落ちた向こうから現れる。


「床下の制御器は、舞台の真下だな?」


「ええ! そこを止めれば、下へ流れる分を抑えられます!」


「分かった。舞台の端、空けろ!」


 彼は手すりを使って舞台の下へ滑り込み、床板の隙間へ小さな黒い筒を押し込んだ。爆発方向を示す調整輪が、床下を向いている。


 わたくしは残る札を床板の継ぎ目へ並べ、書見台へ衝撃が伝わらないように支えた。


「いいか?」


「どうぞ!」


「伏せろ!」


 短い銃声。


 爆発は床下へ吸い込まれるように走り、次の瞬間、細かな木片と熱い空気が足元から噴き出した。舞台が一度、大きく沈む。


 書見台を札で支えたまま膝をつく。手首の鎖がきつく締まった。


 そのあとで、耳が痛くなるほどの静けさが来た。


 床の白い線が、消えている。


 残ったのは、書見台とわたくしの右手首を結ぶ鎖だけだった。


 これなら、下にいる人々は。


 通信晶が震えた。


『星盾、聞こえるか。舞台側の流れが止まったぞ』


 カルマが通信晶へ向かって続ける。


『まだ下の障壁を解くな。導管の残りを見てからだ』


『分かっています』


 シュテルさんの声が小さく混じった。息が乱れている。それでも、その返答だけははっきりしていた。


「まだあの子は、そこに?」


『います。あと少しで扉を開けられます。……無理に声を出させる術式は弱まりました』


 胸の奥に詰まっていたものが、わずかに下りた。


 ならば、次はわたくしの番ね。


     ◇


 競売人は、まだ諦めていなかった。


「閉鎖せよ! 船尾の搬入口も、客席の扉もだ! 記録を持ち出させるな!」


 あらあら。客にまで失礼な主催者ですこと。


 舞台の奥で白い鳥の仮面が消えていくのが見えた。逃がしたくはない。けれど、今追えば帳簿も人質も残る。


「まず、こちらからですわね」


 《無名簿》の書見台には、床へ固定する太い留め金が2つ残っていた。鎖は書見台の金具に結ばれているのではなく、帳簿そのものの留め金へ戻っている。


 帳簿を傷つければ何が起きるか分からない。


「カルマ。床に固定されているのは、あの2か所です。帳簿の金具には触れず、外側だけ外せます?」


「やってみる。あんたは引っぱられるなよ」


「引っぱられている側に、それをおっしゃる?」


「そりゃ悪かった」


 カルマが《赤鐘》を上げた。乾いた発砲音が2度。床の留め金が片方ずつ弾ける。


 わたくしは札を4枚、書見台の脚と板の間へ滑り込ませ、重みを分ける。床を離れた書見台は、少し浮かんだだけで大きく軋んだ。


「重い……!」


「本も一緒に連れてくんだろ?」


「それ以外に、ございます?」


 魔札を1枚、傾いた金具の下へ差し込む。残りは護衛の方角へ向けたまま、2人で書見台を舞台裏の運搬台車へ引いた。


 鎖は右腕に繋がったままだ。離れようとすれば痛む。けれど、書見台を動かせば一緒に進める。


 ……ええ。ずいぶん不自由な荷物だけれど、持ち帰ってから考えればよい。


 運搬台車の木輪が廊下の継ぎ目を越えたとき、向こうの暗がりで、小さな泣き声がした。


 帳簿を手放さないまま顔を上げる。


 舞台裏の搬送待合室。奥に、金網の檻が一つ残っている。


 中にいたのは、客席で2300金貨を付けられていた少女だった。


 首にかけられた札は、21。


 ……まだここにいたのね。


「カルマ。あの檻を」


「ああ。先に警報線を外す」


 彼は銃を収め、檻の上の金具を確かめた。昨夜から調べていたらしく、封印を繋ぐ導線を迷わず辿る。


 わたくしは台車を止め、札を扉の隙間へ差し込んだ。警報の光が消えるのを待ってから、錠を外す。


「……お迎えですわ。歩けそう?」


 少女はすぐには答えなかった。目が合うと、少しずつ頷いた。


「では、こちらへ。無理はなさらないで」


 カルマが外套の一方の裾を外し、少女の肩へ掛けた。わたくしが書見台を台車へ固定する間、彼は少女の足元を見て歩調を合わせる。


 立てる。少なくとも、自分の足でここを出られる。


 救出された人間が1人増えた。


 舞台の奥からは、いまだに怒号と火薬の匂いが流れてくる。


 ……さあ、ここからが本当の仕事ね。


     ◇


 船尾へ続く廊下には、倉庫からの冷たい空気が漂っていた。


 左側に荷役扉。右側には、船底へ下る階段。階段の先を覗くと、青白い光が薄く揺れている。


 カルマが通信晶を握る。


「星盾。そっちへ行く。下の扉は開いたか」


『はい。いま最後の棺を開けています。隔離室の子も保護しました。ですが、歩けない人が多くて……』


「迎えに行く。台車と、担架代わりになる盾が必要だな」


『私が作ります。ただ、障壁を解いてからです。上からの流れはもう戻ってきませんか?』


 カルマがこちらを見る。


 床へ伸びる線を一度確かめる。白い光は戻っていない。書見台から手首への鎖だけが残っている。


「今のところは止まっていますわ。もちろん、二度と動かないと保証はできませんけれど」


『それなら、動けるうちに急ぎます』


 青白い光が薄れていった。


 階段の向こうから、何人もの足音。声を掛け合う響き。誰かが苦しそうに息を吐いている。


 先頭に現れたのは、シュテルさんだった。


 白い髪は汗で頬に貼りつき、胸元の職務札が少し斜めになっている。その後ろに、2人で肩を貸し合う男女。星盾の上に横たわる人もいる。


 人数を数え始める。


 最初に歩ける人。次に運ばれてきた人。小さな星盾が何度も階段を往復している。


 わたくしには全員の名前が分からない。けれど、置いていくわけにはいかない。


 船底にいた16人。そして、奥の少女。


 書見台を台車ごと隅へ寄せ、札で車輪を止めた。カルマとともに担架を受け取り、荷役扉の手前へ並べていく。


 隔離室から出てきた少女は、喉元を押さえていた。


 シュテルさんがその子の背中をゆっくり撫で、無理に声を出させない。少女も、しばらくして呼吸を整えた。


「大丈夫ですか」


 尋ねると、少女は小さく頷いた。


 ……それだけで十分ですわ。


 あの子たちはもう、何かに答えるために声を出さなくてよい。


 船尾の扉へ寄ったカルマが、顔をしかめた。


「閉まってる。外から閂を掛けられたな」


「壊せますか?」


「ここで爆薬を使えば外へ飛ばせる。ただ、扉の前に人を置くな」


 わたくしは書見台と救出した人々を、通路の曲がり角より手前へ寄せた。シュテルさんは、わたくしたちを横切らせた星盾を重ね、扉との間に厚い膜を作る。


 こちらも《ブラッド・ガード》を重ねた。


「準備は?」


「できていますわ」


「私も」


 カルマが最後の小筒を蝶番の外側へ固定し、後ろへ下がった。


「離れてろ!」


 音は短かった。


 それでも、鉄の扉は二枚とも船尾へ向かって弾け飛び、冷たい潮風が流れ込んだ。焦げた油と海の匂いが混ざる。


 そこへ、薄暗い海面から声が飛んできた。


「まったく! 何をやってるんだい、あんたたちは!」


 聞き覚えのある、低い女性の声。


 黒い平底の荷船が、船尾の荷役口へ寄ってきた。舵を握るのはオルガさん。後ろでは港の荷役人が、太い縄を投げる準備をしている。


「オルガさん!」


「逃げ道の話をしておいて、誰も戻ってこないんだ。迎えに来るに決まってるだろ!」


 ……あら。お医者様には、どうやら頭が上がらなくなりそうね。


 カルマが縄を受け取り、荷役口の鉄柱へ巻きつけた。シュテルさんの星盾が、船と荷船の隙間に短い橋を作る。


 最初に渡すのは、歩けない人たち。次に、支えがあれば歩ける人。最後に、隔離室の少女と、競売にかけられた子。


 オルガさんが何度も人数を確かめる。わたくしも数え直す。


 船底の16人。隔離室の少女が1人。舞台裏にいた少女が1人。


 18人。


 ……ええ。ここまでは、全員。


 残されたのは、わたくしたち3人と、運搬台車の上の《無名簿》。帳簿の鎖はまだ右手首から離れていない。


 カルマが台車の端を持った。


「先に乗れ。最後は俺が押す」


「いいえ。腕が繋がっておりますので、離れられませんわ」


「じゃあ一緒に押すか」


「仕方ありませんわね」


 書見台の足が、船と荷船の隙間で一度止まった。


 海の上に張られた星盾の橋が、小さく軋む。


 シュテルさんが両腕を上げ、光の面を重ねる。その額には、もう汗が浮いていた。


「早く! このままだと橋が――」


 後ろの甲板から、誰かが走ってくる音がした。


 カルマが振り返る。


 白い羽根の仮面をつけた護衛。剣を抜いて、こちらへ迫っていた。


 カルマが《赤鐘》を上げたが、発砲の間がなかった。


「――こちらですわ」


 客席の柱に残していた札ではない。手元へ呼び戻していた1枚を、護衛の進路へ滑らせた。


「《ブラッドリバース》」


 床から棘が立ち、男の靴と剣を持つ腕を挟んだ。


 カルマが振り返るより先に、わたくしたちは台車を押した。


 金属製の書見台が荷船へ転がり込む。


 わたくしの右手首へ、鎖が一度だけ大きく張った。歯を食いしばって台車と一緒に移る。


 カルマが最後に飛び乗った。


「全員いるな!」


「ええ。確かめましたわ!」


 オルガさんが舵を切る。荷役人が縄を外し、船体がゆっくりと離れた。


 そのとき、《夜鴉号》の内部で大きな音がした。


 先ほど壊した床下の制御器だけではない。船尾へ走っていった警備員が「炉の圧を逃がせ」と叫んでいたのを思い出す。あちらも何かの始末をつけるつもりらしい。


 奥の方から何かが連続して破裂している。霊晶灯が暗い窓の向こうで次々に消えていく。


 船体が傾き、黒い煙が、競売場の屋根から噴き出した。


 あれほど豪華だった《黒宴》が、今はただの沈みかけた船に見える。


 カルマが肩で息をしながら、壊れかけた甲板を見た。


「……盛大な閉会だな」


「主催者のご挨拶がなかったのは残念ですこと」


 彼は短く笑った。


 わたくしも息を吐き、荷船の中央へ視線を戻す。


 痛む手首。《無名簿》の黒い表紙。濡れた外套と、隣で横たわる人たち。


 父の名を確かめるために入った船から、思いもよらないものまで連れ帰ることになった。


 最後に、一度だけ桟橋を振り返る。


 白い鳥の仮面は、どこにも見えない。


 ……逃げられたのね。


 それでも、わたくしの隣には、誰かの名前を奪うための帳簿がある。奪われた人たちは、ちゃんと息をしている。


 今夜の戦いが終わったことと、これから調べるべきことがなくなったことは、同じではない。


 荷船の縁を打つ波が、夜の港に小さな音を返した。

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