第22話 仮面の下の公名
一夜限りの名で《黒宴》へ潜入したカルマ。豪奢な禁制品が競り落とされるなか、舞台には値段を付けられた少女まで現れる。
第22話 仮面の下の公名
名前を隠すための仮面をつけておきながら、誰もが他人の素性を知りたがっている。
まったく、忙しい連中だ。
《夜鴉号》の客席へ続く階段を上ると、甘ったるい香水が鼻を刺した。海から吹く潮風は、分厚い扉の向こうでほとんど遮られている。代わりに漂ってくるのは、燭台の熱と高い酒の匂い。それから、金を持っていることを他人に見せたくて仕方のない連中の笑い声だった。
俺は赤銅色の半面を指で直し、案内係へ黒い招待片を渡した。
「今夜のお名前は?」
「レッドベルで頼む」
「承知いたしました、レッドベル様。武器の携行は許可されていますが、抜かれた場合は警備術式が作動いたします」
「客の喧嘩に巻き込まれても、撃ち返すなってことか」
「ご理解いただけて幸いです」
「まだ理解したとは言ってないんだがな」
案内係は営業用の微笑みを崩さなかった。教育の行き届いたことだ。
右腰には《赤鐘》、左腰には《ミゼリコルド》。銃を預けろと言われたら帰るつもりだったが、そこは問題ないらしい。ただし、銃を抜けば警報が鳴る。つまり、ここの連中は武器を持つ客より、武器を使う客を警戒している。
なら、撃つ前に済ませられることを探せばいい。
広間を一周、視線だけでなぞる。
出入口は正面に2つ、給仕が出入りする脇扉が1つ。舞台奥には布を張った搬送口。上階の回廊へ上がる階段は客席側から見えるが、手すりの向こうに警備が立っている。右上には、護送路から通じていそうな細い見張り廊下もあった。
天井の感知器は6基。どれも客席へ向いていて、舞台の真上だけ監視が薄い。
あそこに何かを運び込むつもりか。
壁沿いの鏡に、客が何人も映っている。金の獅子仮面は扉が開くたびに肩を揺らし、青い魚仮面は左手の指輪ばかり弄っていた。白い鳥の仮面をつけた男は、酒を一口も飲まずに舞台裏を眺めている。
あいつの外套の留め金は、白い羽根の形をしていた。
ロアンたちが持っていた荷札と似ている。
もっとも、今夜は白い羽根など飾りのように使われている。仮面ひとつで白鳥本人と決めつければ、余計な弾を使うことになる。
「レッドベル様、こちらのお席へ」
案内されたのは舞台の右寄り、前から3列目。背後へ振り返ると、出品者用の通路が斜めに見えた。
隣の椅子は空いている。
卓には、もう一人の客の席札が伏せてあった。端を少し持ち上げると、黒い薔薇の意匠が見えた。
……偶然にしては、よくできている。
俺が誰を追って港へ戻ったか、誰と廃網倉庫で揉めたか。ここでその席を用意できる奴なら、少なくともどちらかを知っている。
依頼を破棄したとき、仮面の男は引き止めなかった。
諦めてくれたのならありがたいが、そんな殊勝な雇い主には見えなかったな。
◇
「……随分とよい席をお取りになったのね」
出品者用の扉から入ってきた女が、卓の前で足を止めた。
黒い礼装に棘を象った半面。あの髪と瞳を見れば、仮面の意味があるのか少々疑わしい。もっとも、顔そのものより公名を誤認させる品なのだろう。正体を隠す仕組みにはいろいろある。
「俺が予約した。眺めがよさそうだったんでな」
「では、お隣の席も?」
「そっちは頼んでない。誰かが親切に用意してくれたらしい」
リズは空席の札を一瞥し、それ以上触れなかった。
「そのご親切な方へ、お礼状をお送りしたいところですわね」
「差出人の名前が分かったら、俺にも教えてくれ。少し話がある」
「穏やかなお話で済みますの?」
「向こうの態度次第だ」
「まあ。わたくしと同じですこと」
そう言って席に着く。距離は小さな卓ひとつ。廃網倉庫ではこの女の札に出口を塞がれたが、今は互いに手を出さない約束だ。
少なくとも《黒宴》へ入るまでは。
「ここから先は、まだ約束の外ですわね」
「始まる前に確認するか。さっきの話、席に着くまでは守ったぞ」
「ええ。わたくしも撃たずに済ませましたもの」
「俺が撃たれる方か?」
「さあ。どちらが先かしら」
物騒な世間話だ。
ただ、廃網倉庫で見た限り、こいつは気まぐれで攻撃する女じゃない。敵と決めれば容赦はないが、少なくとも理由を確かめる頭は持っている。
「白い鳥の仮面が、舞台の右にいる」
杯を取るふりで告げた。リズは顔を動かさず、視線だけを滑らせる。
「白鳥本人?」
「知らん。ただ、前に見た印と似た留め金を着けてる。あいつを追ってるのは、俺の方の都合だ」
「では、わたくしが先に見つけたら?」
「できれば殺さず捕まえてくれ。聞きたいことが山ほどある」
「それでしたら、お互い様ですわ」
リズの指先が、卓の下でわずかに動く。
赤黒い札が見えたわけじゃない。ただ、あのときと同じ、何かを配置する前の間合いだった。
「まだ何も始まってない。今ここで札を並べたら、警備に囲まれるぞ」
「……何を知ったように」
「倉庫で一度見たからな」
彼女の目が少し細くなる。
「あなたも、不安なときほど出口をご覧になりますわね」
思わず、舞台裏の脇扉を見てしまった。
「今のは確認だ」
「ええ。わたくしも確認しただけです」
参った。人の癖を指摘して、自分の癖を一つ教えてどうする。
競売前の下見を告げる鐘が鳴り、係員が客を展示室へ案内し始めた。リズは立ち上がる。
「わたくしは出品物の扱いを確かめてまいります」
「それほど大事な品なのか?」
「大事なのは、買おうとなさる方が何を見ているか、ですわ」
「品物じゃなく、客の方を見に来たってのか」
「その方が面白いでしょう?」
冗談なのか本気なのか。こいつに値札を付けた連中の方が、今夜はよほど危なそうだ。
「気をつけろよ。出口は一つじゃないが、全部塞がれたら困る」
「ご忠告、感謝いたしますわ。あなたも、せっかくの銃を飾りにしないように」
「撃ったら警報だそうだ」
「でしたら、撃たずにお済ませになって」
優雅に立ち去っていく背中を見送り、俺も席を離れた。
相変わらず、商談は成立していない。
◇
展示室は、広間より空気が冷たかった。
壁には冷気の術式が走り、宝石を埋め込んだ展示台が燭光を跳ね返している。さすがは金持ちの道楽だ。違法な取引をするのにも、見栄えには金を惜しまないらしい。
硝子の奥では、星屑を封じたような深青の光が脈打っていた。展示札には《深海竜の心核》の文字。その下に小さく『王立保管庫封印指定』とある。封印されたまま保管されるはずのものを盗んで、こんな場所に飾っているわけだ。
隣の台には、宝石を散りばめた古い祭冠。ひび割れた宝飾箱には、聖堂の蔵印と押収を示す赤い封紙が残っていた。さらに奥には禁薬の小瓶、没収された魔導兵器の部品、所有者の署名を削った美術品。
正規の競売場なら、どれか一つでも騒ぎになりそうな代物ばかりだ。それを全部並べて、客は葡萄酒片手に品定めしている。ずいぶん景気のいい犯罪現場だな。
俺が探していたのは、白い羽根と、それをつけた男の通り道だ。
ところが奥へ進むと、客が集まっている檻があった。
中にいるのは、まだ10歳くらいの少女だった。薄い灰色の服を着せられ、両膝に手を揃えている。首には数字を刻んだ札。袖口には、何度も握りしめたのだろう、小さな皺が寄っていた。
「……言われたことは、できます」
客が近づくたびに言わされているらしい。声の終わりが微かに震えていた。
隣の客が顎をしゃくる。
「戦闘に使えるのか?」
「補助術式への適性がございます。命令にも忠実です」
係員は商品の説明をする調子だった。
少女は顔を上げずに、もう一度だけ頷いた。目線の先にあるのは客の靴先ばかりだ。
子どもが何をしたいかも聞かず、使い道だけ相談している。耐えることまで、売り物にするらしい。
檻の錠は正面の二重鍵。その外側に細い警報線が伸び、係員の腰の発信具へ繋がっている。鍵を壊せば、どれだけ静かにやろうと警報が鳴る仕組みだ。
横手に、人目を引くほど姿勢のよい護送人がいた。
灰色の服に白い髪。小さな輸送棺を押している。胸元には今夜だけの職務札。姿勢こそ崩していないが、檻と禁制品の展示台を何度も見比べていた。
祭冠に添えられた聖堂の封紙を見つけたときは足を止め、次に少女の檻へ視線を戻す。輸送棺の取っ手を握り直すたび、手袋がきゅっと鳴った。どれから問い詰めればいいのか、決めかねているように見える。
――星盾。
オルガが言っていた、教会から来た審問官か。
とうとう彼女が檻へ一歩踏み出したところで、黒服の係員が進路を塞いだ。
「護送票を。搬入時の照合に不備があります」
「入口で確認していただきましたが」
「こちらでは再確認が必要です」
係員は棺の蓋へ視線を向ける。
あの棺を捨てて逃げるわけにもいかないだろう。まして、写しの票が見破られれば、少女を助けるどころじゃない。
助ける義理はない。
だが、あそこで揉めれば警報が鳴り、白羽根の男も逃げる。どちらにしろ面倒だ。
俺は近くの給仕に声を掛けた。
「すまない。向こうの銀杯を片づけてもらえるか。さっきの客がぶつけて、棚の奥へ入り込んだ」
「恐れ入りますが、どちらで――」
返事を待つ間に、袖から細い補助ワイヤーを伸ばす。銃を抜かずに扱える長さしかないが、展示棚の脚に掛けた杯の柄を引くには十分だった。
銀杯が床へ滑り、貴族の靴先に当たって甲高い音を立てた。
「何だ、これは! ここは展示品の管理もできんのか!」
給仕が頭を下げる。檻の係員まで呼ばれ、護送票を調べていた男もそちらへ顔を向けた。
白髪の護送人は、逃げるようには動かなかった。相手が持つ書類をもう一度確かめ、そこへ自分の票を重ねて何かを指した。男が舌打ちし、確認のため受付へ向かう。
その隙に彼女は棺を押して通路へ出た。
……なるほど。騒ぎに紛れるだけじゃなく、書類で時間を稼いだわけか。
立ち去るとき、一度だけこちらを見た。
俺は杯を拾い上げ、給仕へ返した。
礼は要らない。あの目で何を見ていたか分からないが、次は自分で何とかしてもらおう。
そう思ったのだが、彼女は客のいない曲がり角で足を止めていた。
「先ほど、係員の注意を逸らしたのはあなたですね」
「杯を拾っただけだ。あそこの客はよく怒るな」
「その前に、杯が勝手に動いたように見えました」
「目がいいな。……で、あんたは?」
「シュテル・シュトラールです。護送の職務札には『星盾』とあります。あなたはレッドベルさんですか?」
尋ねたら、間を置かずに本名が返ってきた。本人はごく普通に挨拶したつもりらしい。
……ああ、こいつ。嘘がつけないタイプのやつか。
「今夜はな。港じゃ赤鐘と呼ばれてる。オルガから聞いてないか?」
「はい。腕のいいガンマンだと聞いています。ただ、お会いするのは初めてです」
「俺もだ。……何をするためにここに来たのか知らんが、そんな挙動不審だと目立つぞ」
「……挙動不審、ですか?」
「祭冠を見て足が止まる。檻を見ては近づこうとする。護送票まで再確認されたばかりだろ。何か企んでると知らせて歩いてるようなもんだ」
シュテルは言い返しかけて、檻へ視線を向けた。自分でも気づいたらしく、慌ててこちらへ向き直る。
「ほら、今のもだ。目的まで聞く気はないが、もう少し落ち着け」
「……気をつけます。でも、あの子をここに置いていくつもりはありません」
今度は目を逸らさずに言った。さっきまでの落ち着かなさとは別の、揺らがないものが声にある。
「なら、今すぐ鍵を壊すのはやめておけ。腰に警報具をつけた係員がいる。あれを外すか、警報が鳴っても逃がせる出口を用意するか、どっちかだ」
「あなたなら、外せるんですか?」
「たぶんな。だが、まだ他に見張りがいる。下手に触れば少女の首札に何が起きるか分からん」
彼女はもう一度、檻を見る。足先が半歩だけ少女の方へ向いたが、すぐには動かなかった。
「……あそこにいる子は、私たちが話している間も見せ物にされているんですよね」
「ああ。だから、助け出すなら途中で捕まるな」
シュテルは唇を結び、胸の前で握った手をゆっくり開いた。
「分かりました。檻と警報の仕組みを確かめます。それから、必ず戻ります」
「俺はあんたの仕事に口を出すつもりはない。ただ、目印だけは見落とすな。床の警報線は、あの展示棚の下へ入ってる」
「教えてくれて、ありがとうございます」
「今のところ、情報はただだ」
「あとで請求されるんですか?」
「さあな。あんたが俺より先に出口を見つけたら、そのとき教えてくれ」
真面目に頷かれてしまった。
冗談を言い損ねる相手は、ときどき厄介だ。
シュテルは棺を押して去りかけては、禁薬の棚、祭冠の展示台、少女の檻と順に振り返った。出口を確かめているのか、全部まとめて押収したいのか。後者だとしても不思議じゃない顔だった。
俺は檻の前を塞ぐ客の数を数えた。助け出すのは今じゃない。それでも、あの子があとでここから動けるように、警報線の位置だけは頭に入れておく。
◇
白羽根の男は、展示室の最奥で誰かと話していた。
相手は黒い冠の仮面。よく見れば、袖口に名録院の役人が使う銀糸が見える。似せて縫うこともできるから、それだけで官吏とは決められないが、少なくとも見せたい身分はそちららしい。
人の少ない展示台を挟み、聞こえる範囲まで近づいた。
「最終出品は、本当に使えるのか?」
冠の仮面が尋ねた。
「使えると申し上げてはいません。今夜、確かめていただけます」
「監査に関わる権限だぞ。王宮の席次まで変わるという噂が出ている」
「噂は、私どもが保証したものではございません」
「それで金貨を何千枚も積めと?」
「価値がないとお考えなら、札を上げなければよろしいでしょう」
白羽根の男は顔色ひとつ変えずに答えた。仮面で隠れているから、実際の表情は分からないがな。
なるほど。主催者は競りを煽るだけ煽って、責任は買い手に押しつける腹か。
いや、まだ断定するには早い。
それより気になったのは、冠の男が口にした『監査』という言葉だった。
名前を売買するだけの競売なら、どうして役人の権限が値札になる。落札しただけで公的な権限が動くとは思えない。誰かが王国側の手続きを悪用できると吹き込んでいるか、それとも、実物には別の仕掛けがあるのか。
今は分からない。
冠の男が去ると、白羽根の男は舞台裏へ向かった。
俺も追おうとしたが、通路の手前で足を止める。
扉脇に、さっきまでなかった警備員が立っていた。腰には封印具。床には、人が通るたび薄く光る認証線が引かれている。
追えば、こちらの仮公名を記録される。
それで構わないなら、そもそも仮面など要らない。
回り道を探していたところへ、耳慣れた声がした。
「こちらへいらしたのね」
リズが柱の向こうから現れた。手袋の内側に、銀色の出品札が挟まっている。
「俺が追ってる男が、あの奥へ入った」
「白い羽根の方?」
「そうだ。あの札があれば通れるか?」
「出品者の通行札ですもの。客席へは戻れますけれど、主催者の控室までは保証してくださらないでしょうね」
「どいつもこいつも、面倒な境界線を引きたがる」
「引いた方には、守りたいものがあるのでしょう」
リズは認証線を見てから、俺の腰の銃へ目を移した。
「扉を開けるために、撃つおつもり?」
「撃ったら警報だ。今はまだ、あいつらに予定を変えさせたくない」
「珍しく意見が合いましたわね」
「たまにはあるさ」
少し迷い、俺は外套の内側から小さな赤い霊晶を取り出した。
銃の照準補助に使うのと同じ系統だが、これは短い音声を届けるために調整したものだ。距離は広間と隣の通路程度。厚い隔壁を挟めば届かないし、盗聴だってできる。
「持ってろ。何かあったら、これを押せ。俺にも音が届く」
「協力のお申し出?」
「違う。あんたが警報を鳴らすなら、その少し前に教えてくれれば助かる」
「……随分と失礼な使い道ですこと」
「そっちも俺に知らせたいことができるかもしれないだろ」
リズは受け取り、赤い霊晶を指先で回した。
「盗聴されるとおっしゃいましたわね」
「ああ。だから本名は喋るな。場所と危険だけ伝えればいい」
「必要なことだけ、ですのね」
「今はそれで十分だ」
「では、船を出るまで。お互いの邪魔をしない範囲で使わせていただきますわ」
「契約成立、か?」
「通信具のお取り扱いについてだけです」
値切られたわけでもないのに、損をしたような気分になるな。
「もう一つ、お願いがあるんですの」
「何だ」
「シュテルさんを見かけたら、こちらから連絡する手段があるとお伝えいただける?」
「白髪の護送人なら会った。『星盾』の職務札を付けた審問官だ」
「もう会われたの?」
「ああ。俺が余計な杯を一つ転がしたんでな」
「……説明になっておりませんわね」
「現場を見れば分かる」
もう一つ、霊晶を取り出す。白髪の審問官が簡単に受け取るとは思えないが、本人に選ばせればいいだけの話だ。
◇
護送路へ降りる階段の途中で、星盾と再び顔を合わせた。
輸送棺は押していない。棺をどこへ置いたかは分からないが、灰色の袖に新しい擦り傷があった。
俺が声を掛けるより先に、彼女が足を止めた。
「……レッドベルさん。何かありましたか?」
「手短に済む話だ。今のところ警報は鳴ってない。ただ、この船じゃ何が起きてもおかしくない」
霊晶を掌に載せて見せた。
「短距離の連絡用だ。出口が塞がれたとか、人を見つけたとか、そういうときだけ使えばいい」
「あなたと連絡する理由が、まだ分かりません」
「俺もあんたの目的は聞いてない。だが、警報が鳴ったときに俺が通路を塞いでたら、あんたも困るだろ」
星盾は霊晶を見つめたあと、こちらの顔を見た。
「あなたは、この船で何を探しているんですか?」
「白い羽根をつけた奴だ。俺に妙な仕事を持ちかけた連中に繋がってるかもしれない」
「その人たちが、船の中の子どもを連れ去ったんですか?」
「分からん。ただ、あいつらの荷札は、港の回収班が使っていたものと似てる」
彼女の眉が寄る。けれど、すぐに霊晶を受け取ろうとはしなかった。
「私が知ったことを、あなたがその人たちに売る可能性もありますよね」
「あると思うなら、渡さなくていい」
「……」
「俺からは一方的に連絡しない。あんたが必要だと思ったときだけ鳴らしてくれ。それで構わない」
静かな間があった。
「では、必要なときだけ。場所と危険について連絡します」
「それで十分だ」
彼女は霊晶を手袋の内側へしまう。小さく一礼して、そのまま階段を下りようとした。
「そういえば、俺の本名はまだだったな。カルマ・ベルモンドだ。レッドベルは今夜だけの名前さ」
「カルマさん。先ほどのお礼を、まだきちんと申し上げていませんでした」
「杯が転がっただけだろ」
「ええ。でも、私は助かりました」
それだけ言って、彼女は船底へ消えた。
……真面目な奴だな。
星盾が船底へ消えるのを見届け、俺は客席へ戻った。
下見を終えた客たちが席に着いている。展示室の扉は閉められ、舞台の暗幕がゆっくりと巻き上がった。天井の霊晶灯が一斉に落とされ、舞台だけが白く浮かび上がる。
鐘が3度鳴った。
銀の仮面を着けた競売人が、客席へ深く一礼する。
「お待たせいたしました、紳士淑女の皆様。これより今宵の闇競売――《黒宴》を開幕いたします!」
拍手が起こった。俺も周りに合わせて手を叩いたが、歓迎したのは開幕そのものじゃない。ようやく、こいつらが何を売っているのか確かめられる。
「お支払いは金貨換算、落札品のお引き渡しは閉会後となります。では皆様、最初の品から惜しみなくお楽しみください!」
暗幕の奥から、金の装飾を施した大きな硝子函が運び出された。護衛が4人、両側についている。壇上の灯火が落ち、函の内側だけが青く輝いた。
深い海の底を覗き込んだような光だった。函の中で握り拳ほどの晶石がゆっくり回り、その周囲に竜の鱗を思わせる薄い光の輪が広がる。客席の誰かが、思わず声を漏らした。
「第1出品! 王立保管庫で長らく封印されておりました、《深海竜の心核》! 国家の許可なく持ち出すことも、取り引きすることも禁じられた至宝でございます!」
競売人が声を張った途端、広間のあちこちで笑いと拍手が起こった。
……盗品だと堂々と宣伝して、会場を沸かせるのか。そりゃあ普通の競売場では味わえないだろうな。
「開始は3000金貨! さあ、いかがでしょう!」
「4000!」
「5000だ!」
「7000!」
金獅子の仮面が札を上げた。そのすぐ後ろで、白銀の鹿の仮面が落ち着き払って指を立てる。
「9000金貨」
ざわめきが、かえって大きくなった。
「9000! ほかにございませんか? ……9800金貨!」
金獅子が最後にもう一度札を上げる。鹿の仮面は杯へ口をつけ、追わなかった。
「9800金貨で落札! おめでとうございます!」
小槌が落ち、青い光が客席の天井をなぞった。
景気のいい開幕だ。王国が保管していた禁制品も、ここでは金貨の山に変わるらしい。肝心の品がどうやって盗まれたのか、客の誰一人として気にしていないのが愉快だった。もちろん、笑える種類の話じゃない。
俺の視線は舞台ではなく、警備員の動きへ移っていた。小槌の直後、2人が壇上へ、残りは客席の出口へ。高額品の移送中に客を席へ留める手順か。覚えておこう。
続く競りでも、招待客の懐はちっとも痛まないらしい。
禁薬は、病院から消えた調剤記録と一緒に買われた。その次は、持ち主が死んだとされる名画。さらに、押収されたまま廃棄されるはずの軍用魔導兵器まで出てきた。
その頃には、金貨の単位が大きくなるたび拍手が起きるのにも慣れてきた。
慣れたくはなかったが。
「お待たせいたしました、第5出品! 海沿いの古い聖堂から失われた《銀星の祭冠》でございます!」
黒い布が払われると、銀細工の細い冠が現れた。七つの宝石が灯火を受け、壁に小さな星模様を散らす。美術品として眺めるだけなら、確かに見事な品だった。
「祭冠の移動は教会法で禁じられているはずだぞ」
すぐ後ろの客が愉快そうに囁く。
「だからこそ今夜ここにあるんだろう」
競売人は盗まれた場所についてそれ以上触れず、宝石の細工と来歴をこれでもかと持ち上げた。
「開始は2000金貨!」
「2500!」
「3000金貨!」
「4000だ!」
黒山羊の仮面と青魚の仮面が最後まで競った。最後は青魚が5300金貨を告げ、場内が再び沸く。
小槌が鳴った。
ふと右上の見張り廊下に目をやると、手すりの陰に灰色の護送服が見えた。星盾だ。船底の用事を済ませて戻ってきたのか、いつの間にか競りを覗ける位置に立っている。
彼女は祭冠が運び去られるまで、手すりを握ったまま動かなかった。指先に力が入りすぎている。あの聖堂の封紙を、展示室でも見ていたはずだ。
祭冠ひとつでも見逃せないだろうに、このあと何が出るかも分からない。あの人が最後まで大人しくしていられるか、少々心配になってきた。
やがて禁書や密輸宝石も次々と競り落とされる。途中の品は客の笑い声に紛れ、番号しか聞き取れないこともあった。それでも一つだけはっきりしている。ここには、元の持ち主が戻るのを待っている品など、ほとんどない。
白羽根の男は依然として舞台裏を見ている。誰がいくら使ったかより、次に運び出されるものの方が気になるようだ。
「それでは皆様。ここからは、ごく限られた方にのみご案内しておりました特別出品です」
競売人の声が変わった。
舞台の脇から、黒い布を掛けられた檻が押し出される。小さな車輪が床の継ぎ目でつまずき、内側からかすかに金具が鳴った。
「第11出品。補助術式への高い適性と、指示への応答が確認された、希少な労働個体でございます」
布が取り払われた。
展示室で見た少女だった。首の札には21。今読み上げられた出品番号とは別の、連中が彼女に付けた番号だ。
眩しさに目を細めた少女は、客席に顔を向けようとして、途中でうつむいた。袖口を握りしめる指だけが白い。
「簡単な補助術式の維持に適し、命令の反復にも問題はございません。開始価格、800金貨!」
「900!」
「1200金貨だ」
「若すぎる。使いものになるのか?」
金獅子の仮面が横から声を上げた。
「どうぞ、本人の応答をお確かめください」
競売人が檻へ合図する。少女は息を吸って、小さな声を出した。
「……言われたことは、できます」
俺の前列で、誰かが満足そうに頷いた。
右上の見張り廊下では、シュテルが手すりから身を乗り出しかけていた。慌てて止まったものの、手が宙に残っている。横にいた警備員が不審そうに振り向くと、彼女は手を引き、護送票を胸に押し当てた。
何をしたいか、聞くまでもない。
「1500!」
「1800金貨!」
「2000だ!」
声が重なるたび、少女の指が袖口を強く握った。商品を見せる係員は、その手をそっと膝へ戻させる。まるで展示品の角度を直すように。
「2300金貨! ほかには?」
金獅子の札が高く上がったまま止まった。
「2300金貨で落札! お引き渡しは閉会後となります」
小槌が鳴る。
少女は客席の方を見なかった。自分がどこへ連れていかれるかを、誰も教えていないのだろう。
シュテルの姿は、もう見張り廊下にはなかった。あのまま割って入る代わりに、動ける場所を探しに行ったのかもしれない。少なくとも、ここから黙って帰るような顔じゃなかった。
俺は腰の《赤鐘》に触れかけ、指を離した。檻の警報線は確認してある。先にその仕組みを潰さなきゃ、あの子が巻き込まれる。
閉会後の引き渡しまで時間はある。少なくとも、それまでに取り返す方法を見つける。
競売人が次の品の準備を命じる。会場の給仕が動き出すのに紛れ、俺は出品者通路へ続く脇階段へ移った。
そこで、二人の係員と行き違う。
「例の出品者の方は?」
「品の検査は通った。あとは女の本人照合だけだそうだ」
「本当に探している当人なのか?」
「さあな。上からは『特徴の似た女を逃がすな』としか聞いてない。確認は上の仕事だ」
それだけ話して、係員たちは客席へ戻っていった。
リズが疑われている。向こうも本人だと確信しているわけじゃない。だが、出品物の検査とは別に、彼女自身を確かめるつもりらしい。
俺は霊晶へ親指を当てた。
「リズ、聞こえるか。主催者が出品者の本人確認をするそうだ。あんたのことだと思う」
わずかな間を置いて、彼女の声が返った。
『……招待状だけでは、お気に召さなかったのね』
「向こうも確信してない。『特徴が似てる女』としか言ってなかった」
『でしたら、確かめていただく前にこちらも調べることがありますわ』
通信が切れた。
同時に、階段の向こうで重い錠の落ちる音がした。出品者通路の扉が、内側から施錠されている。
客席では何も起きなかったように拍手が続く。
「続いては、100カラットの《ブラッドダイヤ》! どうぞご注目を!」
競売人の張りのある声が、扉の向こうまで届いた。
……なるほど。競りは続ける。出品者だけ、逃がさないってわけか。
俺は《赤鐘》の把手に触れ、まだ抜かずに手を離す。別の通路を探せば近づけるはずだ。今ここで警報を鳴らして、相手に先手を渡す理由はない。
値段を付けられた少女も、狙われているリズも、まだ船の中にいる。
――人間まで売りに出した連中を、客の顔で眺めているのもそろそろ限界だ。




