第21話 黒い招待状
《黒宴》に潜り込むため、リゼリアは半分だけの招待状を調べ始める。
人の名前を隠すための招待状に、なぜこれほど名前が必要なのかしら。
卓の上に置いた黒い半片を、燭台の明かりへ透かしてみる。
紙に見えるが、指先に触れるのは薄くなめした魔獣の皮だった。繊維の奥に幾筋もの術式が縫い込まれている。外側には客の公名を隠す認証線、内側には品物の所有者と搬入者を結びつける契約線。
実に念入りだ。誰が何を買ったかは隠しても、誰を売ったかだけは間違えないようにしてあるらしい。
「……趣味の悪いこと」
オルガさんに借りた染物工房の地下室。染料の匂いは薄れているものの、作業台の木目には青黒い染みが残っていた。二階から食器の触れ合う音が聞こえる。
あちらには、あの少女がいる。
ここなら、わたくしがどの名を使うつもりなのか、余計な人に聞かれずに済む。
半片の端には、見覚えのある文字が並んでいた。
――第7号、回収失敗。
――第13号、歌唱接続試験。
――《無名簿》、最終出品。
少女の首札と、声を出すことを強いられている誰かと、父へ続くかもしれない帳簿。ひと晩に随分と多くの答えを並べてくださるものね。
もっとも、答えを売る側が正直とは限らない。
《無名簿》について確かなのは、あの船で最後に出品されるということだけ。物々しい名前のわりに、実物を見たという人間には一人も会えていない。
中身も知らず、名前から勝手に答えを作るのは簡単だ。そんなものを根拠に動いたと知れば、父は呆れるでしょうね。
まずは、あの船へ入らなければ。
◇
招待状は、客席側と商品搬入側で役割が違う。
先日、カルマ・ベルモンドが見せた客席用の半片には、夜の間だけ名乗る公名を登録する欄があった。わたくしの手元にあるのは、ヘルトさんから頂戴した商品搬入側。
……頂戴というには、少々店内を散らかしてしまったけれど。
二片を揃えれば正規の招待状になる。片方だけなら、別の審査を受けなければならない。カルマが説明した仕組みと、この術式のつくりは一致している。
ならば、こちらは出品者として入ればよい。
掌を開くと、《ブラッドアルカナ》が12枚、赤黒い花弁のように浮かび上がった。
酒場で砕かれた札も、昨日の廃網倉庫で散った札も、こうして再び形を取る。最大12枚。何枚砕かれても、その数が減るわけではない。
ただし、術式が受けた衝撃まで消えるわけではない。手袋の下に残った痺れを確かめ、指を開閉する。
これから正体を隠して認証を抜けるのに、無駄な力を使うつもりはない。
今は3枚で足りる。
1枚目に、《リズ・ヴァーレン》の公名を写す。
王国北西の辺境領を継いだ、20歳の女爵。書類のうえでは10日前に現れた人物だが、港へ入ってから、その名で宿を取り、人と話し、取引を重ねた。
作り物の経歴に、本物の時間が少しずつ積み重なっている。
2枚目で、辺境領の記録と招待状の契約線を繋ぐ。3枚目は、その名へ応じる自分自身の認識を保つためのもの。
「リズ・ヴァーレン」
声に出した名へ、札が淡く応えた。
手袋の下で血を1滴だけ滲ませ、招待片の端に落とす。赤い細線が皮の内側を走り、文字を浮かび上がらせた。
『出品者公名を確認』
まずは成功。
しかし、下の認証線が一瞬、別の方向へ伸びた。
胸元の奥、偽りの経歴とは関係のないところを探られるような感覚が走る。
……まあ。そこまで詮索なさるの?
すぐに3枚目を重ね、照合の深さを浅くした。赤い線が収まる。
通行検問の《公名鏡》より、ずっと執拗な仕組みだ。入場者の偽名を許しながら、その奥に何があるかを測ろうとしている。
仮面舞踏会の招待状にしては、少々熱心すぎるでしょう。
札を袖へ戻す。認証を保つ3枚をすぐに別の術式へ回せば、せっかく整えた偽名の照合が崩れかねない。ほかの9枚の使い道も含めて、今夜は不用意に手を広げない方がよさそうね。
『出品物を指定』
そこが問題だった。
商品搬入側から入る以上、空の箱では通してくれない。
作業台の隅には、行き倒れの商人が残した黒い封蝋がある。逆さの白冠を刻んだ、正体の分からない印。あれはまだ調べるべきことが多すぎる。見知らぬ競売人に預けるつもりはない。
ならば、売り物は別に用意しましょう。
欲しいのは金貨ではなく、反応だ。どなたが値を付け、どなたが眉をひそめ、どなたが宝石よりも持ち主の名に食いつくか。
机の上へ、札を1枚滑らせた。
「《ブラッドアルカナ》」
札の縁から赤い光が細く伸び、空中で幾重にも折り重なる。最初は血の雫ほどだった結晶が、ゆっくりと膨らんだ。面を刻み、角度を揃え、光の屈折を確かめる。少しでも歪めば燭光が濁る。何度か形を調整して、ようやく硝子箱の黒い布の上へ落とした。
掌に載せれば、ずしりとした冷たさまで伝わる。
100カラットの《ブラッドダイヤ》。透き通った深紅の内側で、燭台の火が無数の小さな光に割れた。
もちろん、本物のダイヤではない。《ブラッドアルカナ》で形作った精巧な偽物だ。宝石の姿を与えられた魔力にすぎず、術式を解けば欠片ひとつ残さず消える。
ただ、鑑定を欺けるかは別の話。魔力の流れを隠し、結晶の面だけを読ませるには、細かな制御が要る。商売人の目を試すには、少々贅沢な細工でしょうけれど。
添える来歴は、こう。
――3年前、王都で処刑されたノワールヴェイン公爵の遺品と伝わる、100カラットの血色宝石。
父の名を飾りにして売り込むとは、我ながら気分のよい趣向ではない。だからこそ、値段ではなく人を見る。
父の死を酒の肴にする者。名門の遺品だと聞いてひれ伏す者。あるいは、王国が処分したはずの品が出てきたことに疑問を抱く者。
その違いが分かればよい。
「出品物は、《ブラッドダイヤ》。100カラット。来歴は、処刑されたノワールヴェイン公爵の遺品と伝わるもの」
『仮登録を受理』
硝子箱の蓋を閉める。深紅の光が、黒い布の上で小さく跳ねた。
売上をいただく予定はない。落札者がどなたであろうと、必要になれば術式を解けば済む。今夜の会場には、その程度の意地悪を仕掛ける資格くらい、ありそうですもの。
◇
「食べな」
戸口からの声に顔を上げると、オルガさんが皿を持って立っていた。
黒パンと塩漬け肉。それから、根菜を柔らかく煮たもの。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、まだ準備が――」
「血を使うなら腹に入れときな。倒れられると運ぶ方が迷惑する」
「……お医者様とは、皆様これほど率直なのかしら」
「回りくどく言ったら食べるのかい?」
「いただきますわ」
実に勝ち目のない交渉だった。
パンをちぎる。少し硬い。温かな煮汁へ浸すと、噛むたびに塩と香草の味が広がった。
朝食を残した日に、父から何度も叱られたことを思い出す。
『残すな』
あの方は、なぜだか食事にだけ妙に厳しかった。
盤上の黒い女王を追い詰めている最中でさえ、冷めた紅茶に口をつけさせたものだ。
「……あら」
「どうした」
「紅茶が、少々恋しくなっただけです」
「生きて戻れば淹れてやるよ。濃いのと薄いの、どっちがいい」
「濃いのを。……いえ、普通で結構です」
「変な注文だね」
父ほど濃くされては困るもの。
口には出さず、残りのパンを食べきった。
「戻り道は?」
オルガさんが港の地図を広げる。
「荷役口は干潮の間だけ開く。夜半には潮が上がるよ。船尾の小舟も、黒宴の連中が押さえてるはずだ」
「下の船渠へ抜ける排水路は?」
「ある。ただ、排水弁を閉められたら使えない」
「そう。では、ひとつの出口を当てにするのは危険ですわね」
地図の端へ、鉛筆で印をつけた。
客席側の階段。搬入口。倉庫へ繋がる運搬橋。確実に使えるとは限らないからこそ、位置だけは覚えておく。
「シュテルさんにもお伝えになったの?」
「ああ。あの子は、帰る人数まで数えようとしてたよ」
「……でしょうね」
彼女が船で誰を救おうとするかは、先日話したときから変わらないはずだ。
「赤鐘は?」
「自分で探すだろ。あいつは地図より先に出口を見つける」
昨日の倉庫でも、撃つ前に窓と梁の位置を確かめていた。
……腹立たしいほど、抜かりがない。
「仲良くやんな」
「まだ仲良くする約束などしておりませんけれど」
「そう言いそうだと思ったよ」
オルガさんは皿を下げ、追及せずに階段を上がっていった。
借りた地図を畳む。
シュテルさんとは話ができる。カルマとも、一度だけなら背中を任せられた。けれど、同じ目的で動くと決めたわけではない。
会えたとしても、相手がこちらの望む方を向くとは限らない。
その程度の距離で、今は十分だ。
◇
鏡の前で、黒い礼装の襟を正した。
公爵家で着ていた服と比べれば、飾りは控えめだ。袖に金糸もない。それでも立ち姿まで変える必要はない。
鏡の縁へ、細い紙片を置く。
リゼリア・ノワールヴェイン。
黒薔薇。
リズ・ヴァーレン。
指で一つずつなぞる。
王国が奪おうとした名。勝手に付けた名。そして、今のわたくしが自分で選んだ名。
どれも同じ人間を指している。それでも、あの船へ入るのに使うのは最後のひとつだけだ。
紙を2つに折り、礼装の内側へ縫い込む。見つかれば、わざわざ本名を教えて差し上げるようなものだ。それでも、王国に消されかけた名を自分の手元に残しておきたかった。血で書けば術式を探る者に気づかれる。普通の筆記の方が役に立つこともある。
次に、仮面を選びに出た。
港の劇場街には、祭礼の残り物を売る店が並んでいる。赤や金の華やかな面に混じって、奥の棚には顔と公名の認識をずらす魔導仮面が収められていた。
「黒いものを。目元を隠せれば十分ですわ」
「こちらはいかがです? 薔薇の棘を象った細工でして」
仮面商が差し出したのは、黒い半面だった。頬へ沿う装飾が、細い棘の形をしている。
「認識避けの術式は?」
「浅い照合なら。ただし、正しい公名を呼ばれれば、術式よりそちらが優先されます」
「それで結構です」
自分の名前まで忘れてしまうような仮面なら、そもそも着ける価値がない。
代金を払って店を出ると、向かいの衣料品店に見覚えのある赤髪があった。
昨日は外套の一部を倉庫へ置いてきたはずだ。なるほど、新調なさるのね。
カルマが黒い手袋を片方だけはめ、店主へ何か言っている。こちらに気づくと、指先をひらひらと動かした。
「似合うと思うか?」
「銃を隠せば、多少は紳士に見えるかもしれませんわね」
「隠したら仕事にならない」
「では、そのままでよろしいのでは?」
「厳しいな」
言葉に反して、彼は愉快そうだった。
わたくしは店先から離れる。カルマも追ってこない。
黒宴へ行くことは、互いに知っている。だからといって、準備まで並んで行う義理はなかった。
◇
夜の港は、昼より美しく見えた。
積み荷を覆う布の向こうで魔導灯が揺れ、海面に赤い光の筋を引いている。けれど岸壁へ近づくほど、香油の匂いに獣皮と潮の匂いが混じり始めた。
黒宴の会場、《夜鴉号》。大型客船の名残を持つ船だが、外側は倉庫船に偽装されていた。
黒い船体。低く抑えた灯火。赤いランプにだけ照らされた荷役口。
桟橋の先で、礼装姿の男たちが二人、ひそひそと話している。仮面を着ける前なのだろう、片方の袖には古い家紋が見えた。
「最後の品が本物なら、王宮での席次も変わるぞ」
「公名の監査に関わる権限が手に入るという噂か。名録院が黙っているものか」
「全部でなくとも構わん。一部でも握れば、王家に直接口を利けるようになる。悪い買い物ではないだろう」
「落札できれば、の話だがな」
二人は含み笑いを交わし、客席側の入口へ消えた。
……監査の権限?
名前の帳簿を落札したところで、なぜそんなものまで手に入るのか。売り手の口上か、買い手の思い込みか。どちらにせよ、貴族があれほど欲しがる理由は、単に珍しい記録だからというだけではなさそうね。
確かめるためにも、実物が必要だ。
荷役口へ向かう。
「招待状と、今夜のお名前を」
銀色の仮面を着けた受付の女性が、手を差し出した。
「リズ・ヴァーレンです。出品の登録をしておりますの」
招待片と小さな硝子箱を台へ置く。
「辺境の女爵様が、これほど大粒の宝石を?」
「由緒はあるそうですけれど、持ち主がすでに亡くなっておりますの。こちらなら、相応に評価していただけるでしょう?」
「では、照合を」
台座に置かれた認証板が光る。
『出品者公名、リズ・ヴァーレン』
光の筋が手首へ触れた。じり、と皮膚の内側が熱くなる。仮面の術式が細い靄を作り、血統へ降りようとした照合を逸らした。
だが、完全には消えない。
受付の女性が、わたくしの手元を見ている。
『仮登録照合、受理』
「……出品物の最終検査を受けていただきます。こちらへ」
「承知しました」
黒い箱を受け取り、奥へ進む。
桟橋の反対側には、客席用の細い階段。ちょうど赤銅色の半面を着けた男が、黒い招待片を係員へ見せていた。
あの銃は隠す気がないらしい。
……仕事熱心でいらっしゃること。
もう一つの搬入口には、灰色の護送服を着た白髪の女性がいた。小さな輸送棺の脇に立ち、受付の問いへ短く答えている。
声は届かない。でも、あの姿勢と、指先に瞬いた青白い光を見間違えるはずもない。
シュテルさん。
客。出品者。護送人。
誰かが相談して決めたわけでもないのに、入り口だけは見事に分かれたものだ。
あちらもこちらに気づいたかどうかは分からない。少なくとも、合図を送る理由はなかった。
◇
出品者待合室には、宝石よりも厄介なものが並んでいた。
灰色の鉱石を収めたガラス筒。封印された古い家印。触れれば記憶が曖昧になるという香油瓶。その隣には、鎖で閉じた小箱がいくつも積まれている。
部屋の奥、仕切り布の向こうから小さな咳が聞こえた。
女の声で値段が告げられる。
「適性は申し分ない。洗礼記録も綺麗に処理してある」
人の話をしている。
……よくもまあ、宝石の隣で同じ調子になれるものね。
袖口で札が動きかけた。指を握って止める。
今ここで騒ぎを起こせば、奥にいる者の行き先も分からなくなる。《無名簿》を運び出されれば、父の手掛かりも失う。それに、助けた人々をどこへ逃がすかという問題も残る。
見捨てると決めたわけではない。まだ動く場所を選んでいる。
「その箱、開けていただけますか」
検査係が来た。
黒い山羊の仮面を着けた出品者が、肩越しに覗き込んでくる。
「100カラットだと? いくらなんでも大げさだろう」
「でしたら、ご自身の目でお確かめになって」
硝子箱を開いた途端、黒布の上に深紅の光が散った。
大ぶりの宝石を見慣れているらしい黒山羊でさえ、次の言葉を忘れたように黙る。
検査係は細い銀の器具で石を持ち上げ、鑑定板へ載せた。青白い光が幾度も通り抜ける。揃えた結晶面から、壁へ小さな赤い光点が散った。
「……寸法も重さも、100カラット相当です。内部まで随分と均一だ」
「来歴の証明は?」
検査係が、添えられた紹介状に目を落とす。
「ノワールヴェイン公爵の遺品という話までは、保証できません」
「そうですわね。わたくしも伝聞としてお持ちしましたもの」
証明できないのなら、それで結構。むしろ、どなたがその名に反応なさるかを確かめたい。
検査係が台帳へ印を押した。
「《ブラッドダイヤ》の鑑定は以上です。順番が来るまでお待ちください」
「承知しました」
受け取った出品札を、手袋の内側へ滑り込ませた。
そのとき、壁の向こうから少女の声が聞こえた。
同じ音を長く引き伸ばし、短く切って、また続ける。歌詞も旋律もない。息を吸うたびに喉が引っかかるような、苦しい発声だった。
一度、声が途切れた。すぐに誰かが怒鳴り、少女は息を詰まらせながらまた声を出し始めた。
施療所の少女が、温かな杯を両手で包みながら話してくれたことを思い出す。
『歌わないと、痛くなるんだよ』
この声の主が、あの子の心配していた相手なのかは分からない。ただ、誰かが少女の声を魔術に使い、止めることさえ許していない。
検査係が廊下の奥へ合図を送る。
「最終出品の搬送確認を。――《無名簿》は、まだ開くな」
……開くな?
さきほどの貴族たちの声が、ふと耳に蘇る。何を買えると思って、あそこまで目の色を変えていたのか。
まだ誰も中身を見せてくださらないというのに、ずいぶん厳重な扱いですこと。
奥の扉が閉じる。
細く引き伸ばされた声だけが、しばらくこちらへ届いていた。




