第20話 白い回廊の審問印
教会の朝は、いつもと同じ匂いがした。
薬草を煎じる湯気。焼いた麦の香ばしさ。磨かれた石床に残る、薄い香油の匂い。
聖オルディア教会のクロイツハーフェン支部。その正面玄関をくぐった私の横を、修道女が大きな薬籠を抱えて通り過ぎた。
「お帰りなさい、シュテル様」
「ただいま戻りました。その薬籠、重くありませんか?」
「大丈夫です。今朝は熱のある患者さんが多いので、薬も多めなんです」
彼女は笑い、病室へ急いでいった。
その背を見送る。
今朝も、ここでは誰かが患者のために働いている。先日、礼拝堂で私を襲った者がいたからといって、支部の全員が同じ事情を知っているわけではない。
この場所で命を救われた人も、間違いなくいる。
だからこそ、記録を確かめなければならなかった。
あの少女が身につけていた首札。切り取られた洗礼簿の頁。そして、黒い船への搬送票。
少女は今、オルガさんの施療所で休んでいる。首の術式はまだ外せない。昨日、リズさんと見比べた《黒宴》の招待片にも、歌に関する不穏な記載があった。
それぞれをつなぐ記録が、ここにあるはずだ。
「シュテル」
聞き慣れた声が、回廊の奥からした。
支部長バルナードが立っていた。両脇には教会守備騎士が2人ずつ。うち1人は目を合わせようとしなかった。
「……正面から来るとはな」
「記録の閲覧を求めに来ました。裏口を使う必要はありません」
「許可もなく礼拝堂の封印を切ったそうだな」
「解いた封印も、その理由も記録に残しています。審問を止める正式な命令は、まだ出ていません」
バルナードが、短く息を吐く。
「中央へ報告する。君の判断だけで済む話ではない」
「ええ。ですから、誰の名前が消され、どこへ送られたのかを確かめたいんです」
外套の内側から、銀色の審問印を取り出した。
星を抱く盾の紋章。代々シュトラール家に伝わる印で、聖盾審問官が教会内部の祈祷運用と保護施設を監査する際に用いるものだ。
この印があっても、記録を隠す者が素直に扉を開けるとは限らない。ならば、拒否した事実も記録に残す。
「公名剥離の疑い、本人の同意を得ていない移送、身体に接続された認証術式。この3件について、記録の開示を求めます。拒否されるなら、正式な停止命令を出してください」
「……相変わらず、書面にこだわる」
「口頭の命令では、あとから誰も責任を取れませんから」
「シュトラール家の娘が、家の権威を教会に向けるのか」
「教会の中で起きたことだから、使うのです」
しばらく、足音さえ聞こえなかった。
回廊の端では、修道女が患者を車椅子へ移していた。私の声に驚いたのか、手を止めてこちらを見ている。
ここで剣を抜かせれば、まずあの人たちが巻き込まれる。
「患者さんの前で話すことではありません。立会人を置いて、記録室でお話しできませんか」
「立会人など要らん。中央の指示に従えば済む」
バルナードが守備騎士へ目を向けた。騎士の1人が歩み出て、車椅子を押す修道女を病室の方へ案内する。患者の姿が回廊の角に消えると、騎士は元の位置へ戻った。
「誰が指示したのですか?」
バルナードの唇が閉じる。
「そこまでして、何が知りたい」
「子どもたちが、どこへ運ばれたのかです」
「……支部には毎日300人を超える患者が来る。金がなければ薬も食事も途絶える」
「そのお金は、《黒宴》への移送と関係があるんですか」
「私は誰も売っていない」
否定は早かった。
けれど、移送を知らないとはおっしゃらなかった。
「では、誰の判断で運ばれたのですか」
「中央の指示だ。後見人のいない子どもや、身寄りのない病人が対象だった。支部で抱えきれない者もいた」
その言葉を、支部長は何度繰り返してきたのだろう。
けれど、考えを推し量るより先に、確かめなければならないことがある。
「その人たちには、行き先を話したんですか?」
「拒まれれば移送できない」
「……つまり、話さなかったんですね?」
「……していない」
奥の部屋から食器の触れ合う音がした。朝の仕事は、私たちのやり取りなど待ってはくれない。
バルナードが視線を伏せる。
「1人を差し出して100人が助かるなら、君はどうする」
「その1人の意思を、私たちが勝手に決めてはいけません」
「では100人を見捨てるのか」
「今すぐ答えは出せません。ですが、ほかに方法がないか調べます。薬があと何日分あるのか、寄付はどこから来ているのか。それを確かめずに、誰かを差し出すことはできません」
簡単な答えではない。
けれど、知らないまま犠牲者の人数だけを決めてよいはずもなかった。
「地下の記録庫を開けてください」
「許可できん」
「では、拒否の理由を公名入りで記してください」
バルナードは審問印を見つめたまま、手を動かさなかった。
やがて、守備騎士へ顎を向ける。
「通すな」
◇
最初の騎士が盾を構えた。
「道を開けてください」
「支部長命令です」
「命令なのは分かっています。でも、武器を使わずに通してもらえませんか」
騎士が一歩進む。
盾の縁が、私の肩より高い位置まで持ち上がった。
この人は、押し返すつもりでいる。
私は掌を下へ向けた。
「星盾」
薄い光面を、相手の盾の下端と床の間に斜めに置く。踏み込みに合わせて角度を変えると、押し出された盾は上へ滑り、騎士自身の視界を塞いだ。
その横を抜けようとしたところへ、槍の穂先が伸びる。
狙いは脚。止めるための突きだとしても、当たれば立っていられなくなる。
右へ小さな星盾を置き、穂先だけを壁へ逸らす。肩に、先日の傷が鈍く響いた。魔力の出力を上げれば防げるが、その分、後で必要なものまで使ってしまう。
槍の根元に細い強化線が見えた。
「星刃」
短い光を滑らせ、術式の接続部分だけを切る。
穂先が重く落ちた。騎士が握り直そうとした隙に、星盾の面を彼の胸当てへ押し当てる。硬い音とともに一歩よろめいたが、倒れはしなかった。
「もうやめましょう。ここで怪我人を増やしたくありません」
後ろの2人は剣を抜かなかった。
目の前の騎士が槍を下ろす。
「……記録庫へ行っても、中央の命令は変わりません」
「そうですね。でも、せめて何が命じられたのかは確かめたいんです」
私は会釈し、階段へ向かった。
立ち去り際、患者を乗せた車椅子が再び動き始める音が聞こえた。
誰も大きな怪我をしていない。
まずは、それでよかった。
◇
地下記録庫の扉には、3つの錠が掛かっていた。
以前、ここを閲覧したときは1つだけだったはずだ。錠前の真鍮だけが、石壁よりも新しい。
私は追加された錠の位置と封印を記録術紙へ写し、時刻を書き込む。それから星刃の刃先を細く絞り、鍵穴の奥へ差し入れた。
壊したものも、こちらの記録に残る。隠れて入るより、よほど面倒だ。
金具を傷つける硬い感触が3度伝わり、最後の錠が外れた。
中は冷えていた。乾いた紙と防虫香の匂い。棚に差し込まれた簿冊には、救護院、孤児院、施療所の名が並んでいる。
アーレン救護院。
3年前に閉鎖された施設だ。
入所者の記録はあった。洗礼簿もある。だが、閉鎖時の移送記録を収める位置だけ、背表紙の跡が薄く残っている。
簿冊が失われたのか、持ち出されたのか。決めつける前に、隣の会計簿を開いた。
――移送対象、児童48人。
――移送費、5,400金貨。
――支払先、第9封鎖倉庫。
数字を、もう一度追った。
子ども48人を移すだけの費用とは思えない。護衛や口止めまで含まれているのかもしれないが、内訳がない以上、断定はできない。
先日、小礼拝堂で見つけた《黒宴》宛ての搬送票と同じ、倉庫番号。
関係がある可能性は高い。けれど、この数字だけで、そこで何をされたかまでは証明できない。
別の棚には、近年の搬送担当者の認証票が綴じられていた。
公名を記す欄は空白。その隣には、古い形式の祈祷印と、一夜限りの職務名を登録するための欄があった。
護送役は、本当の名前を伏せて船に入る。だからこそ、引き渡した者の名前が追いにくくなるのだろう。
認証票の裏にある搬入口の符号も写す。複写術紙には、印の形と微かな魔力痕が残った。ただし原本ではない。照合を通過できる保証はなかった。
自分の公名と閲覧時刻、写した簿冊の所在を控えへ残した。原本は持ち出さない。私が盗んだと判断されれば、すべての記録が疑われてしまう。
「……律儀なものだな」
扉の方を向くと、バルナードが1人で立っていた。
騎士の姿はない。武器も持っていない。
「必要なことです」
「中央は、その控えごと消すだろう」
「1枚しかなければ、そうでしょうね」
バルナードの眉が動いた。
「ほかにも写したのか?」
「会計記録は、患者さんの情報を伏せて外の組合にも確かめてもらいます。搬送票のことは、関係者にも話を聞きます。ここだけに置いておけば、また消されてしまいますから」
「寄付を止めるつもりか」
「止めたいわけではありません。困るのは患者さんたちですから」
冊子を閉じる。
「だから先に、薬を補える場所と、もしものときの受け入れ先を探します」
「簡単に言うな。あの冬、薬を買うために何人の食事を削ったと思っている」
その声は、回廊にいたときよりずっと疲れていた。
「私は、あの冬のことを知りません。あなたがどれほど苦労されたのかも、同じようには分かりません」
認めたうえで、顔を上げる。
「それでも、子どもたちに何も知らせず送り出してよかったとは思えません」
バルナードが書架の端に手を置いた。
白い袖口に、乾いた薬草の粉がついている。朝の患者を診たのだろう。その手で、誰かの移送書類にも判を押してきた。
「……あのとき、中央に子どもを引き渡したのは私だ」
胸が詰まった。
「名前が消された、あの子ですか?」
「搬送票にいた子だ。中央から、直接指定された」
「その子の名前は?」
バルナードは、答えるまでに時間がかかった。
「確かめるなと命じられていた」
知らなかったのではない。確かめないようにしていた。
あの子が今も船にいるのか、ミレアさんと同じ子なのか。まだ何も確かではない。
「その子には、行き先を話したんですか?」
「……できなかった。救護院を残す条件だった」
「……断られるのが、怖かったんですか?」
しばらくして、バルナードは頷いた。
「あの子に断られていたら、私はどうすればよかった」
答えを持たないのは、私も同じだ。
それでも、本人に黙って連れ去ってよい理由にはならない。
「戻ったら、改めてお話を伺います」
「今ここで告発すればいいだろう」
「告発はもちろんしますが、あなたにはほかにも説明していただくことがあります」
バルナードは目を閉じた。やがて扉の脇へ退き、通り道を空けた。
私は一礼して、記録庫を後にした。
◇
地上へ戻ると、同じ修道女が薬籠を抱えて待っていた。
「支部長と、お話はできましたか?」
「はい。まだ聞きたいことはありますけれど。……それより、薬の残りを確かめてもいいですか?」
案内された棚には、用途ごとに小箱が並んでいた。煎じ薬には日付が貼られ、出庫記録も欠けなく残っている。
ここを守っている人がいる。
それだけは、よく分かった。
解熱薬は5日分。傷薬は11日分。灰触による痛みを抑える霊草は、あと3日。
「もし補給が止まったら、どの薬が最初に足りなくなりますか?」
修道女は棚を見上げた。
「霊草です。港の薬師組合にも在庫はありますけど、買い続けるお金がありません。患者さんを移すにしても、受け入れ先を探さないと……」
「薬を切らすわけにはいきませんね。薬師組合で相談できる方を教えてもらえますか?」
「……教会を調べているって、聞きました」
「はい」
「ここがなくなったら、患者さんはどうなるんでしょう」
声が小さくなった。
責められているのではない。彼女も、答えを求めている。
「閉鎖が決まったわけではありません。もしそうなっても、患者さんにはちゃんとお話しします。行き先も、付き添える人も、これから探します」
「全員の行き先が、見つかるでしょうか」
「今は、約束できません」
修道女の指が、薬籠の持ち手を握り直す。
「でも、薬が尽きるまで待っているわけにはいきません。できるところから、一緒に調べてもらえますか?」
彼女は、棚の鍵を机に置いた。
「薬師組合への手紙なら、私が書けます。今ある薬の数も、正確に伝えられます」
「ありがとうございます。患者さんのお名前は、必要になったときにご本人へ確認しましょう」
初めて、修道女の表情が少し緩んだ。
修道女と一緒に薬の必要量をまとめ、薬師組合へ出す書簡の宛先を確認した。返事をどこで受け取るかも決めてから、照会の責任者として帳面に署名する。
シュテル・シュトラール。
薬の手配まで、修道女ひとりに押しつけるつもりはない。
◇
オルガさんの施療所へ着いた頃には、空が少し赤くなっていた。
扉を開けると、消毒薬と煮込んだ野菜の匂いがした。奥では、誰かが低く呻いている。
「おかえり。今日は何か壊してきたのかい」
「……錠前を3つほど」
「物なら直せるさ。怪我人は?」
「怪我人は増やしていません」
「それなら上出来だ」
オルガさんは前掛けを直し、奥の戸を閉めた。
「奥の男は赤鐘が連れてきた。見張りが要るから、子どもたちとは部屋を分けてる。安心しな」
赤鐘と呼ばれるガンマンが、負傷した男を連れてきたらしい。オルガさんの古い知り合いとは聞いているが、私はまだ顔も名前も知らない。
「護送役の認証票を写してきました。これで通れるかは分かりませんけれど」
「で、帰り道は?」
「船底から荷役口へ抜ける道を調べています。潮が上がる時刻も確認したいんです」
「港図ならあるよ。リズも赤鐘も、それぞれ入る方法は考えてるだろうね」
「ええ。リズさんとは避難路を確かめました。でも、船の中では目的が違いますから」
「誰も同じものを探してない。だから見落とす場所も違うんだろ」
私は答えなかった。
リズさんは《無名簿》を探している。赤鐘という人も《黒宴》へ向かうらしいが、何を探しているのかは知らない。私は、船に閉じ込められた人たちを助けたい。
誰かが危険な選択をしたとき、意見が一致する保証はない。
「違う判断をするのが、怖いかい」
オルガさんが尋ねた。
「……はい。私と同じ判断をしてくれるとは限りませんから」
「なら、任せなくていい。何が起きたら知らせるかだけ、決めときな。逃げ道が塞がれたとか、子どもを見つけたとかさ」
なるほど。
助ける責任まで、相手に預ける必要はない。
「船で会ったら、必要なことは伝えます。あちらの考えも、聞いてみます」
「それでいい。今から仲良くなる必要はないよ」
二階から小さな足音がした。
階段の手すりに、少女が両手を掛けている。
「シュテル、行っちゃうの?」
「今夜、船へ行きます」
喉元にはまだ札がある。布の下に赤い擦り傷が見えた。
怖がらせないよう、階段の下から目を合わせる。
「……戻る?」
「戻ります。分かったことを、必ず伝えますから」
「歌ってる子も?」
「助けに行きます」
少女はしばらくこちらを見つめ、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、待ってる」
「はい」
約束した以上、できる準備はしておきたい。
椅子には、灰色の護送服を用意した。教会章はついていない。
治療布、複写術紙、短距離用の祈祷灯、小さな星杭。携行品は、すぐに取り出せる場所へ分けた。
今朝、騎士の槍を逸らしたときの痛みが、まだ肩に残っている。小さく星盾を開いてすぐに消し、指先の動きに遅れがないか確かめた。
最後に、写した認証票と、礼拝堂で見つけた搬送票を並べた。
公名の代わりに、今夜だけ使う職務名を書く欄がある。そこに、短く記した。
――星盾。
2枚の票を胸元へしまう。
聖盾審問官の印を見せれば、あの船では門前払いかもしれない。だから今夜は、教会が人を運ぶために用意した印を使う。
人を連れ去るための手続きを、人を連れ戻すための入口に変える。
その先で何を見つけるのか、まだ分からない。
けれど、名前も知らされず連れ去られた人を、そのまま見捨てるわけにはいかない。
白い外套を脱いで護送服に袖を通し、灰色の襟を留めた。鏡の中には、教会章のない自分がいる。
襟元に触れ、隠した認証票の位置を確かめる。
「……星盾」
その名で入るのは、誰かを運び去るためではない。連れ戻すためだ。




