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第19話 赤鐘と辺境令嬢



 尾行に気づかれたのは、二つ目の角だった。


 わざと足音を消さなかったとはいえ、振り返りもせずに俺の歩幅を測っていたらしい。黒い外套の女は路地の先で一度だけ立ち止まり、使われなくなった廃網倉庫へ入っていった。


 追ってこい、というわけだ。


 もう少し明るい場所を選んでもらえると助かるんだがな。


 錆びた蝶番を押すと、潮と古い麻縄の匂いが鼻にまとわりついた。網を乾かすための高い天井、積み上げられた木枠、海へ抜ける裏口。床板は湿っているが、左側だけ埃が乱れている。ここへ入った女は、真ん中を通っていない。


「扉を閉めていただける?」


 漁網の向こうから涼しい声がした。


「閉じ込められる側に頼むことか?」


「開けておけば、通りすがりの方にご迷惑でしょう」


「それはごもっとも」


 扉を閉める。錠には触れない。逃げる時に手間が増える。


 網の切れ間に、リズ・ヴァーレンが立っていた。黒髪の先に深紅が混じり、赤い瞳だけが倉庫の薄暗さに妙によく映える。服装は上品だが、右手の指先には赤黒い魔札が一枚。残りは見当たらない。


 持っていないわけじゃない。足元の埃にも、頭上の梁にも、不自然な空白がある。


「それで、わたくしを追いかけてきた理由は?」


「二つある。昨夜の酒場の件と、あんたが持ってる黒い紙の件だ」


「質問に来られたのなら、表からお入りになればよろしいのに」


「表から声をかけて、素直に答えてくれたか?」


「さあ。試してご覧になれば分かりましたのに」


 試す前に倉庫へ誘い込んだ奴が言うかね。


 右腰の《赤鐘》は抜かず、外套の内側から招待片を出した。銀色の縁飾りがついた、黒い半券。彼女の視線が一瞬だけ動く。


「《黒宴》の客席側だ。あんたの持ってる半分とは、役割が違う」


「……ずいぶん親切に教えてくださるのね。お代は?」


「そっちも見せてくれりゃ、それでいい。ついでに誰から手に入れたか聞ければ、なお嬉しい」


「見せれば、そのまま持っていかれる可能性がありますわ」


「じゃあ、今の俺はどうだ。あんたに見せたままだぞ」


「だからといって信用できるとは限りません。盗む方法が一つしかないと思うほど、世間知らずではありませんもの」


「参ったな。俺の手口が全部見透かされてるらしい」


 半券を戻すと、女は首を少し傾げた。


「昨夜、霊晶灯を撃ったのはあなたでしょう?」


「そっちも気づいてたか」


「撃たれた灯りの位置を考えれば。追手の視界を奪うには、たいへん都合のよい一発でしたわ」


「礼なら受け取る。できれば現金で」


「助けたと認めるの?」


「俺が撃ったのは灯りだ。たまたま、あんたが逃げやすくなった」


「まあ。それでは、お礼もたまたまでよろしいのね」


 綺麗に言い返された。


 オルガから聞いたのだろうか。女の目が俺の腰の銃へ滑る。


「《赤鐘》のガンマン。そう呼ばれていらっしゃるそうね」


「カルマ・ベルモンドだ。赤鐘でも構わない。で、あんたの名前は?」


「リズ・ヴァーレン。検問でも、そう名乗っておりますわ」


「なら、今はそう呼ぼう」


 その『今は』に、彼女の目が細くなった。


 余計な一言だったらしい。もっとも、確かめたいことを全部隠したままじゃ、ここへ来た意味がない。


「俺は招待状を持ってる。あんたも持ってる。どっちも黒宴へ行きたい。それなら、今ここで奪い合うより、互いに中身を確かめる方が早くないか?」


「そうですわね。ですが、その理屈で近づいてこられた方を、何人か存じておりますの」


 女の手元で札が傾く。


「皆様、途中から随分とお話が変わりました」


 床の埃が、細く赤く光った。


     ◇


 左足を引きかけて、やめた。


 踵のすぐ後ろで、床板の隙間から赤い糸が立ち上がる。後ろへ跳べば足首に絡み、右へ避ければ積み上げた木枠が死角を作る。倉庫の中央に立った時点で、もう誘導されていたわけだ。


「おいおい。商談の途中だろ」


「そちらこそ、わたくしの招待状を欲しがっていらっしゃる。念のためですわ」


 まだ攻撃ではない。俺の逃げ道を一つ減らしただけ。


 銃を抜いた。


 彼女の喉や胸は狙わない。銃口を木枠の脚へ向けると、赤い札が網の奥から三枚浮かび上がった。


「撃つおつもり?」


「撃たずに済むなら、それに越したことはない。ただ、銃を持ってきた以上は使い道もあるんでな」


「では、使い道を拝見いたしましょう」


 指が動く。


「《アルカナ・ディール》」


 札は一直線に飛んでこなかった。一枚が足元へ、一枚が右から、もう一枚は遅れて頭上を取る。全部避ければ壁際へ追い込まれる。


 銃声が倉庫を打った。


 狙ったのは頭上の網を吊るす留め金だ。腐った金具が外れ、重たい漁網が落ちて札の行く手を塞ぐ。右から回り込んだ一枚は、銃身の側面で受け流した。


 最後の札が外套の裾に貼りつく。


 血の色をした糸が伸びる前に、留め具を引き抜いて外套を脱いだ。布だけが床に縫い止められる。


「……まったく。服を大切になさらない方」


「この外套、仕立てが悪くてな。今度いい店を紹介してくれ」


「お断りします」


 厳しいねえ。


 外套を置き去りにして間合いを詰める。広い場所ほど魔札の軌道が増える。近づけば女の手数も制限できるが、当然、俺の銃も振りにくくなる。


 女の右手に赤黒い札が束ねられた。


「《アルカナ・ファン》」


 広がった鉄扇が《赤鐘》の銃身を挟む。刃じゃない。こちらの手首ごと銃口を外へ向けるための打撃だ。俺は銃を捻って抜き、踏み込みざまに膝を狙う。


 足が届く前に、彼女は半歩退いた。


 逃げた先の天井から、赤い札が降ってくる。


 いや、違う。俺が踏み込む位置を先に決めて、その上へ置いてあったのか。


 手首に血糸がかかった。


「捕まえましたわ」


「早いよ、お嬢さん。まだ名前も覚えきってない」


 銃把の底に仕込んだワイヤーを射出する。梁へ食い込んだ鉤が軋み、巻き取りの力で身体が持ち上がった。血糸は手首を締め切る前に滑り、指先を掠める。


 空中で《赤鐘》を一度鳴らす。


 撃ったのは女の背後の窓の閂。板戸が跳ね上がり、海風が倉庫を抜けた。床を這っていた赤い霧が流され、隠された札の位置が透けて見える。


「なるほど。床まで使ってたか」


「見つけるのがお早いこと」


「褒めても何も出ないぞ」


 ワイヤーを戻し、着地しながら、背後へ伸びる網の端を掴んだ。見えている札とは別の一枚が、こちらの背中へ回り込んでいる。


 網をひねると札が目の前で止まった。血糸が麻に絡み、ぴんと張る。


 女は追撃しなかった。


 こちらも撃たない。


 手首の擦り傷から滲んだ血を拭いながら、息を整えた。あちらも呼吸は乱れていない。ただ、札の何枚かは明らかに光が弱い。昨夜の酒場であれだけ派手にやり合えば、無傷では済まないか。


 ここまで見れば十分だ。


「いい腕だ。少なくとも、客席側の半券を力ずくで奪う相手には向かないらしい」


「こちらも勉強になりました。あなたの銃は、人に向けるより設備を壊す方がお得意なのね」


「直す奴には嫌われる」


「でしょうね」


 言い合いが終わる前に、倉庫の外で金属が石に当たる音がした。


 転がってきたのは、親指ほどの黒い球体。


 表面の圧縮紋が赤く灯る。


 俺は考えるより先に叫んでいた。


「伏せろ!」


     ◇


 爆風が網を持ち上げ、木枠を粉々にした。


 ワイヤーの鉤を柱へ打ち込み、崩れた壁と反対側へ身体を引く。肩に飛んできた木片を払い、床を転がった。耳の奥で、鐘を裏返したような音が響いている。


 粉塵の向こうで赤い障壁が開いた。


 リズの周りに集まった札が瓦礫を受け止める。だが、縁に亀裂が走った札が一枚、赤い花弁になって散った。


 負傷者を増やすのが目的じゃない。壁ごと入口を作るための爆薬だ。


 外にいた連中が踏み込んできた。


 全員黒衣。顔には白鳥の仮面。二人が長銃を、後ろの一人が短杖を構えている。倉庫の反対側にも、もう一つ足音。俺たちの逃げ道を数えて入ってきたらしい。


「標的を確認。ノワールヴェイン継承個体は拘束する」


「赤鐘は処分」


「……ひどい待遇の差だな」


「普段の行いではありませんこと?」


「まだ味方になった覚えはないぞ」


「わたくしもです」


 短杖の男が術式を起動した。リズへ向けて白い帯のような捕縛線が走る。捕まえれば関節だけを縛り、肌は傷つけない作りだ。


 俺は線を支える留め具を撃ち抜いた。魔力の流れが外れ、帯が床に落ちる。


 長銃の一人が俺へ狙いを変えた。


 引き金が落ちる前に、足元で赤い光が盛り上がる。リズの札が立てた低い障壁に弾が当たり、右の柱へ逸れた。


 一瞬だけ目が合った。


「助けたわけではありませんわ」


「分かってる。撃たれると俺が動けなくなるからだろ」


「理解が早くて助かります」


「礼も偶然でいいか?」


 返事の代わりに札が飛んだ。


 白鳥の男が長銃を振り向ける。その銃口へ赤い札が張りつき、刻印の発光が途切れた。慌てて引き金を引いた男は、銃が撃発しないことに驚き、構えを崩した。


 俺は足元の石へ通常弾を撃つ。跳ねた破片で男の足を止め、踏み込んで銃把を手首へ叩き込んだ。長銃が落ちる。


 背後の男が詠唱を始めた。


 右に避ければ俺へ、左ならリズへ火矢が届く。なら、どちらへも撃たせなければいい。


「耳を塞いどけ!」


 銃身の刻印へ、圧縮しておいた魔力を通す。


「《鐘声弾》」


 床へ撃ち込んだ一発が、狭い倉庫の中で破裂するような音を立てた。反響が梁を伝い、二人の詠唱が同時に途切れる。こっちの耳も無事じゃ済まないが、先に分かっていれば歯を食いしばれる。


 リズが前に出た。


 《アルカナ・ファン》が短杖を弾き、持ち手の肘へ打ち込まれる。続けて膝裏。倒れた男が咳き込む前に、別の札が長銃の男の腕を木枠へ縫い留めた。


 奥の出口に立っていた白鳥の男だけが後ずさる。


「黒宴で待つ。帳簿はノワールヴェインの血で開く」


 声が揺れた。変声器だ。


 男は煙玉を足元へ叩きつけ、扉の向こうへ姿を消した。


 追いかける余裕はなかった。足元で倒れていた男が、まだ何かを握っていたからだ。


 毒針。


 使う相手は、どうやら俺じゃない。


 《赤鐘》の銃口を寄せるより早く、男が自分の喉へ針を運ぶ。


「やめとけ!」


 俺は針の根元を狙って一発撃った。男の指先から小さな金属片が飛び、石床を跳ねた。


 銃声が止む。


 残ったのは塩辛い埃と、焼けた木の匂い。それから、隣で立ち尽くす女の気配。


 ノワールヴェイン。


 三年前、王都で公開処刑にかけられた娘の家名だ。


 王国が殺したことにした少女と、目の前で赤い魔札を操る女。噂だけなら、いくらでも繋げられる。だが、白鳥の連中は噂よりよほど確かな何かを持っているらしい。


 俺は横目でリズを見た。


 表情は崩れていない。ただ、いつの間にか扇を握る手に力が入っている。


 今は訊かない方がいい。


 知られたくない名前があることくらい、この港じゃ珍しくない。本人が口にしていない公名を、俺が先に呼ぶ理由もない。


「怪我は?」


「……軽いものですわ。そちらは?」


「外套が駄目になった。腕の方はまだ使える」


「どうして服の方を先に仰るの?」


「新しいのを買う金が要るからな」


 ようやく、彼女の肩から少しだけ力が抜けた。


     ◇


 倒れた白鳥の男は、20代半ばに見えた。


 仮面を外すと、耳の後ろに羽根を広げた鳥の焼印がある。口元に血がついているのは、自分の歯を噛んだせいだろう。


 リズが俺の横へ来た。


「その方から、何を聞くおつもり?」


「まずは、こいつが帰りたい場所だ。こっちの質問に答えたら、余計なところへ引き渡さずに済む」


「素直に答えると思っていらっしゃる?」


「答えないなら、それでもいい。黙らせるために撃ったわけじゃないからな」


 男の左手を見た。古びた青い編み紐が巻かれている。大人が作ったにしては結び目が不揃いだ。


「名前は?」


「……ない」


「じゃあ、俺はどう呼べばいい。おい、で済ませるにはちょっと長い付き合いになりそうなんだが」


 男は目を逸らした。


「白鳥様の翼に、名前は要らない」


「ずいぶん都合のいい理屈だな。こっちは名前も顔も隠してる連中に、仕事の条件を書き換えられたところだ。翼になったら、給金くらいは出るのか?」


「貴様が知る必要はない」


「そりゃそうだ。俺が知りたいのは、あんたを死なせる命令を出した奴のことだからな」


 足元へ毒針を転がして見せる。


「捕まれば死ねと言われてる。実際、あんたはそうしようとした。そこまでして守る相手の顔くらい、見たことあるのか?」


 男は答えない。


「じゃあ、声は。誰が命令を渡してきた?」


「……あの方の姿を、見た者はいない」


 収穫はある。声を聞いたとさえ言えないらしい。


 青い編み紐が目に入った。


「それは誰が作った。白鳥からの支給品には見えないが」


 男が反射的に腕を引く。


「触るな」


「触らねえよ。大事な物なら持っとけ。持ってていい物まで捨てさせる連中の言うことを、全部聞く必要もないだろ」


 男の呼吸が乱れた。


 名前を忘れたのか、思い出したくないのか。そこを無理にこじ開けても、ろくな証言にならない。


「黒宴で何をする。連中が『継承個体』なんて呼ぶ女を、生きたまま欲しがる理由は?」


「……名録院との取引だ。帳簿に触れさせる」


「触れさせて、どうする」


「本人の血で、奥の認証が開く。そう聞いている」


 女の気配が変わった。


「《無名簿》のことですの?」


 男は顔を上げた。彼女の声が聞こえた途端、もう一度唇を噛む。


「その先は、知らない。俺たちは運ぶだけだ。ただ……」


 男は一度、リズから目を逸らした。


「『父親が空けた席へ、娘を戻す』。上の連中が、そう言っていた」


「……父が空けた、席?」


 リズの声はほとんど囁きだった。だが、床に落ちた札が、僅かに赤く灯る。


「何の席ですの。どなたがそのようなことを?」


「知らない。本当に、そこから先は……」


 リズの声は静かだった。だが、床に落ちた札が、僅かに赤く灯る。


「父のことまで持ち出して、運ぶだけですって?」


 男が震えた。


 こいつは、知ってることを話したんだろう。少なくとも、ここで絞れる情報はもう少ない。


「リズ」


 俺が呼ぶと、彼女はこちらを向いた。


「これ以上聞いても、出てくるのはこいつが知らないことばかりだ。帳簿の中身を確かめたいなら、今ここで壊すより生かしておいた方がいい」


「……お気遣いは不要ですわ。わたくしは、何も壊しておりませんもの」


「そうか。じゃあ、その扇だけ少し下げてくれ。俺の目の前だと落ち着かん」


「銃を携えた方に言われたくありませんわね」


 言いながらも、彼女は札を戻した。


 俺は男の手をワイヤーで固定し、傷口を確かめた。指の出血は浅い。立つには足の腫れがひどいが、命に別状はなさそうだ。


「お前は、なぜ殺さなかった」


 男が訊いてきた。


「訊きたいことが残ってる。それに、目の前で死なれると寝覚めが悪い」


「捕まれば、名録院へ戻される」


「そこへ送るつもりはない。港の衛兵も信用できる奴を選ぶ。面倒だけどな」


 リズが膝を折り、男の指の傷へ一枚の札を近づけた。薄い血晶膜が皮膚を覆い、滲んでいた血が止まる。


「何を……」


「せっかく助けた方を、失血で死なせたら台無しでしょう」


 男が言葉を失う。


「しかし、わたくしに礼を言う必要はありません。あなたからは、まだ聞きたいことがございますから」


「助けたわけじゃない、か」


 俺が言うと、彼女は扇を閉じた。


「ええ。そちらのお言葉をお借りしました」


「便利だろ」


「使う相手は選びますわ」


 まだ信用されたわけじゃない。それでいい。


 倉庫の外から、港の荷車が通る音がした。爆音を聞きつけた野次馬が集まり始めている。このままじゃ、白鳥の連中が証人を消しに戻ってきても見分けがつかない。


 まずは動かす場所を決めないと。


「オルガの施療所を知ってるか?」


「先ほどまで、そこにおりましたわ」


「なら話が早い。こいつの傷を診てもらいたい。あの人なら、名前を聞くより先に手当てしてくれる」


「……あなたも、あちらとお知り合い?」


「昔、ひどい怪我をしたときに世話になった。借りを返してないんだよ」


「では、これで一つ返せますわね」


「患者を増やして返済扱いになるかね」


 笑うと、彼女もほんの少し口元を緩めた。


     ◇


 裏口から出る前に、残る二人を漁網で縛り、散らばった武器を回収した。倉庫の場所だけを港湾衛兵へ知らせておく。俺たちが立ち去るまで来てくれるなよ、と祈るくらいは許されるだろう。


 長銃の刻印は新しく、弾は王国の官給品に似ている。白鳥がどこから調達したか、調べる余地はある。


 青い編み紐の男は、俺が肩を貸して路地まで運んだ。通りかかった荷車を止め、荷台の木箱をずらして寝かせる。オルガの工房まで俺が付き添うと告げ、御者には治療代とは別に運賃を渡した。襲撃者をそのまま町の衛兵へ預けたら、白鳥の仲間に引き渡されかねない。


 リズは荷車へは乗らなかった。車輪の向こうを見ながら、追跡者がいないか確かめている。


「あなたを襲った方々、わたくしの名前を知っていましたわね」


「俺も初めて聞いた。あんたが名乗ってない名前を、俺から使う気はない」


「……それは、助かります」


 ほんの少し間を置いた返事だった。


「ですが、正体を知ったからといって、招待状をお渡しするつもりはありませんわ」


「だろうな。俺も自分の分は手放さない」


「では、どちらが《黒宴》へ入れるか、競争になりますかしら」


「入る方法は一つじゃない。あんたの半券なら、荷役口を使う手がある。俺のは客席だ。そもそも、あんな場所に入るなら出口の方を心配した方がいい」


「出口なら、すでにいくつか調べております」


「お互い準備がいいな」


 女は一度、招待片を収めた袖に触れた。


「あなたには、わたくしの父が何を調べていたか分かりますの?」


「いや。知ってるのは、白鳥がノワールヴェインの血を欲しがってるってことと、《無名簿》に触れさせるつもりだってことだけだ。あの連中の言い分を、そのまま信じる気もない」


「それなら十分ですわ」


 十分には見えない顔をしていたが、それ以上訊きはしなかった。


 俺は招待片を指で弾いた。


「依頼人からは、あんたの半券を奪えと言われた。だが、昨日の時点で条件を勝手に変えられた。殺して身体を残せ、だとさ。俺は受けてない。だから今は、俺の仕事として黒宴へ行く」


「大変な雇い主に恵まれましたのね」


「紹介した覚えはないぞ。あんたも似たような客に狙われてるだろ」


「ええ。身に覚えのない請求書ばかり届きますの」


 彼女は息をつき、改めて俺を見る。


「協力をお求め?」


「そこまでは言ってない。少なくとも、同じところへ入りたいなら互いの邪魔をしない方法くらいはあるだろ」


「信用していない方との約束は、慎重に選びたいものですわ」


「俺もだ。銃を向け合ってる間に、上から爆薬を放られるのは御免だからな」


「でしたら、《黒宴》に入るまでは、お互い手を出さない。それでいかが?」


「入ってからは?」


「そのときに考えますわ」


「いいね。守れそうな約束だ」


 俺たちには、まだそれくらいで十分だった。


 リズは路地の奥へ向かい、俺は御者台に乗り込んだ。後ろの荷台では、青い編み紐の男が黙って横になっている。


 背中を任せる仲には程遠い。さっきだって、互いの命より自分の逃げ道を先に数えていたはずだ。


 それでも、爆薬を投げた奴らは、俺とリズが同じ倉庫に入るのを待っていた。


 狙われたのは、偶然じゃない。


 白鳥は俺の依頼を知っていたのか。それとも、俺がこの女を追うことまで計算に入れていたのか。


 どっちにしろ、黒宴の客席へ座れば、向こうは俺が何をするか見に来るだろう。


 そのときは顔を拝ませてもらう。


 招待状の裏には、誰がこの席を用意したのか、まだ名前が書かれていない。


 俺はそれが、妙に気に入らなかった。

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