第18話 女爵と星盾
――第7号、回収失敗。
昨夜手に入れた《黒宴》の招待片には、そう記されていた。
回収、ですって。逃げたのが人間なら、もう少し別の言葉があるでしょうに。売り主のお人柄だけは、会う前からよく分かる。
その下には、もう一つ。
――第13号、歌唱接続試験。
そして《無名簿》の最終出品。
帳簿を探すつもりが、随分と不愉快な出品目録まで拾ってしまった。何しろ招待状は半分だけ。どこまで信用できるかも分からない。
夜明けに雨はやんだが、倉庫街の石畳には黒い水が残っていた。潮と濡れた麻縄、染料の匂い。外套の襟を直して路地を進む。
壁際の男が、居眠りをしているふりをしていた。こちらが歩幅を緩めると、膝の上の指も止まる。
見張りか、ただの暇人か。追ってこないのなら、今は構わない。
港の役所で招待状を見せれば、よくて門前払い、悪ければ身元を調べられるでしょう。そんなご親切を受けるつもりはない。
情報屋が教えてくれたのは、北の倉庫街にある古い染物工房と、扉を叩く順番だった。
『番号札を付けられた子どもを見た者がいる』。
それ以上は聞き出せなかった。情報屋の口が堅いのは結構なこと。ただし、代金だけは実に滑らかに請求なさるのだから、商売とはよくできている。
路地を二つ曲がる。
裏返された看板。窓を覆う藍色の布。閉鎖された工房にしては、窓枠の埃が少ない。
扉の下から、微かな薬草の匂いがした。
一度。間を空けて二度。最後に一度。
「誰だい」
低い女の声が返ってきた。
「お医者様を探しておりますの」
「怪我人かい?」
「今のところは」
「なら、怪我してから来な」
……こちらの方も、なかなか素敵な接客をなさる。
「首に7と刻まれた札を付けた少女について、お尋ねしたいのです」
扉の向こうで、何か硬い物が台に置かれた。
短い沈黙。
「誰から聞いた」
「答える前に、開けていただけるかしら。ここでは通行人にも聞こえてしまいますわ」
扉が指2本ほど開いた。
短い白髪、日に焼けた肌、左頬に古い傷。大柄な女性が、値踏みするようにこちらを見る。
「貴族様が、こんな裏通りで何の用だい」
「商談、と申し上げたら追い返されそうね」
「正直なのは嫌いじゃない。でも、患者を売り物にする奴はもっと嫌いだよ」
「ご安心くださいまし。買い手を探しに来たのではありません」
招待片を、扉の隙間から少しだけ見せた。
「この紙には『回収失敗』と記されています。誰を回収し損ねたのか、確かめたいのです」
女性の目が、紙からこちらの顔へ戻る。
「……中へ入りな。ただし、その紙を子どもに見せるんじゃないよ」
「もちろん。ご忠告、感謝いたしますわ」
扉が開いた。
◇
染物工房の中は、思っていたより暖かかった。
染料桶を片づけた床に寝台が並び、洗った包帯が縄に掛けられている。煮沸した器具の金属臭と、乾かしている薬草の青い匂い。壁際の小さな炉では、鍋が控えめな音を立てていた。
人を匿う場所としては随分と生活感がある。
もっとも、ここが本当に危険な場所なら、入口の女性が黙って通すはずもない。危険かどうかを決めるのは、まだ早いわね。
「オルガ・ネインだ。ここでは治療に必要なこと以外、無理に聞かない」
「リズ・ヴァーレンです。必要なら薬代もお支払いしますわ」
「払う相手を間違えるんじゃないよ。あんたの治療はまだ始まってない」
視線が手袋に落ちる。
昨夜、札を失ったときの痛みはほとんど引いた。けれど魔力の流れはまだ鈍い。診察されれば、無傷ではないと見抜かれるかもしれない。
「大したものではありません」
「患者はみんな、そう言うんだ」
オルガはそれ以上追及せず、階段の方を見た。
「7番と呼ぶのはやめな。その子は嫌がってる」
「では、別の呼び方をご存じ?」
「知ってるかどうかと、呼んでいいかどうかは別だよ」
その答えには、素直に頷けた。
「分かりました。本人が望むまで、呼びません」
階上で床板が鳴った。
小さな影が、手すりの陰に隠れる。灰色の袖。首元に下がった木札は、確かに7と刻まれていた。
その隣に、白と濃紺の外套を着た女性が現れる。
白い髪を青いリボンで結び、こちらを見下ろす澄んだ青い瞳。胸元には、聖オルディア教会の星章。
そして、掌の前に浮かぶ青白い光。
……あら。
治療所に教会の審問官とは、どちらにとっても愉快な取り合わせではなさそうね。
「こちらの方は?」
女性がオルガへ尋ねた。
「リズ・ヴァーレン女爵だそうだ。首札のことを調べてる」
「……シュテル・シュトラールです。聖盾審問官として、事情を伺ってもよろしいでしょうか」
名乗ったあと、彼女は少女を背に庇う位置へ半歩移動した。
術式の形は、小さな盾。
出すより先に、守る相手と入り口の間に立つ。なるほど、肩書だけのお飾りではないらしい。
「わたくしが犯罪者に見えると?」
「判断する材料がまだありません。ですから、伺っています」
「それは結構。見た目だけで決めつけられるより、ずっと話が早そうですわ」
通行札を見せると、シュテルは印章と公名を順番に確認した。
「リズ・ヴァーレン女爵。検問での照合記録はありますね。ただ、書類が正しくても、ここへ来た目的まで正しいとは限りません」
「ごもっとも。書類ひとつで信用していただけるほど、わたくしも楽観的ではありませんわ」
通行札をしまい、手を見える位置へ下ろした。《ブラッドアルカナ》を展開する必要はない。
「《黒宴》の招待片に『回収失敗』とありました。番号札を付けられた子と関係があるのか、確かめたかったのです」
「その招待片を、どうやって?」
「持ち主が手放す気にならなかったので、少々説得いたしました」
「どの程度の説得ですか?」
「お相手の店が、以前より少し風通しよくなった程度でしょうか」
シュテルの眉が寄る。
もちろん、わざと曖昧に答えている。店の被害を確かめに行かれたら面倒だし、今はそれ以上に話すべきことがある。
「あなたは、その子をどうするおつもりですの?」
「首の術式を調べ、安全に外せる方法を探しています。本人が望めば、その後は保護先を一緒に考えます」
「教会へ連れ戻すのではなく?」
「今の教会支部には、戻せません」
返答が早い。
声を荒らげることもなかった。
自分の所属する組織に不都合な事実を、躊躇なく認められる。珍しいこともあるものね。
「でしたら、話す価値はありそうですわ」
「こちらも、あなたが何を探しているか確かめる必要があります」
目が合った。
互いに、相手の言葉を額面どおり受け取る気はない。
それくらいなら、悪くない。
◇
少女が階下へ降りてくるまで、オルガは診療台を挟んでこちらを座らせた。
シュテルは少女に何かを囁き、小さく頷かれるのを待った。それから椅子を引く。無理に近づかせるつもりはないらしい。
少女の右袖には、布を引き裂いた跡があった。
繕いきれずに残った糸の下に、白い刺繍が見える。
雪の結晶を重ねたような模様。
招待片の端にも、似た形が刻まれていた。
これは、見せてもらう価値がある。
「袖の模様を、少し見せていただけるかしら。嫌なら、そのままで結構ですわ」
少女はすぐには答えなかった。
その視線はシュテルへ向かう。
「私が代わりに決めることではありません。見せたくなければ、断って構いませんよ」
シュテルはそう言って、少女の手を離した。
しばらくして、小さな指が袖をたくし上げた。
白い糸は、刃物で何度も削られたのだろう。布地まで毛羽立っている。それでも、重なった雪の結晶の端が残っていた。
「ありがとうございます。もう十分ですわ」
招待片を取り出し、少女には触れない距離の机へ置いた。
紙に押された薄い紋章。
見比べれば、外側の線の欠け方まで同じ。
……あらあら。こんなところで答え合わせをさせてくださるとは。
「同じですね」
シュテルも気づいたらしい。
「招待片にある『回収失敗』という記載と、この紋章。少なくとも、ここにいる少女と関係がありそうですわね」
「ですが、家紋の持ち主だからといって、この子をその番号で呼ぶ理由にはなりません」
「呼びませんわ。本人が嫌がっていると、伺いましたもの」
シュテルは少しだけ表情を和らげた。
「もう一つ、確認してよろしいですか。あなたの招待片には、第13号の記載もありますか?」
「歌唱接続試験。そう書かれておりますわね」
少女の肩が、ぴくりと揺れた。
オルガが鍋の火を弱める音が、やけに大きく響く。
「その番号の子が、今も黒い船にいるそうです」
シュテルの声が低くなった。
「姉の名前に繋がる記録も残っていますが、同じ方かどうかはまだ確認できていません」
「名前を伺っても?」
シュテルは少女の首札を見た。
……なるほど。名前そのものに反応する仕組みか。
「後ほど、本人に聞こえないところでお話しします」
「承知しました」
聞きたいことを後回しにするのは、あまり好みではない。
けれど、それで傷つく子どもがいるなら話は別だ。
少女は、招待片の上に置かれた指を見ていた。
「……13番の子は、また歌うの?」
その声に、シュテルが膝を折る。
「分かりません。だから、確かめに行きます」
「歌わないと、痛くなるんだよ。あの子、何度もやめたいって言ってた」
喉元の札に指が触れかける。
オルガが静かに声をかけた。
「触ると痛むよ。ここに手を置いときな」
少女は素直に膝へ手を戻した。
こちらの胸の奥にも、冷たいものが残った。
歌わなければ痛む。番号で呼ばれ、首には回収用の術式が残されている。
音楽鑑賞がお好きなら、別の楽しみ方を覚えていただきたいものですわね。
少女の喉元は赤く擦れ、オルガが挟んだ布の上からも金具の重さが分かった。今、触れれば痛む。それでも逃げ出したあとまで首札を残したのだから、つけた者には理由があるのだろう。
「この札、いつになったら外せるの?」
少女がオルガを見た。
「傷めずに外す方法を調べてるところさ。焦らなくていい。あんたが嫌だと言ったら、勝手に触らないよ」
「……うん」
シュテルが湯を入れた杯を差し出すと、少女は両手で包み込んだ。しばらくして、少し眠いと告げ、階段を上がっていく。
足音が消えるまで、誰も口を開かなかった。
◇
「では、女爵。あなたが《黒宴》へ向かう目的を伺っても?」
少女が二階で横になると、オルガが治療用の控えを持ってきた。
「首札の裏を処置のときに見たよ。ひどく小さい字で、こんなことが書いてあった」
――所有記録、第7号。
――家族接続、第13号。
――回収時、歌唱個体に再統合。
……家族を結びつけた挙句、人間を再統合ですって?
まるで部品の修理記録だ。よくもそこまで不愉快な言葉を揃えたものですわね。
「この記録が船に残された子とのつながりを示すなら、逃げてきた少女をもう一度連れ戻すつもりでしょうね」
シュテルが紙を見つめる。
「では、施療所も安全とは限りません」
「ええ。どこにいるか、外へ漏らさないようにしませんと」
オルガは頷き、控えをしまった。
「院内の見張りはあたしが考える。あんたたちは、それぞれ黒宴で何をするのか整理しな」
シュテルがこちらを向く。
「女爵。あなたが《黒宴》へ向かう目的を伺ってもよろしいでしょうか」
「《無名簿》です。そこに、調べたい名前がありますの」
「どなたの名前ですか」
「それを申し上げるほどには、まだ親しくありませんでしょう?」
「……そうですね」
意外にも、素直に引き下がった。
「私は、船で歌わされている子を助けます」
「帳簿より人命を優先しろ、と仰りたいの?」
「そのように命令するつもりはありません。ただ、あなたが帳簿を見つけたとき、目の前で誰かが傷ついていたらどうなさるのか、知っておきたいんです」
なかなか難しい質問をなさる。
相手に都合のよい答えを返せば、たちまち信用を失いそうだ。
「目の前の状況を見て決めますわ。何も知らないうちから順番を約束してしまえば、肝心なときに間違えますもの」
「そう答える方が、人を見捨てる場合もあります」
「おっしゃるとおり。では、ご自身なら全員を救えると断言なさる?」
「いいえ。できないかもしれません。それでも、守るためにできることはします」
言い切るまでの間が、ほとんどない。
大した自信だ。ただ、実際に救えるかどうかは別の話になる。
「あなたは危うい方ですわね」
「……よく言われます。あなたも、同じです」
「初対面の方への評価としては、随分と厳しいですこと」
「そちらから仰いました」
むしろ、これくらい言い返していただいた方が安心できる。
相手の肩書に怯えて黙る審問官なら、黒い船まで同行してもらっても困るもの。
……同行?
まだ、そんな話はしていない。
「お互い、黒宴へ向かうつもりなのは分かりました。だからといって、今すぐ協力できるわけではありませんわね」
「はい。信頼には、確認するべきことが残っています」
「同感ですわ」
廊下からオルガの声が飛ぶ。
「仲良くなったのかい?」
「なっていません」
シュテルの即答に、思わず目を瞬いた。
「そこまできっぱり否定なさらなくてもよろしいでしょうに」
「事実を申し上げただけです」
……まったく。この方、案外手ごわい。
オルガが鍋をかき回しながら、愉快そうに笑った。
「なら、せめて出口くらいは決めときな。あの船に入ったら、正面から出られる保証はないよ」
「人を逃がす経路についてなら、港の避難道をいくつか確認しています」
シュテルが言う。
「こちらは、追われたときに使える裏通りを幾つか覚えております。場所によっては合流できるでしょうね」
「じゃあ、その話はしておきな。信用してなくても、地図は描けるだろ」
正論だ。
また一つ、この方の前で反論の機会を失ってしまった。
オルガが広げた粗い港図へ、シュテルが救護用の細い通路を示す。
こちらは、昨夜逃げ込んだ路地と、荷車が一台通れる横道を加えた。
「そういや、港には『赤鐘』ってガンマンもいる。赤い髪と赤い銃が目印さ。あいつが黒宴に首を突っ込んでも、驚かないね」
「お知り合いなの?」
「古い付き合いだよ。腕は信用できる。ただし、何を考えてるかまでは保証しない」
「それは、ご本人にお尋ねするしかありませんわね」
立場も目的も違う相手と、同じ紙を覗き込む。
……変なことになりましたわね。
けれど、話をしておいて損はない。
◇
帰り際、階段の陰から少女の声がした。
「……あのね」
足を止めると、シュテルが少女の隣に座っていた。
「一つだけ、聞いていい?」
「ええ。お答えできることでしたら」
「黒い船でね、赤い鐘が鳴ったの」
少女は首元の札へ触れないよう、膝の上で両手を重ねた。
「赤い鐘、ですの?」
「うん。鳴ったら、みんな黙った。あの子も、一度歌うのをやめて……」
言葉が詰まった。
シュテルが急かさずに待つ。
「それから、また歌わされた」
赤い鐘。
港の荷役鐘とは、違うのかもしれない。
昨夜のガンマンが撃った霊晶灯とも、今のところ繋がらない。
ただ、一つだけ分かった。
あの船では、歌わせることも止めさせることも、少女たちの意思では決められない。
「教えてくださって、ありがとうございます」
頭を下げると、少女はシュテルの袖を握った。
「13番の子、連れて帰ってくれる?」
シュテルは頷きかけて、いったん口を閉じた。
「連れ出す方法を探します。会えたら、まずその子がどうしたいか聞きます。あなたには必ず、分かったことを伝えに戻ります」
少女はしばらく考えてから、頷いた。
こちらへも視線が向く。
「あなたも、戻る?」
安請け合いはできない。
《無名簿》を手にできる保証すらないのだ。帰り道で何が起きるかなど、知りようもない。
「戻るつもりで行きますわ。少なくとも、わたくしが見たことは持ち帰ります」
「……うん」
それで納得したのか、少女は小さく手を振った。
外へ出ると、潮を含んだ風が外套を揺らした。
シュテルとは施療所の扉のところで別れた。互いに、相手の背中へ余計なことは言わない。
手元には《黒宴》の半券。
傷んだ魔札。残る手札。そして、救出を待つ少女の話。
帳簿を探していたはずが、持ち帰るべきものが増えてしまった。
……この港、買い物ひとつするにも随分と荷物が増えますこと。
背後で、扉が閉まった。
招待状を使うには、もう半分が要る。誰が持っているかは分からない。
ただ、昨夜、霊晶灯を撃ち抜いたガンマンのことは気にかかる。あれほど正確に追手の視界だけを奪えるなら、用事があるのはわたくしではなく、《黒宴》そのものかもしれない。
そう考えていたところで、後方の足音が一つ増えた。
立ち止まると、足音も止まる。歩きだせば、また同じだけ距離を空けてついてきた。
……あら。なんて分かりやすい尾行でしょう。
もっとも、わざと気づかせている可能性もある。ならば、こちらの都合のよい場所でお話を伺えばよい。
路地の先には、使われなくなった廃網倉庫がある。入口は二つ。窓は高く、人通りは少ない。
追ってくる相手を確かめるには、悪くない。
――さあ、どちらから名乗っていただけるのかしら。




