第17話 星盾を継ぐ審問官
名簿から人が消えると、椅子まで空席だったことにされるらしい。
そんなことは、どこの規則にも書かれていない。
クロイツハーフェンの聖オルディア教会支部。朝の食堂には、焼いた麦の匂いと、まだ眠たげな子どもたちの声が漂っていた。
食卓の端に、木の椅子が一脚余っている。
その脚には、小さな星が彫られていた。
「この椅子、片づけなくていいの?」
隣にいた少女が、私の袖を引いた。
薄茶の髪に灰色の瞳。ネージュ・アーレン。9歳。港湾支部へ赴任してから、食堂ではよく私の隣に座る子だ。
「片づける前に、誰が使っていたのか確かめたいんです」
「誰も使ってないよ。ずっと空いてた」
昨日まで、そこには誰かが座っていた。
少なくとも私には、そういう記憶がある。
歌うとき、右手の指で拍子を取る少女。白い髪留めを大切にしていて、パンの柔らかいところをネージュへ譲っていた。
ミレア・アーレン。
三日前から姿が見えない。
私は名簿を開いた。昨日より前に作られたはずの頁で、ひとり分だけ文字が薄い。紙が擦り切れたのではない。ほかの名前は、少しも滲んでいなかった。
「ミレア・アーレンさん」
返事はない。
「……シュテル、その人は誰?」
ネージュは首を傾げた。
姉の名前を聞いているはずなのに、その声に戸惑い以上のものがない。
胸のあたりが、重くなった。
「ここにいた方です。ネージュさんも、一緒に歌っていたでしょう?」
「わたし、知らない」
「そうですか」
それ以上は尋ねなかった。思い出せないことを責めても、名前は戻らない。
ただ、椅子の脚に彫られた星は消えていない。
見て、触れて、確かめられるものがある。それなら、調べられる。
「食事が冷めてしまいますね。先に召し上がってください」
「シュテルは?」
「少し、書類を確認してきます」
「また仕事? ちゃんと食べてね」
「はい。約束します」
食事を勧める立場の人間が、子どもから注意されるとは。
まったく、そのとおりだった。
◇
支部長バルナードは、温かい薬草茶を用意して待っていた。
白法衣の袖は何度も繕われ、机には施療記録が積まれている。この方が港の貧しい人々を長く診てきたことは、支部へ来たばかりの私にも分かった。
それと、今尋ねていることは別だ。
「ミレア・アーレンさんの所在を確認させてください」
「またその話か。シュテル、赴任して間もないうちから働きすぎだよ」
「三日前まで、あの方の名前は点呼簿にありました。使用していた椅子にも痕跡が残っています」
「記載ミスだ。名録院でも、そのような子はいないと確認している」
「確認された書類を見せていただけますか?」
「こちらに任せておきなさい。君の仕事は、目の前の子どもたちを守ることだろう」
なるほど。
では、目の前から消された子どもは、その仕事に含まれないのだろうか。
「聖盾審問官には、祈祷や教会の権限が人を傷つけていないか調べる職務もあります。名簿の不備であれば、訂正を確認するだけで済みます」
「洗礼簿まで調べる必要はない。中央が確認したと言っている」
「何を根拠に確認したのか、まだ伺っていません」
バルナードは茶杯を置いた。
「教会を疑うつもりかね?」
「教会の書類を調べたいと申し上げています。信仰と、書類の正確さは別の問題です」
「シュトラール家の娘が、そのようなことを言うのか」
名前の使い方が変わった。
今度は個人の職務ではなく、家の責任を持ち出すらしい。
私の家は、代々聖盾審問官を務めてきた。星盾と星刃は、継承した祈祷式を繰り返し磨き上げることで、今も手の中に形成できる。
祈れば必ず守れるわけではない。正しいと信じ込んだ日の盾が、昨日より丈夫になったこともない。
だからこそ、確かめる必要がある。
「シュトラール家の者だから申し上げています。守る相手が誰なのか、確かめずに盾は置けません」
老人の目が伏せられた。
「地下記録庫への立ち入りを禁じる」
「正式な命令ですか?」
「そうだ」
「でしたら、ご自身の公名と、その命令の根拠を記録させてください」
しばらく沈黙が続いた。
「……口頭で十分だろう」
「審問の停止を求めるのであれば、十分ではありません」
茶杯の湯気だけが、私たちの間を上がっていた。
バルナードが善意で働いてきたことまで、否定したくはない。
けれど、善意があったからといって、調査を省いてよい理由にはならない。
◇
洗礼記録を収めた小礼拝堂の扉には、新しい封印線が引かれていた。
この支部へ赴任して以来、記録の閲覧そのものは審問官の職務として認められている。鍵を追加した理由も、閲覧停止の正式な文書も示されていない。
まず、扉と封印を記録術紙へ写す。
あとで、誰が何を壊したのか分からなくなるのは避けたい。
「星刃」
掌の前に青白い光を寄せる。剣の形を長く作る必要はない。封印の接続部分だけを断てるよう、刃先を短く絞った。
糸が切れるような微かな音。
魔力を通さなくなった封印を外し、扉を押す。
紙と古い木の匂いが、ひんやりした空気に混じっていた。
今年の洗礼簿を開く。
頁の一か所だけ、綴じ糸が新しい。
挟まれていた紙を切り取った跡だ。切断面には、まだ白い繊維が残っている。
昨年の家族欄からも、アーレンという姓の横が削られていた。
隣接する名前だけは辛うじて読める。
ネージュ・アーレン。
……ここまで消し損ねてくださったのは、ありがたいことです。
控えを書き写そうと屈んだとき、棚の下に細い紙片が落ちているのが見えた。
搬送票の端だった。
公名欄は空白。
代わりに記された数字は、13。
――歌唱接続適性。
――《黒宴》、試験展示。
胃のあたりが冷たくなった。
北方救護院で見つけた移送簿にも、《黒宴》の印があった。港へ来たのは、その行き先を確かめるためだった。
今度は、子どもの名前が消えた直後に、番号を記した紙が残っている。
番号がミレア本人を示すとは、まだ言い切れない。
だからこそ、紙を持ち帰って照合する必要がある。
礼拝堂の外で、靴音が止まった。
1人ではない。
正規の修道士なら、封印が外された扉を見て声をかけるはずだ。
しかし、外の者たちは何も言わず、左右へ分かれた。
私は紙片と、切り取られた洗礼簿の頁を記録術紙へ写した。
原本は棚へ戻す。
その直後、扉が開いた。
黒い法衣の男が3人。
胸には正式な教会章がない。先頭の男の短杖には、搬送票と同じ古い形式の祈祷文字が刻まれていた。
「記録を返していただこう」
「所属と公名をお願いします。記録の返還先も確認させてください」
「中央の命令だ。審問官なら、余計な詮索はするな」
「命令書があれば確認します。お持ちですか?」
男の目が細くなった。
「そんなものは必要ない」
「それでは、私が従う理由もありません」
杖先が白く光った。
初めから答える気などなかったらしい。
◇
光の矢は3本。
中央が胸、左右の2本が退路を塞いでくる。
正面へ大きな盾を置けば、こちらが下がった先まで攻撃が届く配置だ。
「星盾!」
胸の前に小さな盾を一枚。左右には、さらに薄い光面を置く。
中央の矢を斜め上へ逸らし、左右の2本は向きを変えて互いに衝突させた。
耳元で光が弾け、熱を帯びた石粉が頬に刺さる。
二人目が剣を抜いた。刃に強化魔術の光が走っている。
足元へ低い盾を滑らせると、男は跳んだ。
こちらの動きを見ている。飛び道具だけの相手ではない。
着地する寸前の膝裏へ、盾の縁を差し入れた。
重心が崩れる。それでも男の剣先は伸び、肩を浅く掠めた。
「っ……!」
布が裂け、遅れて皮膚が熱くなる。
星刃を短く形成した。狙うのは腕ではなく、剣を強化している術式の接続線。
一度目は弾かれた。相手の魔力が想定より強い。
刃の角度を変える。押し合うのではなく、線に沿わせて滑らせる。
二度目。
青い光が途切れ、強化を失った剣が男の手から落ちた。
背後で鎖の音。
三人目が、首を狙って拘束鎖を投げてきた。
小盾を背後へ回す。鎖の先が光面へ食い込み、魔力を吸い上げ始めた。
指先が冷え、視界の端が青く滲む。
このまま盾を維持すれば、こちらが先に消耗する。
かといって、今消せば鎖は首へ届く。
「……盾を捕まえたつもりですか」
光面を、鎖ごと柱の裏へ滑らせる。
鎖が石柱を回り込み、男の腕が引かれた。肩から柱へぶつかった衝撃で、短杖が床を跳ねる。
「武器を離してください。これ以上、どなたも傷つけたくありません」
先頭の男が返答の代わりに奥歯を噛んだ。
口元で、かすかな破裂音。
……毒針!
「やめてください!」
顎を押さえようと星盾を伸ばしたが、間に合わなかった。
男の身体が膝から崩れ、口の端に泡が浮いた。
星盾で身体を支え、呼吸を確かめる。反応はない。口内に残る術式へ不用意に触れれば、こちらまで巻き込まれる。
対処できることを探した。その間に、残る2人が裏口へ走る。
追えば、名前を聞き出せるかもしれない。
けれど、今ここに倒れている人間を見捨てることはできなかった。
緊急の救護印を起動し、支部の施療担当を呼ぶ。
間もなく駆けつけた修道士に事情を伝え、倒れた男の衣服と顔、残された杖を記録した。
救えなかった。
その事実まで、都合よく書き換えるわけにはいかない。
窓から差し込む海風に、湿った潮の匂いが混じった。
床へ落ちた搬送票には、やはり名前がない。
命令を出した人間も、命令を受けて死んだ人間も。
誰の責任も残らないように、最初から作られている。
◇
午後、支部の裏門へ戻ると、食堂の修道女が青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「シュテル様、ネージュがいないんです。昼食のあとに見かけたのが最後で……」
足が止まった。
朝、食事を勧めてくれた少女。
ミレアの名が消えた名簿に、かろうじて残っていたもう一つの名前。
「最後にいた場所は分かりますか?」
「裏の洗濯場です。洗った布を運ぶのを手伝ってくれていました」
「ほかの子どもたちは、全員そろっていますか?」
「はい。ネージュだけです」
「ありがとうございます。院内の安全を確認してください。外には私が出ます」
洗濯場の敷石には、細い足跡が残っていた。
乾いた砂の上に、一度だけ膝をついた跡。そこから港へ向かって、濡れた足跡が続いている。
履物を失ったのか、それとも脱げたのか。
荷車の轍の間に、小さな布片が落ちていた。
ネージュの袖と同じ、灰色の布。
決めつけてはいけない。
けれど、立ち止まってよい理由もなかった。
倉庫街へ向かう。
生臭い海風に、古い染料の匂いが混じる。空樽の間を抜け、閉鎖された染物工房の裏手まで来たとき、子どもの声が聞こえた。
「いや! 戻らない!」
塀の向こうで、黒衣の男が2人、少女を挟んでいた。
灰色の服。片方の靴がない。首には、7と刻まれた木札。
右袖の布は引き裂かれ、下にあった家紋のような刺繍も削られている。
そして、顔を上げた少女を見て、胸が強く締めつけられた。
ネージュ。
「商品7。いつまで手間をかけさせるんだ。おとなしく戻れ!」
「いや……!」
男が木札へ手を伸ばす。
赤い術式が、少女の首元で灯った。
今、名前を呼んではいけない。
札が何を鍵にしているのか分からない以上、刺激するのは危険だ。
「その子から離れてください」
声をかけると、2人が振り向いた。
片方は短剣を抜き、もう片方は首札の金具へ指を掛ける。
先に脅かせば、少女が傷つく。
私の立つ位置から、少女までは5歩。短剣を持つ男は、その間に立っている。
星盾を少女の首と金具の間へ薄く差し込んだ。
「星盾!」
男の指が動く。
赤い光が盾へ流れ、腕に鋭い痺れが返った。
少女の身体が大きく跳ねたが、悲鳴は途中で止まった。
遮断はできた。解除は、まだできない。
「教会の審問官が、教会の荷を奪う気か!」
「その方は荷物ではありません。まず、離してください」
「こいつは7番だ。人間扱いしてもらえると思うなよ」
短剣の男が少女へ刃を向けた。
首の盾を維持したまま、もう一枚を刃の進路へ立てる。受けた衝撃で膝が沈んだ。
午前の戦闘で痛めた肩が、嫌な音を立てる。
ここで押し負ければ、少女へ刃が届く。
星盾を斜めに傾けた。
短剣が滑り、男の手首が開く。
そこへ短い星刃を当て、剣の強化線だけを切った。
金属が鈍い音を立てて落ちる。
もう一人は逃げようとしたが、足元に滑らせた小盾に躓き、石畳へ膝をついた。
「動かないでください。お二人とも、所属と公名を確認します」
男の片方が顔を背けた。
もう片方の仮面を外す。薬品庫ですれ違ったことのある修道士だった。
名前までは覚えていない。
それなら顔と服装を記録し、あとで確かめればよい。
2人を拘束したところで、少女の様子を見た。
首札からの魔力の流れは弱まったが、喉元の皮膚は赤く腫れている。
「……今、触れてもよいですか?」
少女が小さく頷いた。
身体に手を添えると、驚くほど軽かった。
「安全な場所へ移ります。歩けそうですか?」
「……足が痛い」
「分かりました。抱えても構いませんか?」
再び、頷く。
抱き上げると、少女は声を殺して泣き始めた。
私は、まだ名前を呼ばなかった。
◇
古い染物工房を利用した施療所に、オルガという治療師がいると聞いていた。
港の支部が扱いきれない怪我人も診る、少々口の悪い方らしい。もっとも、評判の言葉遣いより、今は治療の腕のほうが大切だ。
扉を叩くと、白髪を短く切った大柄な女性が顔を出した。
「教会の子かい。ここに来るとは珍しいね」
「この子の首に、認証用の術式があります。無理に外すと傷つく可能性があるので、保護しながら診ていただきたいんです」
オルガは腕の中を見て、すぐに扉を開けた。
「説明は中で聞く。まず寝かせな」
清潔な布が敷かれた寝台へ、少女を下ろす。
首札と皮膚の間へ、薄く折った布を差し込んでもらう。術式へ不用意に触れず、呼吸と脈を確かめる。
「擦り傷はあるけど、今すぐ命に関わる出血はないね。少し温めて、食べさせよう。あんたも顔色が悪いよ」
「私は後で構いません。先に、この子を」
「その肩で、いつまで盾を出すつもりだい? 倒れられたら、こっちの患者が増える」
……反論できない。
「では、遮断用の術式を固定したら休みます」
「そうしておくれ」
少女の首札を刺激しない位置に、小さな星盾を据える。
少なくとも、呼吸が落ち着くまでは維持できるよう出力を落とした。
オルガが湯気の立つ杯を差し出してくれる。
温かい飲み物を飲んだのは、朝以来だった。
少女が私の袖を掴んだ。
「……シュテル」
「はい。ここにいます」
「さっき、言わなかった」
「何をでしょう?」
「名前。朝は、呼んでくれたのに」
胸が痛んだ。
「あなたの名前を忘れたわけではありません。首の札が反応するかもしれないので、確かめるまで呼ばないことにしました」
「……そっか」
「今は、どう呼ばれたいですか?」
少女は首札へ指を伸ばしかけ、途中で止めた。
「まだ、呼ばないで」
「分かりました」
名を覚えていることと、その名を勝手に呼んでよいことは違う。
その人の名前を守るつもりなら、まず本人の言葉を聞かなければならない。
「……13番が」
少女が、かすれた声で言った。
「何度も、何度も歌わされてたの。あの子……13番が、まだ黒い船にいる」
オルガの手が止まった。
「13番?」
「ずっと歌ってる。声が止まると、痛いって……」
私は、礼拝堂で見つけた搬送票を思い出した。
――13。歌唱接続適性。
ミレア・アーレン。
その名と番号を、まだ同じものだとは断定できない。
けれど、確かめに行く理由は十分だった。
少女が、もう一度袖を握った。
「……シュテルは、戻ってくる?」
「戻ります」
すぐに答えたあと、言葉を継ぐ。
「何も分からなかったとしても、分からなかったことをお伝えするために戻ります。あなたを置き去りにして、済んだことにはしません」
少女は長く私を見つめ、ようやく手の力を緩めた。
黒い船に、今も歌わされている誰かがいる。
名前を確かめ、本人の意思を聞く。
そのためには、教会の許可を待っているわけにはいかなかった。
懐の記録術紙へ、救出時刻と少女が望んだ呼び方を記す。
――名前を呼ばないこと。
その下に、私自身の公名を書き加えた。
シュテル・シュトラール。
誰の命令であれ、この約束を無記名にはしない。




