第16話 もう半分の招待状
床板が、もう一度軋んだ。
裏口の隙間から朝の光が差し込んでいる。そこに立つ男の靴先が見えた。上等な革靴だが、片方だけ泥がこびりついている。
「撃つな、赤鐘。昨日の今日で、また店を壊されちゃたまらん」
聞き覚えのある声だった。
「ヘルトか。壊した本人に言ってくれ。俺は店の外にいた」
「外から撃ってただろうが」
「灯りを二つな。修繕費なら港湾管理局に請求しろよ。あそこの備品だ」
ヴァン・ヘルトが酒樽の陰から姿を現した。
昨日まで六つあった指輪は、今朝は二つ。頬に青痣、上等な上着の片袖には焦げ跡。商談の後始末にしては、随分と手間がかかったらしい。
こいつが一人で来たとは限らない。裏口の向こうに足音はないが、路地からは荷車の軋みと市場の呼び声が聞こえる。あれだけ人が動いていれば、護衛を紛れ込ませるのは簡単だ。
「そこから動くな。手も見えるところに出せ」
「おいおい、俺は商人だぞ」
「分かってる。だから両手を見せろって言ってるんだ。あんたら、袖の中にいろいろ隠すだろ」
ヘルトは舌打ちしながら、両手を肩の高さに上げた。
俺は銃口を下げず、卓の下に落ちていた銀の針を顎で示す。
「これ、あんたの客が忘れていった物か?」
ヘルトの視線が針を捉えた。
わずかに顔色が変わる。
「……知らん。昨日は店があの有様だ。何が落ちてたって不思議じゃない」
「採血用の魔導針だ。しかも、床を拭いた奴が落としていったらしい。あの女の血を拾いに来たのは、あんたの手下か?」
「俺の護衛は全員、昨日の騒ぎで動けなくなった。動けたところで、俺が血なんか集めてどうする」
「売るんじゃないのか。あんたの商売なら」
「何でも売ると思うな。売る相手を間違えりゃ、金を受け取る前に首が飛ぶ」
悪びれずに言うあたり、そこだけは本音なんだろう。
針を布に包んで懐へ収める。先端に残ったものが誰の血なのか、今ここでは確かめられない。採取できたのかどうかも分からない。
だが、欲しがる連中が複数いることだけは確かだ。
「で、商人さん。忘れ物は何だ?」
「……お前が先に俺を探してただろ」
「そうだったな。招待状の残り半分を持ってきたんだろ?」
ヘルトは答えなかった。
代わりに、視線が一瞬だけ奥の床板へ落ちる。
なるほど。隠し場所まで教えてくれるとは親切な話だ。
◇
「ヴァーレン嬢に招待状を渡したのか?」
「奪われたんだよ。お前だって、あの女の札を見ただろう。護衛は倒されるし、客は逃げるし、おかげで商売は散々だ」
「商品にしようとした女に逃げられて、客扱いは無理があるな」
「言葉尻を拾うな。それで、お前は何が欲しいんだ。俺に謝罪でもさせる気か?」
「招待状だ。片方じゃ入れないって話だろ。残りを見せろ」
ヘルトは口元を歪めた。
「二つ揃えて初めて正規の入場証になる。知らずに来たのか?」
「だから聞いてる。二つに分ける理由は何だ?」
「客と商品を混同しないためだ。客席側には一夜限りの公名登録欄、搬入側には商品番号と検査記録が載る。両方あれば照合は早い。片方しかなければ、それぞれ別の審査を受けることになる」
「なるほど。客と商品を分けておけば、値段を付ける側が間違って首輪を付けられる心配もないわけだ」
「嫌な言い方をするねえ」
「いい制度だって褒めてるんだよ。扱いやすいだろ、人間を荷物にするときは」
ヘルトは顔をしかめたが、否定はしなかった。
酒場の窓越しに見えたのは、黒い紙片だけだ。表裏も、書かれた文字も分からない。ただ、あれを奪われた瞬間のヘルトの慌てようは覚えている。
客の名前より、商品番号を隠したかったんじゃないのか。まずは当てにいく。
「彼女に取られたのは、搬入側だな?」
「……何でそう思う」
「返事になってるぞ」
男は忌々しそうに天井を見上げた。
「仮にそうだとして、残りをお前に渡す理由がどこにある?」
「あるだろ。昨日あの女を捕まえ損ねたのは、あんただ。次に別の客が来るまで、片割れを隠しておく方が危ないと思うがな」
「脅しか?」
「損得の話だよ。得意分野だろ」
ヘルトは笑おうとして、頬の傷を気にしたのか口を閉じた。
「お前は《赤鐘》だ。今朝の放火未遂も銃声も、お前の仕業にして衛兵に渡すことはできる」
「やってみろ。例の依頼人と、ここで採血針を拾っていた奴についても、ついでに話してやる。衛兵が聞きたがるかどうかは知らんけどな」
俺が何を知っているか、こいつには分からない。
その代わり、俺もこいつが誰と繋がっているかまでは知らない。互いに手札を見せずに値段を付ける。商談ってのは便利な言葉だ。
しばらくして、ヘルトが両手を下ろした。
「床下だ。奥の板を上げろ。ただし、銃は向けるな。心臓に悪い」
「昨日も命拾いしたばかりだ。今日くらいは丈夫に使えよ」
「性格の悪い奴だな……」
「よく言われる」
指定された板は、端の釘だけ新しかった。靴の先で押さえ、指を掛けて引き上げる。中には黒い細封筒が一つ。
封蝋に刻まれた逆さの白冠。
布越しに取り出し、封を開く。
内側には、客席側の認証片が入っていた。名前を記す細い欄と、複数の照合線。紙の端には、向こう側の半片と合わせるための不規則な切れ目がある。
道具としてはよく出来ている。肝心の用途が最悪なだけで。
「これがあれば、俺一人でも入れるんだな」
「登録が通ればな。招待客の審査は甘くないぞ」
「俺の身分を知ってて、それを心配するのか?」
「お前の身分だから心配してるんだよ。あの船じゃ金より家柄の方が高く売れる」
「じゃあ、俺には縁のない場所だ」
「客としてならな」
ヘルトの言い方が妙に引っかかった。
「……誰が何を買う。そこまで言え」
商人はしばらく招待状を見ていた。
「《白鳥》だ。黒宴では、そう呼ばれている」
「公名は?」
「知らん。俺みたいな仲介人には、顔すら見せない。商品を選ぶ条件だけが降りてくる」
「条件ってのは?」
「名前だよ。古い家の名前、長く残ってきた家系の《名核》。貴族、聖職者、職人組合の古い家筋……そういうものに価値を付ける連中がいる」
紙を持つ指に、少し力が入った。
たかが血筋、と片づけるには、テオを運んでいた連中が思い出される。あいつは荷札に「32」と付けられていた。今度は家の名まで、値段を付けて並べる気か。
「ノワールヴェインの名も、その中に入るのか?」
ヘルトの喉が動いた。
当たりだ。
「……俺は、ヴァーレン嬢を生きたまま捕らえろと言われただけだ。どう使うかまでは知らん」
「誰に?」
「だから、白鳥だよ! これ以上聞くな。俺まで消される」
大声を出したことを後悔したように、ヘルトはすぐ口を閉じた。
怖がっているのは本当だろう。だが、本当の恐怖と、隠している情報がないことは別だ。
ここで締め上げても、出てくるのは同じ名前ばかりかもしれない。
「招待状はもらっていく。代金は後で請求してくれ」
「冗談じゃない。そんな紙を持ってると知れたら、俺が殺される」
「じゃあ、最初から俺に渡してないことにしろ。あんたの得意な書類仕事だろ」
「……お前には二度と商談を持ちかけん」
「助かる。昨日みたいな夜は、週に一度で十分だ」
外へ出る前に振り返る。
「なあ、ヘルト。あの女の血を拾いに来た奴は、あんたの客じゃないんだな?」
「知らんと言っただろ」
「なら、店を片づけるときは足元を見とけ。あんたの床に残った血を、勝手に持っていく奴がいる」
それだけ伝え、裏口を抜けた。
酒場の外は、昨夜の雨が嘘のように晴れていた。
◇
昼を過ぎた頃、依頼人から指定されていた倉庫へ向かった。
古い製粉所を転用した建物だ。窓は高く、外から中が見えない。入口の錠は開いているが、軒下に立つ荷車の車輪だけは新しい。
誰かが先に来て、すぐに去ったらしい。
昨日と同じ男が待っているとは、初めから期待していなかった。名前も顔も隠す奴は、都合が悪くなると姿まで消す。
中には誰もいない。
木箱の上に、金貨が5枚。それから折り畳まれた命令書が置かれていた。
紙の匂いが新しい。封蝋には白い羽根が一枚、押し込まれている。
書かれた文面を読む。
――対象は招待状の半片を所持。
――今夜までに回収せよ。
――抵抗時は殺害可。
――遺体は損傷させず保存せよ。
「……おいおい」
昨日までは招待状を奪え、だった。
血を残すな。手首と喉を傷つけるな。それだけ細かく指定しておきながら、今度は殺して身体を残せという。
殺害を許可する一方で遺体を損なうなとは、注文のつけ方もずいぶん都合がいい。死なせることより、何かに使えなくなることの方が気になるらしい。
それに、前の依頼書と筆跡が違う。
俺の返答を聞かないまま条件だけを書き換え、金貨を積んでおけば済むと思っている。
契約書というより、命令書だな。
封蝋の羽根を指で弾いた。
白い羽根を重ねた荷札。白鳥の焼印。逆さの白冠を刻んだ薬莢。採血用の魔導針。
繋がっている可能性は高い。だが、どれが誰の指示で動いているのかは、まだ分からない。
誰かが依頼人を脅したのか。途中で仕事を買い取ったのか。最初から別の連中が、こちらの返事を試していたのか。
少なくとも、二通の依頼書を書いた人間は同じではない。
「こっちに相談もなしで条件変更か。仕事の頼み方から教え直してやりたいね」
金貨を1枚だけ取り、命令書を折って包む。
最初に受け取った前金5枚の清算は、相手が名乗ったときに考えればいい。調査の手間を無かったことにされる義理はないし、今ここで置き戻したところで、相手に返る保証もない。
残る4枚には触れなかった。
金を1枚持ち出したことで、先方が勝手に契約成立と書く可能性はある。なら、そこも塞いでおく。
懐の小さな記録帳から紙を一枚ちぎり、短く記した。
――条件変更は承諾しない。依頼は保留。赤鐘。
置かれた金貨とその文言を、誰が先に回収するのか。後で確かめる価値はある。
倉庫を出る。
路地の向こうへ、黒い外套が消えるところだった。
細身の後ろ姿。濡れていない裾。港の人混みへ入る直前、一度だけこちらの方へ顔を向けた。
赤い瞳。
リズ・ヴァーレン。
尾行か、偶然か。どちらにせよ、俺がこの倉庫から出てきたことは見られただろう。
《赤鐘》へ手を伸ばせば、まだ届く距離だった。
あちらもそれを分かっているらしい。走らないし、慌てもしない。代わりに、曲がり角の手前で荷車をやり過ごし、角へ消えた。
射線を切るのが上手い。
厄介な女だ。
いや、あんな依頼を引き受けた俺が言うことじゃないか。
殺す理由はない。
傷つけずに招待状を奪うという最初の契約も、依頼人が勝手に書き換えた。標的が何を知っているか聞く前に撃てば、困るのは俺だ。
追うこともできたが、やめておいた。
招待状は、すでに互いに片方ずつ持っている。
どちらが先に相手へ近づいても、欲しいものが透けて見えるだけだ。
だったら、会う場所を変えればいい。
懐から客席側の認証片を取り出した。
紙に切られた不揃いな縁が、陽射しの下で細い影を作る。
リズ・ヴァーレンの持つもう半分。
金を払って座る客の席と、値段を付けられる商品の席。
同じ招待状から、わざわざ分けてある。
「……嫌な席順だな」
《黒宴》へ行けば、リズも白鳥もいる。
依頼人の嘘を調べるなら、その場を見ないままでは終われない。
向こうが俺を客として迎えるつもりなら、好都合だ。
席を立つタイミングくらいは、自分で決められる。
認証片を外套へ戻し、港へ向かって歩き出した。
――まずは、招待客の顔をして入ってやる。




