第15話 赤鐘への依頼
「辺境貴族リズ・ヴァーレンを、《黒宴》へ入れるな」
そう言った男は、自分の名前を名乗らなかった。
《錆鐘亭》の2階。薄暗い客室の卓には、金貨が10枚並んでいる。男は灰色の外套を着込み、指先まで手袋で隠していた。声まで魔導具で変えているとくれば、顔を覚える意味もない。
代わりに、覚えておくものはある。
金貨を並べる順番。扉を見る回数。こちらが「誰の依頼だ」と尋ねたとき、ほんの少しだけ動いた右手。
「入れるなってのは、どういう意味だ。会場の外で追い返せばいいのか?」
『招待状を奪え。負傷の程度は問わない。ただし、血は一滴も残すな』
「随分と細かい注文だな。殺すのは構わないが、血を流すなって?」
『手首と喉も傷つけるな。必要なことはすべて伝えた』
なるほど。伝えたつもりなのは、そっちだけだ。
邪魔なら足止めすればいい。招待状が欲しいなら盗めば済む。それなのに、傷つける場所まで指定する。
標的を殺したいわけじゃない。もっと厄介な連中に渡す前に、そいつを確保したい――そんな注文に聞こえた。
「リズ・ヴァーレン。どんな女なんだ?」
『王国北西端の小領地を継いだ女当主だ。公名と爵位は照合済み。余計な詮索はするな』
「余計かどうかは、こっちで決める。10日前まで宿泊記録にいなかった女が、急に辺境領主になったんだろ?」
男の右手が止まった。
知らないふりをしてくれた方が、まだ信用できたんだがな。
港へ戻って5日になる。
薬箱の二重底から助け出した青年は、番号の代わりに「テオ」という名前を選んだ。本人を安全な場所に預けた後、《第9封鎖倉庫》を調べたが、積荷はすでに《黒宴》へ移されたという話しか出てこなかった。
白い羽根を使う連中の素性も、その先へ運ばれた人間の行方も、まだ分からない。
そんなところへ、同じ《黒宴》に関わる仕事が転がり込んできた。
偶然なら、少し出来すぎている。
「前金は半分でいい」
金貨を5枚だけ引き寄せた。
『残りは成功報酬だ。条件を守れなかった場合は――』
「説明が違えば契約は破棄する。俺に嘘をついてたなら、残りの金はあんたから直接取り立てる」
『脅しか?』
「契約の確認だよ。仕事を頼む相手に顔も見せないんだ。それくらいは我慢してくれ」
男は笑わなかった。
金貨を外套へしまう。手袋の中に汗が滲んでいた。部屋は涼しいが、窓の外からは港の焦げた油と潮の匂いが上がってくる。
依頼人は最後まで名乗らなかった。
まあいい。名乗らない奴にも、追えるものはある。
◇
翌日、弾薬工房の戸を開けると、金属を削る音が止まった。
「面倒な顔が来たな」
店主のローデンが、作業台の向こうで眉をひそめている。
「客に向かって随分な挨拶だな。修理を頼みに来たんだが」
「お前に売る弾ならある。良心は売り切れだ」
「最初から棚に置いてないだろ、それ」
《赤鐘》を台に載せる。
アダマンタイト製の銃身には、昔つけた細い傷が一本。撃つ分には問題ないが、銃把のワイヤーの巻き取りが少し鈍っていた。
「赤糸を替えてくれ。最近、戻りが遅い」
「また人間でも吊ったか?」
「自分を2回。どっちも必要な移動だった」
「お前の身体は軽くない。いい加減、ワイヤーを運搬具と勘違いするなよ」
「平均的な体重だと思うが」
「身体より態度が重いんだよ」
ローデンは呆れながら銃を分解した。
店内には熱い機械油と金属粉の匂いがこもっている。奥では弾頭を磨く砥石が回り続け、壁際には注文待ちの銃がいくつも吊られていた。
職人の口は堅いが、ここへ来る客の注文までは口を閉ざしきれない。
「白い羽根を3枚重ねた印に、見覚えはあるか?」
ローデンの手が止まる。
「……何でそんなものを知ってる?」
「依頼書についてた。前にも荷札で見たことがある」
「だったら、もう関わるな。2年ほど前から、あの印を持った奴らが妙な道具を注文するようになった」
「妙な道具?」
「拘束環に眠り針、魔力封じ。どれも相手を殺さずに動けなくするためのものだ。値切らないくせに、納期にはうるさい」
「物騒な割には、親切だな」
「逆だろ。壊さずに運びたいものがあるんだよ」
血を流すな。手首と喉を傷つけるな。
依頼人の注文と、きれいに重なる。
「《黒宴》の護衛も同じ連中か?」
「それ以上は聞くな。俺の店まで巻き込む気か?」
「もう巻き込まれてるだろ。心当たりがある顔だ」
「顔を証拠にするな」
「銃を見ただけで修理箇所が分かる奴が言うと、説得力があるな」
ローデンは溜息をつくと、棚の奥から空薬莢を取り出した。
底に小さな刻印。上下を逆にした白い王冠。
「黒宴の護衛が使う弾だ。火薬も薬莢も王立工房の正規品。横流しの刻印じゃない」
王国の工房から、闇競売へ正式な供給品が渡っている。
嫌な話だ。
「承認した奴は分かるか?」
「そこまで知ってたら、とっくに店を畳んで逃げてるよ」
薬莢を受け取ろうとした手を止める。
俺が持ち出した後で、店に出入りした記録を辿られたら面倒だ。刻印だけ覚えて、台に戻した。
「代金は?」
「ワイヤーの交換分だけでいい。それと、余計なことはするな」
「安い上に説教までつくのか。随分お得だな」
「お前が真面目な顔をしてるときは、港で誰かが死ぬ。前からそうだろ」
「普段は善良そうな顔をしてるはずだが」
「鏡を買ってから言え」
修理の済んだ《赤鐘》を受け取り、店を出た。
扉を閉める前、ローデンが何か言いかけた。
聞こえないふりをする。
お互い、「気をつけろ」と言って別れたら、帰ってくる約束まで必要になる。
そういう面倒な約束は、なるべく少なくしてきた。
◇
今夜の《錆鐘亭》は、客入りの割に静かだった。
少なくとも、俺が屋根へ上がったときは。
窓の内側に、黒髪の女がいた。淡い紅を混ぜた毛先、赤い瞳。身につけた外套は上等だが、周囲の男たちを見る視線は、金持ちの娘が護衛を探すそれじゃない。
見ているのは手元と出口。扉の閂を下ろされたときも、慌てた様子はなかった。
それから赤い札が飛び、護衛の剣から光が消えた。
「……なるほど」
辺境の貴族様にしては、ずいぶん腕が立つ。
依頼書には、招待状を奪えとある。
だったら店を出たところで手元から抜けばいい。わざわざ酒場の乱闘に飛び込む必要はない。
そのつもりで銃を抜かずにいたが、向かいの屋根に動く影を見つけた。
2人。
黒い外套、長杖。こちらからは顔が見えない。1人は裏口の油樽へ、もう1人は屋根を支える梁へ狙いをつけていた。
女を捕らえたいというヘルトの手勢とは、狙っているものが違う。
店ごと焼くつもりだ。
「依頼人が何人いるんだ、この仕事」
屋根に伏せ、路地の距離を測った。
燈の下は明るいが、雨に濡れた屋根は暗い。向こうの男たちは、酒場から出てくる相手を狙うため、路地の先へ身体を向けている。
こちらの位置は、まだ割れていない。
先に長杖を撃てば、居場所を教えることになる。まずは、撃つべきものを別にする。
酒場の扉が開いた。
黒い外套が路地へ飛び出す。リズ・ヴァーレンだ。追手が続き、向かいの長杖が持ち上がった。
撃つのは女じゃない。
霊晶灯だ。
《赤鐘》を構え、引き金を引く。
硬い銃声が雨を裂いた。
白い灯りが砕け、路地の半分が闇に落ちる。追手が足を乱し、前を走る女は、そのまま暗がりへ姿を消した。
こちらの屋根にも、ようやく長杖が向けられる。
「遅い」
男が火炎術式を起動する前に、通常弾を続けて撃つ。
一発は杖先の金具へ。もう一発は足元の瓦へ。
金具が割れ、男の体勢が崩れた。
だが、もう1人は油樽への照準を捨てていない。
倒れた方を確かめている暇はなかった。
銃把の底から赤いワイヤーを射出し、向かいの煙突へ掛ける。巻き取りと同時に跳ぶと、今までいた屋根の端を火が舐めた。
顔へ雨粒が叩きつけられる。
着地した瓦は滑ったが、膝を落として体勢を殺す。銃身で男の杖を外へ払い、踏み込んで腹へ蹴りを入れた。
男が瓦の上へ倒れた。
「誰の依頼だ。ヘルトか、別口か?」
男は答えなかった。
ただ、口元が動いた。
「おい、待て!」
顎を掴んで口を開かせるより早く、歯の内側で小さなものが砕けた。苦い薬臭が鼻をつく。男の喉が痙攣し、身体が重くなる。
毒か。
すぐに呼吸を確かめたが、もう戻らない。
最初に撃った男も、数歩先で崩れていた。
口封じまで手慣れてやがる。
死体の手袋を外す。
掌には、白い鳥の焼印。
薬箱の荷札にあった3枚の羽根とは違う。黒宴で上位客の認証に使われるという、白鳥そのものの印だ。
人を荷として運ぶ側と、買う側。印を使い分けているのかもしれない。
ヘルトの手勢は生け捕り。
俺の依頼は招待状の奪取。
こいつらは店ごと焼却。
そのどれもがリズ・ヴァーレンを中心に動いている。
誰が本当に何を欲しがっているのか。もう、依頼書の文面を信用する気にはなれなかった。
屋根の反対側へ移り、遠ざかる足音を聞く。追手の一部は、まだ路地を探しているらしい。
もう一度、発砲した。
路地の角に残っていた霊晶灯が弾ける。追手たちが身を伏せ、女の逃げた方角とは反対側へ走り出した。
面倒なのは分かるが、わざわざあちらを追いかける必要もないだろ。
魔力圧縮は使っていない。通常弾だけで済んだのは上出来だ。
ただし、弾を数える手つきが、いつもより少し乱れていた。
さっきの男たちの死に方が、頭から離れない。
◇
夜が明けてから、《錆鐘亭》へ戻った。
表には放火未遂と乱闘の立札。港湾衛兵が封鎖しているが、裏手の戸には鍵もかかっていない。こんな警備で証拠が守れるなら、港の連中も苦労しない。
酒の酸い匂いに、煤と濡れた木の匂いが混じっている。
床には倒れた椅子、折れた短剣、血のついた布。誰のものか分からない血を拾って回るつもりはない。
ただ一つ、確かめておきたいことがあった。
あの女が使った赤い札。
窓越しに見えたのは、血を固めたような長方形の魔術媒体だった。王都で処刑を逃れた《黒薔薇》にも、似た術を使うという噂がある。
似ているだけなら、まだ証拠にはならない。
だから、まず痕跡を見る。
卓の下に、赤黒い染みがあった。
床に落ちた酒の色とは違う。木目に沿って、ごく細く光っている。
ところが、その周囲だけ拭かれていた。
布の繊維が、床板のささくれに絡んでいる。
港湾衛兵が入った形跡はない。女が逃げた後で誰かが来て、ここに残ったものを集めたらしい。
「血を残すな、ね」
依頼人の言葉が蘇る。
そいつが証拠を消したのか。それとも、ほかの誰かが血を欲しがったのか。
しゃがんで卓の下を覗く。
床板の隙間に、銀色の細いものが挟まっていた。
抜き取る前に、布越しに先端を確かめる。
採血用の魔導針。
傷をつけるためではなく、わずかな血液と魔力の痕跡を残さず回収する道具だ。
誰かが、リズ・ヴァーレンの血を集めようとしていた。
依頼人は、血を残すなと言った。
だったら、これは何だ。
裏口で、床板が一枚軋んだ。
《赤鐘》の銃口を、音のした方へ向ける。
「……出てこい。どうやら俺以外にも、忘れ物をした奴がいるらしいな」




