第14話 値札のつかない女
刃が抜かれた音は、酒場の喧騒に紛れなかった。
卓の右に立つ護衛が半歩踏み出す。こちらの手首を狙える距離。左の男は動かず、腰の短剣に指を添えたまま出口を見ている。
なるほど。片方に気を取らせ、もう片方で退路を塞ぐつもりね。
いかにも手慣れている。惜しむらくは、その連携を商談の前に披露してしまったことかしら。
「ヘルトさん。一つ伺ってもよろしい?」
「命乞いなら、値切りは受け付けないよ」
「まあ、せっかちなこと。手首と喉を傷つけず、血も無駄にするなと仰いましたわね。お客様は、生きた人間をご所望なのかしら。それとも、血だけを?」
笑っていた男の口元から、ほんの少し力が抜けた。
「……どっちだろうな。俺は仲介人だ。客の趣味にまで口を出さない」
「では、何をご存じなのか、あとでゆっくり伺いますわ」
「あと、があると思ってるのかい?」
「ええ。少なくとも、そちらに余裕はなさそうですもの」
右の護衛が踏み込んだ。
速い。だが、抜いた剣の切っ先は胸ではなく肩へ寄っている。首を狙わないという命令は律儀に守っているらしい。
妙なところで真面目なのね。雇い主に恵まれませんこと。
手首を返す。
掌の上に薄い赤光が灯り、《ブラッドアルカナ》の12枚が花弁のように開いた。
「《アルカナ・ディール》」
先頭の一枚を、剣の鍔へ滑り込ませる。
鋼に刻まれた強化術式の線を切ると、刃を包んでいた光が途切れた。剣そのものを砕く必要はない。男が予想した手応えを奪えば、それで十分だ。
「なっ――」
踏み込んだ足元へ、二枚目。
床板と靴底を血晶の茎でつなぎ、体重が前に乗った瞬間だけ留める。
男の上体がつんのめる。振り上げかけた剣が宙を切った。
遅れて左の護衛が動いた。短剣を握った腕だけが卓の陰から伸びる。
人の喉を傷つけるなと仰ったばかりなのに、ずいぶん際どい位置をお狙いですこと。
椅子を斜めに引き、刃の通り道へ背もたれを差し込む。木が裂ける音。ささくれが手袋の甲を掠めた。
その隙に三枚目と四枚目を燭台へ走らせた。炎を叩き消し、煤の匂いを含んだ細い煙を立たせる。大した目眩ましにはならないけれど、階段からこちらを覗いている男の視界を横切るには足りる。
あの男は最初から眠ってなどいない。左肘の裏に隠していた小弓を、もう膝の上へ出していた。
五枚目を階段の手すりへ。六枚目は扉の閂へ。
入口を塞いだのは、あちら。ならば、開ける手間も最後にあちらの設備で払っていただきましょう。
「囲め! 札を持たせるな!」
ヘルトが声を張る。
酒杯を持ったままなのだから、なかなか肝の据わった商人だ。
もっとも、護衛が戦っている間に自分だけ後ろへ下がっていくところを見ると、勇敢とは少々違うのでしょうけれど。
◇
短剣の男が椅子を蹴り飛ばした。
床を滑る椅子。その向こうから、今度は手首を直接掴みにくる。
札を奪われたときに備えた動きだ。腕力で競り合うのは遠慮しておきたい。体格の違いを覆すには、少々分の悪い勝負ですもの。
先ほどの札を二枚呼び戻し、もう一枚を加える。三枚が折り重なり、開いた鉄扇の形へ固まった。
「《アルカナ・ファン》」
掴みにきた手首へ扇面を斜めに当てる。
止めるのではない。向きを変える。
相手の腕が自分の身体の前を通り過ぎたところへ、閉じた扇の柄を差し込む。乾いた打撃音がして、短剣が床を跳ねた。
「ぐっ……!」
「まあ。お品物の扱いがずいぶん乱暴ですこと」
後ろから別の男が迫る。賭け卓で硬貨を転がしていた者だ。さきほどまで彼の指先を眺めていたせいで、握った棍棒の重心までおおよそ見当がついた。
右へ振り下ろすつもりね。
半歩だけ踏み込み、男の肩と棍棒の間へ入り込む。長い武器は、近づかれるほど扱いにくくなる。
膝裏を蹴ると、男が崩れた。倒れ切る前に扇の柄を鳩尾へ押し込み、息を奪う。
殺すつもりはない。
そもそも、床に転がる方が増えれば、その分ヘルトさんのお話を伺いやすくなるでしょう。
弓弦が鳴った。
階段。
正面の二人を追いかけていたら、あの射線は見落としていたかもしれない。だからこそ、最初から一枚を階段の手すりに預けてある。
札が跳ね、矢の軌道を横へ弾く。
だが、次の矢は速かった。
「《ブラッド・ガード》!」
手元に残した二枚を重ねる。赤い障壁が開き、矢の穂先を受け止めた。
外側の札に、薔薇の花弁を思わせる亀裂が走る。
――嫌な音。
乾いた破裂とともに、一枚が砕けた。
胸の奥を細い針で刺されたような痛みが抜ける。血と《名核》に繋がる札を失えば、無傷で済むわけではない。
残り11枚。
……初手から1枚とは。弓の腕は認めますけれど、何度もお付き合いするつもりはありませんわ。
階段の男は、こちらが防御に気を取られたと見て、もう一本をつがえようとしている。
けれど、最初に手すりへ預けた札がまだ残っていた。
弓を持つ手元へ札を滑らせ、弦を横から押す。構えが崩れた瞬間に、男の放った矢が天井へ突き立った。
これで階段はしばらく静かになる。
煙の向こうで、ヘルトが椅子を引いた。六つの指輪が、順に小さく光る。
その光に応じて、店の奥にいた護衛たちの術式が立ち上がった。
火。地。風。
同時に三つとは、なかなか立派な余興を用意なさったのね。
指輪そのものが武器ではない。あれは合図だ。ヘルトは自分の手を汚さず、人を動かしている。
そこまでは商人らしい。
問題は、三方向の攻撃がこちらだけを追うとは限らないことだった。
奥の卓には、先ほどから本当に酔い潰れている客がいる。床へ身を投げるだけなら、火球があの客のところへ飛ぶ。
……まあ。なんと面倒な配置なのでしょう。
「《ブラッド・ガード》!」
四枚を異なる角度に並べる。
最初の一枚を火球へ。熱が赤い札を舐め、そのまま砕いた。
二枚目は床から跳ね上がった石礫へ。硬い衝撃が腕まで返り、こちらもひび割れて散った。
三枚目の縁で風刃の向きを変える。刃が天井の梁を削り、細い木屑が髪に降りかかった。
四枚目は倒れた客の上へ。
飛び散った破片が、その薄い障壁に弾かれて床へ落ちた。
奥で誰かが舌打ちした。
こちらこそ、盛大に文句を申し上げたいところですわ。
残り9枚。
守りに札を消費し続ければ、いずれこちらが先に尽きる。対して相手は、倒れた護衛を後ろへ引きずりながら、奥の魔術師を入れ替えようとしていた。
まともに付き合うだけ損ね。
必要なのは勝利ではなく、招待状。
そして、あちらが逃げ道を塞いでいる間に、品物をどこへ隠したか確かめること。
指輪が光った直後、ヘルトの右足が不自然に引かれた。椅子の後ろへ何かを落としたらしい。
ちらりと覗いた黒い紙。
端に、逆さの白い王冠。
……見つけましたわ。
◇
「辺境の貴族にしちゃ、随分と荒っぽいな!」
ヘルトは椅子の後ろへ手を伸ばした。
「まあ。招待状を隠すのに、椅子の下とは。もっと気の利いた場所をお使いになればよろしいのに」
男の指が止まる。
当たり。
こちらを見る目が、さきほどまでとは変わった。値踏みをしていた商人が、初めて商品に値段を付け損ねた顔をしている。
「おい、あんた……何者だ?」
「お名乗りしましたでしょう? リズ・ヴァーレンですわ」
「その名前で通す気かよ」
「検問所では通りましたもの。こちらでも十分かと」
残った札を一枚、椅子の脚元へ滑り込ませた。
血晶の糸が右足首を絡め取り、椅子を後ろへ引く。
「うおっ!」
椅子が倒れ、ヘルトが酒杯ごと転がった。黒い紙片が宙を舞う。
護衛たちの注意が、雇い主へ移った。
いいわね。そういう義理堅さは、もう少し早く見せていただきたかったけれど。
紙片へ手を伸ばすと、左の男が杖を振った。
札を一枚、足元の床板へ突き立てる。起き上がった血晶の筋が男の靴先を引き、詠唱が途切れた。
黒い紙を掴む。
薄い。封筒というより、封を解いた招待状の切れ端だ。裏面には数字が並ぶ。じっくり読むのは後でよい。
今必要なのは出口。
最初に閂へ預けていた札を引き、金具を持ち上げる。
がたり、と重い音がした。
ようやく扉が開く。
追おうとした男の足元へ、もう一枚を滑り込ませる。床に転がっていた椅子が血晶の糸で引かれ、男の脛へぶつかった。後続の護衛まで足を止める。
まったく。せっかく退路を用意して差し上げたのだから、もう少し静かに見送っていただけないかしら。
「待て! それを持っていかれちゃ商売にならん!」
「では、次はお客様の扱いを見直すことですわね」
出口へ身体を滑らせた。
「リズ・ヴァーレン!」
ヘルトの声が追ってくる。
「そいつは半分だ! 片方だけじゃ――」
続きは聞こえなかった。
扉を抜けた途端、雨が頬へ叩きつけられたからだ。
外気は酒場の熱気よりずっと冷たかった。雨水が襟を伝い、焼けた札の痛みが残る胸の奥まで冷えていく気がした。
石畳は濡れて滑る。駆けながら、あらかじめ覚えた道順を頭の中で辿る。
赤い屋根の香辛料店を抜け、魚骨の壁を右。海蛇の落書きがある階段は、追手に見られているから使わない。
代わりに、荷車一台がようやく通れる裏道へ。
背後から複数の足音。
「止まれ!」
……止まって差し上げる理由が、どこにございまして?
窓から漏れる灯を避け、建物の陰を選ぶ。
ところが次の角で、屋根の上に赤い光が走った。
――銃声。
港の霊晶灯が撃ち抜かれた。
白い光が砕け、雨に濡れた路地が一瞬で暗くなる。追手の足音が乱れ、誰かが壁へぶつかった。
撃たれたのは、こちらではない。
狙いは灯り。それも追手からだけ視界を奪う位置。
偶然の流れ弾にしては、随分と行き届いた射撃ですこと。
助けてくださったのか。それとも、別の理由があるのか。
感謝は後にしましょう。何しろ、相手の顔も見えていないのだから。
暗がりへ身体を滑り込ませる。
壁沿いを走りながら、酒場に残していた札を呼び戻す。足を縫い止めていた血晶の糸が解け、赤い札が雨を裂いて追いついてきた。
今度こそ足音が離れた。
◇
港の外れ、使われなくなった石倉庫の軒下まで来て、ようやく息を整えた。
濡れた髪から水が落ちる。手袋の内側では、札を失った痺れがまだ消えていない。呼び戻した九枚を確かめ、傷の深い一枚だけを別に収めた。
これだけ払って、招待状の片割れとは。ヘルトさんには、是非とも値段の付け方から学び直していただきたいものだわ。
紙片を雨から庇い、そっと開く。
黒い船の絵。開催日時。逆さの王冠。
そして、商品番号。
――第7号、回収失敗。
――第13号、歌唱接続試験。
――《無名簿》、最終出品。
歌唱接続試験。
闇競売の品目にしては、妙な言葉だ。歌を売るのなら歌手の名を、魔術を売るのなら術式の名を記すでしょうに。まるで、人間を何かに接続する作業の記録ではないか。
それに、回収失敗という表現も気になる。
商品が逃げたのか。取り戻せなかったのか。
そもそも、それを商品と呼ぶ資格が誰にあるのか。
紙の隅に、小さな祈祷印が押されていた。
聖オルディア教会の古い印。
《黒宴》と、教会。
同じ紙に並ぶ理由があるらしい。
どこまでが教会の関与なのかは分からない。印を盗み使うことだってできる。これだけで断定したら、父に笑われてしまうでしょうね。
だから、確かめる。
黒い紙片を折り、リズ・ヴァーレンの通行札と一緒にしまった。
招待状は半分しかない。ヘルトの言葉を信じるなら、残りがなければ《黒宴》の扉は開かない。
実に面倒な仕組みをお考えになる。
そのうえ、さきほどの銃声。
狙われているのは自分か、招待状か。それとも、まったく別の何かなのか。
まだ、問いが多すぎる。
雨の向こうで、再び短い銃声がした。
あのガンマンも、同じ場所へ向かうつもりなのかしら。
「……では、次に手に入れるのは残り半分ですわね」
濡れた封蝋を指先でなぞる。
誰かが扉を閉じたというだけで、引き返すつもりなど毛頭ない。
問題は、招待状の残りを誰が持っているか。
――そして、こちらの名を誰が買おうとしているか。




